旧校舎の裏手、吹き溜まりとなった外階段の踊り場の下。
日陰の雪は踏み固められて凍りつき、冷たい北風がコンクリートの壁を撫でて低く唸っていた。
非常階段の鉄骨が落とす濃い影の中に、その男は立っていた。
千歳朔。
フードを跳ね上げ、黒いベンチコートの前をはだけた姿。
その双眸に宿っていたのは、かつての太陽の温もりなどではない。
自らの肉体をも焼き尽くすような、ドス黒い怨嗟と、引き返せない覚悟の光。
「……待っていたぞ、綾小路」
千歳の掠れた声が、吐き出された白い息とともに濁って響く。
俺は両手を制服のポケットに入れたまま、歩幅を緩めずに立ち止まった。
「待たせたつもりはないんだがな。放課後すぐに来いと言ったのはお前だ」
「フッ……相変わらず、涼しいツラしてやがる」
千歳が自嘲するように唇を歪めた。
だが、その瞳の奥の炎は、一瞬ごとに熱量を増していく。
彼は一歩、雪を踏みしめて間合いを詰めてきた。握りしめられた両拳が、血管を浮き上がらせて小刻みに震えている。
「なあ、綾小路……お前、楽しいか? 人の人生をめちゃくちゃにして、安全圏から高みの見物をするのは、そんなに気持ちがいいかよ……!?」
「何の話だ」
「とぼけるなと言ったはずだッ!!」
千歳の咆哮が、雪を被った外壁に反響した。
感情の堤防が決壊したように、彼の手足が激しく震え、喉の奥から煮えたぎる言葉が奔流となって溢れ出す。
「夕湖のあの泣き叫ぶ顔を見たか!? 留年が決まって、職員室の前で崩れ落ちて……誰からも見向きもされなくなったあいつを! 優空が、自分の作った料理を全否定されて、あのかるたの畳の上で心を殺された姿を! 陽がバレーボールを見るだけで震えるようになって、悠月が顔を割られて路地裏で泥水を啜らされて……! 明日風先輩が、たった一枚の紙切れのせいで、何年も積み上げてきた未来を全部奪われたのをッ!!」
千歳が一歩進むごとに、積もった雪がぐしゃりと潰れる。
その瞳から、熱い涙がボロボロと零れ落ち、寒風に凍りついていく。
「全部お前だ……! お前がこの街に来てから、俺たちが笑い合っていた世界は全部地獄に変わった! 俺から仲間を奪い、居場所を奪い、最後に残った自尊心まで合宿の雪の上で踏みにじった……! お前が俺たちにしたことのすべてを、俺は絶対に許さない……ッ!!」
積年の恨み、仲間を壊された無力感、そして自らの愚かさに対する悔恨。
少年が抱えきれる容量を遥かに超えた絶望の叫び。
だが――俺はそのすべてを、瞬き一つせず、感情の平熱を保ったまま聞き届けていた。
「言いたいことはそれだけか?」
「……ああ、そうだ。お喋りはここまでだ」
千歳の表情から、涙の湿り気が消え失せた。
ただ、狂気に研ぎ澄まされた冷酷な殺意だけが、その顔に残される。
「作戦開始だ、綾小路ィッ!!」
### 2.空振りのラッシュ、そして銀色の牙
**――ダァンッ!!**
千歳が凍結した路面を強く蹴り、弾丸のように突進してきた。
右の大振りなフック。
合宿の朝に見せたようながむしゃらな暴走ではない。
「揉み合いの状況を作り出す」という明確な意図を持った、至近距離への肉薄。
俺は反撃を行わなかった。
拳を握ることも、カウンターの軌道に腕を合わせることもせず、ただ首をわずかに傾け、上体をコンマ数秒遅らせて脱力させる。
風圧が耳元を通過する。
千歳は即座に左の掌底、そこから襟首を掴もうと両手を伸ばしてきた。
**バシッ、フッ、ザンッ。**
俺は最小限のステップと、掌の外側を使った軽いパーリングだけで、千歳の腕の軌道をすべてミリ単位で外側へと逃がし続けた。
触れさせない。
打撃を当てさせない。
千歳の瞳に、焦燥と、あの合宿の朝に味わわされた「絶対的な隔絶」への恐怖が再びフラッシュバックするのが見て取れた。
(くそっ……! やっぱり当たらない……! こいつ、やっぱり人間じゃない……!)
千歳の脳裏を、本能的な悪寒が駆け抜ける。
だが――彼の唇は、恐怖に歪みながらも、奇妙な歓喜に吊り上がっていた。
(でも、それでいい……! お前がどれだけ強くたって、関係ないんだよ……!!)
千歳は組み付きを諦め、あえて自ら半歩後退した。
そして、ベンチコートの深い右ポケットへと手を突っ込んだ。
金属の冷たい擦過音。
引き抜かれた右手に握られていたのは、使い古されたブナ材の柄を持つ、刃渡り十数センチの**ペティナイフ**。
4限目の調理実習で、俺が素手でしっかりと握り込み、内田優空が指紋を保全したまま盗み出した、あの凶器。
「綾小路ィィッッ!!」
千歳がナイフの切っ先を俺の胸元へと突き出した。
刃先が夕暮れの微光を浴びて鈍く光る。
狂気に満ちた眼差し。
誰もが見れば、「激昂した千歳が綾小路を刺そうとナイフを向けた」と錯覚する構え。
だが――千歳の目的は、俺を刺すことではない。
### 3.血肉の断罪、狂気の自傷
「お前を……地獄へ道連れにしてやる……!!」
千歳は俺に向かってナイフを突き出すモーションの途中で、空中で手首を鋭く返した。
順手から、逆手へ。
刃の切っ先が向いたのは、俺の身体ではない。
彼自身の、**左大腿部の外側**。
望紅葉が授けた解剖学的な指示。
『大腿動脈を避け、外側広筋へ。角度は骨に対して45度、深さは最低5センチ以上、一気に刺し抜く』。
躊躇いは、微塵もなかった。
千歳朔は、己の全存在と残された魂のすべてを右腕に込め、自らの太腿へ向けてペティナイフを力任せに振り下ろした。
**――グシュッッッ!!!!**
生々しい、肉の繊維と筋膜が断ち切られる重い音が、雪の静寂を切り裂いた。
ステンレスの刃が、制服のズボンを貫通し、筋肉の奥深くまで完全にめり込む。
神経が引きちぎられる激痛。
ドッと、布地を黒く染めながら、鮮血が噴水のように溢れ出した。
「ガ、ぁ……っ!! ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
千歳の喉から、絶叫が漏れかけた。
だが、彼は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、両目を血走らせてその悲鳴を喉元で押し殺した。
全身の血管が浮き上がり、額から滝のような脂汗が吹き出す。
膝から崩れ落ち、雪の上に大量の血だまりを作りながらも、千歳はナイフの柄を握ったまま、狂気の笑顔を俺へと向けた。
「……何をしている、千歳」
俺は血しぶきが足元に届かない位置で静止し、冷淡に問いかけた。
千歳は激痛に顔を醜く歪めながら、肩で息をして笑った。
「ハッ……、ハハッ……! 何をしてるか、だと……? お前は……もう終わりだってことだよ、綾小路……!!」
千歳が血まみれの指先で、ナイフの柄を指差す。
「このナイフには……お前の指紋がべったりついてる……! 俺の身体には、お前につけられた深い刺し傷がある……! そして、目撃者も、映像も……全部揃ってるんだよ……ッ!!」
その言葉を合図にしたかのように。
非常階段の上、そして旧校舎の物陰から、一斉に複数の足音が雪を蹴立てて駆け寄ってきた。
### 4.勝ち誇る共犯者たち
「朔くんッ!!」
悲鳴を上げて駆け寄ってきたのは、内田優空と柊夕湖だった。
優空は血まみれの千歳の姿を見るなり顔面を蒼白にし、千歳の肩を抱きかかえる。
「動かないで、朔くん! 今、止血するから……! 誰か、救急車呼んで!!」
「警察もよ! 早く通報しなさい!」
青海陽がスマートフォンを握りしめ、震える指で叫ぶ。
その背後から、西野明日風、そして望紅葉を従えた水篠和希が、ゆっくりと影から歩み出てきた。
さらに、旧部室棟の2階の非常階段からは、望遠レンズを装着した一眼レフカメラを抱えた七瀬悠月が、冷酷な勝利の笑みを浮かべて降りてくる。
「……すべて撮ったわ、綾小路くん」
悠月がカメラの液晶画面を俺に向けて掲げた。
画面には、薄暗い外階段の下で、俺が千歳に向かって踏み込み、直後に千歳が太腿から血を流して階段下へ転落したかのように見える、完璧にトリミングされた連続写真。
「貴方が千歳を突き飛ばし、ナイフで太腿を刺した決定的な瞬間よ。……言い逃れはできないわ」
「終わりだ、綾小路」
水篠和希が眼鏡の奥の瞳を細め、冷厳に宣告した。
「校内における、凶器を用いた殺人未遂の現行犯だ。ナイフの柄には家庭科室でお前がつけた指紋が鮮明に残っている。被害者である千歳の肉体には5センチを超える刺傷。目撃者である俺たちの証言、そして七瀬が記録した動かぬ映像証拠。……これだけのピースが揃えば、警察も教育委員会も、お前をその日のうちに緊急逮捕し、即座に退学処分を下す」
夕湖が、留年の悔しさを晴らすかのように勝ち誇った顔で叫んだ。
「今までの報いを受けるんだね、綾小路くん! あたしたちをめちゃくちゃにした罰だよ! 刑務所の中で一生後悔しなよ!!」
完全なる勝利の包囲網。
血を流して倒れる千歳朔を囲み、傷だらけの復讐者たちが、ついに怪物を檻へと追い詰めたと信じ込み、熱狂的な正義の恍惚に浸っていた。
俺は――彼らの台詞を、最初から最後まで、一言も遮ることなく静かに聞き終えた。
### 5.思考停止のノイズ、悪夢の開演
血の匂いと、興奮した少年少女たちの荒い呼気が混ざり合う中。
俺はゆっくりと、感情の起伏を一切感じさせない平坦な声で、口を開いた。
「――素朴な質問なんだが」
全員の視線が、俺の口元へと集中する。
「今の俺は、窮地なのか?」
「…………は?」
水篠和希の口から、間抜けな音が漏れた。
その場の全員の思考が、一瞬、完全に停止した。
窮地なのか、だと?
目の前に血まみれの被害者がいて、指紋のついたナイフがあり、犯行映像があり、8名の目撃者が取り囲んでいる。
どう考えても、逃れようのない絶対的な破滅の状況ではないか。
(……何だ? こいつ、何を言っている……?)
水篠の脳裏を、原因不明の強烈な悪寒が駆け抜けた。
平然としすぎている。
動揺がない。焦りがない。絶望の欠片すら見当たらない。
水篠の知性が、背筋に冷や汗を流しながら警鐘を乱打し始めた。
――何かを見落としている。
――俺の計算の中に、致命的なバグが存在している。
俺はそんな水篠の動揺をあざ笑うことすらなく、ブレザーの胸元へゆっくりと左手を伸ばした。
第2ボタンの表面を、指先で軽く弾く。
「……気づかなかったか? このボタンの真ん中に、0・5ミリのピンホールレンズが埋め込まれていることに」
「――――ッ!?」
七瀬悠月と望紅葉の息が、同時に止まった。
「さらに言えば、そこの外階段の雨樋の留め具。……ネオジム磁石で固定された4Kの広角カメラが、先ほどからずっと稼働している」
俺が視線を向けた先。
雨樋の隙間に、赤く微小なインジケーターランプが、規則正しく点滅していた。
「な……っ!?」
水篠の顔面から、急速に血の気が引いていった。
思考回路が焼き切れるようなノイズ。
理解したくない。認めたくない。
だが、彼が持ち前の冷徹な知性で導き出しうる、最も最悪な現実が、津波のように押し寄せてくる。
「答え合わせをしてやろう。お前たちの立てた、稚拙な狂言工作のな」
### 6.冷徹なる解剖、反転する現実
俺はポケットから両手を出し、淡々と事実を並べ始めた。
「まず、4限目の家庭科実習。内田と柊が俺と同じ班になるよう工作し、リンゴの皮むきを任せてペティナイフに俺の指紋を採取させた。……内田、お前の脈拍は115を超え、視線はナイフの柄に釘付けだった。あまりにお粗末なポーカーフェイスだったな」
「あ……、あぅ……」
優空が恐怖に瞳を揺らし、後ずさる。
「そして、そのナイフを持ち出し、千歳が自らの太腿を刺すことで『綾小路に刺された』という状況証拠を捏造する計画。……望、お前が大腿動脈を外すよう助言したらしいが、医学的な知識が浅すぎる」
紅葉が息を呑み、身体を硬直させる。
「自傷行為における刺入創は、第三者が上から突き立てた創傷とは、皮膚の裂け方、創縁の挫滅、そして何より**『衣服の繊維の巻き込み角度』**が全く異なる。警察の法医学研究所が傷口の生体反応と繊維片を顕微鏡で解析すれば、千歳自身が自らの手で振り下ろした角度であることなど、数時間で証明される」
俺の言葉が、ナイフのように彼らの計画を一本ずつ解体していく。
「さらに、七瀬。お前が2階から撮影したあのトリミング映像。……残念だが、雨樋のカメラには、お前たちが暗室の窓からカメラを構えて待ち構えている姿と、千歳が自らナイフを逆手に持ち替えて太腿に突き立てる一部始終が、60フレームの超高精細映像で完全に同一画面に記録されている」
「う、嘘よ……そんなの……!」
悠月の手が震え、抱えていた一眼レフカメラがアスファルトへ滑り落ちそうになる。
「嘘だと思うなら、今すぐ警察を呼ぶといい。……呼べばどうなるか教えてやろうか?」
俺は一歩、雪を踏みしめて彼らへと歩み寄った。
「警察が駆けつけ、現場検証が行われ、俺が提出するこの映像と音声ログが押収される。……その瞬間に確定するのは、俺の傷害罪ではない。刑法第172条、**『虚偽告訴罪』**。および、公務執行妨害と謀議による**『組織的偽装工作の共犯』**だ」
「ひっ……!」
夕湖が短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「首謀者である水篠、実行犯の千歳、凶器を窃盗・横領した内田、映像を偽造した七瀬と望、虚偽通報を行おうとした青海と西野、そして共犯の柊。……お前たち全員が、警察署へ連行され、全国ニュースで『進学校の生徒たちによる陰湿な自作自演狂言事件』として実名報道されることになる」
「やめて……! もうやめてぇぇぇッ!!」
夕湖が耳を塞いで泣き叫んだ。
陽は膝から崩れ落ち、明日風は唇から血が出るほど強く噛み締め、紅葉は絶望に瞳を泳がせて立ち尽くす。
完璧だったはずの包囲網。
怪物を葬るはずだった正義の鉄槌。
そのすべてが、最初から何手も先を読んでいた怪物によって、自分たち全員の首をへし折るギロチンへとすり替えられていたのだ。
水篠和希は、両手をだらりと下げ、信じられないものを見る目で俺を凝視していた。
冷や汗が顎を伝い、雪の上に滴り落ちる。
――勝てない。
――この男には、この世界のどんな人間も、絶対に勝てない。
自らの誇ってきた知性のすべてを嘲笑われた参謀は、ただの壊れた木偶のように立ち尽くすしかなかった。
そして。
雪の上に倒れ伏し、太腿から血を流し続けていた千歳朔が、虚ろな目で俺を見上げていた。
激痛で意識が飛びかけながら、彼は聞いてしまったのだ。
自分が覚悟を決めて、自らの肉体を切り裂いたこの血も、この激痛も、この犠牲のすべてが――。
俺は倒れ込む千歳の顔の真横に視線を落とし、感情を一切交えない、絶対零度の言葉を告げた。
「――ただ千歳が無意味に深手を負っただけだな」
「あ……、が……っ……あぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
千歳朔の喉から、人間のものとは思えない絶叫が迸った。
激痛の叫びではない。
自らの差し出した血肉が、一片の価値すら持たず、ただの無様な自傷として嘲笑われたことに対する、魂の完全な死の咆哮。
夕暮れの旧校舎裏に、少年の慟哭と、少女たちの絶望のすすり泣きが、寒風に乗って虚しく木霊していた。