最愛の人が。
この冷たく空虚な世界で、自分という「兵器」に唯一光を与えてくれた太陽のような少年が。
太腿から血を流し、痛みよりも何よりも――自らの差し出した命懸けの覚悟が、一片の価値すら持たない無駄死にだったという絶望に打ちひしがれ、泥水の中で無様に泣き叫んでいる。
その光景が網膜に焼き付いた瞬間。
望紅葉の脳内で、感情をパージしていたはずのすべての安全装置(リミッター)が、轟音を立てて焼き切れた。
(……あいつを)
(あいつを、あいつを、あいつを――ッ!!)
思考ではない。
エージェントとしての損得勘定でも、任務の成否でもない。
千歳朔の流した血と涙のすべてが、彼女の全身の筋肉へ、暴走する狂気のエナジーを直接注ぎ込んでいた。
誰よりも早く、地を蹴っていた。
**――ズァッッッ!!**
凍てついた雪を粉々に爆砕し、紅葉の身体が弾丸となって射出された。
初速ゼロからのトップスピード。
踏み込みとともに放たれたのは、右拳のストレート。
拳の骨が砕けることすら厭わない、体重のすべてと憎悪の質量を一点に収束させた、殺傷の弾道。
これが、最後の戦争の号砲だった。
### 2.乱戦の火蓋、水篠の再定義
「目標変更ッ!!」
泥水を浴びながら、水篠和希が喉を裂くような怒号を上げた。
自作自演の刺傷劇というシナリオは完全に破綻した。
だが、彼の冷徹な知性は、この破滅的な状況下において、唯一残された「生存ルート」をコンマ1秒で弾き出していた。
「胸のボタンと、外階段の雨樋だ! あのカメラのメモリーカードを奪い取って物理破壊しろ! 証拠さえ消し去れば、まだ警察に言い逃れができる! 浅野、紅葉に続けッ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
合宿の怪我から復帰していた浅野海人が、鼻のテープを引きちぎり、巨躯を沈み込ませて突進してきた。
バスケットボールで鍛え上げた180センチを超える体躯。
右から海人のフットボールタックル、左から水篠が落ちていた木杭を拾い上げての刺突、そして正面からは、音速に近い速度で紅葉の拳が迫る。
三方向からの同時飽和攻撃。
素人2人(水篠・海人)の動き自体は、俺にとっては止まって見えるほどに拙い。
だが――そこに望紅葉という軍用近接格闘(CQC)のスペシャリストが混ざることで、彼らの無秩序な身体の質量が、俺の退路を塞ぐ「動く遮蔽物」として機能していた。
(手数を増やして、カメラへの意識を分散させる気か)
俺は思考を一段階加速させた。
コンビネーションなど成立していない。付け焼き刃の乱戦。
ならば――その連携の不協和音こそが、最も利用しやすい凶器となる。
紅葉の右ストレートが俺の眉間へ到達する直前、俺はあえて退かず、左斜め前方――浅野海人の突進のコースへと踏み込んだ。
半身をわずかに捻り、紅葉の拳の軌道を首筋のミリ単位ですれ違わせる。
同時に、突っ込んできた海人の左肩の関節へ、俺の右掌を添えた。
合気の誘導。相手の運動エネルギーをそのまま回転力へと変換する。
「なっ……!?」
海人の巨体が、自らの突進力によって前傾し、制御を失って右側へと流された。
その先には、木杭を構えて回り込もうとしていた水篠和希の身体があった。
**――ドガァッッ!!**
「ぐあっ!?」「浅野、どけ――っ!」
海人の分厚い胸板と、水篠の頭部が正面から激突した。
鈍い衝突音とともに、2人の体勢が完全に崩れ、足をもつれさせて雪の上に倒れ込む。
同士討ち。
だが、その激突のコンマ数秒の隙間を縫って、背後から紅葉の左ハイキックが空気を切り裂いて迫っていた。
**――ヒュンッッ!!**
俺は上体を垂直に保ったまま、左手の手刀で紅葉の足首の内側――アキレス腱の腱紡錘を正確に叩き落とした。
打撃を殺すカウンター。
紅葉が雪の上で身を翻し、着地と同時に低空からの足払いを仕掛けてくる。
(……手数は多いな)
俺は跳躍することなく、すり足でその回転をかわしながら、倒れ込みながら起き上がろうとしていた海人の首筋――胸鎖乳突筋の奥にある**頸動脈洞**へと、右手の指先を打ち込んだ。
正確無比な神経打撃。
「が……ッ!?」
海人の白目が剥かれ、巨体が糸の切れたマリオネットのように雪泥の中へ沈んだ。完全な脳虚血による意識喪失。
さらに、立ち上がろうとした水篠の右脇腹――肝臓の位置(レバー)へ、俺の左足の爪先が、最小限のストロークでめり込んだ。
**ドスッ。**
「カハッ……! げ、ホっ……!!」
内臓を直接握り潰されたような激痛。
水篠の口から胃液が噴き出し、彼は身体をくの字に折り曲げて、泥水の中に両手をついて嘔吐した。
所要時間、わずか3秒。
素人2人の無力化は、完全に完了した。
### 3.銀色の牙、解禁された狂気
浅野海人が沈み、水篠和希が泥水の中で悶絶する。
残されたのは、紅葉ただ一人。
だが――その瞬間だった。
**――キィンッッ!!**
冷たい夕闇の中に、硬質な金属の擦過音が響き渡った。
紅葉のダッフルコートの右袖から、滑り出るように掌へと収まった銀色の閃光。
それは、家庭科室から盗み出したような木柄のペティナイフなどでは断じてなかった。
無反射のブラック・テフロンコーティングが施された、厚さ5ミリの頑強なブレード。
滑り止めのチェッカリングが刻まれたカイデックスのグリップ。
純然たる軍事規格(ミルスペック)の**タクティカル・コンバットナイフ**。
(……この事態を、あらかじめ想定していたのか)
彼女だけは、『No Name』の記憶を持つ者として、作戦が破綻した場合の「最終プラン」――すなわち、自らの手による直接的な暗殺を、最初から懐に忍ばせていたのだ。
「ひ……っ! ナイフ……!? 紅葉ちゃん、何を持ってるの……!?」
階段の踊り場で見ていた柊夕湖が、悲鳴を上げて後ずさった。
優空も、陽も、明日風も、その抜き身の凶器の異様さに息を呑み、血の気を引かせる。
高校生の喧嘩の域を完全に逸脱した、本物の殺しの道具。
「や、やめなさい紅葉ちゃん! それはダメよ……ッ!」
明日風が叫ぶ。
だが、泥水を吐きながら地面を這っていた水篠和希が、血走った目で地面を叩いて吠えた。
「構うな……ッ!! 殺せ、紅葉ッ!! 刃物でも何でも使って、あいつを無力化しろ……! 殺さなきゃ、俺たち全員が前科者になって終わるんだよッ!!」
理性を失った参謀の絶叫。
その言葉が、紅葉の最後の躊躇いを完全に消し去った。
「――殺す」
紅葉がナイフを逆手(リバースグリップ)に構え、重心を極限まで沈めた。
瞳から、光が消える。
感情の暴走を、軍用格闘術の冷酷な演算が完全に統率した瞬間。
彼女は、本物の暗殺機械へと変貌していた。
### 4.死線の舞踏、常識の完全崩壊
**――ザァッッ!!**
雪を蹴る音が、風の音を置き去りにした。
紅葉が間合いを一瞬でゼロにする。
逆手に握られたナイフの切っ先が、俺の頸動脈へ向けて、斜め下から閃光のように切り上げられた。
**――ヒュンッッ!!**
刃先が、俺のブレザーの襟元の繊維を数本、音もなく両断した。
初撃をわずか数ミリの首の引きでかわされた紅葉は、淀みなく手首を反転させ、順手の突きへとフォームを切り替える。
心臓を狙った直線的な刺突。
外れれば肋骨の間隙を縫う横薙ぎの斬撃。
さらに、左手の手刀による目潰しと、足元を砕くインサイドキックの同時連撃。
**ザンッ、ガギィン、シュパッ!!**
旧校舎裏の狭隘な空間に、刃物が空を切り裂く金属的な風鳴りと、雪を跳ね上げる足音が激しく交錯する。
人間の急所――頸動脈、鎖骨下動脈、大腿動脈、心臓、延髄。
そのすべてを最短距離で結ぶ、狂気的なキル・ストローク。
刃物の軌道には、一片の迷いも、威嚇の意図も存在しない。
純度100%の「肉体の生命活動を停止させるための動作」。
それを見つめる同盟のメンバーたちは、ただその光景の異様さに、言葉を失って立ち尽くしていた。
「な、何なのよ、あれ……」
七瀬悠月が、額のガーゼを押さえたまま、ガタガタと歯の根を鳴らして震えていた。
「あれが……望紅葉なの……? 話には聞いていたけれど……あんなの、普通の女子高生が出せる動きじゃない……! 人を何十人も殺してきた軍人の動きよ……!」
「紅葉ちゃん……嘘でしょ……?」
青海陽が、顔面の痛みを忘れて両手で頭を抱え込む。
自分たちが頼りにしていた「可愛い後輩」の正体が、剥き出しの暗殺者であったという戦慄。
――だが。
彼女たちを、それ以上に心の底から絶望させていたのは、そのナイフの嵐の中心にいる男の姿だった。
「……あいつ、どうなってるのよ……!?」
西野明日風の唇から、引きつった悲鳴が漏れる。
「手ぶらなのよ……!? 刃渡り十数センチの軍用ナイフを振り回す相手に対して……素手で、制服のまま……一発もかすり傷すら負っていない……!?」
そう。
紅葉がどれほど神速の刺突を放とうと、どれほど変幻自在の斬撃を繰り出そうと。
綾小路清隆は、武器すら取らず、両手を軽く開いた脱力状態のまま、そのすべての刃先を紙一重ですれ違わせ続けていた。
刃筋を見切る動体視力。
衣服の布地すら刃に巻き込ませない、空間把握能力。
紅葉がナイフを繰り出すコンマ数秒前に、彼女の肩甲骨と大腿筋の緊張から弾道を逆算し、常に「刃が届かない座標」へと重心を滑り込ませている。
それは格闘技の技術ではない。
まるで、降り注ぐ雨粒の間を、濡れることなく歩き抜けるような、絶対的な物理法則の支配。
「死ねッ! 死ね死ね死ねぇぇぇッッ!!」
紅葉の息が乱れ始める。
当たらない。
掠りもしない。
心臓を突いたはずのナイフが、相手の掌底によって前腕を軽く弾かれ、軌道を数ミリ逸らされる。
喉元を掻き切ろうとした切っ先が、相手の顎の僅かな引きによって空気を切る。
自分の全存在を注ぎ込んだはずの刃が、まるで赤子の玩具のように、完璧に制御され、弄ばれている。
「千歳先輩を……私の光を返せェェェッッ!!」
紅葉が涙と汗を撒き散らし、全身のバネを解き放って飛び込んできた。
すべての退路を捨てた、必殺の喉笛への刺突。
自らの肉体が砕けることすら顧みない、最後の特攻。
### 5.終焉の正拳、無傷の独裁者
その突き出された白刃を見据えながら、俺は静かに口を開いた。
「――もういいだろう、紅葉」
俺の左手が、電光石火の軌道を描いた。
刃先を避けるのではない。
突進してきた紅葉の右手首――その腱の隙間へ向けて、俺の左手の手刀が内側から滑らかに打ち込まれた。
さらに、すれ違いざま、右手の裏拳が、ナイフの刀身の腹(フラット)を、真横から強烈に弾き飛ばす。
**――キィィィンッッ!!**
澄み渡る金属の悲鳴。
生体力学に基づき、握力を司る正中神経への衝撃と、ブレードへの横方向の衝撃波。
人体の構造上、抗うことのできない力学的な解除。
「あっ――!?」
紅葉の指先から、黒いタクティカルナイフが弾き出された。
回転しながら宙を舞った刃が、数メートル離れた雪の吹き溜まりへと、音もなく深く突き刺さる。
武装解除。
そして、前傾姿勢のまま武器を失い、完全にがら空きになった紅葉の胸元。
俺は半歩、踏み込んだ。
引き絞られた右拳。
タメのない、最短距離のストレート。
狙うのは、肋骨の合流点――自律神経の束が密集する、**鳩尾(みぞおち)**。
**――ズドォォォォンッッ!!**
重い破砕音が、雪山の空気を破裂させた。
打撃の衝撃波が、彼女の背中側のダッフルコートの布地をボフッと大きく波打たせる。
皮膚を透過し、内臓の神経叢を直接粉砕する、完全なる浸透打撃。
「が……ッ、カハッ……! ぐ、ぁ……っ……」
声にならない、空気が抜けるような喘鳴。
紅葉の瞳から、憎悪も、狂気も、すべての光が消え去った。
口から胃液と血の混ざった泡が零れ落ち、彼女の身体はくの字に折れ曲がったまま、ゆっくりと前傾していった。
**――ドシャァッ。**
泥と雪が混ざり合う地面に、望紅葉の身体が崩れ落ちた。
指先一つ動かない。
荒く引きつった呼吸だけが、泥水の上に微かな波紋を作っている。
完全な機能停止。
「…………」
静寂。
冷たい風が吹き抜け、ポツリ、ポツリと、鉛色の空から冷たい冬の雨が降り始めた。
雪を溶かし、地面を黒い泥濘へと変えていく雨粒。
外階段の下には、地獄が広がっていた。
自らの太腿を突き刺し、大量の血だまりの中で意識を失いかけている千歳朔。
首を打たれて気絶した浅野海人。
内臓を砕かれて泥水を吐き続ける水篠和希。
そして、ナイフを奪われ、鳩尾を撃ち抜かれて泥の中に沈んだ望紅葉。
その惨状を取り囲むように、柊夕湖、内田優空、七瀬悠月、青海陽、西野明日風の5人が、腰を抜かし、ある者は震え、ある者は声を殺して泣きじゃくっていた。
勝てるはずがなかったのだ。
策謀を巡らせようと、法を悪用しようと、命を捨てて自傷しようと、果てには軍用の刃物を抜こうと。
この男の前では、すべてが赤子の児戯に過ぎなかった。
冷たい雨が降り注ぐ中。
その血と泥と絶望の円環の中心で。
綾小路清隆ただ一人だけが――衣服の一箇所の乱れもなく、一滴の返り血すら浴びず、完全なる無傷のまま、静かに佇んでいた。
「……雨か」
俺は空を見上げ、独りごちた。
手の甲についた雨粒を無造作に払い落とす。
反逆者たちの最後の灯火は、今、完全に息絶えた。