綾小路清隆がチラムネ世界にいる話   作:Valkiria

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第六章(1):泥沼のスコアボードと、覚醒するジョーカー】

 

 

 

 福井の湿った秋風は日を追うごとに冷たさを増し、足羽川の河川敷の木々も赤黒く色を変え始めていた。  体育祭でのあの決定的な敗北から、およそ一ヶ月。

 千歳朔が崩れ落ち、柊夕湖と七瀬悠月の間に埋まらない亀裂が走ったあの日以来、2年5組には奇妙な凪の時間が流れていた。

 

 だが、その静寂は長くは続かなかった。

 

「えー、来月の頭に球技大会を実施する」

 

 朝のホームルーム。気だるげな担任教師が黒板にプリントを貼り付けた瞬間、教室の澱んだ空気が弾けた。  男子はサッカー、女子はバレーボール。

 体育祭に並び、高校生活におけるカーストの序列を再生産し、青春の熱量を誇示するための恒例行事だ。

 

「先生、ホームルームの残り時間、作戦会議に使わせてください!」

 

 真っ先に立ち上がったのは、千歳朔だった。  その声には、かつての快活な響きが戻っていた。

 教壇に立った千歳は、慣れた手つきでチョークを走らせ、黒板に大きく『全員で勝利!』と書き殴る。

 

「みんな、体育祭では悔しい思いもしたけど……今度の球技大会はクラス全員で勝ちに行こう!

男子サッカーは俺が責任を持ってまとめる。未経験者も関係なく、全員の力が必要だ!」

 

「お、おう……!」「朔がそこまで言うなら、やるか!」

 

 男子生徒たちの間に、ぎこちないながらも前向きな空気が戻り始める。  だが、女子生徒たちの反応は一様ではなかった。

 夕湖は小さく拍手を送りながらも、その笑顔は以前のような無邪気さを欠き、悠月は腕を組んで静かに千歳の背中を見つめている。一度ひび割れた関係性の傷跡は、そう簡単に消えるものではない。

 

 俺は自席で頬杖をつき、教壇で声を張り上げる千歳を観察していた。  体育祭の後、自分の無力さを突きつけられて涙を流した男が、なぜここまで急速に立ち直れたのか。

 理由は単純だ。

 彼は自らに課された「絶対的な敗北」を、逃れられない絶望としてではなく、「自分を成長させるための試練」として自らの物語(ナラティブ)に都合よく組み直したのだ。

 挫折を知り、痛みを抱えながらも、それでも前を向く不屈のリーダー――そうやって新たな仮面を自らに被せることで、崩れかけた自我を強引に繋ぎ止めているに過ぎない。

 

「――綾小路」

 

 黒板から振り返った千歳が、教室の隅に座る俺へ真っ直ぐに視線を向けた。

 

「お前も、サッカー出てくれるよな。お前の走力があれば、間違いなくチームの大きな武器になる」

 

 クラス中の視線が、一斉に俺へと集まる。  千歳の表情には、かつての怯えや引きつりは見当たらない。挑戦者の光を湛えた、堂々たるリーダーの佇まい。

 俺という異物を拒絶するのではなく、あえてチームの一員として抱え込むことで、「自分は綾小路とも対等に向き合える」と周囲にアピールする意図が透けて見えた。

 

「……人数合わせ程度でいいなら、参加する」

 

 俺が感情を乗せずに答えると、千歳は満足そうに一度頷き、再び黒板へと向き直った。

 

 

 球技大会、当日。  初冬の冷たい陽光が降り注ぐグラウンドで、男子サッカーの1回戦が始まろうとしていた。

 だが、キックオフの笛を前にして、俺はピッチの外――グラウンド脇のベンチに座り、スポーツドリンクのボトルを眺めていた。

 

 俺のポジションは、サブ。  つまり、ベンチスタートだった。

 

「……なるほどな」

 

 ピッチの中央で円陣を組み、声を張り上げている千歳の背中を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。  千歳が俺をスタメンから外した理由。

 それは単に俺に見せ場を奪われることを恐れたからではない。

 ――「綾小路という規格外に頼らず、自分たち普通の生徒の団結で勝つ」。

 そうやって勝利を掴み取ることでしか、体育祭で地に落ちた「王としての正当性」を取り戻せないと、千歳自身が強く思い詰めているからだ。

 泥臭く、青臭い、彼なりの矜持。

 

 ベンチのすぐ近くでは、女子バレーの試合の合間を縫って、夕湖と悠月がグラウンドを見守っていた。

 

「……朔、綾小路くんを出さないんだね」

 

 夕湖が少し不安そうに呟く。

 

「朔なりの意地よ。あの人は、綾小路くんに頼って勝っても意味がないと思っているの。……それがどれだけ無謀なことかも分からずにね」

 

 悠月は冷徹に言い放ち、視線をピッチの向こう――対戦相手である2年1組の陣営へと向けた。

 

 悠月の懸念は、開始わずか数分で現実となった。  2年1組には、現役のサッカー部レギュラーが3名所属していた。

 高校生の球技大会において、競技経験者が複数名いるチームと、寄せ集めの急造チームの差は絶望的だ。

 千歳の声掛けやフォーメーションの意識など、パスワークと個人のポジショニングの前には何の意味もなさなかった。

 

 前半10分、先制点を奪われる。  前半終了間際、ディフェンスラインの裏を取られて2失点目。  そして後半開始早々、守備の乱れを突かれて3点目を叩き込まれた。

 

 スコアボードの数字は、無慈悲に「0-3」を示していた。

 

 残り時間は15分。  クラスメイトたちの足は止まり、表情からは完全に生気が失われていた。ただ試合終了の笛を待つだけの棒立ち。

 千歳だけが、泥だらけの顔で「まだ終わってない!

走れ!」と叫び続けているが、その声は虚しく初冬の風に散るだけで、誰の耳にも届いていない。

 

「……見てられないわね」

 

 悠月が小さくため息を吐き、腕を解いた。

 夕湖もまた、俯いて唇を噛み締めている。そこにいるのは、輝かしいヒーローではなく、現実に打ちのめされる無力な少年だった。

 

 千歳が、ベンチの方へと視線を投げた。  肩で息をし、絶望に濡れた瞳。

 自分の力ではどうにもならないという現実を前に、彼の視線は無意識のうちに、俺の座るパイプ椅子へと吸い寄せられていた。

 

「……交代だ」

 

 俺は静かに立ち上がり、羽織っていたウィンドブレーカーを脱いだ。

 

「えっ、綾小路、出るのか?」

 

 担任が驚いたように顔を上げる。

 

「残り時間も少ない。身体を動かしておきたいので」

 

 淡々と告げ、俺はタッチライン際へと歩みを進めた。

 

 

 交代の笛が鳴り、足を引きずるクラスメイトと入れ替わりでピッチに入る。  芝生を踏みしめると、冷たい外気の中に、汗と土の匂いが混ざり合っていた。

 

 すれ違いざま、千歳朔が俺の前に立った。  泥にまみれたユニフォーム。荒い呼吸。

 その瞳には、自分の理想を貫き通せなかった恥辱と、それでも敗北を回避するために俺という劇薬に手を伸ばさざるを得ない、惨めな屈辱の色が濃く滲んでいた。

 

「……すまない、綾小路。力を貸してくれ」

 

 絞り出すような千歳の声。  自らのプライドを自らの手でへし折りながら、彼は頭を下げた。

 

「試合に出る以上、勝つための行動を取る。それだけだ」

 

 俺は彼の謝罪に同情も侮蔑も返さず、ただ事実だけを口にして通り過ぎた。

 

 俺のピッチ進入に対し、相手チーム――2年1組のサッカー部員たちからは、露骨な緩みと侮りが漂っていた。

 

「おい、あの足の速い奴が出てきたぞ」

 

「陸上部のスプリンターだろ? サッカーは走るだけじゃ勝てねえよ」

 

「残り10分で3点差だ。適当に回して終わらせるぞ」

 

 彼らにとって、この試合はすでに終わった消化試合だった。  無理に攻めてリスクを冒す必要はない。後方で安全にパスを繋ぎ、時計の針を進めるだけの作業。

 

 ピィッ、と再開のホイッスルが鳴る。

 

 相手のセンターバックとボランチが、低い位置でゆったりと横パスを交換し始めた。  いわゆる時間稼ぎのパス回し。

 千歳は諦めずに前線からチェイスを仕掛けるが、相手は軽くワンタッチでボールを逃がし、千歳を嘲笑うようにいなしていく。

 

 千歳が息を切らしながら、俺の数メートル横へとポジションを移してきた。

 

「綾小路! お前が寄せて奪ったら、俺が前で受ける! 俺に出せ!」

 

 千歳は必死に連携を模索していた。  俺のスピードでボールを奪わせ、自分がフィニッシュに絡むことで、チームとしての体裁を辛うじて保とうという計算。

 

 だが――俺の視界の中に、千歳朔という駒は最初から配置されていない。

 

 

 相手ボランチが、右サイドバックへ向けてグラウンダーの横パスを出した。  3点リードが生み出した、極めて緩慢で油断に満ちたボールスピード。

 その白く丸い軌道が、芝生の上を転がっていく。

 

(……十分だ)

 

 俺は思考を排し、身体の出力を解放した。  助走も、踏み込みの予備動作も作らない。

 直立姿勢から瞬時に重心を進行方向の虚空へと投げ出し、落下のベクトルをそのまま推進力へと変換する。

 

 ――ザンッ!!

 

 スパイクが芝の根を根こそぎ抉る音が響いた。  初速の立ち上がりにおいて、生物学的な加速のプロセスを無視したような急激なトップスピード。

 

「なっ……!?」

 

 パスを出したボランチの目が、信じられないものを見るように見開かれた。

 彼の網膜において、センターサークル付近にいたはずの俺の輪郭が、一瞬で消失したように映ったはずだ。

 

 ボールを受けようとしたサイドバックがトラップの体勢に入るよりも遥かに早く、俺はその中間に割り込んでいた。  インターセプト。

 だが、俺はボールを足元に収めるためのトラップを選択しなかった。

 

 減速することなく、バウンドするボールの落下点へ最短距離で体を滑り込ませる。

 ボールが芝から跳ね上がった瞬間――俺の上体はすでに深く捻られ、右足はコンパクトに、しかし鋼のバネのように後方へ引き絞られていた。

 

「え……!? そこで打つのか!?」

 

 敵味方を含めたピッチ上の全員、そしてグラウンド脇で見ていた悠月たちの息が止まる。  ゴールまでの距離はおよそ25メートル。

 トラップもせず、体勢を整えもせず、走り込んできた勢いのままダイレクトで撃つなど、高校生の常識では枠にすら飛ばない暴挙だ。

 

 だが、俺の右足のインステップは、空中のボールの中心軸を、ミリ単位の誤差もなく撃ち抜いていた。

 

 ――バゴォォォォンッッ!!

 

 ピッチの空気を破裂させるような、乾いた重金属の打撃音が轟いた。

 回転を極限まで削ぎ落とされたボールは、空気の層を押し潰しながら、無回転の弾丸となって一直線にゴールマウスへと射出された。

 

 相手キーパーは、反応することすらできなかった。  一歩も動けず、ただ自らの右耳の横を通過した風圧に、遅れて身体を強張らせる。

 

 バシュゥゥゥッ!!

 

 ゴールネットがちぎれんばかりに激しく波打ち、ボールが地面へと叩きつけられた。

 

 静寂。  審判すらも一瞬、何が起きたのか理解できず、数秒の空白の後にようやくホイッスルを口にくわえた。

 

 ピピッ――!!

 

 1点。  スコアボードの数字が、無機質に「1-3」へと書き換わる。

 

「う、うおおおおおおおおっ!?」

 

「マジかよ……! なんだ今のシュート!?」

 

 ベンチのクラスメイトたちが総立ちになり、グラウンドの周囲で観戦していた他クラスの生徒たちからも、どよめきと歓声が沸き起こった。

 夕湖は両手で口を覆って絶句し、悠月は冷たい双眸を見開いたまま、息を呑んでいた。

 

 俺はフォロースルーを収め、静かに息を吐いた。  駆け寄ろうとする味方には目もくれず、自陣へ戻るために踵を返す。

 

 その視線の先で、千歳朔が呆然と立ち尽くしていた。  パスを呼ぶために上げていた彼の右手は、行き場を失って中空を彷徨っている。

 自分のパスも、戦術も、チームワークも、何一つ介在しない場所で生まれた、圧倒的な個の暴力による得点。

 

「……綾小路」

 

 擦れ違う瞬間、千歳が掠れた声で呟いた。  その顔にあったのは、点差が縮まったことへの喜びではない。

 自分が信じ、守り抜こうとした「全員で掴む勝利」という理想が、俺という怪物の前に完全に消し飛んだことへの、絶望的な敗北感だった。

 

 俺は足を止めることなく、彼に視線を向けることもなく、ただ一言だけ告げた。

 

「まだ2点差だ。……試合を再開させるぞ」

 

 千歳の背中に、初冬の冷たい風が容赦なく吹き抜けていった。

 

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