5
試合再開のホイッスルが初冬の空気を震わせた。 スコアは1-3。まだ2点のビハインドがある。
ボールを保持したのは、千歳朔だった。 だが、そのドリブルには先ほどまでの軽やかさは微塵もなかった。 視線が泳ぎ、タッチがわずかに大きい。
失われた王座を取り戻すには、他人のアシストではなく、自分自身のゴールでクラスを救うしかない――そんな強迫観念が、彼の視野を極端に狭めていた。
「千歳、焦るな! 戻せ!」
後ろの味方から声が飛ぶが、千歳の耳には届いていない。
敵陣へ無謀に突進した千歳の前に、相手のセンターバックとボランチの2名が立ちふさがる。当然の結果として進路を完全に遮断され、パスコースも消された。
(……自滅だな)
俺はため息をつくことなく、相手ディフェンスラインのギャップ――バイタルエリアの危険なスペースへと音もなく忍び寄った。 千歳が苦し紛れに顔を上げる。
彼の瞳が、フリーになっている俺の姿を捉えた。
一瞬の躊躇。 自分で撃ちたい。自分が主役でありたい。だが、このままボールを奪われれば、決定的な戦犯として晒し者になる。
葛藤の末、千歳は歪んだ表情のまま、逃げるように右足を振り抜いた。
ふわりと浮いた、力のないロブパス。 それは、彼がストライカーとしてのエゴを捨てきれないまま、責任を他者に押し付けた「妥協の放物線」だった。
6
ボールが俺の頭上へと落ちてくる。 俺は先ほどと同じように上体を深く傾け、右足を後方へ引き絞った。ダイレクトボレーの構え。
「打たせるかよッ!」
相手ディフェンダー2名が、先ほどの弾丸シュートを警戒して必死の形相でシュートコースへ滑り込んできた。
肉体を壁にしてブロックする、強引なスライディング。このまま振り抜けば、ボールは彼らの身体に直撃して枠を外れる。
――だが、その反応速度すら、織り込み済みだ。
俺の世界の時間の流れが、一段階遅くなる。 振り下ろされるはずだった右足の力を、インパクトのコンマ数秒前に完全に抜いた。 キックフェイント。
それも、常人では反動で体勢を崩すようなトップスピードのモーションを、強靭な体幹で完全にゼロへと静止させる。
右足のインサイドで、落下してくるボールの運動エネルギーを優しく吸収し、つま先で小さく弾き上げた。
滑り込んできたディフェンダー2人の頭上を、ボールがふわりと越えていく。彼らは無人の芝生の上を空しく滑り抜けていった。
無防備に浮き上がったボール。 俺は軸足で強く地を蹴り、身体を反転させながら跳躍した。 空中で体軸を水平に保ち、右足を鞭のようにしならせる。
大声を張り上げる必要などない。自己主張のための名乗りなど、この場には無用だ。
ただ、最も合理的で、最も防ぎようのない打点で、ボールの芯を撃ち抜く。
――ズドォォォッッ!!
重い破裂音が響いた。 ジャンプボレーから放たれたボールは、低く鋭い弾道を描いてゴール右隅のサイドネットへと突き刺さった。
バシュッ、とネットが激しく揺れ、グラウンドに再びボールが落ちる。
ピピッ――!!
主審の笛が鳴り響いた瞬間、観客席とベンチから、先ほどを遥かに上回る爆発的な歓声が沸き起こった。
「うおおおおおおっ! フェイクからのボレー!?」「2点目だ! 追いつくぞ!!」
狂乱するクラスメイトたち。 俺は着地し、軽く膝のクッションを使って衝撃を逃がすと、静かに立ち上がった。
ペナルティエリアの手前で、千歳朔が膝をついたまま、呆然と俺を見上げていた。
その瞳にあったのは、得点の喜びではない。
自分のパスが、自らの想像を絶する次元の技術によって「ゴールという結果」に変換されたことに対する、底知れない恐怖だった。
7
俺は自陣へ戻る足を緩めることなく、千歳の横を通り過ぎた。 感情を交えずに、ただ事実だけを告げる。
「……あと1点だ」
千歳の表情が、ピクリと痙攣した。 その瞳の奥に浮かび上がってきたのは、感謝でも敗北感でもない。
もっとドロドロとした、逃げ場のない「焦燥」と「嫉妬」だった。
(……まだ、自分が舞台の中心に立てると信じているのか)
千歳は気付いていない。 クラスメイトたちが叫んでいるのは「2年5組の勝利」であり、その中心にいるのは綾小路清隆という異分子だ。
千歳朔という主人公の存在感は、得点を重ねるごとに薄まり、今やただの「ボールを前に運ぶための駒」へと格下げされている。
その現実を受け入れられない千歳のプライドが、彼の理性を内側から焼き切ろうとしていた。
ピィッ! 試合再開の笛。 残り時間は10分。スコアは2-3。
8
同点に追いつかれたことで、相手の2年1組は完全にパニックに陥っていた。 守備の陣形は乱れ、中盤でのプレッシャーも雑になっている。
俺は中盤でボールを拾うと、最小限のステップで相手ボランチのプレスをかわし、そのまま中央をドリブルで前進した。
相手ディフェンダーが2人、慌てて間合いを詰めてくる。 左右どちらにでも抜ける体勢。シュートレンジまでは、あと数メートル。
その時だった。
「――どけぇッ!!」
背後から、荒い息遣いとともに激しいプレッシャーが迫ってきた。 敵ではない。 千歳朔だった。
スタミナが切れかけていたはずの男が、血走った目で俺の真横へ無理やり身体を割り込ませてきたのだ。
パスを要求するのではない。俺の足元にあるボールを、味方であるはずの彼が強引に奪い去ろうと身体をぶつけてくる。
(……ここまで見苦しく崩れるか)
千歳の思考は明白だった。 同点ゴールだけは、自分の足で決めなければならない。
綾小路に3点すべてを奪われれば、自分は完全に終わる。その恐怖と浅ましい自己顕示欲が、彼に「味方からの強奪」という愚行を選ばせたのだ。
だが、俺は身体をぶつけ合って無駄な争いをする気はない。
千歳が強引に右足を差し込んできた瞬間、俺はわずかに足首の角度を変え、ボールを千歳の進路のわずか前方へと転がした。
「え……!?」
千歳が前のめりにつんのめる。 俺からボールを奪ったのではなく、単にボールの進行方向に押し出された形だ。
そして、千歳がボールに触れようとしたその刹那、相手のセンターバックが千歳を潰すために猛烈なスライディングを仕掛けてきた。
「危な――っ!」
千歳が反射的に飛び退く。 千歳と相手ディフェンダーが交錯し、2人の身体が重なり合ってピッチの右側へと転がった。 その結果として何が起きたか。
ゴール正面のディフェンスが完全に消滅し、ゴールキーパーの視界が、転倒した千歳たちによって完全に遮られたのだ。
――完璧なブラインド。 千歳はボールを奪おうとして、結果的に俺のための「最も機能的な囮」として消費された。
「……ご苦労だったな、千歳」
俺は転がり出たルーズボールの落下点へ、誰よりも速く踏み込んだ。
9
ペナルティエリア外、ゴール正面およそ22メートル。 キーパーは千歳たちの影からボールが出てくる瞬間を捉えられず、ポジショニングを固定できずにいる。
俺は左足の踏み込みとともに、全身の回旋運動を右足の甲へと凝縮させた。 力任せのキックではない。
インパクトの瞬間に足首を完全に固め、ボールの中心をミリ単位で押し出す、完全な無回転シュート。
――ドガァァァァンッ!!
乾いた重低音がグラウンドの空気を震わせた。 地を這うような超低弾道。
芝生をかすめながら猛烈なスピードで直進するボールは、途中で空気抵抗の不規則な渦に捕まり、左右へ不規則にブレながらキーパーの眼前へと迫る。
「しまっ――!?」
ブラインドから突如として現れた弾丸に、キーパーが慌てて両腕を突き出した。 コースは正面に近い。 だが、触れれば止められるような球威ではなかった。
バチンッ!!
キーパーの両掌に当たった瞬間、弾かれたのはボールではなくキーパーの腕の方だった。
強烈な推進力に手首を弾き飛ばされ、ボールはキーパーの脇の下をすり抜けて、無慈悲にゴールネットの底を叩いた。
ピピッ――!!
3点目。 スコアボードの数字が、ついに「3-3」の同点へと並んだ。
グラウンドが、割れんばかりの大歓声に包まれる。 ベンチから選手たちが飛び出し、観客席の生徒たちが立ち上がって狂喜乱舞している。
3点差からの奇跡的な同点劇。客観的に見れば、これ以上ない劇的なドラマだった。
だが。 ピッチの土の上に倒れ込んだままの千歳朔は、立ち上がることができずにいた。 泥にまみれたユニフォーム。震える両手。 彼は理解してしまったのだ。
自分が放った「エゴ」の突進すらも、綾小路にとってはシュートコースを空けるための駒として冷酷に利用されたに過ぎないということを。
スタンドの片隅で、七瀬悠月が冷え切った瞳でピッチを見下ろしていた。 彼女の隣で、夕湖が呆然と呟く。
「……朔、今……綾小路くんの邪魔、しようとしてたよね……?」
悠月は答えなかった。ただ、唇を強く噛み締め、憐れむような視線を千歳へ向けていた。 かつて誰もが憧れた輝かしいリーダーの仮面の下から覗いた、醜い嫉妬と無力さ。
その化けの皮が完全に剥がれ落ちたことを、もっとも親しい者たちが見逃すはずもなかった。
俺は芝生に転がる千歳の前に歩み寄り、見下ろした。 呼吸を乱すこともなく、ただ静かに告げる。
「……追いついたぞ、千歳。あと1点で、お前たちの望む『勝利』だ」
その言葉は、千歳朔にとって、どんな罵倒よりも残酷な死刑宣告として響いていた。