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試合終了までの残り時間は、すでにアディショナルタイムの2分を切っていた。 スコアボードに刻まれた数字は「3-3」。
3点差を追いつかれた相手チーム――2年1組の選手たちの表情には、先ほどまでの余裕は微塵も残っていなかった。
次にゴールネットを揺らした方が勝者となる。だが、彼らの動きを縛り付けていたのは、勝利への執着ではなく、「あの転校生にボールを渡してはならない」という強烈な恐怖だった。
ピィッ!!
相手ボールで試合が再開される。 彼らはショートパスを繋ぎながら時間を進めようとするが、その身体は逃げ腰だった。
俺が中央にポジションを取っているだけで、彼らのパスコースは外側へ、後方へと追いやられていく。
だが、引き分けのまま終わらせる気がない以上、どこかで縦へ勝負を仕掛けなければならない。
ハーフライン付近。ボールを持った相手のエースが、プレッシャーをかけようとする俺と視線を交差させた。 彼の瞳が、はっきりと怯えに揺れる。
地上での勝負は不可能。インターセプトされれば即座に失点に直結する。
追い詰められた彼が選択したのは、確率の低いギャンブルだった。
大きく振り抜かれた右足から放たれたのは、俺の頭上を遥かに飛び越える、前線へのロングフィード。 ゴール前で待つ味方センターフォワードへの、祈るような放り込み。
(……逃げのロングボールか)
ボールは高く綺麗な放物線を描き、俺の背後へと抜けていく。 ペナルティエリア手前でバウンドすれば、混戦からゴールを許すリスクはある。
常識的なディフェンダーであれば、即座に反転して背走し、落下地点で相手フォワードと身体をぶつけ合って競り合うのがセオリーだ。
だが――その対処では、試合を決定づけるには至らない。
11
俺の身体能力は、魔法の類ではない。
重力を無視して空を飛ぶこともできなければ、物理法則を捻じ曲げることもできない。すべては骨格と筋肉、重心移動の最適化という厳密な力学の檻の中にある。
背後へ飛翔していくボールを追いかけ、最高到達点で捉え、反転して敵ゴールへ叩き込む。 落下速度、風力、ボールの回転、そして自らの跳躍軌道。
すべての変数をコンマ数秒で一致させなければ成立しない、極めて成功率の低い試行。
だが、その針の穴を通すような解が存在する以上、実行に移すことに躊躇はない。
俺は反転した。 ボールの影を追うように、トップスピードで芝を蹴る。 背後から迫るボールとの距離はおよそ8メートル。
「無理だ、追いつけるかよ!」
パスを出した相手エースが叫ぶ。 周囲の観客も、ただクリアするために走っているとしか思わなかっただろう。
だが、俺の視線が捉えていたのは、ボールの落下点ではなく、空中でボールと自らの足先が交差する「空中の1点」だった。
ペナルティエリア手前。 俺は加速を殺すことなく、左足のスパイクをピッチの土深くへと突き刺した。
前進のエネルギーを、そのまま鉛直方向への跳躍力へと変換する。
――ダンッ!!
乾いた踏み切り音が響いた瞬間、俺の身体は重力を振り切るように宙へと浮き上がった。
12
視界が反転する。 秋の冷え切った青空が足元へ滑り込み、灰色のグラウンドとゴールマウスが天頂へとせり上がってくる。
空中で完全に水平、いや、頭部を真下へと向けた逆立ちの姿勢。
70センチを優に超える垂直跳びの頂点で、世界からあらゆる雑音が消え去った。
背後から落ちてくるボールの縫い目、空気抵抗による微小なブレ。
落下してくる白球の軌道上に、俺の引き絞られた右足の甲が、吸い込まれるように重なっていく。
叫びも、咆哮もいらない。 ただ、この学校の平穏な秩序を完全に粉砕するための、最も純粋な一撃を放つ。
鞭のようにしならせた右足を、空中で振り抜いた。
13
――バゴォォォォンッッ!!
空気を圧縮して破裂させたような、凄まじい衝撃音がグラウンド全体を殴りつけた。 バイシクルキック。
重力と落下の運動エネルギーを余すところなく吸収した一撃は、キーパーの反応時間を極限まで奪う超高速の弾丸となって一直線にゴールへ向かった。
相手キーパーの手前、わずか数メートルでの強烈なバウンド。
芝生を弾き飛ばし、不規則なトップスピンで加速したボールは、横跳びしたキーパーの指先を嘲笑うように頭上を通過した。
ズバァァァンッ!!
ゴールネットがちぎれんばかりに跳ね上がり、ボールはそのままネットの天井を激しく揺らして地面に落ちた。
俺は空中で半回転し、背中から芝生へと滑らかに着地した。 受け身によって衝撃を完全に逃がし、静かに立ち上がる。
ピピッ――!! ピィィィィィッ!!
得点を告げる笛と、それに続く試合終了の長いホイッスルが、冬の訪れを告げる冷たい風の中に吸い込まれていった。
4-3。 逆転、そして試合終了。
一拍の静寂。 そして――。
「うわあああああああああっ!?」
「入った……! 嘘だろ、オーバーヘッドで決めたぞ!?」
「綾小路! 綾小路!!」
怒号のような歓声がグラウンドを埋め尽くした。
ベンチから飛び出してきたクラスメイトたちが、信じられないものを見た興奮で顔を紅潮させ、雪崩のように押し寄せてくる。
3点ビハインドからの、個人による4連続ゴール。 それは高校の球技大会の枠組みを完全に破壊した、圧倒的な個の蹂躙劇だった。
14
沸き立つ歓声の波を受け止めながらも、俺の心拍数は平時のそれとほとんど変わっていなかった。
駆け寄ってくる男子生徒たちを適当にいなし、俺は視線をピッチの中央へと向けた。
狂乱する人垣の向こう側。 冷たい芝生の上に、両膝をついたまま微動だにしない男がいた。
千歳朔。 泥にまみれたユニフォームのまま、彼は両手を地面につけて項垂れていた。 チームは勝利した。逆転の美談だ。
だが、その勝利の中に、彼の居場所は1ミリも存在していなかった。
彼が語り、守ろうとした「みんなの力」「団結」のすべてが、俺という異分子のワンマンショーによって完全に塗り潰されたのだ。
俺は歓喜の輪を抜け、足音もなく彼のもとへと歩み寄った。 俺の足元が千歳の視界に入ると、彼は力なく、ゆっくりと顔を上げた。
15
千歳の瞳から、光が完全に失われていた。 泣いてすらいない。
自分の存在価値、これまで積み上げてきたスクールカーストの頂点としての自負、そのすべてを根底からへし折られた人間が浮かべる、完全な虚無。
唇が微かに震えているが、そこから発せられる言葉は何もなかった。
俺は彼を見下ろし、抑揚のない静かな声で告げた。
「……勝ったぞ、千歳。お前の望み通りにな」
その言葉は、どんな侮蔑よりも深く千歳の胸を抉ったはずだ。 自分は何もできなかった。
それどころか、味方の足を引っ張り、最後はベンチから入ってきた怪物の圧倒的な暴力によって、勝たせてもらった。
「勝者」でありながら、最も無様な「敗者」として晒し上げられたのだ。
「あ……、あぁ……」
千歳の喉から、乾いた息が漏れた。 彼が再び立ち上がり、この教室で王として笑うことは、もう二度とないだろう。
俺は崩れ落ちた彼を一瞥することもなく、踵を返してベンチへと向かった。
16
グラウンド脇へ戻る通路で、柊夕湖と七瀬悠月が待っていた。
夕湖の表情は、興奮と困惑が複雑に混ざり合っていた。千歳の無残な姿に動揺しながらも、学年全体を熱狂させた俺の存在感に気圧され、どこか落ち着かない様子で足元をもじもじとさせている。
「綾小路くん……すごかったね。ホントに、一人で全部決めちゃうなんて……」
夕湖の声には、これまでの軽薄な調子はない。
強大な存在に寄り添うことで自らのカーストを維持してきた彼女にとって、千歳が墜落した今、俺は唯一の「拠り所」に見えているのだろう。
だが、その眼差しには明らかな怯えが混じっていた。
一方、七瀬悠月は違った。 彼女は腕を組み、冷え切った眼差しを真っ直ぐに俺へと突き刺していた。 その額には、冷たい汗が一筋流れている。
「……見事だったわね、綾小路くん」
悠月の声は低く、硬かった。
「でも、貴方の目的はサッカーの勝利なんかじゃないわよね。……朔をあそこまで追い詰めて、何をさせたいの?」
やはり、この女子の観察眼だけは群を抜いている。
彼女は千歳の崩壊を哀れみつつも、その原因がすべて俺の計算されたプロセスの結果であることを、正確に察知していた。
「……何のことか分からないな。俺は試合に出て、点を取っただけだ」
俺は淡々と答え、タオルで額の汗を拭った。
「嘘をおっしゃい。……でも、いいわ。次は混合バレーよ。私も夕湖も同じチームに出る」
悠月は夕湖の肩に手を置き、俺を拒絶するように視線を鋭くした。
「今度は、貴方の好きにはさせないわ。私たちまで朔のように壊されるつもりはないから」
夕湖がビクッと肩を震わせ、悠月と俺の顔を交互に見つめる。 千歳という絶対的な盾を失い、自らの知性とプライドだけで俺に対峙しようとする七瀬悠月。
そして、その狭間で右往左往する柊夕湖。
(好きにさせない、か)
俺は心の中で冷ややかに思考を巡らせた。 バレーボールは、サッカー以上に連携と信頼が要求される競技だ。
コートの中で、互いへの疑念と恐怖を抱えたまま、どこまでその脆い関係性を維持できるか。
「……足手まといにならないことを願うよ」
俺は短く告げると、空になったペットボトルをゴミ箱へ正確に放り込んだ。 金属の縁に一度も触れることなく、乾いた音を立てて底へ落ちる。
舞台は整った。 次は、あのコートの上で、彼女たちが無自覚に依存してきた人間関係の最後の残滓を、綺麗に解体してやる番だ。