1
グラウンドを包んでいたサッカーの熱狂がようやく引いた頃、俺たちは体育館の渡り廊下脇のベンチで、次の種目までの待機時間を過ごしていた。
俺の両脇には、柊夕湖と七瀬悠月が座っている。
夕湖はまだ興奮と困惑の余韻から抜け出せていないようで、時折俺の顔を伺っては小さく息を呑み、悠月は腕を組んだまま、静かに体育館の入口を見つめていた。千歳朔が保健室へ運ばれて以降、彼女たちの間には重苦しい沈黙が横たわっていた。
その沈黙を破ったのは、激しい足音だった。
「――ちょっと! 綾小路くん!!」
弾けるような怒声とともに、一人の女子生徒が息を切らして駆け寄ってきた。
ショートカットの髪を激しく揺らし、額に汗を浮かべた小柄な身体。だが、その瞳には溢れそうな涙と、隠しきれない敵意が宿っていた。
「……陽?」
夕湖が小さく声を漏らし、悠月がわずかに眉をひそめて立ち上がった。
青海陽。 2年1組。女子バスケットボール部の主力であり、クラスの垣根を越えて誰からも好かれる快活なムードメーカー。
そして――千歳朔に対して、明確な好意を抱いている人間の一人。
彼女は自分の試合に向けた準備のため、グラウンドで行われていたサッカーの後半を見ていなかったのだろう。彼女の視界にあるのは、「保健室で虚ろに項垂れる千歳朔」と、「その原因を作った不気味な転校生」という単純な二項対立だけだ。
「朔に何したの……!? 保健室で声かけても、何も答えてくれないの! あんな朔、見たことない……!」
陽の声は怒りで震えていたが、その根底にあるのは大切な存在を傷つけられたことへの純粋な悲痛さだった。
「貴方がやったんでしょ!? 試合で勝ったからって、あそこまで追い詰めることないじゃない! 人の心とかないわけ!?」
感情をそのままぶつけてくる直情的な糾弾。 俺はスポーツドリンクのボトルをゆっくりと膝の上に置き、抑揚のない声で答えた。
「……俺はただ、サッカーのルールに従ってゴールを決めただけだ。勝負に負けて自ら立ち直れなくなったのだとすれば、それは彼自身の精神の問題だろう」
「なっ……! よくそんな冷たいことが言えるね……!」
陽の大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 夕湖は居心地が悪そうに視線を落とし、悠月が静かに間に入った。
「陽、やめなさい。……言っても無駄よ。この人は、私たちが知っている常識の外側にいるわ」
「悠月まで、なんでそんな……! あたし、絶対に許さないから!」
陽はユニフォームの袖で乱暴に涙を拭い、俺を真っ直ぐに睨みつけた。
「次の男女混合バレー、うちのクラスと決勝で当たるから! 朔の悔しさ、あたしたちが絶対に晴らしてやるから覚悟しなよ!」
吐き捨てるように言い放ち、陽は体育館へと駆け去っていった。 太陽のような少女が放つ、迷いのない敵意。
「……熱いことだな」
俺は小さく呟き、立ち上がった。
感情をエネルギー源にしたプレーは、時に想定以上の推進力を生む。だが、感情に頼るということは、同時に感情の破綻によって容易に自滅する脆さを抱えているということでもある。
2
男女混合バレーボールの予選トーナメントが始まった。
サッカーでの異次元の活躍を目撃した生徒たちの視線が、コートに立つ俺へと一斉に注がれている。彼らは、俺が再びコート上のすべてを支配するスーパープレイを見せるものだと信じ切っていた。
だが――試合開始直後から、俺の動きには目に見えるぎこちなさが漂っていた。
「――っ、アウト!」
相手チームのサーブを俺がアンダーハンドでレシーブした瞬間、ボールは高々と跳ね上がり、天井の鉄骨をかすめてコートの外へと大きく飛び出していった。
球威を殺しきれていない。
「どんまい綾小路くん! ドンマイ!」
「……珍しいわね。貴方でも目測を誤ることがあるの」
前衛の夕湖がフォローの声をかけ、セッターの位置にいる悠月が探るような視線を投げてくる。
俺は無言で定位置へと戻った。 走る、跳ぶ、蹴る。そうした単一方向への最大出力を要求される運動と、バレーボールという競技は本質的に異なる。
相手の打球の運動エネルギーを瞬時に吸収し、味方のセッターが処理しやすい緩やかな放物線へと変換するインパルス制御。あるいは、ネットという厳密な境界線の中で、高すぎる跳躍をあえて抑え、手首のスナップだけでコートの内側へ落とし込む角度の調整。
0か100かの最大出力ではなく、状況に応じた「12」や「37」といった繊細な減速と制御。
俺の身体は、この体育館の床の反発力、公式球の空気圧、そして味方の技量との適合(キャリブレーション)を、実戦の中でリアルタイムに演算している最中だった。
身体能力の高さだけでカバーし、予選を通過すること自体は造作もなかった。
だが、その過程において、俺はコートを支配する怪物ではなく、「身体能力は高いが、バレーの技術は発展途上の選手」として周囲の目に映っていたはずだ。
(……データの収集は順調だな)
失敗するたびに、ボールの弾性係数と筋肉の出力比率の誤差が埋まっていく。 完成までの時間は、そう長くは必要ない。
3
そして迎えた、決勝戦。 ネットの向こう側――2年1組のコートには、先ほど宣戦布告してきた青海陽の姿があった。
そしてその隣には、陽以上に強い存在感を放つ長身の男が立っていた。
「よぉ。お前が噂の転校生か」
人懐っこい笑みを浮かべながらも、その双眸には隠しきれない敵意を宿らせている。 浅野海人。
2年1組の男子バスケットボール部員であり、千歳朔や水篠和希の無二の親友。
普段は軽薄な言動で女子にちょっかいをかけるお調子者として知られているが、その内面には部活で培われた強固な勝負度胸と、仲間を想う熱い義理堅さを秘めている男だ。
「朔のあんなツラ、初めて見たぜ。……あいつは器用に見えて、何でも一人で抱え込んじまう不器用な奴だからよ」
海人がボールを片手で軽々と回しながら、ネット越しに低く告げる。
「親友がやられたまま黙ってるわけにはいかねぇんだわ。ここで俺たちが、きっちり借りを返させてもらうぜ」
「海人、油断しないでよ。あの人、サッカーでは本当にデタラメだったんだから」
陽が真剣な表情で釘を刺す。
「分かってるって。……だが、バレーは一人じゃ勝てねぇスポーツだ。いくら身体能力が高くても、コートの上じゃ誤魔化せねぇよ」
海人の言葉は的を射ていた。 予選での俺のレシーブミスやアタックのアウトを観察し、彼は俺を「バレー未経験のフィジカルエリート」と正確に分析している。
「……試合を始めよう」
俺は感情を交えずに短く返し、ポジションについた。
4
ピィィィッ!!
決勝戦の笛が鳴り、試合は終盤を迎えていた。 スコアボードの数字は18-22。
2年5組の4点ビハインド。バレーボールにおいて、終盤でのこの点差は絶望的な重みを持つ。
「海人、ナイスキー!」
「陽ちゃん、ナイスレシーブ!」
コートの向こうでは、浅野海人と青海陽のバスケ部コンビが水を得た魚のように躍動していた。
陽の安定したレシーブと、海人の高い打点から放たれるスパイク。競技経験の浅いクラスメイトたちを巧みに牽制し、完全に主導権を握っている。
対する2年5組は、夕湖の焦りや連係ミスが重なり、防戦一方の展開が続いていた。
「チャンスボール! 海人、決めてっ!」
陽の綺麗なトスが、ネット中央へとふわりと上がった。 ネット際へ助走を取る浅野海人。 膝を深く沈め、腕を大きく振り上げながら床を強く蹴り上げる。
「うおおおおっ!!」
気合の一喝とともに、彼の長身が宙へと跳ね上がった。 バスケ部仕込みの跳躍力。
空中で美しく胸を反らせ、千歳の無念を晴らすための強烈なエネルギーを右腕へと集中させる。
本来のセオリーであれば、俺が前衛としてブロックに跳び、コースを塞ぐべき場面だ。 夕湖が「ブロック跳んで!」と叫ぶ。
だが――俺は一歩も動かなかった。
両足を床につけたまま、跳躍の構えすら取らず、ネットの真下から海人のフォームをただ見上げた。
「なっ……!?」
背後で悠月が息を呑む気配がした。 諦めたのか、あるいは反応できなかったのか。 周囲の目にはそう映ったはずだ。
だが、俺の視覚情報は、海人の空中動作を極限の精度でスキャンしていた。 踏み切りの足首の角度。 脊柱の回旋による運動連鎖。
左腕による空中でのバランス維持と、インパクトの瞬間に手首を巻き込むスナップの速度。
そして、ボールが潰れて反発する瞬間の、掌とボールの接触面積。
――バレーボールにおける、スパイクの完成された運動力学。 そのすべてが、海人の肉体を通じて俺の網膜に焼き付けられた。
ドガァァァンッ!!
海人の強烈なスパイクが、俺の真横の床に叩きつけられた。 誰も触れられない完全なノーブロック。 ボールは体育館の壁を激しく揺らし、跳ね返った。
18-23。 相手のマッチポイントまで、あと2点。
「よっしゃあああああっ!!」
海人が着地し、雄叫びを上げながら陽とハイタッチを交わす。 体育館中が1組の勝利を確信し、大歓声で揺れていた。
2年5組のコートには、重い敗北の気配が立ち込めている。
だが。 俺はゆっくりと右手を持ち上げ、指先を一度強く握り込み、そして静かに解いた。
海人が見せてくれた、スパイクの最適解。 それに合わせて、予選から収集してきたボールの弾性と自らの筋出力のパラメータが、完璧にひとつの数式として統合された。
(……完了したな)
すべてのノイズが消え去り、回路が接続された。 俺は前髪の奥から、歓喜に沸く海人と陽の背中を、感情のない冷徹な瞳で見据えた。
勝利を確信した瞬間こそが、最も無防備になる。 ここから、本当のゲームを始めるとしよう。