一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか   作:ホシノ記研究委員会

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10.毒鍋のイチロー

 アリスが結果を出すまでヒマなので、下宿の住人について執筆している。

 

 以前この手記に、隣室の魔女について記した。あれを読んだ者は、この下宿には変わり者が一人住んでいると認識しているはずだ。

 

 訂正したい。ほかにもいる。

 

 〇

 

 まず、間取りの説明から始めたい。

 

 私の部屋は二階の突き当たりにある。その隣が先輩の部屋で、先輩の部屋の向かいに、もう一人が住んでいる。二階には三部屋あり、すべて埋まっている計算になる。

 

 階下には大家さんが住んでいて、残りの部屋は物置になっていたり、たまに短期の客が入ったりする。

 

 なお私は、半年ここに住んでいるが、先輩の部屋へ入ったことは一度もない。扉の開閉時に中を覗こうとしても、黒いカーテンか何かで中が見えない。

 

 さて、その向かいの部屋に二人目の変人の住んでいる。

 

 彼女は、私と同い年だ。

 

 実をいうと名前を知らない。大家さんあたりが呼んでいた気がするが、覚えていない。ただ、この手記内で「アイツ」だとか「小娘」だとか「ちんちくりん」だとか呼んでも紛らわしいことこの上ないので、ここでは「イチロー」と呼ぶことにする。入試に落ちて一浪しているからである。シンプルイズベスト。

 

 ちなみに私も一浪しているが、ホシノ呼びがそこそこ定着してきたので、イチローなどと呼ばれる筋合いはない。

 

 〇

 

 イチローと初めて言葉を交わしたのは、この宿へ移り住んで一週間ほど経ったころだった。

 

 パン屋の仕事を得たばかりの私が、記念すべき最初の売れ残りを抱えて帰ってきた夕方のことである。

 

 玄関の脇に、しゃがみ込んでいる小さな背中があった。

 

 どうやら土をいじっている。傍らには苗のようなものが並び、そこだけ地面の色が違っていた。

 

 慣れない労働で疲れていた私は、静かに通り過ぎようとした。しかし、大量のパンが入った袋を抱えていたため、がさがさとした音は隠せなかった。

 

「その袋、パン屋の?」

 

 イチローが振り返る。前髪を無造作に留めた娘で、指先に土がついていた。目つきが少しきつい。

 

 私は簡潔に答えた。このパンは勤め先の売れ残りであり、本日の夕食であると。それで解放されるものと思っていた。

 

 ところが彼女は勢いよく立ち上がり、なぜ売れ残るのか、なぜそれを持ち帰れるのか、その店は儲かっているのか、同い年なのか、そもそもなぜ十五で働いているのか、と次々に尋ねてきた。一つ答えるたびに、その答えの中から新しい疑問を掘り出してくる。

 

 気づけば、玄関先で長い立ち話になっていた。純然たる労力の流出である。

 

 しかし私は、この時間をさほど苦に思わなかった。

 

 理由は単純で、常識があり、純粋で、可愛げがあったからだ。

 

 ちょうどこの頃の私は、思わせぶりな漆黒の魔女に手を焼いていたばかりである。やれ執行者だ刺客だと、慣れない相手に神経衰弱になっていた時だ。

 

 それに比べれば、目の前の娘はただただ純粋な質問しかしてこない。しかも、ちょっとずれた返答をしても、まるきり信じて、次の質問へと掘り進んでいく。なんと無垢なのだろうか。

 

 私はこの日をもって、彼女を心のオアシスとして認識した。

 

 ついでに言えば、顔立ちも良い。むっとした時に眉が寄って、鼻の頭に細かい皺が入る。小動物のような可愛さである。

 

 この評価をイチロー本人へ伝えたことはない。当時ならともかく、いま伝えれば、むっとされること請け合いである。調子にのって、少し意地悪をしすぎた。

 

 〇

 

 イチローは、下宿の周囲に植物を植える。

 

 最初は玄関脇の一角だけだった。それが半年のうちに、裏手の壁際や、井戸の周りにまで版図を広げている。

 

 奇妙な葉ばかりだった。裏表の色がまるきり違うもの、怪鳥の口のように裂けたもの、触れると強烈な匂いを放つもの。いずれも花はほとんど咲かない。

 

 住人に甘い大家さんは、可愛らしい趣味だと言って黙認していた。しかし彼女が洗濯物を干す時に、戦々恐々としながら葉を避けて歩いているのを見たことがある。もしかしたら、地雷のような葉もあるのかもしれない。

 

 とくに私に害があるわけでもないので、奇妙な植物については生暖かく見守っていた。

 

 ただし、一点だけ許せないことがあった。

 

 彼女は、育てた植物を煮る。

 

 共同炊事場を占領し、小鍋に植物やらすり潰した何やらを詰め込み、蓋もせずに延々と煮出すのである。

 

 その日の炊事場は、使用不能になる。匂いが尋常ではないのだ。焦げくさいだけならマシな方で、ツンとする酸っぱい刺激臭や、革靴を焼いたようなものだったり、もろもろがブレンドされたスペシャルな日なんてこともある。風通しのよい我が下宿は、二階の廊下の端まであっという間に届いてしまう。

 

 初めてそれに遭遇した日、私は空腹だった。

 

 私は炊事場の入口に立ち、鍋の前の背中へ向かい、鼻をつまみながら、かつてない語気で抗議した。

 

 ここは食事を作ったり食べたりする神聖な場であり、毒のスープの調合には適さない。この匂いの中でパンを食べれば、革靴を食べているのと変わらない。あなたのやっていることはテロ行為だ。私に革靴を食べさせるな。

 

 イチローは驚いた顔でこちらを見た。

 

「そんなに怒る?」

 

「この温厚なホシノが世界で一番許せないのは、自分が帰ってきたタイミングで、気味の悪い植物を共同炊事場で延々と煮だしている女だ」

 

 結果として、煮出しは午前中に済ませるという協定に落ち着いた。本当は完全にやめてほしかったのだが、イチローにとっては譲れない研究なのだそう。

 

 結ばれた協定は、おおむね守られている。とはいえ、煮出しがあった日の炊事場は使いたくない。

 

 以上のような事情により、この下宿では、廊下に妙な匂いが漂っていることが日常となっている。

 

 ちなみに私以外は誰も気に留めていない。大家さんに至っては、あの匂いを嗅いで今日は絶好調ねぇなどと言うことがある。

 

 もしかすると、おかしいのは私の方なのかもしれない。

 

 〇

 

 協定が結ばれた日、イチローは鍋を片付けながら、こんなことを言った。

 

 自分には悪い癖がある。一度気にしてしまうと、なぜそうなっているのかを知りたくなる。知るまで気が済まない。そのせいで、これまで何度も痛い目を見てきた。

 

 だから、この下宿ではなるべく他人に関わらないようにしている、と。

 

「特に、あの黒いの」

 

 彼女は天井を指した。二階のことである。

 

「あれは駄目。一度気になったら終わりよ。歩くミステリーだわ」

 

 賢明な判断である。

 

 しかし、そう宣言した数秒後に、彼女は私へ尋ねた。

 

「っていうか、あの人っていつも何食べてるの。台所で見たことないんだけど」

 

「ここだけの話ですよ。人の生き血をすすって生きているらしいです」

 

「うそ、生き血を!? なんで?」

 

 という具合で、あっさり手玉にとれてしまうのがイチローの可愛さである。

 

 もてあそびすぎて、最近は警戒されるようになってしまった。魔女先輩に向けられていた訝しげな視線が、いまは私にも向けられている。

 

 〇

 

 イチローの事情については、本人からではなく、大家さんから聞いた。

 

 ある日の夕方、階段を上がろうとしたところを呼び止められ、そのまま一時間ほど拘束された。

 

 この大家さんは、優しくて、おせっかいで、そして口が軽い。家賃を滞納しても、廊下に荷物を散らかしても、たいして怒らない。その代わり、住人の事情をよく把握しており、すべて喋る。要注意人物である。

 

 私は相槌を打っているだけで、以下の情報を得ることになった。

 

 イチローは、大家さんの姪である。実家は王都からずいぶん遠い。彼女がここにいるのは、姉の部屋を預かっているからだそうだ。

 

 その姉は魔法学園の薬草学研究員で、いまは長期の遠征に出ている。年単位で戻らないこともあるらしい。部屋を空けておくのももったいないというので、姉がイチローを住まわせているのだという。

 

 そしてイチローは今年、学園を受験して、落ちた。

 

 幼いころから姉に憧れて、薬草の本ばかり読んでいたそうである。入学試験に出るのは魔法の基礎であって薬草学ではないのだが、彼女はそちらを勉強し続けた。

 

「あの子ねえ、試験の前の日まで葉っぱの名前を覚えてたのよ」

 

 大家さんが笑っていたので、私も笑い飛ばした。

 

 もう一つ、この日の立ち話で判明したことがある。

 

 イチローがこの下宿へ来たのは、私より前だという。先輩よりも前らしい。

 

 つまり彼女にしてみれば、静かに薬草を育てていたところへ、黒ずくめの変人と、瞳に知性を宿した謎の同期が、相次いで転がり込んできたという順序になる。

 

 どうりで、常に不機嫌なわけである。

 

 もっとも、静けさを乱しているのは先輩の方であろう。私は静かなものである。

 

 〇

 

 さて、先ほど、もてあそびすぎて警戒されるようになったと書いた。

 

 どの程度かというと、先日はこうであった。

 

 夕方、私が炊事場へ入ると、イチローが竈の前に立っていた。

 

 協定は守られている。廊下に匂いはなかったし、鍋から上がっているのも湯気だけである。私はただ、今日この場所が使えるかどうかを確かめに来たにすぎない。

 

 しかし彼女は、私の顔を見るなり鍋へ蓋をした。

 

 私はパンの袋を置き、なにげなく竈へ近づいた。空いている口の数を数えるためである。

 

 イチローが、さっと横へ動く。ちょうど鍋を隠す位置だ。

 

 私は反対側へ回ると、やはり彼女も回った。やや鋭い視線が、私をとらえている。

 

 この時点で、私の目的は変質した。

 

 断っておくが、鍋の中身に興味はなかった。しかし、これほど懸命に守られると、そこには守るに足る何かがあるという情報が発生する。したがって確認する価値が生じる。

 

 ……などというのは後付けだ。正直に書くと、面白かったのである。

 

 最小限の労力で、最大の報酬を。などと言っておきながら、この攻防において、私が得られる報酬は何ひとつない。にもかかわらず、私の足は勝手に動いていた。

 

 本能とでもいうべき力に動かされていたと思う。彼女がリスなら、私はネコである。

 

 私はまず、戸棚を探すふりをした。目当ての皿が見つからないという体で竈の脇へ寄り、そのまま首を伸ばす。イチローは戸棚と鍋のあいだへ体を差し入れ、私の視線を正確に遮った。

 

 次に入口の方を指して、そういえば大家さんが呼んでいたと告げた。彼女は微動だにしなかった。ずいぶんと警戒されたものである。

 

 最後に、私は正面から背伸びをした。身長では私に分がある。

 

 イチローは鍋を持ち上げ、よたよたと胸に抱えた。

 

「……なんなの」

 

 眉が寄り、鼻の頭に細かい皺が入っている。むっとしているのだ。

 

「べつに。ホシノは夕食をつくる場所を探していただけですけど」

 

「ぜったい、ウソ」

 

 結局、彼女は重たい鍋を抱えたまま炊事場を出ていった。廊下を歩き、階段を上がり、自室の扉を閉める音までがはっきりと聞こえた。

 

 労力に対して報酬がないと言ったが、私の胸には確かな満足感が残っていた。

 

 〇

 

 最後に、もう一つだけ場面を書き残しておく。いつの夜だったかは、もう覚えていない。

 

 私が自室のたてつけの悪いドアに難儀していると、階段を上がってくる足音がした。

 

 イチローだった。井戸の方から戻ってきたらしく、空の桶を提げている。

 

 彼女は自分の部屋へ向かい、その途中で、足を止めた。先輩の部屋の扉の前である。

 

 顎をわずかに上げ、鼻を鳴らす。

 

「うーん……なにこれ」

 

 私は、その光景を横目で見ていた。

 

「甘い、というか、酸っぱい? うーん、きになる」

 

 彼女は扉へ一歩近づき、そこで止まった。

 

「……あー、何やってんだ、あたし」

 

 自分の口を手で押さえ、二、三度首を振ると、彼女は足早に自分の部屋へ入っていった。

 

 この下宿では、廊下に妙な匂いが漂っているのが日常である。しかも彼女自身が、その最大の発生源なのだ。他人の部屋の匂いに文句を言う資格はない。

 

 おそらく本人も、そこに思い至ったのだろう。

 

 私は自室へ入り、扉を閉めた。

 

 〇

 

 というわけで、この下宿には、変人が何人もいる。

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