一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
今、緊急で執筆している。
先ほど、私は商品棚の前に立ち、売れ残りを数えていた。
夕方に差しかかる時刻だった。客はなく、厨房からは店長の鼻歌が流れている。本日の敗残兵は四つ。うち二つがレーズンパンである。ここ数日の売り上げから逆算するに、今夜の夕食はほぼ確定したと言ってよい。
極めて牧歌的な日常であった。
そこへ、扉の鈴がかつてない乱暴さで鳴らされる。
飛び込んできたのは、アリスだった。
彼女は肩を大きく上下させ、後ろ手に扉を閉め、そのまま扉に背を預けて外をうかがっている。
いつもであれば、さっさと窓際の椅子へ沈み込み、開いた本の上で船を漕いでいるはずだ。全力疾走で入店して、びくびくと怯えているなど、尋常ではない。
「ホシノさん、あの、おれ、その」
アリスは扉から目を離さないまま、切れ切れに言った。
「追われてるんです。いや、追われてるっていうのは違うのかな。ついてこられてる、が近いです。三日前からずっとです。ずっと後ろにいるんです。道を変えても、店に入っても、出てきたらまた後ろにいるんです。おれ、なにも悪いことしてないと思うんですけど」
そう言い切ると、彼女は身をかがめ、奥のテーブルの下へ滑り込んだ。もはや彼女にとって第二の自室のようなものである。
私は箒を置き、窓へ寄って通りを確認した。
荷車が一台、通り過ぎていく。買い物袋を提げた女が歩いていく。人相の悪い男もいない。実に平穏な夕方である。
被害妄想ではないか、と私は思った。
学園へ戻ったことで急に人目に触れ、視線の多さにやられただけではないか。半年間、負け犬喫茶の隅で腐っていた人間が、いきなり注目を浴びれば、そういう錯覚も起こるだろう。
「アリスさん、それは思い過ごしというもので──」
言いかけたところで、音も無く扉が開いた。
鈴は、鳴らなかった。
この店の鈴は、扉を五センチも引けば必ず鳴る。半年間、一度の例外もない。鳴らなかったということは、開けた人間が鈴を押さえたということである。
入ってきたのは、黒ずくめの男だった。
背が高い。上背だけなら店長の一・五倍はある。黒い外套の裾が、動きに一拍遅れてついてくる。灰色がかった髪が、片目を隠している。
隠れてない方の目が、私を射すくめる。
その獣のような瞳に凍りつくより先に、私の右手は商品棚へ伸びていた。
バゲットを抜き、青眼に構える。
以前は、暗殺者かもしれない客に対して同じ構えをとり、結果として、その客は公爵令嬢であった。よって今回も、たかだか物々しいだけの一般客である可能性は十分にある。私はそう自分へ言い聞かせた。
言い聞かせながら、私の頭は別の記憶の頁を開いていた。
〇
前世で幾度となく眺めた《まじかる★アカデミー》の説明書である。
攻略対象の頁。物語を彩る人々の頁。その二枚をめくり、さらに後ろ。権利表記やら注意書きやらが小さく並ぶ、誰も読まない裏側に、一つだけ黒い囲みが置かれていた。
囲みの中には、暗殺者のような出で立ちの男が一人。
文章はごくわずかで、罪状も、経緯も、何一つ書かれていない。追われる身。すべてを捨てた男。その手が汚れているかどうかは、あなたが確かめよ。そういった、中身のない煽り文が数行あるきりだった。
弟が画面の前で唸っているあいだ、私は説明書を最後まで舐めるように読んでいたが、覚えているのは相変わらず好物と誕生日ばかりである。ストーリーは一切記憶に残っていない。あとからプレイしようと思っていて、意図的に画面から注意を遠ざけていたのである。
私の記憶に残っているのは、以下の通り。
名は、ヴォルフ。
誕生日、冬。好物、干しぶどう。
悪役のように書かれている人間の頁に、誕生日と好物が載っている。この二つが記載されているということは、祝う時と贈るタイミングが想定されているということである。
つまり彼は、攻略対象だ。
それも、周回を重ねた末にようやく辿り着く類の、最奥に置かれた一人である。
〇
「その武器を、下げてもらえないか」
目の前のヴォルフから、低く耳に心地よい声が発せられた。紛うことなきネームドボイスである。
私はバゲットを下ろして、非礼を詫びた。本物の暗殺者に、パンの剣で勝てるわけがない。
「金髪の娘が、この店に入らなかったか」
視線は私に据えられたまま、店内を見回す様子がない。にもかかわらず、私は自分の背後の壁のシミの数まで数えられているような心地がした。
奥のテーブルの下では、アリスが息を殺している。
私はできる限り穏やかに答えた。
「金髪のお客様でしたら、そう珍しくありません。朝から何人も出入りしています」
ヴォルフはしばらく私を見ていたが、やがて頷いた。
「そうか」
そして、窓際でも奥でもない、店のちょうど中央の席へ腰を下ろした。扉と厨房の両方が見える位置である。座り方に迷いがなかった。
アリスは、ヴォルフのすぐ背中側にいる。
「待たせてもらう」
「あの、当店は、ご注文をいただかないお客様には」
「ここに、干しぶどうはあるか」
注文された。
私は厨房へ下がり、店長へ状況を耳打ちした。店長は覗き見をして戻ってくると、実にいい顔をして言った。
「大きいお客さんねえ。パン、たくさん食べてくれるんじゃない?」
いったい、この店はどんな人が来たら不審者という扱いになるのだろうか。
〇
干しぶどうを添えたコーヒーを運ぶと、ヴォルフは皿の上の一粒をつまみ、口へ運んだ。
噛む。飲み込む。それだけの動作に、妙な艶かしさがあった。
「……甘い、な」
うっとりとした言葉に、私は下がりかけて、足を止めた。よく見れば、この男、頬がうっすら赤い。目の焦点も、こちらへ合っているようで合っていない。
どこかで見た表情だ、と思った。ごく最近、この目を見た覚えがある。
「なあ」
ヴォルフが言った。
「人に、名を尋ねられるというのは、どういう気分のものだろうか」
名を尋ねられる気分について、私は語れるだけの経験を持っていない。
「俺は、三日前から考えている」
低い声のまま、姿勢も崩さず、彼は淡々と続けた。
「その日、俺は仕事の途中だった。事情があって、いまの姿ではなかった。その話はしない。とにかく、俺は道の端で『役割』を演じ続け、独り、空腹と闘っていた。そこへ、あの人が来た」
やはり、随分と裏のありそうな人物である。あの人というのは、アリスのことだろうか。
「あの人は、俺の前でしゃがんだ。目を合わせて、逃げないでね、と言った。それから、鞄から紙袋を出した。紙袋は、ずいぶん長く持ち歩かれていたようだった。角が潰れて、油が滲んでいた」
アリスの紙袋。たしか、その中身は。
「中に入っていたのは、パンだ。干しぶどうの入ったパンだった」
彼の話すトーンも相まって、何とも奇妙な感覚に陥る。一言話すたび、気付いてはいけない真相に近づいているような気味の悪さである。
「甘かった。ひどく甘かった。噛むと、糸を引いた。酒に似た匂いがした。妙に頭の芯が熱くなって、目に映るものが、こう、桃色がかって見えた」
彼は自分の手のひらを見下ろした。
「あの人は、俺が食べているあいだ、その……俺の耳の後ろを掻いていた」
耳の後ろ。どういう状況だ。
「うまいか、と聞かれた。俺は答えられなかった。あの日の俺には、答える口がなかった。だから鼻を鳴らした。あの人は笑った。よかった、と言って、もう一つくれた」
ヴォルフは顔を上げ、まっすぐに私を見た。
「以来、俺はあの人から離れられない。姿を戻して追いかけた。三日、任務を放棄して、寝ずに追いかけた。だが、あの人の名すら聞けていない。俺の名も、伝えられていない。いや……俺は、あの人に新しい名前をもらいたい」
寡黙という印象は、あるにはある。あるのだが、今はひどく喋っている。そして喋り慣れていない。不器用さんである。
声のトーンや姿勢は安定しているのだが、話している内容がとても不安定だ。そして、夢見心地な目。
この状態を私は知っている。ごく最近、共同炊事場で見た。あれは、寝かせすぎたレーズンパンを口にした人間の目だ。
さらに、三日前の出来事を振り返る。
私は、商品棚をちらりと見た。あの日、棚に残っていたのはレーズンパンだった。売れ残る運命が約束された、我が店きっての主力敗残兵。それをアリスへ持たせ、公爵令嬢の口へねじ込めと指示したのは、他ならぬ私である。
あれを渡せなかったのだろう。
渡せないまま、捨てるに忍びず、鞄の中で三日、いや、それ以上か。
やはりあのレーズンパンは置きすぎると別の何かに変質してしまうらしい。
まさかとは思うが、王都を騒がせているあの噂の出どころは──
「そこの店の者! お前たちは完全に包囲されている!」
窓の外から、腹の底に響く声がした。
〇
窓に寄ると、通りに衛兵が並んでいた。十人はくだらない。いずれも手にしているのは弩である。装填された矢が、すべてこちらを向いている。
「人質を解放しろ! 抵抗すれば撃つ!」
人質。何のことか。
この店に、人質はいない。いるのは、給仕と、パンを焼く女と、情緒不安定な大男と、テーブル下に隠れている少女だけである。
最後の一つが、外からどう見えるかを、私はようやく理解した。
三日にわたり、黒ずくめの大男が女生徒を尾けて王都を歩き回っていた。その男が、少女を追って店へ駆け込んだ。少女はテーブル下で震えている。
そこへ、公爵令嬢がマークしていたこの店の名が重なる。
彼女は当初、ここへ偵察に来る前に衛兵に訴えたと言っていた。怪しい飲食店一覧として、店名を連ねたものを提出していたに違いない。まったく律儀なことだ。
つまり「不審人物」と「不審店」というタイトルの書類が二枚、衛兵詰所の机の上で出会ってしまったわけである。
しかも、と私は自分の右手を見た。まだバゲットを持ったままである。
先ほど、私は窓のすぐ内側で、細長いパンを構えて見せた。シルエットだけは立派な武器である。
「アリスさん、ヤバイです」
私は声を落とした。
「そこから絶対に出ないでください」
私の言葉に、ヴォルフが、ゆっくりと顔を上げる。しまった、と思った。
「アリス。良い名だ」
彼の鼻が、小さく動く。匂いを嗅ぎとるような仕草。
「そこに、いるんだな」
彼は立ち上がり、奥のテーブルへ振り返った。
そしてテーブルクロスの陰から、金髪が這い出してくる。
「待って、待ってください、こないで」
アリスは両手を突き出して男を止めた。耳まで赤い。
「あの、そのっ、聞こえてました。全部。すごく、ぜんぶ」
「俺に名を、授けてほしい。奴らから与えられた名ではない、本当の名を」
店の外では衛兵が数を増やし、店の中では恋愛イベントが進行している。頭がどうにかなりそうだ。
やがて、彼女は深く息を吸った。
「ごめんなさい。おれ、あなたに何もできません」
声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「おれ、好きな人がいるんです。ずっと前から、決めてるんです。だから、あなたが三日ずっと思っていてくれたことも、いま言ってくれたことも、ぜんぶ嬉しいけど……これだけは譲れない」
ヴォルフの背は、微動だにしない。
「あと、パンのこと、あやまります。おれ、あれが変になってるって知らなくて。おいしそうに食べてくれたから、嬉しくて、もう一個あげちゃって……ほんとうに、ごめんなさい」
アリスは深く頭を下げた。
それから、顔を上げた彼女の目に、別の光が宿った。
思い出した、という顔である。
『断ったあとは、速やかに店を出てください』
やめろ。今じゃない。実践するな。そう言いたいが、こんな時に過呼吸だ。はぁはぁ。
アリスは鞄を抱え直し、実に見事な一礼を見せた。
「おれ、出ていきますね」
扉の鈴が、盛大に鳴る。
金髪の少女が、両手を挙げて往来へ飛び出していった。
外の誰かが叫ぶ。
「人質が出たぞ!」
〇
この世界の衛兵という職業について、私は一つ学んだ。
彼らは、阿呆である。
窓という窓が、同時に砕けた。
私は床へ伏せた。頭上を何かが幾度も通過し、壁に突き刺さり、商品棚が跳ね、皿が割れ、花瓶が倒れ、パンが踊った。おそろしく時がゆっくりと流れ、どういうわけだか、楽しげな音楽が流れている錯覚があった。
やがて音が止み、埃と粉の匂いが降ってきた。
顔を上げた私が最初に見たのは、無残に崩れた商品棚である。
本日の敗残兵、四つ。
レーズンパンが二つと、クリームパンと、リンゴパン。
すべて、蜂の巣。戦死である。
厨房から這い出してきた店長は、割れた窓と、穴だらけの壁と、粉まみれの床を、ゆっくりと見回した。
「……しばらくは、売上ゼロになりそうね」
「あとは……上がるだけですね」
〇
「やめなさい! やめなさいと言っているでしょう!」
通りから、凛とした声が飛ぶ。
割れた窓の向こうに、栗毛を結い上げた娘が立っていた。外套の裾を跳ね上げ、弩を構えた男たちの前へ回り込んでいる。
「そこに無実の人がいるのよ! この店は先週わたくしが調べたわ! 証言者はこのわたくし、ヴァルトハイム公爵家のロザリンデよ!」
衛兵たちが一斉に姿勢を正すのが、埃越しに見えた。
ロザリンデの後ろには、金髪が一つ、おろおろと立っていた。往来へ飛び出した少女が、真っ先に誰の腕へ飛び込んだのかは、聞かずとも分かる。
結果として、彼女は好きな人に助けを求め、好きな人はそれに応えた。
この店が撃たれ、敗北したおかげである。
〇
さて、店の中央では。
黒ずくめの大男が立っていた場所に、外套だけが落ちていた。
その下から、黒い塊がのそりと這い出してくる。
犬であった。大きく、真っ黒な犬である。口の周りに、干しぶどうの屑をつけている。
犬は割れた窓へ顔を向け、しばらく通りの方を見ていた。金髪の少女が誰かに支えられて歩いていくのを、じっと見ていた。
それから衛兵が二人、割れた窓を跨いで入ってきた。床の黒い外套を拾い、寂しそうに伏せているヴォルフを見て「なんだ、犬か」と言い、出ていった。
私は膝をついたまま、その姿を眺めていた。
初回の告白イベントは、店内で完遂された。振られた者は、確かにこの場へ取り残されている。私が半年前に思い描いた条件は、今度こそ完全に揃っていた。
温かい飲み物を持って近づく相手が、犬でさえなければ。
「ミルク、飲みますか」
「クゥーン……」
〇
というわけで私はいま、割れた窓の下に座り込んで、月明かりを頼りにこの頁を書いている。
膝には黒い頭が乗っている。重い。どかそうとすると低い声で鳴くので、困っている。
上手いまとめが思いつかない。
膝が痺れてきたし、まだ後片付けも残っているので、ここで筆を擱く。