一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
片付けという労働について、常々思うところがある。
畑を耕せば作物が実り、パンを焼けば売り物になる。労働とは本来、投じたものよりいくらか大きな成果が返ってくる営みであるはずだ。
ところが片付けという行為に限っては、どれほど汗を流し、腰を痛め、指先を切ろうとも、辿り着ける最高地点があらかじめ「元通り」で頭打ちになっている。
上を目指す余地のない労働に、いったいどんな夢を見ろというのか。最小限の労力で、最大の報酬を。この大原則に照らすとき、片付けとは構造的に敗北しているといってよい。
などと長々書き連ねたが、要するに面倒くさいのである。
〇
朝、店の扉を開けた。
割れた窓から風が入り込んで床の粉を舞い上げ、横倒しになった商品棚の向こうで、穴だらけの壁が朝日を浴びている。散らばった花瓶の破片が光を反射して、埃を輝かせるさまは、カフェというより、聖なる遺跡である。
その聖域の中央に、男が座っていた。
昨夜、犬になって私の膝を占領していた男である。今は人の姿へ戻っており、穴だらけの外套を膝の上でたたんでいた。
「すべて覚えている」
苦悶の表情を浮かべる彼に朝の光が当たっているものだから、場所が場所だけに物語終盤の懺悔のワンシーンのようである。
「甘いものを食って、頭の芯が熱くなって、それから、俺がどんなバカをしたか……すべて覚えているんだ。頭は鉛のように重いのに」
私はこの症状を知っている。寝かせすぎたレーズンパンを食べた翌朝、先輩がまったく同じ顔をしていた。
つまりこの男は、二日酔いだ。
私は厨房へ引っ込んで湯を沸かした。
「これ、食べますか」
カップを彼の前に置き、その隣へ、厨房から持ち出した壺を据えた。
パンを並べた商品棚が全滅したなか、高所にある乾物棚だけは無事だったのである。干しぶどうの壺が生き延びていた。
座ったまま考え込んでも頭の中は一向に片付かないので、むしろ手を動かした方がよい。幸い、ここにはやれることがたくさんある。労働の対価として、この壺の中身を一粒ずつ支払います。私がそう提案すると、彼はしばらく壺を見つめてから立ち上がった。
この謎多き人は、驚くほど有能な労働力であった。壁に刺さった矢を素手で、角度を変えながらするりと抜き取る。私と店長が二人がかりで運んだテーブルを片手で起こす。
途中で一度だけ手を止めて、この場を何もなかったように整えるか、それとも事故の痕跡として自然に見えるよう整えるか、後者の方が手間はかかるが詰所の人間が後日検分に来た場合に矛盾が出ない、どちらを望むか、などと実に丁寧な確認をよこしてきた。
私は、普通に掃除してくださいと答えた。
この人はいままで、どういう職場で働いてきたのだろうか。
〇
労働が軌道に乗ったところで、私は世間話を装った聞き取りを開始した。
どういう仕事をしていたのかと尋ねると、人を捜す仕事だ、という答えが返ってくる。雇い主はどんな人かと尋ねると、会ったことがないと言う。では依頼はどこから来るのかと重ねれば、上から降りてくるのだと言う。
彼は困った顔をしながらも、それなりに答えていた。答えるつもりがないというより、そもそも彼の側に情報が渡されていないらしい。
それでも何か引き出せないものかと思い、私は最後の質問を投げた。
「あなたの組織は、抜けた人間をどう扱うのですか」
ぽん、と音がした。
破裂音というにはあまりに間の抜けた、栓の抜けるような軽い音だった。白い煙が男のいた高さで膨らみ、それがゆっくり流れて薄れていくと、床には黒い外套が落ちていて、その下から黒い塊がのそりと這い出してきた。犬である。
私は箒を握ったまま硬直した。
昨夜も同じものを見ているとはいえ、あの時は衛兵が窓から矢を撃ち込んでくるという非常事態のさなかであって、正直なところ細部の記憶は曖昧である。こうして朝の光の中で正面から見ると、まったく別種の衝撃があった。
私は距離を取って観察した。黒い犬はきょとんとしたまま動かず、こちらを見ている。
やがて、ぽん、と同じ音がして、煙の中から元のヴォルフが現れた。
彼は外套を拾い、埃を払い、さっさと矢抜きの続きに戻った。
なぜ突然変身したのか。質問しようと思ったが、彼が今起きたことを何事も無かったかのようにしているので、やめた。
〇
しばらくは、粛々と労働が進んだ。
矢を抜き、床を掃き、棚を立て直す。彼が壁の穴の深さを指で測り、私が破片を桶へまとめる。会話も少しずつ増えた。寡黙な男だが、聞けば、なんでも答えてくれる。
二度目のそれは、休憩に入る直前だった。
彼が枠だけになった窓を見上げて、この店はもう長いのかと尋ねてきたので、私は半年ほど働いていることと、その半年で客が増えたのはアリスが居座るようになってからであることを説明した。そのついでに、噂話として耳に入っていた脱法パンの一件へ話が及び、あなたの組織に関りがあったりして、と何気なく尋ねた。
ぽん。
外套が落ちる。
犬は倒れたテーブルの陰へ回り込み、そこから私の様子をうかがっている。何か警戒しているようだった。
私は箒の手を止めて考える。
また、会話の途中で変身した。一度目のヴォルフはきょとんとしていて、今度は警戒。どちらも私が喋っている途中である。私が何かトリガーを引いているのか。
〇
確認するのは簡単だった。
私はテーブルの陰へ向かい「あなたの組織」と声をかけた。
ぽん。ビンゴである。
すでに犬なので見た目に変化はないのだが、音と煙は律儀に出た。犬は自分の体を一度見下ろしてから、じわじわと後退していった。
人型へ戻って忘れたころに、もう一度言った。
「組織」
ぽん。
私は確信した。この男は「組織」というキーワードで犬になる。
なぜそうなるのかは分からない。呪いなのか、薬なのか、そういう血筋なのか、検討する材料が何一つない。しかし、再現性があるのなら、原因などどうでもよい。
私は使えるカードの一つとして、我が手札へ迎え入れた。
〇
その後、私はこの二文字を存分に活用した。
ヴォルフが通りの音に過敏になっている時。アリスの話を聞こうとしてきた時。私が掃除に飽きた時。「組織」と切り出せば、ぽん。彼は静かで可愛い犬になってしまうのである。
なお、繰り返すたびに彼の警戒心は高まっていった。
イチローのように嫌われてしまうのは避けたいので、私は仲良くするための策をひとつ講じることにした。
〇
昼を回り、そろそろ休憩という緊張の糸が緩んだタイミングで、私は計画を実行することにした。
まず、椅子の脇へさりげなく立つ。これまで彼に一番選ばれた退避先である。それからキーワードを口にする。
ぽん、と音がして、煙が晴れるより先に黒い塊が椅子の下へ滑り込んできた。予測通りである。私は先回りして退路を塞ぎ、滑り込むようにして黒い胴へ両腕を回した。
そして、あらかじめ標的と定めていた場所へ指を伸ばす。
耳の後ろ。
彼が昨夜、自ら弱点として告白した、この場所を指でかく。
犬の尻尾がぶんぶんと動き始めた。前足は明らかに硬直して抵抗の姿勢を保っているのに、尻尾だけが嬉しそうに振り乱されている。私は感心しながら、指の角度を微調整する。喉奥から、困ったような小さな悲鳴が聞こえ始めるが、ここでやめるわけにはいかない。
私はホールドを続けたまま、指の腹を根元から先へ、ゆっくりと往復させた。
悲鳴が途切れ、代わりに長い息が漏れる。前足の硬直がほどけ、後ろ足が投げ出され、やがて黒い頭が私の膝へ落ちてきた。
抵抗をやめたというより、体を預けにきたというような重さだ。
私はここで、自分の目的が入れ替わっていることに気づいていた。
当初は情報を引き出すための手段だったはずである。彼や組織のことを聞き出し、いずれ桃色ルートへ至るための役に立てる。そういう筋書きだったのに、いまの私は肝心のそれをきれいさっぱり忘れて、ただ黒い犬の耳の後ろを揉んでいる。
ぽん、と音がして、膝上の重みが人のものへと変わる。彼は私の膝へ頭を預けたまま天井を見上げていた。姿勢としては相当に間の抜けた図であるが、本人はそれどころではないらしい。顔を赤くさせていた。
「勘弁してくれ……」
これほど情けなく困っている男を、私は初めて見た。
16歳少女の膝に頭を乗せ、息を荒げる成人男性。なかなかの絵面だ。
幸いなのが、この世界が全年齢版であることだった。犬から人に戻ったとき、しっかり服を着ているのである。
この状況は四つ足でいるより恥ずかしいのではないかと、追い打ちをかけてもよかったが、流石にライン超えと判断し、非礼を詫びることにした。
「失礼しました。ではもう、あなたの組織の話はしないことに」
ぽん。うっかりしていた。
私の膝の上には、まだ黒い頭が乗っていたので、せっかくだし戻るまで撫で続けることにした。