一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
昼過ぎ。聖なる廃墟だった店内は、普通の廃墟くらいに落ち着いていた。
私は残骸の詰まった桶を抱えて、裏の路地へ出た。
途中、向かいの壁に人が集まっていた。まだ糊の乾ききっていない貼り紙が端を風に煽られている。お尋ね者と書かれているのが見えた。手配書である。
似顔絵。特徴の記載。罪状。賞金額。そして絵の下に、大きな字で名前が刷られていた。
ヴォルフ。
絵はあまり似ていなかった。片目を隠した髪の描き方だけが妙に正確で、それ以外は文字通り、絵に描いたような悪人面というやつだ。彼は決してこんな表情を見せない。
私は野次馬の後ろから手配書を一枚剥がして、店へ戻った。
〇
紙をテーブルへ置くと、彼はぽつぽつと話し始めた。
三日前、任務の途中で命令を放棄したこと。理由は、この手記の前の頁に書いた通りである。耐え難い空腹のさなか、任務として「役割」を演じていた彼の前に一人の少女がしゃがみ込み、紙袋からパンを出した。ただそれだけのことで、彼は三日間、寝ずにその後をついて歩いた。
裏切った人間を、組織はわざわざ追わないのだという。もっと良い方法があるからだ。
組織が抱えている厄介事をいくつか、裏切った人間の首にのせて、当局へ差し出す。追手を出す費用もかからず、始末は国がつけてくれる。紙に刷られている罪状は、そうして擦りつけられたものだ。
私は手配書を眺めながら、因果を確認していた。
彼が任務を放棄した原因はパンであり、そのパンを渡したのはアリスであり、そしてアリスへその紙袋を持たせ、公爵令嬢の口へねじ込めと指示したのは、ほかならぬ私である。
これは、私が悪いのか?
私は、もののついでに売れ残りのパンを与えただけである。それが裏世界の工作員に組織を裏切らせ、王都じゅうに手配書を貼らせ、最後は私の職場を蜂の巣にした。
最小限の羽ばたきが、最大級の旋風を巻き起こした。つまり、バタフライエフェクトである。
世界の反対側で起こった旋風について、蝶が責任を問われるいわれはない。
「どうかしたのか」
「……私は悪くないです」
「? 知っている」
あまりの後味の悪さに、私は干しぶどうの壺を彼の前へ押しやった。
「こんなに貰えない」
「よく働いていただいたので……あなたへ、ボーナスです」
〇
ところで、この手配書によってひとつ問題が浮上していた。
名前が呼べないのである。
うちの店は往来に面しており、しかも現在、窓という窓が枠だけになっている。この状態で「ヴォルフ」と口にするのは、通りへ向かって号令をかけるようなものである。せっかく掃除したのに、また聖なる廃墟に戻されるのは避けたい。
したがって、別の呼び名が要る。
私は床に落ちたままの黒い外套を眺めた。あちらの姿になった時の毛並みも、同様に黒色である。
黒色から想起する音はひとつしかない。
クロ、と彼に向かって呼んでみた。
彼は壁際で瓦礫をまとめていた手を止めなかった。自分が呼ばれたと思っていないのである。私が近づいて、もう一度その名を口にすると、ようやく振り返った。
彼はテーブルの脇まで来ると、そこに立ったまま、しばらく黙っていた。そういう性質なのだろうが、表情からなにも窺い知れない。
私は怒らせてしまったのかと思い、訂正の言葉を探し始めた。さすがに安直すぎたかもしれない。相手は仮にも、説明書の最後の頁に載っていた特別枠の男である。
「この名は、奴らが勝手に付けたものだ」
彼は、テーブルの上の紙を見ていた。
「もう必要のないものだ。さっさと足を洗いたいと思っていた」
それから、少しだけ顔を上げた。
「命名はアリスに求めていたが……お前の付けた名前は悪くない。クロか……ふふ、気に入った」
彼は、いま自分が受け取ったものを、明らかに私より高く見積もっていた。
この勘違いを訂正する機会は、確かにあった。賞金首の名を通りに聞かせるわけにいかないので符牒を用意しただけです、と言えばよかったのである。
しかし、言わなかった。
私は長らく、モブ扱いを受けてきた人間である。名を呼ばれないという状態がどういうものか、他人よりいくらか詳しい。
〇
夕方、店長が見積もりから戻ってきた。
書付を小脇に抱えたまま、店内をぐるりと見回す。棚は縦に立ち、矢は抜かれ、床の破片も片付いている。その隅では、ヴォルフ──もとい、クロが瓦礫を積み上げていた。
店長の視線が、私の前掛けで止まった。折りたたんだ紙の端が、少しだけ覗いていたらしい。
わたしが隠すよりも早く、二本の指でそれを引き抜いた。手配書を広げ、似顔絵を眺め、それから顔を上げて、店の隅の男を見る。
そして、実にいい顔で笑った。
「危ない男っていいわよねえ」
紙は私の前掛けへ戻された。詰問も、説教もない。
私は何か言い返そうとして、口を開いたまま考え込んだ。
思い出したのは、半年前の面接である。あの日、どの店へ行っても、まず両親の所在や年や学校など、根掘り葉掘り聞かれた。
この人だけが、何も聞いてこなかったのである。
〇
「窓と壁と棚。ぜんぶ直すのに、三週間か四週間ってところね。ついでにリフォームもしちゃうわ」
店長はテーブルへ書付を広げた。
その間、この店は営業できない。営業できない店に給仕は必要なく、つまり、私に賃金は発生しない。売れ残りという食料供給も、同時に断たれることになる。
私が書付の数字を眺めて静かに絶望していると、店長はポケットから一枚の紙を取り出した。
王立魔法学園、学園祭。それの招待券。
「しばらく休みなさい、ホシノ」
私は顔を上げた。
半年ものあいだ、この人は私を「ねえ」と「あなた」の二語で運用してきた。名前があると何度も申告し、そのたびに聞き流されてきた。もはや制度上、この店に私の名前は存在しないものと諦めていたのである。
しっかり、呼べるではないか。
そう言おうとしたのだが、うまく言葉にならなかった。喉のあたりに妙な熱があって、それを押し戻すのに苦労した。
その間に店長は箒を持ち、鼻歌を歌いながら厨房へ戻ってしまった。
「あ、それと。その券、二人分のペアとして使えるから」
振り返りもせずに、店長は付け加えた。
「誰か誘っていきなさい」
〇
というわけで、私は現在、招待券を一枚と、検討事項を一つ抱えている。
誰を誘うか。
交友関係の乏しい私には、候補はそう多くない。
名無しの魔女か、薬草ちんちくりんか、あとは──。
横目でクロを覗き見ると、実に勤勉に作業を続けている。
学園の一大イベント。私と秘密を共有する人。失恋したばかりのネームド。色々あったが、いつの間にか手札が揃っている。
桃色ルートの機が熟したと捉えてよいのではないだろうか。