一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
ホシノは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の魔女を除かなければならぬと決意した。ホシノには恋愛がわからぬ。ホシノは、負け犬の店の給仕である。負け犬パンを運び、負け犬と戯れて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
ついでに言えば、走ることもわからぬ。生まれてこのかた、私が全力で走ったことなど数えるほどしかない。省エネ精神を掲げ、最小限の労力で最大の報酬をと唱えてきた女が、今まさに、報酬の当てもないまま石畳を蹴っている。肺が焼け、脇腹が悲鳴を上げ、髪は乱れ、前掛けの紐がほどけかけている。
右手に握られているのは、パンである。
ずしりと重く、甘酸っぱく、握った指のあいだから怪しげな粘りが糸を引いている。この一つが、王都を騒がせ、我が職場を蜂の巣に変え、そしていま、連れを奪っていった元凶であった。
あの人が何をしようと、私は驚かない。他人の幸福へ難癖をつけて回るのも、人の恋路を解体して悦に入るのも、もはや隣人としての日常である。
だが、私の犬に手を出したのは話が別だ。
どうしてこうなったのかを、順を追って記す。震えたように字が汚いのは、走りながら書いているからではなく、怒りのためである。
〇
朝の門前には、人の列ができていた。
王立魔法学園、学園祭。半年前に私を弾き出した白亜の学び舎が、この日ばかりは外の人間へ門を開く。招待券を掲げた者たちが、期待に浮かれた顔で坂を上っていく。
私はその列の中ほどに立っていた。左手に招待券が一枚。右手には、太い革紐が一本。紐の先には、黒い犬がいる。
「本当に大丈夫なの、これ」
隣で、イチローが小声で言った。前髪をいつもより丁寧に留めていて、服も見たことのないものを着ている。気合が入っているのは明らかだったが、指摘すると機嫌が悪くなるので黙っておいた。
「何がです」
「その大きな犬。連れて入れるわけないでしょ」
「たしかに券は二人分まで有効です。ホシノとイチローさんで、ちょうど二人。しかし、犬は犬なので、カウント外となるわけです」
「はあ? 意味わからないんだけど」
彼女が言い終わる前に、列が進んだ。
門番は、券を受けとり、私たちの顔を見比べ、それから足元へ視線を落とした。
黒い犬は、実に堂々と座っていた。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見て、微動だにしない。よくしつけられた犬である。
「なんだ、犬か」
門番はそう言って、券に判を押した。
私は無言で紐を引き、門をくぐった。以前、この台詞を吐いた男たちは、割れた窓を跨いで入ってきて、床の外套を拾い、同じ結論に達して出ていった。この世界の警備という職業について、私はもう何も期待していない。
「あ、そうだ。君たち」
門番が呼び止めた。
「その券は失くさないように持っててくれよ。今年は偽物が出回っているらしくてね。中で抜き打ちの提示を求めることがあるんだ。持ってない奴は、その場で叩き出される」
私は券を前掛けの内側へ丁重にしまって、会場を進んだ。
〇
この時点で、私は失敗していた。
当初はイチローには恩を売るだけの計画だった。余った入場枠を譲り、学園の中を好きに歩かせてやり、大いに感謝させ、私への印象を改めてもらう。そのうえで、頃合いを見て彼女とは別行動へ移り、私はクロと二人きりで学園祭を回る。
つまり、クロとの桃色ルートを開拓するつもりであった。
ところが門番の一言によって、券は私の前掛けの中でイチローを縛り付けるものへと変質した。私から離れた瞬間、イチローは不法侵入者になる。彼女はそれを正確に理解し、以後、私の斜め後ろの位置を頑として動かなくなってしまった。
何度か隙をついて撒こうとしたが、すさまじい執念で追いつかれるのである。
「どこいくの。なんで一人にするの」
〇
学園の中は、私が想像していたよりずっと騒がしかった。
石畳の広場には出店が並び、噴水の周りでは楽団が演奏をしている。校舎の窓という窓から垂れ幕が下がり、廊下には案内の紙が貼られ、制服の生徒たちが呼び込みをしている。半年前、門の外から音楽だけを聴いていたあの日が遠い。
クロは私の左を、一定の歩幅で歩いていた。人混みでも動じず、進路も乱さない。散歩というより、護衛である。時折こちらを見上げてくるので、そのたびに首の後ろを掻いてやった。尻尾が振られる。実に良い。
このまま二人で回れたら、どれほど良かったか。
「ねえ」
右後ろから声がした。
「あの張り紙、薬学棟の公開ってやつ。あれ、行ってみようよ」
「はあ、時間があれば」
「時間、あるでしょ。朝からずっと空いてるじゃない」
彼女は私の返事を待たず、案内の紙の前に張り付いて、順路と時刻を読み上げ始めた。指が紙をなぞるたびに、こちらの予定が一つずつ埋まっていく。
この娘が今日ここへ来た理由を、私は知っている。大家さんから全てを聞いた。ここは尊敬する姉の職場であり、彼女が落第した場所。落ちた者が門をくぐる機会など、年に一度きりだ。
だから連れてきてやったのだが、ここまで精力的に動かれると困る。
〇
昼が近づいたころ、私たちは中庭の隅に腰を下ろした。
私は店長が持たせてくれたパンを広げた。
その横でイチローは鞄から、布に包んだ細長い瓶を取り出した。少しだけ、独特の臭いが放たれる。まだ栓は抜かれていない。嫌な予感がした。
彼女は栓を抜き、中身を一息にあおった。
私は、自分が風下にいることに気づいた。
最初に来たのは酸っぱさである。次に、焦げた革のような何かが遅れて到着し、最後に、その二つを凌駕する、名状しがたい青臭さが割り込んできた。私の鼻腔は三段階に分けてダメージを負った。
私は口元を押さえ、その場でひっくり返った。クロはいつの間にか、風上に移動している。すばらしい危機管理能力。
「イチローさん。それは、なんですか。こんなところで自害ですか」
「これは毒じゃなくて栄養剤。昼ごはんの代わりよ。作ってきたの。コスパ最強なんだから」
「安ければ何を飲んでもいいというものではありません。ここは学園です。祭りです。お昼時の中庭は、人が集まって楽しく食事する場です。あなたのやっていることは、テロ行為」
「言いすぎよ」
「この温厚なホシノが世界で二番目に許せないのは、晴れた日の中庭で、風上に陣取った女が革靴のジュースを飲むことです」
「まだたくさんあるから、欲しくなったら言ってね。安くしとくから」
イチローは瓶に栓をし、布へ包み直して鞄へ戻す。少なくとも10本は在庫があるように見えた。
「ちゃんと栄養あるのよ。眠気も飛ぶし」
「二度とホシノの前に見せないでください」
彼女は何か言い返そうとしたが、やめた。その代わり、私のパンを一つ勝手に取って、睨みながら大きな口で噛みついた。
〇
午後になると、人の流れが一方向へ変わり始めた。
どうやら学園祭には、目玉となる行事があるらしい。午後三時、中央広場にて、学園の厨房が焼いた各種のパンが来場者へ配られる。恒例のものだそうで、これを目当てに来る者も少なくないという。
案内の紙にはご丁寧に、無料と書いてあった。
我々の足は、意志を挟む余地もなく広場へ向かっていた。
〇
三時前の広場は、すでに人で埋まっていた。
長机がいくつも並べられ、白い布がかけられ、その上に籠が積み上げられている。籠にかぶせられた布の下から、焼き立ての匂いが立ち上っていた。給仕として半年を過ごした私の鼻が、種類を数え始める。クリームパン、ブドウパン、チーズを練り込んだもの、シナモンをまぶしたもの。色々ある。
列に並びながら、私は算段を続けていた。
この人混みは好機である。混雑の中で自然にはぐれる分には、申し分ない。薬学棟の公開は三時半からだと、あの娘は繰り返し口にしていた。パンを受け取ったあと、彼女がそちらへ気を取られた隙に、私はクロと人波へ紛れればよい。
恩は既に売った。門をくぐらせた時点で、取引は成立している。
そっとクロに作戦の耳打ちをしようとすると、しきりに鼻を鳴らしていることに気づいた。顔を上げ、宙の一点を嗅いでいる。耳が伏せられ、体重が後ろへ移っている。
朝から時折こうしていた。噴水の脇でも、校舎の陰でも。そのたびに私は、パンの匂いだろうと片付けていた。実際、この学園は今日、どこもかしこもパンの匂いがする。
そうこうしている内に、いよいよ前方で歓声が上がる。布が取り払われ、籠が開かれ、列が動き始めた。
〇
パンを抱えて人波から抜け出したところで、私は右手の違和感に気づいた。
軽いのである。
握っていたはずの革紐が、指のあいだから消えていた。
私は膝をつき、周囲の足元へ視線を走らせた。人の脚と、脚と、脚。籠を抱えた腕。落ちたパンを拾う手。黒いものは何一つ見当たらない。立ち上がって背伸びをしても、見えるのは頭ばかりである。
名を呼んだ。二度、三度。喧騒に飲まれて、自分の声が自分の耳にも届かないほどだ。
最後に彼を見たのは、いつだ。いったい、どこではぐれた。
〇
それから、ひたすら人に尋ねて回っていた。
黒い犬を見なかったか。大きくて、黒くて、賢そうな犬です。
噴水のところで見た、と誰かが言った。校舎の方へ歩いていった、と別の誰かが言った。いや、逆だ、時計塔の方だ、と言う者もいた。証言は散らばり、互いに矛盾し、私は広場と校舎のあいだを何度も往復した。
隣ではイチローが、同じ質問を別の人間へぶつけていた。彼女は背が低く、声が通らないので、まず相手の袖を引くところから始めなければならない。それを何十回も繰り返していた。
「大切な犬なんでしょ」
彼女が気にしていた三時半は、とうに過ぎていた。
〇
時計塔の裏手で、私はその男に行き当たった。
石壁にもたれ、腕を組み、空を見上げている。銀髪が午後の光を跳ね返していた。
第二王子ヴィクトールである。
半年前、うちの店で盛大に振られ、耳まで赤くして出ていった男だ。以来、私の心の片隅で負け犬の象徴として屹立していた。
「こんにちは。負け犬……じゃなかった、黒い犬を探しております」
声をかけると、彼はこちらを見た。焦点が合うまでに、わずかな間があった。
「負け犬」
「違います。大きな黒い犬です。三時ごろから姿が見えず」
「ああ、それなら」
彼はゆっくりと頷いた。
「見たとも。連れられていたよ」
「連れられ? 誰にですか」
「黒い服の女だ。上から下まで黒かった。犬も黒かったから、ずいぶん揃った一組だと思ったのをよく覚えている。向こうに行ったよ」
全身黒ずくめの女。そんな怪しい人物を、私は一人だけ知っている。
しかし、と私は考える。あの人は、誘っていない。過去の事件を考えれば、招待券を入手できるとも考えられない。仮装している生徒も多いし、黒ずくめという服装ならそう珍しくもない。
私は礼を述べ、時計塔の方向を確かめて、踵を返した。
「待ってくれ」
背中に声がかけられる。
「君の名を、聞いてもいいだろうか」
振り返ると、ヴィクトールが石壁から背を離し、まっすぐにこちらを見ていた。
「その給仕の服……以前、どこかで会っている気がする」
彼は一歩、距離を詰めた。
「君を見ていると、胸のあたりが温かくなる。理由はわからない。だが、この気持ちを黙っているのは誠実ではないと思った」
風が吹いた。
時計塔の影が伸び、午後の光が斜めに差し込み、銀髪が揺れた。周囲の喧騒が、遠くなった気がした。
来た。
ついに、来たのである。
半年間、私はこの瞬間を待っていた。落とし物のハンカチを届けた者にだけ許される、あの静寂と、あの光。名もなき給仕が、正しく認識される瞬間。
相手はスーパーネームド、第二王子。文武両道で国内最上級の優良物件。ここまでの労力、走り回ること約一時間、消費した体力は決して小さくないが、報酬がこれならば釣りが来る。省エネ精神は決して、報酬の大きい局面での労働を否定しない。
私は口角を上げた。営業用ではない、心からの笑みである。
「ホシノと申します!」
「ホシノ……」
彼は私の名を、噛み締めるように繰り返す。
──その肩越しに、私は見た。
時計塔の向こう、広場へ続く道で、見知らぬ男女が抱き合っていた。その隣では、生徒が三人ほど、輪になって手を取り合い、くるくると回っていた。さらに向こうでは、教師らしき人物が、通りすがりの生徒を片端から抱きしめようとして、逃げられていた。
広場の方角から、ひどく楽しげな笑い声と、わずかな悲鳴が聞こえてくる。
いったい、いま何が起きているのか。
「あの~、すみません」
振り向くと、大柄な女性が立っていた。
彼女の腰のあたりに、小柄な男子生徒がしがみついていた。両腕を回し、頬を押し当て、完全に体重を預けている。女性が一歩動くと、コアラになっている男も一緒にずるずると動いた。
「連れが、こうなってしまって」
大柄な女性は困り果てた顔で言った。
「さっき、パンを配ってる人がいたんです。列とは別のところで、こう、配って回ってる人が。それをこの人が貰って、食べて、そうしたら、この通りで」
「配っていた人の、格好は」
「黒ずくめの女でしたね。上下真っ黒です」
女性は、空いている方の手で鞄を探り、一つの包みを引っ張り出した。
「アタシの分も貰ったんですけど、その、こんなことになったので。持ってても仕方ないんで、どこかへ届けようと思ってたんですが」
差し出されたそれを、私は受け取った。
油紙が内側から滲んでいる。
包みを開くと、現れたのは、レーズンパンだった。
正確には、レーズンパンだったものだ。表面は艶を通り越して湿り、指が触れた場所から粘りが糸を引いた。
そして、匂い。
甘い。甘酸っぱい。奥の方に、酒精めいたものが混じっている。
王都を騒がせ、公爵令嬢を歩かせ、暗殺者に任務を放棄させ、私の職場を蜂の巣に変えた、あれである。
先輩が桃色パンと称したもの。
世間では脱法パンと噂されたもの。
黒い服の女が、犬を連れて歩いていた。
黒い服の女が、パンを配って歩いていた。
いくつもの線が、一本に繋がった。
あの人は今日、ここで、いつもの破壊的な活動をしている。恋を解体し、他人の幸福へ難癖をつけ、この学園を桃色に沈めるために来ている。
その毒牙に、私のクロが巻き込まれたのだ。
クロが朝から鼻を鳴らしていた理由も、いま分かった。あれは普通のパンの匂いを嗅いでいたのではない。アリスに与えられた桃色パンと同じ匂いを嗅ぎ取っていたのだ。
「ホシノ嬢」
背後で、ヴィクトールが何か言っている。知的だとか、奥ゆかしいだとか、そういった単語が並んでいる。
聞いていられなかった。
私は包みを握りしめ、走り出した。
〇
私は激怒していた。あらゆる凶事の元凶が明らかとなり、あまつさえ私のクロまで巻き込んでいるのだ。
石畳を蹴る。前掛けが脚に絡み、髪が視界を塞ぎ、抱えていたパンの籠が腕から滑り落ちて、無料の戦利品が石畳へ散らばった。拾っている暇はない。
時計塔の影を抜け、桃色に沈んだ広場を突っ切って、私は坂を駆け上がる。
その背中に、凛とした声が突き刺さった。
「お待ちなさい! そこの、怪しげなパンを持った給仕!」
不屈のロザリンデだ。面倒くさいことになった。