一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか   作:ホシノ記研究委員会

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14.桃色パニック(前)

 ホシノは激怒した。

 

 必ず、かの邪智暴虐の魔女を除かなければならぬと決意した。ホシノには恋愛がわからぬ。ホシノは、負け犬の店の給仕である。負け犬パンを運び、負け犬と戯れて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

 

 ついでに言えば、走ることもわからぬ。生まれてこのかた、私が全力で走ったことなど数えるほどしかない。省エネ精神を掲げ、最小限の労力で最大の報酬をと唱えてきた女が、今まさに、報酬の当てもないまま石畳を蹴っている。肺が焼け、脇腹が悲鳴を上げ、髪は乱れ、前掛けの紐がほどけかけている。

 

 右手に握られているのは、パンである。

 

 ずしりと重く、甘酸っぱく、握った指のあいだから怪しげな粘りが糸を引いている。この一つが、王都を騒がせ、我が職場を蜂の巣に変え、そしていま、連れを奪っていった元凶であった。

 

 あの人が何をしようと、私は驚かない。他人の幸福へ難癖をつけて回るのも、人の恋路を解体して悦に入るのも、もはや隣人としての日常である。

 

 だが、私の犬に手を出したのは話が別だ。

 

 どうしてこうなったのかを、順を追って記す。震えたように字が汚いのは、走りながら書いているからではなく、怒りのためである。

 

 〇

 

 朝の門前には、人の列ができていた。

 

 王立魔法学園、学園祭。半年前に私を弾き出した白亜の学び舎が、この日ばかりは外の人間へ門を開く。招待券を掲げた者たちが、期待に浮かれた顔で坂を上っていく。

 

 私はその列の中ほどに立っていた。左手に招待券が一枚。右手には、太い革紐が一本。紐の先には、黒い犬がいる。

 

「本当に大丈夫なの、これ」

 

 隣で、イチローが小声で言った。前髪をいつもより丁寧に留めていて、服も見たことのないものを着ている。気合が入っているのは明らかだったが、指摘すると機嫌が悪くなるので黙っておいた。

 

「何がです」

 

「その大きな犬。連れて入れるわけないでしょ」

 

「たしかに券は二人分まで有効です。ホシノとイチローさんで、ちょうど二人。しかし、犬は犬なので、カウント外となるわけです」

 

「はあ? 意味わからないんだけど」

 

 彼女が言い終わる前に、列が進んだ。

 

 門番は、券を受けとり、私たちの顔を見比べ、それから足元へ視線を落とした。

 

 黒い犬は、実に堂々と座っていた。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見て、微動だにしない。よくしつけられた犬である。

 

「なんだ、犬か」

 

 門番はそう言って、券に判を押した。

 

 私は無言で紐を引き、門をくぐった。以前、この台詞を吐いた男たちは、割れた窓を跨いで入ってきて、床の外套を拾い、同じ結論に達して出ていった。この世界の警備という職業について、私はもう何も期待していない。

 

「あ、そうだ。君たち」

 

 門番が呼び止めた。

 

「その券は失くさないように持っててくれよ。今年は偽物が出回っているらしくてね。中で抜き打ちの提示を求めることがあるんだ。持ってない奴は、その場で叩き出される」

 

 私は券を前掛けの内側へ丁重にしまって、会場を進んだ。

 

 〇

 

 この時点で、私は失敗していた。

 

 当初はイチローには恩を売るだけの計画だった。余った入場枠を譲り、学園の中を好きに歩かせてやり、大いに感謝させ、私への印象を改めてもらう。そのうえで、頃合いを見て彼女とは別行動へ移り、私はクロと二人きりで学園祭を回る。

 

 つまり、クロとの桃色ルートを開拓するつもりであった。

 

 ところが門番の一言によって、券は私の前掛けの中でイチローを縛り付けるものへと変質した。私から離れた瞬間、イチローは不法侵入者になる。彼女はそれを正確に理解し、以後、私の斜め後ろの位置を頑として動かなくなってしまった。

 

 何度か隙をついて撒こうとしたが、すさまじい執念で追いつかれるのである。

 

「どこいくの。なんで一人にするの」

 

 〇

 

 学園の中は、私が想像していたよりずっと騒がしかった。

 

 石畳の広場には出店が並び、噴水の周りでは楽団が演奏をしている。校舎の窓という窓から垂れ幕が下がり、廊下には案内の紙が貼られ、制服の生徒たちが呼び込みをしている。半年前、門の外から音楽だけを聴いていたあの日が遠い。

 

 クロは私の左を、一定の歩幅で歩いていた。人混みでも動じず、進路も乱さない。散歩というより、護衛である。時折こちらを見上げてくるので、そのたびに首の後ろを掻いてやった。尻尾が振られる。実に良い。

 

 このまま二人で回れたら、どれほど良かったか。

 

「ねえ」

 

 右後ろから声がした。

 

「あの張り紙、薬学棟の公開ってやつ。あれ、行ってみようよ」

 

「はあ、時間があれば」

 

「時間、あるでしょ。朝からずっと空いてるじゃない」

 

 彼女は私の返事を待たず、案内の紙の前に張り付いて、順路と時刻を読み上げ始めた。指が紙をなぞるたびに、こちらの予定が一つずつ埋まっていく。

 

 この娘が今日ここへ来た理由を、私は知っている。大家さんから全てを聞いた。ここは尊敬する姉の職場であり、彼女が落第した場所。落ちた者が門をくぐる機会など、年に一度きりだ。

 

 だから連れてきてやったのだが、ここまで精力的に動かれると困る。

 

 〇

 

 昼が近づいたころ、私たちは中庭の隅に腰を下ろした。

 

 私は店長が持たせてくれたパンを広げた。

 

 その横でイチローは鞄から、布に包んだ細長い瓶を取り出した。少しだけ、独特の臭いが放たれる。まだ栓は抜かれていない。嫌な予感がした。

 

 彼女は栓を抜き、中身を一息にあおった。

 

 私は、自分が風下にいることに気づいた。

 

 最初に来たのは酸っぱさである。次に、焦げた革のような何かが遅れて到着し、最後に、その二つを凌駕する、名状しがたい青臭さが割り込んできた。私の鼻腔は三段階に分けてダメージを負った。

 

 私は口元を押さえ、その場でひっくり返った。クロはいつの間にか、風上に移動している。すばらしい危機管理能力。

 

「イチローさん。それは、なんですか。こんなところで自害ですか」

 

「これは毒じゃなくて栄養剤。昼ごはんの代わりよ。作ってきたの。コスパ最強なんだから」

 

「安ければ何を飲んでもいいというものではありません。ここは学園です。祭りです。お昼時の中庭は、人が集まって楽しく食事する場です。あなたのやっていることは、テロ行為」

 

「言いすぎよ」

 

「この温厚なホシノが世界で二番目に許せないのは、晴れた日の中庭で、風上に陣取った女が革靴のジュースを飲むことです」

 

「まだたくさんあるから、欲しくなったら言ってね。安くしとくから」

 

 イチローは瓶に栓をし、布へ包み直して鞄へ戻す。少なくとも10本は在庫があるように見えた。

 

「ちゃんと栄養あるのよ。眠気も飛ぶし」

 

「二度とホシノの前に見せないでください」

 

 彼女は何か言い返そうとしたが、やめた。その代わり、私のパンを一つ勝手に取って、睨みながら大きな口で噛みついた。

 

 〇

 

 午後になると、人の流れが一方向へ変わり始めた。

 

 どうやら学園祭には、目玉となる行事があるらしい。午後三時、中央広場にて、学園の厨房が焼いた各種のパンが来場者へ配られる。恒例のものだそうで、これを目当てに来る者も少なくないという。

 

 案内の紙にはご丁寧に、無料と書いてあった。

 

 我々の足は、意志を挟む余地もなく広場へ向かっていた。

 

 〇

 

 三時前の広場は、すでに人で埋まっていた。

 

 長机がいくつも並べられ、白い布がかけられ、その上に籠が積み上げられている。籠にかぶせられた布の下から、焼き立ての匂いが立ち上っていた。給仕として半年を過ごした私の鼻が、種類を数え始める。クリームパン、ブドウパン、チーズを練り込んだもの、シナモンをまぶしたもの。色々ある。

 

 列に並びながら、私は算段を続けていた。

 

 この人混みは好機である。混雑の中で自然にはぐれる分には、申し分ない。薬学棟の公開は三時半からだと、あの娘は繰り返し口にしていた。パンを受け取ったあと、彼女がそちらへ気を取られた隙に、私はクロと人波へ紛れればよい。

 

 恩は既に売った。門をくぐらせた時点で、取引は成立している。

 

 そっとクロに作戦の耳打ちをしようとすると、しきりに鼻を鳴らしていることに気づいた。顔を上げ、宙の一点を嗅いでいる。耳が伏せられ、体重が後ろへ移っている。

 

 朝から時折こうしていた。噴水の脇でも、校舎の陰でも。そのたびに私は、パンの匂いだろうと片付けていた。実際、この学園は今日、どこもかしこもパンの匂いがする。

 

 そうこうしている内に、いよいよ前方で歓声が上がる。布が取り払われ、籠が開かれ、列が動き始めた。

 

 〇

 

 パンを抱えて人波から抜け出したところで、私は右手の違和感に気づいた。

 

 軽いのである。

 

 握っていたはずの革紐が、指のあいだから消えていた。

 

 私は膝をつき、周囲の足元へ視線を走らせた。人の脚と、脚と、脚。籠を抱えた腕。落ちたパンを拾う手。黒いものは何一つ見当たらない。立ち上がって背伸びをしても、見えるのは頭ばかりである。

 

 名を呼んだ。二度、三度。喧騒に飲まれて、自分の声が自分の耳にも届かないほどだ。

 

 最後に彼を見たのは、いつだ。いったい、どこではぐれた。

 

 〇

 

 それから、ひたすら人に尋ねて回っていた。

 

 黒い犬を見なかったか。大きくて、黒くて、賢そうな犬です。

 

 噴水のところで見た、と誰かが言った。校舎の方へ歩いていった、と別の誰かが言った。いや、逆だ、時計塔の方だ、と言う者もいた。証言は散らばり、互いに矛盾し、私は広場と校舎のあいだを何度も往復した。

 

 隣ではイチローが、同じ質問を別の人間へぶつけていた。彼女は背が低く、声が通らないので、まず相手の袖を引くところから始めなければならない。それを何十回も繰り返していた。

 

「大切な犬なんでしょ」

 

 彼女が気にしていた三時半は、とうに過ぎていた。

 

 〇

 

 時計塔の裏手で、私はその男に行き当たった。

 

 石壁にもたれ、腕を組み、空を見上げている。銀髪が午後の光を跳ね返していた。

 

 第二王子ヴィクトールである。

 

 半年前、うちの店で盛大に振られ、耳まで赤くして出ていった男だ。以来、私の心の片隅で負け犬の象徴として屹立していた。

 

「こんにちは。負け犬……じゃなかった、黒い犬を探しております」

 

 声をかけると、彼はこちらを見た。焦点が合うまでに、わずかな間があった。

 

「負け犬」

 

「違います。大きな黒い犬です。三時ごろから姿が見えず」

 

「ああ、それなら」

 

 彼はゆっくりと頷いた。

 

「見たとも。連れられていたよ」

 

「連れられ? 誰にですか」

 

「黒い服の女だ。上から下まで黒かった。犬も黒かったから、ずいぶん揃った一組だと思ったのをよく覚えている。向こうに行ったよ」

 

 全身黒ずくめの女。そんな怪しい人物を、私は一人だけ知っている。

 

 しかし、と私は考える。あの人は、誘っていない。過去の事件を考えれば、招待券を入手できるとも考えられない。仮装している生徒も多いし、黒ずくめという服装ならそう珍しくもない。

 

 私は礼を述べ、時計塔の方向を確かめて、踵を返した。

 

「待ってくれ」

 

 背中に声がかけられる。

 

「君の名を、聞いてもいいだろうか」

 

 振り返ると、ヴィクトールが石壁から背を離し、まっすぐにこちらを見ていた。

 

「その給仕の服……以前、どこかで会っている気がする」

 

 彼は一歩、距離を詰めた。

 

「君を見ていると、胸のあたりが温かくなる。理由はわからない。だが、この気持ちを黙っているのは誠実ではないと思った」

 

 風が吹いた。

 

 時計塔の影が伸び、午後の光が斜めに差し込み、銀髪が揺れた。周囲の喧騒が、遠くなった気がした。

 

 来た。

 

 ついに、来たのである。

 

 半年間、私はこの瞬間を待っていた。落とし物のハンカチを届けた者にだけ許される、あの静寂と、あの光。名もなき給仕が、正しく認識される瞬間。

 

 相手はスーパーネームド、第二王子。文武両道で国内最上級の優良物件。ここまでの労力、走り回ること約一時間、消費した体力は決して小さくないが、報酬がこれならば釣りが来る。省エネ精神は決して、報酬の大きい局面での労働を否定しない。

 

 私は口角を上げた。営業用ではない、心からの笑みである。

 

「ホシノと申します!」

 

「ホシノ……」

 

 彼は私の名を、噛み締めるように繰り返す。

 

 ──その肩越しに、私は見た。

 

 時計塔の向こう、広場へ続く道で、見知らぬ男女が抱き合っていた。その隣では、生徒が三人ほど、輪になって手を取り合い、くるくると回っていた。さらに向こうでは、教師らしき人物が、通りすがりの生徒を片端から抱きしめようとして、逃げられていた。

 

 広場の方角から、ひどく楽しげな笑い声と、わずかな悲鳴が聞こえてくる。

 

 いったい、いま何が起きているのか。

 

「あの~、すみません」

 

 振り向くと、大柄な女性が立っていた。

 

 彼女の腰のあたりに、小柄な男子生徒がしがみついていた。両腕を回し、頬を押し当て、完全に体重を預けている。女性が一歩動くと、コアラになっている男も一緒にずるずると動いた。

 

「連れが、こうなってしまって」

 

 大柄な女性は困り果てた顔で言った。

 

「さっき、パンを配ってる人がいたんです。列とは別のところで、こう、配って回ってる人が。それをこの人が貰って、食べて、そうしたら、この通りで」

 

「配っていた人の、格好は」

 

「黒ずくめの女でしたね。上下真っ黒です」

 

 女性は、空いている方の手で鞄を探り、一つの包みを引っ張り出した。

 

「アタシの分も貰ったんですけど、その、こんなことになったので。持ってても仕方ないんで、どこかへ届けようと思ってたんですが」

 

 差し出されたそれを、私は受け取った。

 

 油紙が内側から滲んでいる。

 

 包みを開くと、現れたのは、レーズンパンだった。

 

 正確には、レーズンパンだったものだ。表面は艶を通り越して湿り、指が触れた場所から粘りが糸を引いた。

 

 そして、匂い。

 

 甘い。甘酸っぱい。奥の方に、酒精めいたものが混じっている。

 

 王都を騒がせ、公爵令嬢を歩かせ、暗殺者に任務を放棄させ、私の職場を蜂の巣に変えた、あれである。

 

 先輩が桃色パンと称したもの。

 世間では脱法パンと噂されたもの。

 

 黒い服の女が、犬を連れて歩いていた。

 黒い服の女が、パンを配って歩いていた。

 

 いくつもの線が、一本に繋がった。

 

 あの人は今日、ここで、いつもの破壊的な活動をしている。恋を解体し、他人の幸福へ難癖をつけ、この学園を桃色に沈めるために来ている。

 

 その毒牙に、私のクロが巻き込まれたのだ。

 

 クロが朝から鼻を鳴らしていた理由も、いま分かった。あれは普通のパンの匂いを嗅いでいたのではない。アリスに与えられた桃色パンと同じ匂いを嗅ぎ取っていたのだ。

 

「ホシノ嬢」

 

 背後で、ヴィクトールが何か言っている。知的だとか、奥ゆかしいだとか、そういった単語が並んでいる。

 

 聞いていられなかった。

 

 私は包みを握りしめ、走り出した。

 

 〇

 

 私は激怒していた。あらゆる凶事の元凶が明らかとなり、あまつさえ私のクロまで巻き込んでいるのだ。

 

 石畳を蹴る。前掛けが脚に絡み、髪が視界を塞ぎ、抱えていたパンの籠が腕から滑り落ちて、無料の戦利品が石畳へ散らばった。拾っている暇はない。

 

 時計塔の影を抜け、桃色に沈んだ広場を突っ切って、私は坂を駆け上がる。

 

 その背中に、凛とした声が突き刺さった。

 

「お待ちなさい! そこの、怪しげなパンを持った給仕!」

 

 不屈のロザリンデだ。面倒くさいことになった。

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