一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
いま私が世話になっている下宿は、カフェから歩いて二十分ほど。大通りを二つ外れた場所に建つ、古びた二階建てである。
私の部屋は上階の突き当たりにあって、内装はベッドと机と箪笥が一つずつ。机があるのに椅子が無いのは、ベッドがその役割を果たすからである。
我が四畳半を宇宙とするならば、ベッドは太陽である。それを中心として生活用品が惑星のように幾たびも場所を変え軌道を変えて回っている。汚いと言う勿れ。いずれもベッドから手を伸ばすだけでアクセス可能である以上、実用性に特化し成長し続ける柔軟なシステムと言えよう。
炊事場と洗い場は共同。風呂は近所の浴場。壁は薄く、隣人が夜中に咳をすれば、その後の経過まで見守ることができる。孤独死とは最も縁遠い密室というわけだ。
ところで、私の隣室には魔女が住んでいる。
初めて彼女と出会ったのは、この宿へ移り住んだ日のことだった。
荷物を抱えて階段を上りきったところで、全身を黒い服で包んだ女が、音もなく隣室から現れた。
黒い上着に、黒いスカート。手にしている本の表紙まで黒かった。その圧倒的な存在感に「ネームドキャラか?」と身構えたが、いくら記憶を辿っても《まじかる★アカデミー》に、これほど怪しげな人物は出てこない。
女は私を一瞥するなり、すれ違いざまに呟いた。
「君は――何周目だい?」
その場で凍りつく私を残して「ふふ、まだ初いようだね」と階段の下へ消えていった。
この女、私と同じ転生者なのか。
あるいは、私の知らないところでこの世界は何度も滅び、そのたびに最初からやり直しているのか。
それとも、ゲームの隠し要素で周回を重ねた末に真実へ到達し、主人公へ助言を与える謎の女か。
何らかの手違いでこの世界へ迷い込んだ私を、排除しに来た次元の管理者かもしれない。
いずれにせよ、隣人としては好ましくない。
その晩、私は椅子を扉の前へ置いて、何かあった時に大声が出せるよう、食堂にあったハチミツを部屋に持ち込み、舐め続けた。
扉を破られた場合に窓から脱出する経路まで確認した。上階なので、三点着地法のイメージトレーニングも欠かせなかった。
当たり前のことだが、翌朝は共同炊事場で彼女と顔を合わせることになった。
同じ下宿に住んでいるのだから、逃げ続けるにも限界がある。
私は包丁の位置を確かめながら、意を決して尋ねた。
「昨日の、何周目という質問ですが……」
「ああ」
彼女は鍋の中の粥をかき混ぜていた。
「春が巡るたびに同じ門を叩き、同じ坂を失意とともに下る。終わりの見えない、不毛な円環の話だよ。僕は今年で三周目になる」
「……もしかして、浪人生活の年数ですか?」
「ほかに何があるんだい」
なんとややこしい人なのだろう。
「君は?」
「一周目です」
ここまでが半年前のことである。
〇
その日の仕事を終えて店を出るころにも、雨はまだ降り続いていた。
私は店長から借りた古い傘を差し、売れ残りのパンを抱えて宿まで歩いた。
玄関の脇には、見知らぬ若い男女が身を寄せ合っていた。
傘は一本しかないらしく、二人の肩はぴったりと触れている。
女が何かを囁き、男が笑う。
こんなに忌々しい雨さえも、色恋の肴にしてしまうのだから、恋とはげに恐ろしき酩酊かな。
白目を剥き、一句詠むことで平常心を保ったまま通り過ぎることに成功する。
玄関に入り、濡れた靴を脱いでいると、黒い影が階段から下りてきた。
魔女先輩である。
先輩は玄関先の二人を一目見ると、穏やかに声をかけた。
「雨はまだ長引くそうだよ。よければ、中で温かいものでも飲んでいくかい?」
私は驚いて振り返った。
先輩が他人へ親切にしている。しかも幸せそうなカップルを相手に。
いったい何のつもりだろうか。
若い二人は礼を言い、先輩に招かれるまま共同炊事場へ入っていった。
私も部屋へ戻るのをやめ、その後を追った。
炊事場の小さなテーブルを囲み、先輩と二人の男女が座っている。
私は少し離れた場所で、濡れた外套を椅子へかけた。
「お帰り、ホシノ。ひどい雨だろう」
「ええ。傘があまり役に立ちませんでした」
「ちょうどいいところだ。君にも見届けてもらおう」
何をとは聞かず、私は頷いて着席した。
先輩は戸棚から、縁の欠けたカップを四つ取り出した。
「お二人は、恋人同士なのかな」
湯を沸かしながら、世間話のように尋ねる。
男女は顔を見合わせた。
「はい。といっても、付き合い始めたのは三日前なんですけどね」
「なるほど、たった三日。されど三日。三という数字は興味深いよ君。三日坊主という言葉を知っているかい。人は新しいものに飛びついた時、たいていの場合は三日で飽きてしまうものだ。三日天下なんて言葉もある。どうかな。そろそろお互いの現実が見えてきた頃なんじゃないか?」
宣戦布告とも取れる不吉な言葉を連発する先輩に対して、二人は揃って笑った。どうやら冗談として受けとられたらしい。
ちなみに三日続けば、三ヶ月続く、三ヶ月続けば三年続くという考え方もある。
「この人はいつもこうなんですか?」
女が私へ尋ねてくる。
「はい。いつも通り元気ですよ」
実のところ、普段は物静かだが、幸せそうにしている人を見ると元気になるのである。先輩の前でそれを説明するのは手に余るので簡略化した。
先輩は薄い紅茶をカップへ注ぎ、私の抱えていた紙袋へ目を向けた。
「ホシノ君、それは?」
「本日の敗残兵です」
紙袋の中から、しなびたパンを三つ取り出す。
レーズンパンと、クリームパンと、リンゴパン。
「では、戦列へ復帰させよう」
先輩は私の返事を待たず、三つのパンを皿へ並べた。
私の夕食が、何やら戦を始めようとしている先輩の手駒へと徴用されてしまう。
「温かいものの代金代わりに、簡単な質問へ答えてもらおう。恋人とは、互いを深く理解し合う関係……で、合ってるかな?」
「まあ、そうですね」
男が頷く。
「よろしい。では君、彼女がこの中から一つ選ぶとしたら、どれか当てられるね?」
男は三つのパンを見比べ、迷わずリンゴパンを指した。
「これだと思います」
「当たりよ!」
女が嬉しそうに笑った。
「昨日、パン屋で選んでいただろう?」
「覚えてたのね」
先輩の眉が、ごくわずかに動いた。
付き合って三日のわりに、きちんと相手を見ている。これは強敵ではないだろうか。
「では、次は君だ。彼が選ぶものは?」
女はしばらく皿を眺めた。
やがて、困ったように男を見る。
「……分かりません。この人がパンを食べているところ、まだ見たことがなくて」
「ふふふ、なるほど?」
先輩は待っていましたとばかりに頷いた。
「片方は相手を見ているのに、片方は見ていない。お互いを理解すると言うには、ずいぶんな一方通行じゃないか?」
「昨日、初めて一緒にパン屋へ行ったんです」
男が口を挟んだ。
「そのとき僕は何も買わなかったので、知らなくて当然なんですよ」
「知る機会があったのに怠った、とも言える。本当に相手に興味があるのなら、同じタイミングで好みを共有したいとは思わないものかな?」
とんでもない暴論だ、と笑いそうになったが、カップルは真剣な表情のまま先輩の言葉を受け止めていた。
なるほど「もっと熱くなれよ」と言われて否定すれば、自分たちの関係に自ら冷水を浴びせる事になってしまう。
付き合って三日という、熱冷めやらぬ関係だからこそ通じる妙手。北風と太陽作戦といったところか。さすがは数多のカップルを相手取ってきた漆黒の魔女。
女は少し考えてから、男へ尋ねた。
「じゃあ今聞くけど、どれが好きなの?」
「この中なら、クリームパンかな」
「分かった。覚えておくわ」
「……今聞いたところで、答えられなかったという事実は揺るがないよ」
「ええ。でもおかげで彼の好物を一つ知ることができました。大きな収穫ですわ」
女は嬉しそうに答えた。
「では今度、パン屋へ行ったら一つずつ買おうか」
「楽しみが増えたわ」
二人に笑顔が戻る。熱いものに熱を加えれば更に熱くなるのは道理。北風と太陽というより、火に油だった。
「では、もう一つ」
先輩は食い下がる。
「彼女のどこが好きなんだい?」
真正面からきた。今日の先輩は、なんだか猛々しい。
「好きなところは一つだけではないですが……優しいところですかね」
「もし誰にでも優しいのなら、君は彼女の好意を信用できなくなるね? 逆に君にだけ優しいのなら、人として尊敬できなくなるだろう。さて、どちらかな」
これまた暴論だが、もはや私の興味は不毛な戦いの行く末ではなく、燃え盛る恋の炎がどう色を変えるかのみ。さあどう切り返す。
男はしばらく真剣に悩んだあと、隣の女を見た。
「誰にでも優しいですよ。でも、僕にだけは、たまに遠慮がなくなりますね」
「……遠慮、というと?」
「大きな口でパンを齧ったり、おへそを出して大の字で昼寝したり……たった三日の付き合いですが、僕の前ではもう格好をつけなくてもいいと思ってくれているなら、嬉しいです」
先輩は脱力して、大きなため息を漏らした。大敗である。
「お姉さん、恋愛相談の先生みたいですね」
「逆だ。僕は解体専門なんだ」
二人はまた笑った。
共通の敵は二人の結束を強める。
先輩は敵として姿を見せるべきではなかった。そこが今回の最大の敗因だろう。
やがて、窓を叩く雨音が少し弱くなった。
青年が外を確かめ、女へ声をかける。
「そろそろ行こうか。家まで送るよ」
「君の家は、彼女と同じ方角なのかい?」
先輩が尋ねた。
「いえ、反対です。傘が一つしかないので、彼女を送ってから戻ります」
「すると往復で、余計に歩くことになる」
「それくらいは」
先輩は傘立てから黒い傘を一本抜き、女へ差し出した。
「これを使いたまえ」
「でも、お借りしていいんですか?」
「二人で一本を使えば、二人が少しずつ濡れる。一人一本なら、どちらも濡れない。二人で不幸を分け合うばかりが、愛情ではないはずだ」
もっともらしいことを言っている。
目的が相合傘の阻止という事を除けば、私も感心していたかもしれない。
いや、知っていても少し感心していた。先輩にも恋人が居たことがあるのだろうか。
「ありがとうございます」
玄関でそれぞれが傘を開く。
二人は空いた方の手を繋ぎ、傘の縁をぶつけ合いながら並んで歩き始めた。
「くれぐれも壊さないでくれよ」
「明日、二人で返しに来ますね!」
二人は嬉しそうに頭を下げ、大粒になった雨の中へ消えていく。
先輩が音を立てて扉を閉めた。
「負けましたね」
私が言うと、先輩は席に戻りながら答えた。
「僕がその気になれば、五分後に爆発する傘を貸すこともできた」
意外と負け惜しみでもないのが、この魔女の恐ろしいところである。
先輩は何事もなかったように席へ戻り、皿の上のパンを見比べた。
「さて、敗残兵の配属を決めようか」
指先は迷うことなくレーズンパンへ伸びる。
「先輩は、いつもレーズンパンで飽きませんか」
「おや。パンの好みを聞きたがるということは、君は僕の恋人になりたいのかい?」
ずいぶんと調子の外れた答えが返ってきた。
「パンの好み一つで、そこまで話を進めないでください」
「しかし君は、僕がいつもレーズンパンを選ぶと知っていた。つまり日頃から僕をよく見ているわけだ」
「というか、私もレーズンパンを食べたい」
「これはあげないよ」
先輩はレーズンパンを手にしたまま、妙に機嫌よく笑っている。
もともと変人ではあるが、今日はいつになく変人だった。かかり気味というべきか。
よく見ると、頬がうっすら紅潮している。
「……先輩。少し顔が赤くありませんか」
「君に熱っぽい目で見つめられているからかな」
「発熱を疑っている目です……いや」
私は先輩の手にあるパンを指した。
「ところで、そのレーズンパン。足が早いのですぐ食べるようにと、店長に強く言われているわけですが」
「ふふふ。このレーズンパンは、少し寝かせると特別な味わいが出るんだ」
先輩は今しがた選んだものを脇へ置くと、黒い上着の内側から油紙の包みを取り出した。
中に入っていたのは、やはりレーズンパンだった。
ただのレーズンパンではない。
ただならぬオーラを発するレーズンパンである。
「それはいったい、いつのパンですか……」
「これくらいが食べ頃なのさ。ほら、香りにも深みがある」
先輩がパンを二つに割る。
その断面から、怪しげなとろみが糸を引いた。
甘酸っぱい匂いの奥に、酒精めいたものまで混じっている。
しかも、よく見ればパンの端がすでに半分ほど欠けていた。
「……先輩。これを、もう食べましたね?」
「素晴らしい味わいだよ。色で例えるなら、桃色だ。桃のような味ではなく、桃色の味。君の手記にも出てくるだろう、桃色という言葉が」
私は先輩が次の一口へ進む前に、桃色レーズンパンを取り上げた。
「返したまえ。僕とそれは、三日どころではない付き合いなんだ」
「なおさら別れてください」
どうにも様子がおかしいと思った。
忌々しい雨すら恋の肴としたカップルと、それを酒の肴としていた魔女。桃色とはげに恐ろしき酩酊かな。
魔法を使えるわけでもなく、転生を経験したわけでもなく、学園の生徒でもない。
ただ黒い服を着て、他人の幸福へ難癖をつけ、古いレーズンパンに恋する浪人三回生。
以上が愛すべき隣人、名無しの魔女の仔細である。
なお、学園祭襲撃事件、収穫祭南瓜連続爆発事件などの首謀者でもあるが、長くなるので省く。