一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
アリスが入り浸るようになってから、《カフェ・ルザール》の客足はわずかに好転していた。理由は単純で、あの少女が窓際の席で本を開いていると、通りから見た店の絵面が急激にまともになるからだ。空席ばかりの店内も、主人公が一人いれば「隠れ家めいた静かな店」という体裁が整う。
招き猫ないしはマネキンといった具合である。店長が「アリスと仲良くしろ」と言っていたのはこういう事かと納得した。
ともあれ客が増えれば、会話も増える。会話が増えれば、給仕の耳にはあらゆる噂が入ってくる。運ぶ皿の数だけ、私の中に他人の事情が蓄積されていく。誰が誰と婚約しただの、どこそこの商会が傾いただの、私の人生に一切関係のない情報ばかりだ。
その中で、ここ数日やたらと耳につく単語があった。
「──それで、その脱法パンってのは、どこで売ってるんだ?」
昼下がりの二人組が、身を寄せ合って話している。
「堂々と売ってるわけないだろ。裏で回ってんだよ」
「……ほう。食うとどうなる?」
「一口で天にも昇る心地になるらしい。景色が桃色に見えるとか」
「そりゃあいいな」
「よくない。ある男は食ったその場で、三十年連れ添った女房に愛を囁いたそうだ」
「それは……ちょっと恐ろしいか」
深刻な顔で頷き合う二人へ、私は無言でおかわりのコーヒーを注いだ。
脱法パン。
実に間抜けな語感である。パンとは本来、健やかなる朝の象徴であり、勤勉なる庶民の主食であり、そして私にとって給料の一部だ。そこへ「脱法」などという物騒な冠を載せるとは、いったいどこの誰の仕業か。
しかも噂は日を追うごとに膨らんでいる。
食べると幸福な気分になるパン。食べると本音を漏らすパン。食べると恋に落ちるパン。ある客は、王都の地下に脱法パンの工房があり、そこでは目を潰された職人たちが夜通し生地を捏ねていると語っていた。
「ホシノさん」
顔を上げると、アリスがいつもの席から身を乗り出していた。また口の端にクリームを付けている。
「脱法パンって、ここには置いてないんですよね」
「置いていたら、この店はもう少し繁盛しています」
「あはっ、たしかに」
失礼なアリスは、残念そうに椅子へ沈んだ。
その様子を、カウンターの中から店長が見ていた。腕を組み、深く考え込む顔である。この店長がこの顔をするとき、私の労働環境は必ず悪化する。
「ねえ、ちょっと」
「はいホシノです」
「うちでも作れないかしら、脱法パン」
「さすがに勘弁してください」
⚪︎
噂が冗談で済まなくなったのは、その週の終わりだった。
夕方に差しかかり、客が引きはじめた時刻。店の扉の鈴が、かすかな音を奏でた。
入ってきたのは、外套のフードを目深にかぶった女だった。
身なりを隠しているつもりらしいが、隠しきれていない。まず姿勢が良すぎる。次に、外套の下から覗く革のブーツが、この界隈で半年間ただの一度も見たことのない品である。極めつけに、後ろ手に扉を閉める際、音をほとんど立てなかった。
明らかに庶民の仕草ではない。
私を殺しにきた暗殺者か、あるいは、例の脱法パンを売り歩く暗殺者かもしれない。私は震え上がった。
女はしばらく店内を見回したあと、早足でまっすぐこちらへ歩いてきた。私はとっさに商品棚に手を伸ばす。
バゲットを青眼に構える私に首を傾げたあと、女はフードを外した。
結い上げた栗毛色の髪が、夕方の光を吸い込んだ。切れ長の紫の瞳が、値踏みするように私を捉える。
この顔を、私は知っていた。
説明書の、攻略対象のページではない。その次の頁。「物語を彩る人々」という控えめな見出しの下に、ただ一人だけ大きく描かれていた女。
ロザリンデ・ヴァルトハイム公爵令嬢。
アリスのライバル。つまり、まじかる★アカデミーの悪役令嬢である。
「少し、尋ねたいことがあるのだけれど。その『武器』を下げてもらえるかしら、パンの騎士さま」
凛とした声だった。ネームドの圧がひしひしと伝わってくる。私はバゲットを鞘もとい棚に収めて非礼を詫びた。
「単刀直入に質問するわ。この店で──脱法パンを扱っていると聞いたのだけれど、本当かしら」
「当店で扱っておりますのは、いたって普通のパンと、飲み物でござる」
「証明できて?」
「では厨房をご覧になりますか」
私が言い終わるより早く、カウンターの奥から、店長が飛び出してきた。
「うちの窯を見たいって?」
どこから聞いていたのか。というより、最初から聞いていたのだろう。満面の笑みでロザリンデを招き入れた。
⚪︎
結論から言えば、家宅捜索は空振りに終わった。
店長は上機嫌で厨房を隅々まで開帳し、粉の袋を開き、酵母の壺の蓋を取り、さらには焼きたてのロールパンを試食させた。ロザリンデは一つ一つを真剣な目で検分し、パンを一口かじり、しばらく黙ってから「……美味しいわ」と言った。
入店時の刺客のような気勢はすでに失せ、もはやただの客である。
「ねえお嬢さん」
いやな笑みを湛えた店長が身を乗り出す。
「脱法パンって、どうやったら作れるのかしら」
「こら、店長」
「だって気になるじゃない。うちでも出せたら、行列よ」
「ブラックが過ぎますよ」
公爵令嬢の眼前で堂々と密造を検討する暗黒雇用主を、私は全体重をかけて厨房へ押し戻した。
⚪︎
テーブル席に着いたロザリンデは、背筋を伸ばしたまま深く息を吐いた。
その所作を見て、私はようやく思い出す。
給仕という仕事は、運んだ皿の数だけ他人の事情が溜まっていく商売である。その膨大な澱の底に、確かに沈んでいた噂があった。
──第二王子ヴィクトール殿下に想いを告げ、丁重に断られた公爵令嬢がいるらしい。
私は静かに姿勢を正す。
当店《カフェ・ルザール》は、負け犬の名を掲げる店である。ゆえに私は独自の入店資格を設けている。
モブであること。または、人生において盛大に敗れた経験を有すること。
目の前の女性は、王国最高峰の家柄を持ちながら、想い人に袖にされた実績を有する。
これはもはや、最上級資格保持者と言ってよい。
「カフェ・ルザールへようこそ、ロザリンデ様!」
「……なぜ、いま改めて言ったのかしら?」
私はこの店で最も日当たりの良く、座り心地の良い椅子へ彼女を案内した。ロザリンデは不審そうな顔のまま、それでも礼を言って腰を下ろした。
⚪︎
「あなたは、何か知らないの? この店が疑われるような心当たりとか」
運んだコーヒーに口をつけ、ロザリンデが尋ねてくる。
「いいえ、ホシノの知る限り、こういう噂を面白がって流しそうな人間に、心当たりは──」
本当にないと言えるだろうか。
私は目を閉じて、真面目に検討することにした。噂には必ず最初のひとり──すなわち、発生源がある。そして、虚偽の噂を流す者には、流すだけの理由が必ずある。
まず、誰が得をするのか。
ライバル店……これは無い。飲食を扱うなら、同じだけ火の粉を被りかねない。客だって困るだろう。まともなパンの流通まで悪化しかねない。
脱法パンの話を聞く限り、猛毒などといった人体に直接的な悪影響を与える内容ではない。食べると陽気になるなんて、むしろ平和的ですらある。
つまりこれは、金銭を目的とした噂ではない。他人が慌てふためく様を眺めて楽しむ、愉快犯の仕業である。
──他人の幸福へ難癖をつけて回る、黒ずくめの女の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
しかし、あり得ない。
あの人は、私の持ち帰る売れ残りで日々の飢えをしのぐ身である。私の勤め先の評判が落ちれば、真っ先に細るのは己が食卓なのだ。変人ではあるが、損得の勘定に関しては私と同程度に正確な人物である。
よって、私は魔女先輩を容疑者から除外した。
「心当たりは、ないです」
「そう……」
ロザリンデは、感情がそのまま顔に出るタイプのようだ。眉が正直に下がっている。
「そもそも、脱法パンなんて本当に実在するんですか?」
「学園の生徒が三人、脱法パンを口にして盛大にハメを……いえ、なんというか……倒れたらしいの。三人とも関与を認めていないから、公にはなっていないわ。けれど、噂通りの症状が出ていたから、脱法パンは確実に存在すると言えるわ」
語気が強まる。
「衛兵に届けたけれど、証拠も無いし噂話の域を出ないと言われたわ。父に相談したら、今は学業に集中しろなんて言って取り合ってもらえなかった。……集中できるわけないじゃない。だからこうして歩いてまわってるの」
「歩いてまわってるって、パン屋をですか?」
「パン屋だけじゃなく、飲食店を片っ端からね。ここで十一軒目よ」
私は思わず、彼女の足元を見た。艶やかな革のブーツは、よく見ると少し汚れている。
「馬車は使わないのですか」
「ダメよ、目立つもの」
王都の商店区を、公爵令嬢が徒歩で十一軒。尋常なことではない。
私であれば一軒目で、めぼしい情報が無ければ「機、熟さず」と判断し、帰って寝る。
ロザリンデは聡明そうに見えるが、何故そこまで非効率な調査をしているのだろうか。
「その、どうしてそんなに頑張っているのですか」
「どうしてって、治安が悪いと困るでしょう。ここはうちの領地ではないけれど、公爵家の娘として見過ごせないわ。犯人を見つけ次第、断罪して……その店は絶対に潰してやるんだから!」
なるほど、この悪役令嬢。要領が悪いのではなく、致命的に執念深いのだ。
「さて、十二軒目に行くわ」
ロザリンデが代金を置いて立ち上がる。
「よくお疲れになりませんね」
「疲れているわ。当たり前でしょう」
彼女はこともなげに言って、フードをかぶった。
「でも疲れることと、諦めることは別の話なの」
彼女は静かに扉を引いた。夕方の風が、店内へ流れ込む。
「ごきげんよう、ホシノさん」
鈴の音を残して、扉が閉まる。
ふと、窓際の席が空いていることに気づいた。
先ほどまで、そこには本を開いたまま船を漕ぐ少女がいたはずである。
視線を落とす。
テーブルの下に、見慣れた金髪が、へちゃむくれていた。
「……もう、行きましたか」
「アリスさんは、なんで隠れてるんですかね。やっぱり、ロザリンデ様が苦手なんですか?」
「苦手というか、むしろ逆で……その、恥ずかしくって……」
テーブルの下から這い出してきたアリスは、耳まで真っ赤にしてそう言った。
苦手の逆、とは。つまり。
「アリスさんは、もしかして、ロザリンデ様のことを……?」
「……えへへ」