一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
とある偉人は言った。
"人はパンのみにて生くるにあらず"
まったくもってその通り。人には肉が必要だ。
この半年、私の食生活は売れ残りのパンによって支えられてきた。レーズン、クリーム、リンゴ、ときどきチーズ。焼き上がりの時点では確かに立派な商品だったものたちが、日が暮れるころにはくたびれた敗残兵となり、しまいには我が胃袋という墓所へ運ばれていく。
栄養の偏りについては考えないことにしていた。考えたところで、改善するための予算がないからだ。
その日、宿の玄関をくぐった私の鼻が、異変を捉えた。
脂の焼ける匂いである。
私の足は、意志を挟む余地もなく共同炊事場へ向かっていた。
「おや、お帰り」
黒ずくめの女が、七輪の前にしゃがみ込んでいた。
網の上では、厚みのある肉が数枚、香ばしい音を立てて反り返っている。
「先輩。それは肉ですか。いったい誰の肉を使っているんですか!」
「失敬な。僕が買ってきた肉だよ」
この人はよく、家賃の支払いを先延ばしにしている。大家に向かって「金ばかりが全てではない」と説き、困らせていたのは、つい先月のことだったか。
「臨時収入があってね」
「臨時……仕送りですか?」
先輩の実家が太いらしいという噂を聞いたことがあるが、定かではない。ときおり見せる優雅な振る舞いや、極貧っぽい生活を見ていると、本当に何も分からない。謎が多い人なのだ。
「ふふふ、ご想像にお任せするよ」
詮索すべきだろうか。私は三秒ほど検討した。
この妙な羽振りの良さはすごく気になる。しかし真実を知ることばかりが最善とは限らない。機嫌を損ねた先輩が、肉をすべて片付けてしまう可能性の方が、いまは恐ろしい。
省エネ精神は「最小限の労力で、最大の報酬を」を大原則とする。ここで疑念を口にすることは、労力を支払って報酬を遠ざける行為に他ならない。
よって私は、この件をいったん頭の外へ追いやることにした。
「先輩は、これを一人で食べるおつもりか」
「まさか。君の分もあるとも」
私は先輩の隣へ正座した。
「ただし、相応のチップを頂こう」
ぎょっとして先輩の顔を仰ぎ見る。
「案ずるな、盟友から金をせびろうなんて思わないよ」
先輩は網の上の一枚を、菜箸でひっくり返した。
「話をしたまえ。面白ければ肉を渡す。つまらなければ、君はここで匂いを嗅いでいるだけだ」
〇
私はまず、脱法パンの話題を提供した。
王都を騒がせる怪しげなパン。倒れた学生。泥くさく立ち回る公爵令嬢。話題性という一点において、これに勝るものはないはずだった。
「もっと別の話はないのかい」
意外である。他人の醜聞を三度の飯より好む人だと思っていたのだが。もしかしたら、すでに耳に入っていたのかもしれない。
やむを得ず、私は二つ目のチップを提示した。
「では、恋の話などいかがですか」
菜箸の動きが、わずかに止まる。
網の上の肉が、じゅう、と鳴いた。
〇
私は、ここ数日で判明した事実を順に述べた。
第二王子ヴィクトールは主人公アリスに告白し、断られたこと。
公爵令嬢ロザリンデもまた、ヴィクトールに想いを告げ、断られていること。
そして先日、テーブルの下から這い出してきたアリスが、耳まで赤くしてロザリンデの名を口にしたこと。
「これはいい!」
先輩は膝を叩いたあと、串を三本取り出した。
「それぞれ、アリス・ロザリンデ・ヴィクトールだ」
テーブルの上に串の三角形が組まれる。
「ヴィクトールはアリスを想い、アリスはロザリンデを想い、ロザリンデはヴィクトールを想っている」
串の先が、順に隣を指した。
「見たまえ。誰一人として、想いが返ってこない。三人が三人とも、自分を見ていない背中を眺めているわけだ」
「ジャンケンみたいですね」
先輩は、うっとりと三角形を見下ろした。
「勝者のいないジャンケンだ。この堂々巡りから負のエネルギーを抽出することができれば、エネルギー問題を一挙に解決できるかもしれないな」
肉が一枚、私の皿へ移された。気に入ってくれたらしい。
〇
肉は、驚くほど旨かった。半年ぶりの脂が舌の上で溶け、五臓六腑がうなりをあげる。もっとよこせと真っ赤に燃える。
「先輩。ホシノは、この三角形を利用しようと思い付きました。名付けて、恋のトリクルダウン」
「聞かせてくれ」
額の汗をそのままに、私は饒舌になっていく。
「アリスさんは主人公です。すなわち、恋愛イベントの発生装置ということ。彼女が動けば周囲のネームドキャラも動き、動いた先には必ず余剰が生まれる」
「余剰とは?」
「振られ、惑い、行き場をなくした感情。それらは上流に留まりきれず、やがて下流へと滴り落ちる」
私は箸を自分の口にあてた。
「下流では、ホシノが口を開けて待っています」
「つまり、他人に恋をさせて、こぼれたものを頂くと」
先輩は機嫌が良さそうに肉を裏返す。
「君は、自分から恋を探すという選択肢はないのかい」
「待っている方が楽なので」
肉がもう一枚、私の皿に落とされた。
〇
問題は現在、そのキーパーソンたるアリスが完全に機能停止していることである。
彼女は毎日カフェ・ルザールで居眠りするだけの時間を過ごしている。学園という主戦場を放棄し、負け犬の店で余生を過ごす、ただのへちゃむくれである。
恋愛装置としての稼働率が、限りなくゼロに近い。
「原作でいうところの、お休みコマンドの連打です。一日を消費して何も起こさない。それを二ヵ月も続けている」
「なんだか僕の耳まで痛くなる話だが」
「いまは浪人のことは切り離して考えてください。へちゃむくれアリスの動かし方を考えてみました──」
まずはアリスを学園生活へ復帰させること。授業に出て、行事に参加し、ネームドキャラたちと関わらせる。
主人公が動けば、必ず誰かが言い寄り、イベントが発生する。それが乙女ゲーム世界の摂理である。
そして、密会の場としてカフェ・ルザールを提案させる。
アリスは告白を断る。すでに想い人がいるのだから当然だ。
やがて振られた者が一人、店内に取り残される。
そこへ、温かい飲み物を持った素敵な給仕が近づいていく。
「──かんぺきです」
「しかし君、いちど失敗しているじゃないか」
もちろん、この反論は想定内である。
「あの日の敗因は、既に分析済みです」
ヴィクトールとアリスの告白は、そもそも理想的な条件を備えていた。
密室。雨。傷心の攻略対象。そして偶然居合わせた名もなき給仕。すべて揃っていたのである。
にもかかわらず、私は何ひとつ得られなかった。
「それはイレギュラーがあったからです」
「アリス君か」
「そう。あのへちゃむくれは告白を断っておきながら、雨宿りと称して居座り続けた。振った側が動かないので、振られた側が出ていく羽目になった」
いま思い出しても腹が立つ。
「順序が逆なのです。本来なら、振った側が気まずくなって席を立ち、振られた側がその場に取り残される。追いかけるわけにもいかず、しばらく放心する。そこが唯一にして最大の勝機なのです」
「ということは、彼女に仕込む必要があるな」
先輩の口の端が、ゆっくりと上がった。
「事前に打ち合わせておきます。断ったあとは速やかに退店するように、と。雨が降っていようが槍が降っていようが、彼女には絶対に外へ出ていただく」
「アリス君にとっては、何の得もない話だね」
「とんでもない。彼女の学園生活は充実し、日々に張りが生まれます。どんなに言い寄られても『これはホシノさんの為なんだ』と、告白を断る大義名分さえ得られる。ホシノはアリスさんの人生を豊かにします」
これは善行である。むしろ感謝されてよい。
「君の言う、桃色サイクルというやつか」
「登校は邂逅を促し、邂逅は告白を、告白は破局を、破局はいずれ桃色ルートを生みだす。ようやく回り始めそうです」
当初の想定とは少し違うが、我が桃色サイクルは柔軟さがウリである。最後に桃色ルートが入れば、すべて桃色サイクルとなる。
「僕の見立てを言おう」
網の上の脂が、炭に落ちて煙を上げた。
「実のところ、君が桃色ルートとやらに辿り着くとは、まったく思わない」
「ここまで聞いておいて、なんてことを言うんですか」
「しかしだ」
先輩は煙の向こうで、実に上機嫌である。
「君の計画が実を結んだ場合。学園からは、恋だ青春だなどと謳う阿呆の夢が一つずつ潰えていく。しかも君は、それを継続的に望んでいる。恒常的な失恋の供給を求めているわけだ」
「まるでホシノが、とんでもない悪人のように言うではないですか」
「ふふふ、いや結構。投資に値するよ」
焼肉の最後の一枚が、私の皿に落とされた。
〇
というわけで、この日の突発焼肉会の内容だが、先輩という上流が潤い、私はそのおこぼれに与ったという次第である。
なぜ先輩が潤ったかは上記の通り、何も聞いていない。
私はただ、人生計画について語り、偶然その口に上等な肉がこぼれ落ちてきただけなのだ。
今後、先輩を巡るいかなる事件の関与を疑われようとも、私は本記録を手に無罪を主張するつもりだ。