一般モブでもネームドキャラとの桃色ルートは開拓可能であるか 作:ホシノ記研究委員会
TSというジャンルをご存知だろうか。
創作における一形態である。ある朝、男が目を覚ますと女になっている。あるいは死んで生まれ変わった先が、異性であったりする。そういう話だ。
私がこれを知ったのは、弟の本棚からだった。
一冊だけ借りるつもりが、気づけば一段まるごと私の部屋へ移動していた。
断っておくが、私はあれを単に娯楽として消費していたわけではない。
人が性別という前提を失ったとき、何に躓き、何を望むのか。その膨大な観察記録として読んでいたのである。読書とは未来への投資であり、知識とは無限の可能性を秘めた力の源である。
そのTS作品の主人公たちには、共通した特徴があった。
一つ。一人称が定まらない。気を抜くと元の言葉が出る。
二つ。生まれ育ちを問われると、答えが妙に曖昧になる。
三つ。同性の距離感に、いちいち動揺する。
以上を、私はTS判定三箇条と名付けた。
〇
さて。なぜ私が今、こんな前世の与太話を書き記しているのか。
目の前のテーブルに、アリスがいる。
昼下がり、客はなし。店長は夕方分のパンを焼いている。私はかねてより計画していた「桃色サイクル」を実行すべく、アリスへ正攻法を試みたところであった。
「学園へ行くのです。アリスさん、さあ──」
結果として、いたずらに三十分を消費するだけに終わった。
この三十分については、あまりにも不毛だったので詳細を書き残すつもりはない。私が一つ論を立てれば、彼女は新しい言い訳を一つ持ち出すのだ。寮住まいなのだから既に登校しているも同然だと言い張り、長く休んだので今さら教室へ入ると目立つと嘆き、試験の空気が重いと訴え、ヴィクトールと顔を合わせるのが気まずいと俯く。私はそのすべてを、順に、丁寧に、完膚なきまでに叩き潰していった。
最後の方で、彼女は苦し紛れにこう言った。
「だって、気を抜くと訛りが出るんです。人前で喋りたくないんですよ」
この店で毎日のように垂れ流しているものを、今さら何を隠すというのか。私はそう返した。
完全論破である。
そしてアリスは頬を膨らませ、テーブルに突っ伏して動かなくなった。
やってしまったと後悔したが、もう遅い。
正論は人を動かさない。これは前世でも今世でも変わらない真理である。相手の言い分を全て叩き潰して得られるのは沈黙であり、行動ではない。
私は向かいの椅子へ腰を下ろし、金髪のつむじを眺めた。
完全に不貞腐れてしまった。これ以上押したところで徒労に終わる。一度撤退し、日を改めるべきか。
しかしどうにも、喉の奥へ小骨のようなものが引っかかっていた。
最後に出てきた不登校の理由。気を抜くと訛りが出るので、人前で喋りたくない。
私はこれを、並べ立てた中で最も軽い言い訳として処理した。実際そうだ。この店で彼女は当たり前のように「おれ」と自称する。
ところで、訛りとは一人称だけに限定されるものだろうか。他の部分が崩れているのを聞いたことがない。
〇
ここで、TS判定三箇条をいま一度ご覧いただきたい。
一つ目。一人称が定まらない。該当。
本人はこれを故郷の言葉のせいだと説明した。ならば問おう。彼女を観察する限り、王都の言葉に不自由している様子はまるでない。突然値切ってきたり、迷い人の道案内なども難なくこなす女が、なぜ一人称だけを直せずにいるのか。
直せないのではない。直さないのだ。己のアイデンティティに関わる部分として「男である自分」を残していると考えるのが妥当だろう。
二つ目。生まれ育ちを問われると、答えが妙に曖昧になる。該当。
私の名を珍しいと言った彼女に、故郷へ同じ名の者がいたのかと尋ねたことがある。返ってきたのは「そうですね」という妙に間の空いた頷きだった。
あのときは、続けて語られた「変顔」の一語に気を取られて流してしまったが、順序が逆である。
ホシノという名は、この世界では珍しい。行商人にも、面接を受けたどの店主にも、判で押したように聞き返された。だが前世においては、通りを歩けば一人はいる程度の、ごくありふれた名であった。
その名を耳にして、彼女は故郷を思い出したという。
故郷というのは、辺境の村の事ではないだろう。アリスが懐かしんだのは、前世の記憶の方だ。生まれ育ちを問われて言い淀むのも当然で、親しくもない人間に「前世を信じますか」などという話にもっていくのは難しい。
つまりアリスは、星野さんがたくさんいる世界──私と同じ日本から流れ着いている。同郷の士というわけだ。
三つ目。同性の距離感に、いちいち動揺する。
これは、どうだろうか。
ロザリンデの名を聞いてテーブルの下へ潜り込んだのは事実だが、あれは恋であって、距離感という問題ではない。口端のクリームを拭ってやった際に悲鳴を上げた件についても、単に私の動きがキモかったと推察するのが妥当か。……なんであんなことしたのだろう。
私は目を閉じ、しばし反省した。
しかしまあ、該当よりではある。ということで集計。三箇条すべて的中。満点である。
つまり、目の前でへちゃむくれてる女は、前世が男の転生者ということになる。
私は椅子の上で、そっと拳を握った。
あの日、弟の本棚から一段分を運び出した私は、確かにTS本の読書という投資を行った。そうして得られた知識は、前世ではついに役に立たなかったが、現在こうして私の推論に力を与えたのである。どんな内容の知識であっても、あればあるだけよい。ひとつ証明された瞬間である。
もっとも、この発見を本人へ告げるつもりはない。
真実の解体ショーをしたところで、給料が支払われるわけではない。私は刑事や探偵ではないのだから。そもそもアリスが嫌がる可能性すらある。
肝要なのは、彼女の弱点とも言えるこの情報を、いかに活用していくかだ。
〇
アリスはまだ突っ伏したままである。時折、思い出したように足だけがぶらぶらと揺れている。
私は姿勢を正し、口角を上げた。
鏡の前で店長と訓練した、営業用の笑みである。これから人でも殺すつもりかと言われたあの日から、私は確実に成長している。
「んふ。アリスさぁん」
努めて柔らかい声を出した。
「うわ……なんですか」
「ホシノは考えを改めましたぁ。学校、だるいですよねぇ。この話はもう、おしまいにしますぅ」
アリスが、訝しげにこちらを見ている。
「そのかわり、ひとつだけ相談に乗らせてください。あなたの恋の話です」
金髪の下から覗く青い目が、大きく開かれた。
「恋の相談って……おれがホシノさんに? どうして急に」
「少し言いすぎたので、気分転換に。それに、我々は短くない時間を共有している……シンユウでしょう!」
アリスは疑いの目を残しながらも、椅子に座り直した。背もたれへ体重をかけ、指先でカップの縁をなぞり、それから小さく息を吸う。
「……ロザリンデ様の話を、してもいいんですか」
「はい。まずは、どんなところに惹かれたのか教えてください」
〇
まず語られたのは、意外にも評判の話だった。
ヴァルトハイム公爵家の令嬢は、学園で氷の令嬢と呼ばれているらしい。物言いが厳しく、規則にうるさく、生徒たちは彼女の姿を見ると自然と道を空けるのだという。説明書に載っている、冷ややかな顔をしたイメージイラストと一致する。
「でも、あれは違うんです」
アリスは身を乗り出した。
「ロザリンデ様は、誰よりも真面目なだけなんです。朝は一番早く教室に入って、当番でもないのに黒板を拭いて、忘れ物をした子にこっそり自分のを忍ばせて、それで一度も自分がやったって言わないんですよ。厳しいことを言うのだって、その人が後で困らないように先回りしてるだけで。ほんとうは、あの人ほど他人のことを考えてる人はいなくて──」
熱弁はそれからしばらく続いた。私は要点だけを頭に書き留め、残りは適当に聞き流していた。
私の計画は、アリスを学園へ戻し、恋愛イベントの発生装置として稼働させることにある。そのためには、彼女がロザリンデへ近づくための具体的な手管を授け、やる気を出させればよい。
ここで私は、一つの重大な問題に直面していた。
ロザリンデ・ヴァルトハイムという女について、ほとんど何も知らないのである。
攻略対象であれば話は別だ。説明書のあの頁は、いまでも目を閉じれば開くことができる。誰が甘い物を苦手とし、誰の誕生日が季節のどのあたりに置かれているか、私の頭には整然と並んでいる。
しかしロザリンデは、その次の頁の人間である。物語を彩る人々、という控えめな見出しの下に、ただ一人だけ大きく描かれていた女。絵は立派だが、添えられた文はごくわずかで、好みについての記載などなかった。
つまり、攻略のための資料がない。
であれば、残るのは一般論か。
女とは、何をされたら嬉しいのか。
幸いにも、私はその答えを持っていた。前世で十七年、今世で十六年、合わせて三十三年にわたって積み上げられた女としての蓄積である。
未だに男性を残しながら生きるTSアリスは、女心に疎い。値千金の知恵を授けてやろう。
〇
「いいですか、アリスさん。恋とは、待っていても向こうから歩いてくるようなものではありません」
一瞬だけ嫌な感情がフラッシュバックする。自信たっぷりに待ち続け、シンユウに幼馴染をとられてしまった阿呆の記憶だ。何の策も持たずに待つことの、なんと愚かしいことか。
「まずは、誘うことです。お茶でも、散歩でも、勉強会でも。用件など何でもよく、肝要なのは、あなたが誘ったという事実」
「おれから誘う……。でも、今まであまり話す機会もなかったから、急すぎるかも……」
「こっそり私物をくすねた後に落とし物として届けるでもすれば、お話する機会なんて簡単に作れるでしょう」
「な……なるほど……!」
アリスの瞳が少しだけ濁った。
「次に、隙があれば手を繋ぎましょう。人の体温というものは、言葉よりずっと直接的に心へ訴えかけます。手袋は外しておいてください」
「手……手を、えへへ……」
アリスは酔ったような顔で頷いた。懐から手帳のようなものを取り出し、何かを書きつけている。
「それから、これが最も重要です」
私は自分の口の端を指し示した。
「相手の顔に食べ物がついていたら、指で拭ってやるのです。拭ったあとは、その指を舐めます。できればゆっくりと、目を合わせながら」
鉛筆の動きが止まった。
「それ、この前おれにやりましたよね? 指を、こう、ねっとりと……あのときは正直、なんて言うんでしょう、ちょっと怖かったんですけど」
「そうなんですか? おかしいですね。普通の女性は、あれをやられると、イチコロなんですよ?」
「えっ……じゃ、じゃあおれが変なの、かも?」
やはり、まだ意識が男性に傾いているようだ。普通の女性はこうなのだ、と言われればあらゆる疑問を貫けそうである。
アリスは少し納得のいかない顔をしていたが、やがて手帳へ視線を戻し、素直に鉛筆を走らせた。実に扱いやすいTS主人公である。
「あ、でもロザリンデ様は、お顔に食べ物なんてつけない気がします」
「では、つけさせればよい」
「つけさせ……え?」
「状況を用意するのです。食べ物を準備し、大きく口をあけさせて、ねじ込む」
私はひとつの記憶を呼び起こしていた。
あの日、厨房を検分し終えたロザリンデが、焼きたてのロールパンを一口かじり、しばらく黙ってから漏らした一言である。
美味しい、と。
「アリスさん。手土産を持っていきましょう」
私は商品棚を振り返った。
昼の客が少ないとはいえ、ロールパンは店長の自信作である。夕方の焼き上がりを待つまで、棚には一つも残っていない。
レーズンパンのみ、残っていた。
朝に焼かれたまま、誰にも選ばれずに午後を過ごすことが確定している、我が店きっての主力敗残兵。この不人気商品は、間違いなく今日も負ける運命が約束されている。
私は迷わずそれを紙袋へ収めて、アリスへ差し出した。
「うちのパンです。ロザリンデ様が召し上がって、絶賛されました」
「えっ、ほんとですか!?」
あの人が店のパンを食べて絶賛したのは事実だ。ロールかレーズンかは瑣末な問題である。
「ここのレーズンパンはベタベタしていますから、口めがけて突っ込んでやれば顔中カスだらけになりますよ」
アリスは紙袋を両手で受け取り、大事そうに胸へ抱えた。
かなり無理筋なことには気付いていないようだ。私としても、アリスの恋をあっさり成就させるつもりは毛頭ない。ロザリンデとは付かず離れず、他のネームドたちの誘蛾灯として機能してもらうことが第一なのである。
〇
「ああ、それと」
立ち上がりかけたアリスへ、私は思い出したふうに付け加えた。
「最後に、礼儀の話をします」
「はい? 礼儀?」
「あなたは主人公……いえ。あなたは可愛らしい方ですから、これから学園でいくらでも言い寄られるでしょう。そのすべてを、あなたは断らなければならない。ロザリンデ様がいますからね」
アリスは眉をひそめた。ヴィクトールを思い出したのだろう。
「断る場所は、当店がよいでしょう。アリスさんにとって負担が大きな行為になりますから、私がフォローできるかもしれません」
何より、この店には負け犬の加護がある。
「そして、ここからが礼儀の話になります」
私は一度、声を落とした。
「断ったあとは、速やかに店を出てください」
アリスの手が、紙袋の縁を掴んだまま止まった。
「出る、ですか」
「振られた人間の前に、振った人間が座り続けるのは残酷です。相手には、一人で放心する時間が必要なのです。泣きたければ泣ける場所を残してやることが、断る側の最低限の礼儀といえます」
アリスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
思い当たるところがあるのだろう。あの日、彼女は告白を断っておきながら、雨宿りと称して日が暮れるまで居座った。振られた側が逃げるように店を出ていく、あの倒錯した光景の責任者である。
「おれ……ヴィクトールに、ずいぶんひどいことしてたんだ」
アリスは紙袋を抱えたまま、しばらく黙っていた。
窓の外を、荷車が一台通り過ぎていく。厨房の鼻歌が一節終わって、また始まる。
ようやく、アリスに言いたいことが言えた。すっきりだ。
〇
やがてアリスは立ち上がった。
背筋を伸ばし、紙袋を胸で抱え直す。その青い目には、この半年のあいだ一度も見たことのない類の熱があった。
「ホシノさん。おれ、学園に行きます」
「授業に出るのですね」
「朝は中庭のあたりを歩いてるんです、ロザリンデ様。あの時間なら、たぶん会えるかもしれない」
授業の話は、一言も出てこなかった。
だが構わない。門の中で活動してくれれば、間違いなく運命の歯車──すなわち、桃色サイクルが動き始める。
扉の鈴が鳴り、アリスは午後の光の中へ出ていった。窓の向こうを、紙袋を抱えた金髪が、いつもよりずっと速い足取りで通り過ぎていく。
窓に映る私は、薄っすらと笑みを浮かべていた。