ロズワール邸の一室。机の上に広げられた羊皮紙には、イ、ロ、ハに似たルグニカ王国の『イ文字』が並んでいた。「悠仁、ここはこう書くの。……うん、やっぱり凄く覚えが早いわ。本当に感心しちゃう」エミリアが紫紺の瞳を輝かせて微笑む。傍らで茶を淹れるレムも「ええ、悠仁くんの集中力は素晴らしいです」と、かつての敵意が嘘のような信頼の眼差しを向けていた。文字や歴史、世界の常識。それらはエミリアやレム、厳格なラム、そしてたまに気まぐれに付き合ってくれるベアトリスやロズワールから熱心に教わっていた。(……なぁ、俺ってこんなに頭良かったっけか?)虎杖は自らのこめかみを指先で叩いた。地元の高校に通っていた頃の成績は下から数えた方が早かったはずだ。それなのに、見知らぬ異世界の言語や複雑な勢力図が、驚くほどすんなりと脳に染み込んでいく。記憶の引き出しが拡張され、思考の歯車が高速で噛み合っているような感覚。(これも、永い時間を『呪物』として生きた影響なのかもしれないな……)自分という存在が変質し、魂の構造そのものが超常の領域に達してしまった証拠。そう自嘲気味に納得した時、虎杖の脳裏に、元いた世界の二人の「仲間」の顔が浮かんだ。一人は、見るからに頭が良くて、いつも冷静に現実を見据えていた伏黒恵。もう一人は、ゴリラのような見た目と言動に反して、伏黒と同じか、あるいはそれ以上に明晰な頭脳とIQを持っていた、血も呪力も繋がっていない大親友(ブラザー)——東堂葵。「……もし東堂がここにいたら、また『高田ちゃんが〜』とか言いながら、一瞬でこの世界の構造を解き明かしちまうんだろうな」懐かしい二人の幻影に小さく苦笑し、虎杖は羊皮紙から視線を上げた。
文字が読めるようになって、ようやく全貌を理解した。先日、自分たちの竜車を襲ってきた、あの気持ちの悪い黒装束の集団。彼らはこの世界において、見つけ次第の殺害が法的に許されているほどの、救いようのない極悪組織『魔女教徒』。そして、緑色の髪を振り乱して虎杖の精神世界に飛び込んできた、呪霊のような邪精霊の男——ペテルギウスは、その幹部格である『大罪司教』だったという。(あれが、幹部……?)虎杖は自らの掌を握り締めた。正直な感想を言えば、拍子抜けだった。魂の構造を弄び、他人の命を文字通りゴミのように消費していた『真人』のほうが、生物としての悍ましさも、戦闘における底知れなさも、遥かに上だった。ペテルギウスの『見えざる手』も、真人の『無為転変』の初見の絶望感に比べれば、ただの「不格好で遅い腕」に過ぎなかった。だが、あれも魔女教という巨大な組織の、ほんの尖兵に過ぎないのだろう。王都で出会った、あの恩師・五条悟を彷彿とさせる赤毛の男——ラインハルト・ヴァン・アストレア。彼のような、世界の天井を突き抜けたような本物の強者が、この世界にはあと数人はいてもおかしくはない。(……いや。できれば、先生や宿儺より強いかもしれない化物なんて、あの赤毛の男だけで十分だわ。これ以上いて欲しくねえな……)平和を願う少年の本能が、さらなる世界の歪みを拒絶していた。