リーファウス街道、フリューゲルの大樹の下。地響きと共に、濃密な霧を引き連れて空から降り立ってきたのは、四百年の間、世界を恐怖に陥れてきた巨獣——白鯨。
「ウオォォォォォン!!!」
天を震わせる咆哮。周囲の騎士たちがその精神汚染の咆哮に怯え、狂いそうになる中、虎杖悠仁だけは耳を穿つ音響を無表情で聞き流していた。
(なんだ、特級呪霊の不快な気配に比べりゃ、ただの声と図体がデカいクジラじゃねえか)
呪いと瘴気への耐性がカンストしている虎杖には、白鯨の霧も咆哮も、春の霧雨ほどの脅威にもならない。本来なら、虎杖が『御厨子』を全面解放すれば、この巨獣を数分でサイコロ状の肉片に解体することなど造作もなかった。だが、虎杖はそれをしなかった。彼の視線の先には、長年の仇敵を前にして、狂おしいほどの執念で剣を構える老剣士・ヴィルヘルムの背中があった。
(あのじいさん、奥さんをこのクジラに殺されたんだってな……)
かつて、呪いによって大切な仲間や恩人を理不尽に奪われ、そのたびに無力感に血の涙を流してきた虎杖には、ヴィルヘルムの背負う「業」の重さが痛いほど分かった。
(だったら、ここは俺の戦場じゃねえ。あのじいさんが報われるための、じいさんの舞台だ。……俺は、全力で援護を遂行する!)
「レム! じいさんのサポートに入るぞ! クジラの動きを俺が止める!」
「はい、悠仁くん!」
虎杖は猛然と地を蹴った。人間の領域を遥かに超えた爆速の踏み込みで、白鯨の真下へと滑り込む。白鯨が巨体を揺らし、ヴィルヘルムを押し潰そうと急降下してきた。
「させねえよ」
虎杖は静かに、だが絶対的な出力で右手を天に掲げた。
「——『解』」
放たれたのは、白鯨を「殺す」ための斬撃ではない。白鯨の肉体の自由を奪うための、空間の『枷(かせ)』。不可視の細緻な斬撃の網が、白鯨の巨大なヒレと尾を、寸分の狂いもなく正確に削ぎ落とし、その駆動筋肉を精密に裁断していく。
「グ、ガァァァッ!?」
質量を失い、バランスを崩して大樹のふもとへと轟音を立てて墜落する白鯨。地響きが轟き、巨獣の動きが完全に停止する。
「ヴィルヘルムのじいさん! 今だ!! 行けッ!!」
虎杖の咆哮が、戦場に響き渡った。
「——感謝する、エミリア様の騎士ッ!!」
その一瞬の隙を、老剣士が見逃すはずがなかった。ヴィルヘルムは風となり、墜落した白鯨の脳天へと跳躍する。その脳裏に去来するのは、かつての花の愛妻、テレシア・ヴァン・アストレアの笑顔。
「我が妻、テレシア・ヴァン・アストレアに捧ぐ——ッ!!」
渾身の力が込められた銀の刃が、白鯨の巨大な眼球を貫き、その脳頭殻へと深く、深く突き立てられた。大気を引き裂くような一閃。四百年の絶望が、一人の人間の執念と、それを完璧に支えた異界の騎士の「気配り」によって、ついに断ち切られた瞬間だった。断末魔の叫びと共に、白鯨の巨体がゆっくりと光の塵へと還っていく。戦場に静寂が戻り、ヴィルヘルムは剣を地面に突き立て、静かに涙を流していた。虎杖はその背中を遠くから見つめ、小さく、満足そうに微笑むのだった。