天獄の熾翼、墳墓の魔王 作:マジックス
最初に覚えているのは、声だった。
自分のものではない。すぐ近くで何人かが話していて、その間を機械的な電子音が一定の間隔で通り過ぎていた。
何を言っているのかまでは分からない。
目を開けても、白っぽい光が滲むだけだった。人らしい影が近づいたように見えたが、輪郭はすぐに崩れた。身体を動かそうとしても、どこに力を入れればいいのか分からない。ようやく動いた腕らしきものも、自分が思っていたよりずっと短かった。
そこで初めて、自分の身体がおかしいことに気づいた。
声を出そうとして、泣き声が出た。
意味が分からなかった。
記憶はある。
少なくとも、こんな身体になる前の記憶が。
けれど考えようとするたびに眠気が押し寄せてきて、状況を整理するところまで意識が続かなかった。
何度眠って、何度起きたのかも分からない。
それを繰り返すうちに、さすがに認めるしかなくなった。
俺は赤ん坊になっていた。
それから先は、ひたすら待つ時間だった。
考えられるのに身体がついてこないのは、かなり面倒だったが、どうしようもない。首も満足に動かせない時期に人生設計を考えたところで意味がない。
だから、周囲を見ることにした。
もっとも、最初のうちは見ても分からないことの方が多かった。
俺を抱く女が母親で、たまに顔を見せる男が父親だと理解したのも、言葉を聞き分けられるようになってからだった。
家が広いことも、そこで働いている人間が何人もいることも、俺には最初からそうだったので、特別だとは思わなかった。
朝になれば世話をする人間が来る。
食事は用意される。
服も日用品も、俺が自分で選ぶようになる頃には端末から候補が出され、その中から気に入ったものを選べば届いた。
家の中だけで、医師とも教師とも話ができた。
それが普通ではないと知ったのは、かなり後だった。
俺の家は、アーコロジーの中にあった。
正確には、その中でも居住区の一角を大きく使っていた。
外気を意識する必要はなく、気温も湿度も一定だった。住居区画を出れば、植栽の間を通る広い通路があり、その先には店舗や運動施設、医療施設まで揃っている。
子供の頃の俺にとって、世界というのはほとんどそこだった。
行き交う人間の服装も、連れている使用人も、使っている端末も、多少の差はあっても極端には違わない。
だから、自分の家がどの程度金を持っているのかは分かっても、自分がどの階層にいるのかという感覚は薄かった。
周囲もだいたい同じ側だからだ。
外の世界をまともに意識したのは、初めてアーコロジーを出た時だった。
父親の用事に連れていかれただけだった。
地下の車寄せから車に乗り、いくつかの認証を通って外へ出る。
普段使っている車と違って、その日は窓の透過率が低く設定されていた。
外が見えなくなるほどではない。
ただ、景色が少し暗かった。
高い建物が並び、その間を複数の交通路が走っている。古い建造物と新しい建造物が妙な形で混ざっていて、遠くは霞んでいた。
道路脇を歩く人間もいた。
その時になって、車内の空気が完全に外と切り離されていることを教えられた。
「窓、開かないの?」
何となく聞いただけだった。
隣にいた付き人がこちらを見た。
「この区域では開けない方がよろしいかと」
「なんで?」
説明は長くなかった。
大気環境。
微粒子。
長時間曝露。
そういう言葉がいくつか出てきた。
俺は窓の向こうを見た。
普通に歩いている人間もいる。
呼吸器を覆っている者もいれば、何も着けていない者もいた。
「ここに住んでる人は平気なの?」
「平気、というわけではございません」
その答えが少し面白かったので、帰ってから調べた。
環境だけではなかった。
住む場所。
教育。
仕事。
医療。
企業。
金があるかどうかで、思っていた以上に生活が変わる。
それを知った時、最初に感じたのは恐怖でも罪悪感でもなかった。
自分がアーコロジーの内側に生まれていてよかった。
ただそれだけだった。
勉強を本格的に始めるようになると、俺は自分の環境をかなり気に入った。
教師の質もそうだが、使える設備が多かった。
特に好きだったのが神経接続型の学習システムだった。
言語なんかは分かりやすい。
教材を読むだけではなく、専用の技能データをインターフェイス経由で取り込み、そこから実際の会話や文章で定着させる。
最初に英語をやった時は、かなり変な感覚だった。
知らない単語を一つずつ覚えた記憶がないのに、意味が分かる。
文章を見れば読める。
ただし、入れた瞬間から完璧に使えるわけではなかった。
細かな言い回しや速度、相手の癖への対応は、結局実際に使わなければ馴染まない。
俺はその方式が好きだった。
何年もかけて基礎から積む必要がない。
まず入れる。
そこから使う。
足りないところだけ訓練する。
効率がいい。
言語以外にもいくつか試した。
記憶。
空間認識。
視覚情報の処理。
複数の対象を同時に追う訓練。
短時間で条件が変わる状況での判断。
技能データそのものも使ったが、それを実際に自分のものにする訓練もやった。
毎日何時間も歯を食いしばって努力した、というような話ではない。
俺がやりたい時にやった。
ただ、できるようになるのは面白かった。
昨日より速く処理できる。
昨日は見落としていたものが今日は見える。
なら、もう一段難しいものをやる。
そうやっているうちに、教師から何度か範囲を絞った方がいいと言われた。
俺は毎回、適当に聞き流した。
専門家になる必要はなかった。
必要になったら、その時に必要なものを覚えればいい。
そのための金も設備もある。
ゲームもその延長だった。
他人が相手になると、同じ問題を解くだけでは終わらない。
一度通用した方法を次も使えば、対策される。
癖を読めば、その癖を利用される。
機械相手よりよほど面白かった。
勝つのも好きだった。
負ければ腹が立つ。
だから負けた時は、記録を見直した。
反応が遅かったのか。
読みが外れたのか。
情報を見落としたのか。
そもそも相手の方が上手かったのか。
原因が分かれば直した。
それで次に勝てれば、それでいい。
ある対戦の後、相手に金の話をされたことがある。
俺の環境が良すぎるから勝てるだけだ、と。
言われた意味は分かった。
だから、
「じゃあ同じの使えば?」
と返した。
相手は黙ったあと、かなり怒った。
俺は途中で音声を切った。
買えないのなら、それは俺にはどうしようもない。
俺がわざわざ性能を落としてやる理由もなかった。
《YGGDRASIL》という名前を見つけたのは、そんな生活の途中だった。
最初は本当に、ただ名前に引っかかっただけだった。
画面に表示されていたのは開発中のDMMO-RPGの情報で、タイトルの下に発売予定年が書かれていた。
二一二六年。
そこで指が止まった。
もう一度タイトルを見る。
《YGGDRASIL》。
二一二六年。
俺はしばらく画面を見たまま動かなかった。
それから、記憶を探った。
昔知っていた作品。
二一三八年。
サービス終了。
モモンガ。
ナザリック地下大墳墓。
「……まさかな」
口ではそう言ったが、そのままページを閉じる気にはならなかった。
公開されている情報を順番に確認した。
まだ発売前だから、分かることは多くない。
それでも、名前と年代だけで十分すぎるほど気持ちが悪い。
俺は別の端末も開き、この時代について改めて調べ始めた。
環境。
社会構造。
技術。
これまで特に気にせず使っていた神経接続技術。
昔読んだ『オーバーロード』の記憶と照らし合わせる。
完全には一致しない。
そもそも原作で現実側の描写は少なかった。
それでも、偶然で済ませるには重なりすぎていた。
調べ終えた頃には、さっきまでよりずっと機嫌がよくなっていた。
本当にあの世界なら、先がある。
YGGDRASIL。
その終了。
そして新世界。
俺は椅子の背にもたれながら、しばらく考えた。
何をするか。
最初に浮かんだのは、ナザリックへ入ることだった。
だが、それでは面白くない。
かといって、原作通りの世界を横から眺めるだけというのも違う。
どうせなら、自分で遊びたい。
それも、できるだけ大きく。
新世界を全部取る。
そこまで考えてから、少し違うと思った。
一人で取り切って終わりでは、そこでゲームが終わる。
なら相手がいる。
俺が本気で準備して、それでも簡単には終わらない相手。
ナザリック。
そして、その中心にいるアインズ。
「ああ、これだな」
自然に笑った。
世界を一つ盤面にして、あいつと遊ぶ。
悪くない。
むしろ、それ以上に面白そうなことが思いつかなかった。
その時点ではまだ、俺自身が本当に新世界へ行ける保証すらない。
それでも、準備して困ることはない。
そこで鈴木悟の名前を思い出した。
未来のモモンガ。
未来のアインズ。
いずれ世界を賭けて遊ぶなら、先に本人と関係を作っておいた方がいい。
アインズは、仲間や友人をかなり大事にする。
少なくとも俺の知っている原作ではそうだった。
なら、鈴木悟の頃から俺を友人だと思っていれば、面白いことになりそうだ。
「先に仲良くしとくか」
俺は端末を操作し、家の人間を呼んだ。
鈴木悟を見つけるのには少し時間がかかった。
名前だけでは候補が多い。
俺が覚えている原作情報も、住所や正確な年齢まで都合よく揃っているわけではなかった。
それでも、家の調査能力を使えば絞り込むことはできた。
最終的に一人まで絞れた時、俺はその情報をしばらく眺めた。
会社員。
両親はすでにいない。
高い学歴があるわけでもない。
派手な経歴もない。
画面だけ見れば、何の変哲もない男だった。
こいつが、あれになる。
そう考えると笑えてきた。
接触方法は少し考えた。
あまり不自然なのはよくない。
突然、金持ちの家の子供が自分のことを詳しく知って会いに来たら、普通は気味が悪い。
だから、間に人を入れた。
共通の趣味を使った。
何度か連絡を取り、それから実際に会うところまで持っていった。
初めて鈴木悟を見た時、俺は少し拍子抜けした。
待ち合わせ場所は、俺の住んでいるアーコロジーではない。
一般利用できる商業区画の一つだった。
人通りが多く、空調は効いていたが、うちの居住区ほど静かではない。
一方的だが顔は既に知っている。
鈴木悟は俺を見つけると立ち上がった。
「えっと……君が?」
「そう。鈴木悟さん?」
「はい」
声に緊張が混じっている。
無理もない。
俺は向かいの席へ座った。
鈴木悟も少し遅れて腰を下ろす。
最初はゲームの話をした。
その方が自然だった。
俺も好きだから、演技をする必要もない。
鈴木悟は最初こそ距離を測っていたが、話しているうちに少しずつ口数が増えた。
ゲームの仕様。
昔遊んだタイトル。
どういう遊び方が好きか。
仕事の話も少し出た。
俺はそれを聞きながら、記憶の中にあるモモンガと目の前の男を重ねていた。
当然だが、全然違う。
骸骨でもなければ魔王でもない。
疲れた会社員だった。
それでも、この男が将来ナザリックの玉座に座るかもしれない。
その事実を知っているのは俺だけだ。
「鈴木さん」
「はい?」
「また今度、暇な時に話そうよ」
俺が言うと、一瞬意外そうな顔をしたあと、鈴木悟は笑った。
「もちろん」
その返事を聞いて、俺も笑った。
これでいい。
急ぐ必要はない。
何年もある。
ゆっくり付き合えばいい。
鈴木悟の中で、俺という人間を昔から知っている相手にしておけばいい。
その一方で、《YGGDRASIL》では別だ。
俺が誰なのかは教えない。
ゲームの中まで一緒に行動するつもりもない。
モモンガが何をするのかは、こちらから見ていた方が面白い。
俺自身も、自分のやり方で強くなる。
いつか新世界へ行けたなら、その時に初めて同じ盤面へ立てばいい。
目の前の鈴木悟は、そんなことを何も知らずに次の話題を探していた。
俺はそれを眺めながら、まだ発売すらされていない《YGGDRASIL》のことを考えていた。
十二年。
長いようで、準備することを考えればそうでもない。
世界を賭けて遊ぶなら、それくらいは必要だろう。