天獄の熾翼、墳墓の魔王 作:マジックス
最初に異変を感じ取ったのは、シャルティアだった。
森へ放ったヴァンパイア・ウルフの気配が、一つ消えた。
それから間もなく、二つ目。
続いて三つ目も途絶える。
「……あら?」
逃げた人間を追わせた眷属だ。
一体だけなら、この森にいる何かと遭遇した可能性もある。だが、ほとんど時間を置かずに続けて消えていくとなれば話は違う。
誰かが殺している。
それも、おそらく大した苦労もせずに。
獲物を取り逃がした苛立ちが少しだけ薄れ、代わりに興味が湧いた。
シャルティアは気配の途絶えた方角へ向かう。
相手はすぐに見つかった。
木々の間に、黒を基調とした装備の人間たちがいる。
シャルティアが姿を見せると、それまで周囲へ向けられていた意識が一斉にこちらへ集まった。
武器を構える者。
後方へ下がる者。
互いの位置を確認する者。
誰一人、取り乱さない。
そこらの兵士ではないらしい。
「わたくしの子たちを殺したのは、あなた方でありんすか?」
返事はなかった。
その代わり、集団の先頭近くにいた長い黒髪の男と目が合う。
シャルティアは僅かに目を細めた。
人間にしては強い。
連れているヴァンパイア・ブライドより上。ナザリックで比較するなら、ソリュシャンよりも強いかもしれない。
珍しい。
そう思ったのと、ほぼ同じ瞬間だった。
第一席次もまた、シャルティアを見ていた。
少女の姿をした吸血鬼。
まだ何もしていない。
能力も分からない。
どの程度の強さなのか、確かめてもいない。
それなのに。
背筋に嫌な感覚が走った。
頭で理由を探すより先に、身体が警告している。
一瞬だけ、アンティリーネの姿が脳裏に浮かんだ。
相手が何をするか分かっていても、僅かな間違いが致命傷になると本能の方が理解する、あの感覚。
「カイレ様! 《傾城傾国》を!」
第一席次の声が森に響く。
本来の任務が災厄の竜王であることは、当然頭にあった。
神器をここで使えば予定は崩れる。
だが、《傾城傾国》が通ればそれで終わる。
支配した後で殺させればいい。
必要なら、その場で自ら命を絶たせてもいい。
未知の相手へ戦力をぶつけ、何人か死んでから神器を使うより遥かにましだった。
もし《傾城傾国》すら通じないなら。
そのときは……。
「分かった」
カイレも理由を尋ねなかった。
白銀の衣へ手を添える。
金糸で縫い込まれた龍へ、光が走り始めた。
シャルティアの視線が動いた。
最初は黒髪の男を見ていた。
だが、その後ろにいた老女が何かを始めた瞬間、別の感覚が全身を走る。
――何。
魔力の大きさではない。
強い人間を見た時とも違う。
それなのに、ひどく嫌な感じがした。
あれは駄目だ。
使わせてはいけない。
理由を考えるより先に、シャルティアは地を蹴った。
狙いは老女。
進路へ黒髪の男が滑り込む。
「邪魔でありんす!」
腕を振るう。
第一席次は受けた。
次の瞬間には身体が地面から離れ、木々の間を大きく吹き飛ばされていた。
足を地面へ擦りつけながら、どうにか止まる。
腕が痺れている。
骨は折れていない。
戦える。
だが。
第一席次は口の中に溜まった血を飲み込んだ。
――やはり、使って正解だった。
まともに受けたのは一度だけ。
それだけで実力差がわかった。
一方、シャルティアは僅かに驚いていた。
「……あら?」
死んでいない。
本気で殺すつもりの一撃ではなかったとはいえ、人間ならもっと簡単に壊れるはずだった。
やはり強い。
男だけではない。
自分が動いた瞬間、周囲の人間たちも素早く配置を変えている。
少なくとも、先ほどヴァンパイア・ウルフを殺したのは偶然ではなさそうだ。
そこで、少し前まで苛立ちのために頭から抜けかけていた任務を思い出した。
アインズから命じられている。
この世界に存在する武技。
未知の能力。
そういったものを調べるため、使えそうな者を捕らえて帰る。
先ほどは一人逃した。
だが。
目の前には、その埋め合わせになりそうな人間が何人もいる。
特に黒髪の男。
これだけの強さなら、調べる価値も十分にあるだろう。
うまく持ち帰れば、アインズ様も。
そう考えた途端、気分が少し良くなった。
殺してしまうのは勿体ない。
老女も、他の者も。
まずまとめて止めればいい。
「《Mass Hold Species》!」
魔法が広がった。
漆黒聖典の何人かがその場で動きを止める。
抵抗できた者も、僅かに動きが鈍った。
これなら捕らえられる。
黒髪の男も。
ほかの使えそうな連中も。
あの老女も。
「……え?」
そこで、シャルティアの思考が途切れた。
何かが。
自分の中に入ってきている。
攻撃された感覚ではない。
痛くない。
身体にも傷はない。
それなのに。
気持ちが悪い。
思考のもっと奥。
自分が自分へ命令を出している場所へ、知らない何かが触れてくる。
「な……」
あり得ない。
シャルティアはアンデッドだ。
精神作用など効くはずがない。
魅了も。
混乱も。
恐怖も。
そういったものから守られるように、自分は作られている。
ペロロンチーノ様が、そう作ってくださった。
なのに。
指が。
自分の思ったように動かない。
足も。
身体も。
少しずつ、自分の命令から外れていく。
「ふざ……けるな……!」
そこでようやく理解した。
老女。
あれだ。
自分が最初に感じた嫌な感覚。
あの女が。
自分を。
支配しようとしている。
あり得ない。
そう思っているのに、現実に起きている。
殺さなければならない。
はっきりとそう感じた。
今すぐ止めなければ、自分が何をされるのか分からない。
それ以上に。
アインズ様からいただいた任務を果たせなくなる。
ナザリック地下大墳墓の階層守護者である自分が。
至高の御方々へ仕える自分が。
人間に意志を奪われる。
それだけは。
「――《清浄投擲槍》!」
手の中へ白い光が集まる。
意識が薄れていく。
考えられることが、一つずつ減っていく。
それでも最後に残った意志だけは手放さなかった。
あの女を殺す。
絶対に。
光槍が放たれる。
「カイレ様!」
二枚の盾を持つセドランが、カイレの前へ飛び込んだ。
一枚目の盾が砕けた。
続いて二枚目。
それでも光は止まらない。
セドランの身体を貫き、そのまま後方へ抜ける。
カイレまで、もうほとんど距離はなかった。
その瞬間。
誰にも認識されないまま、一つの影が間へ入った。
ノクスだった。
シャルティアを追跡し始めてから、ここまで一度も姿を現していない。
漆黒聖典が《傾城傾国》を使用しても動かなかった。
セドランが盾になった時も。
命令は明確だった。
装備者が殺されそうになった時だけ守る。
そして今。
白い槍はセドランを抜けた。
その先にカイレがいる。
条件は満たされた。
ノクスは避けなかった。
光槍を正面から身体で受ける。
肩口から胸へ光が食い込んだ瞬間、灼けるような衝撃が内部まで走った。
痛みはある。
かなり強い。
だが、それだけだった。
ノクスは一歩も退かず、残った威力を身体で受け切った。
白い光が弾け、散る。
カイレへは届かない。
それを確認すると、ノクスは元の位置へ戻った。
誰も見ていない。
爆発するような光。
倒れるセドラン。
そしてシャルティア。
今、この場で不可視の何かを探す者はいなかった。
第一席次の目にも、セドランが最後まで光槍を受け止めきったようにしか見えなかった。
「セドラン!」
倒れた身体を見る。
胸を完全に貫かれている。
生きているとは思えない。
だが、その背後。
カイレがいる。
立ってはいない。
地面へ片膝をつき、呆然と自分の身体を見下ろしている。
しかし。
血がない。
衣も破れていない。
「カイレ様!」
第一席次の声に、カイレの肩が僅かに跳ねた。
「……聞こえている」
返事はあった。
だが顔色は悪い。
手も震えている。
当然だった。
今の一撃。
誰が見ても、死んだと思った。
第一席次自身もそう思った。
なぜ無傷なのか分からない。
セドランが受け止めた?
あの威力を?
考えかけて、すぐに止めた。
今はそちらではない。
「カイレ様、吸血鬼を!」
カイレの視線が動く。
シャルティアは立ったまま、完全に動きを止めていた。
赤い瞳は、カイレへ向けられている。
その目から、つい先ほどまであった殺意が抜けていた。
《傾城傾国》。
効いている。
カイレは荒い呼吸を一度整えた。
震える手を握り込む。
「……分かっている」
声はまだ僅かに硬い。
それでも命令は明確だった。
「そこで動くな」
シャルティアは動かない。
「我々へ危害を加えるな」
命令を聞いた瞬間、シャルティアの胸に奇妙な温かさが広がった。
カイレが自分へ声をかけている。
それだけのことが、妙に嬉しい。
望まれていることを叶えたい。
そう思った。
――何故?
ほんの少し前まで、自分はこの老女を殺そうとしていた。
《清浄投擲槍》まで放った。
それなのに、今は傷つけようと思えない。
むしろ、カイレが無事だったことに安堵している。
おかしい。
そう思ったはずなのに。
そこから先へ考えようとすると、疑問がひどく曖昧になった。
何がおかしかったのか。
何を考えようとしていたのか。
掴もうとするほど輪郭がぼやけていく。
代わりに残るのは、カイレの望みに応えたいという、ごく自然に思える感情だった。
自分が人間に力を及ぼされたことへの屈辱はある。
漆黒聖典への苛立ちも消えていない。
だが、それをカイレへ向けようとは思えなかった。
「……承知、いたしんした」
返事は、自分でも意外なほど素直に出た。
第一席次は、その返事を聞いてようやく僅かに息を吐いた。
成功した。
少なくとも、カイレの命令は通っている。
「セドランを確認しろ」
一人が駆け寄り、倒れた身体へ膝をつく。
すぐに第一席次を見る。
首を横に振った。
分かっていた。
それでも胸の奥が重くなる。
何度も一緒に任務へ出た。
今日だけの仲間ではない。
目の前の吸血鬼が殺した。
今なら反撃してこない。
そう考えた者は、自分だけではないらしい。
数人が武器を強く握っている。
さらにボーマルシェが一歩前へ出ようとした。
「待て」
第一席次はすぐに止めた。
「近づくな」
ボーマルシェが振り返る。
「しかし――」
「カイレ様の命令が通っている。今はそれでいい」
神器の効果そのものは知っている。
だが、ここまで規格外の相手に使用した例など、第一席次は知らない。
現に命令は通っている。
なら、余計な刺激を与えなくていい。
「誰も手を出すな」
第一席次は全員へ向けて言う。
「腹が立つのは分かる。俺も同じだ」
一度、セドランを見る。
「だが、こいつをどうするかを俺たちだけで決めるな。遺体を回収しろ」
「……はっ」
低い返事が返る。
そこでようやく、第一席次はその先を考えた。
本来の任務。
災厄の竜王。
そこへ使うはずだった《傾城傾国》は、今シャルティアを支配している。
先ほどは「通れば自害させればいい」と考えた。
実際、それもできるだろう。
だが。
第一席次はシャルティアを見る。
今となっては、それすら軽々しく選べなかった。
自分を一撃で吹き飛ばした。
その直後には、漆黒聖典の複数人をまとめて拘束した。
しかも、まだ力を出し切ったようには見えなかった。
それほどの存在を支配下へ置いている。
殺すのはいつでもできる。
だが一度殺せば、それまでだ。
これほどの存在がどこから現れたのか。
単独なのか。
ほかにもいるのか。
そして、その力を法国が利用できるのか。
何一つ分かっていない。
自分一人が、この場の感情だけで処分していいものではなかった。
だからといって、支配を維持したまま災厄の竜王へ向かう選択肢もない。
切り札は既に使っている。
その状態で竜王級の存在へ接触するなど、勇敢ではなくただの無謀だ。
「任務を中断する」
第一席次は言った。
誰も驚かなかった。
「帰還する。この吸血鬼も連れていく」
反対する声もない。
国家最高位の神器を、本来の対象以外へ使用した。
セドランを失った。
そして、正体すら分からない怪物を一体持ち帰ることになった。
六大神官長へ何から説明するかを考えると、今から頭が痛くなる。
だが、それは帰ってからでいい。
これはもう、一部隊だけで処理する話ではない。
「カイレ様」
呼びかける。
カイレはまだ青ざめていたが、先ほどよりは呼吸が整っている。
「こいつも連れて帰ります」
カイレは一度だけシャルティアを見た。
自分を殺しかけた相手。
僅かに表情が強張る。
「ああ」
短く答えた。
それからシャルティアへ向き直る。
「私たちについて来い。許可なく離れるな」
シャルティアは、今度はほとんど間を置かなかった。
「……畏まりんした」
従った。
第一席次はその様子を見て、改めて薄い寒気を感じた。
人格が消えたようには見えない。
人間を見下すような目つきも、今までの話し方も残っている。
それなのに、カイレへ向ける反応だけが明らかに違う。
ほんの少し前まで殺そうとしていた相手だ。
それが今は、命令に従うことを嫌がっているようにすら見えない。
六大神から受け継いだ神器の力を知識としては理解していたが、実際に目の当たりにすると異様だった。
「撤収する」
号令と共に、漆黒聖典が動き始める。
セドランの遺体を回収。
カイレを中心に隊列を組み直す。
そして、その近くをシャルティアが歩く。
誰も緊張を解かない。
第一席次自身も同じだった。
支配されている。
命令にも従う。
分かっている。
それでも、背を向けたいとは思わなかった。
自分たちが今何を連れて歩いているのか。
まだ誰にも分からない。
◇
一行が動き始めてからも、ノクスは一定の距離を保ったまま追っていた。
受けた傷は残っている。
痛みも消えてはいない。
だが任務を続けられないほどではない。
カイレは生存。
支配は成功。
漆黒聖典はシャルティアを伴って帰還を選んだ。
それ以上、手を出す理由はない。
もう一つ。
漆黒聖典とは別に、一定の距離を保ったまま動いている存在がいる。
白金色の全身鎧。
こちらへ近づくことはない。
シャルティアと漆黒聖典が衝突している間も介入せず、戦闘が終わった後も姿を消してはいなかった。
今も、一行の動きに合わせて距離を保っている。
ノクスはその存在を認識したまま、追跡を続けた。
しばらくして《Message》を繋ぐ。
『主様』
『守った?』
『はい』
『それと、白金色の鎧を確認しております。漆黒聖典を尾行しているようです』
『へぇ?いいね。面白くなりそうじゃん。もうワールドアイテムの所持者を守らなくてもいいよ』
『そのまま見てて。詳しい報告はメルクリウスにしてくれ。じゃ』