天獄の熾翼、墳墓の魔王 作:マジックス
《YGGDRASIL》のサービスが始まった日、俺は予定を少しだけ早めて自室へ戻った。
食事を済ませ、届いていた連絡のうち急ぎのものだけ返す。接続機器へ身体を預けたのは、それからだった。
慣れた感覚とともに視界が落ちる。
次に目を開いた時、俺は石造りの街の広場に立っていた。
白っぽい石を敷き詰めた広場から何本もの道が伸び、その先には尖った屋根や塔が重なっている。サービス開始直後だけあって人は多く、あちこちで立ち止まったプレイヤーがメニューを操作していた。
人間らしい姿が一番多い。
その中に、明らかにそうではないものが混じっている。
鱗に覆われた大柄なもの。獣の頭を持つもの。全身を鎧で隠していても、人間とは体格の違うもの。少し離れた場所では骨だけのプレイヤーが腕を持ち上げ、何度も指を曲げ伸ばししていた。
俺は少しだけそちらを見てから、自分の手へ視線を落とした。
普通の人間の手だった。
キャラクター作成では異形種もかなり見た。
面白そうなものはいくつもあったが、結局選ばなかった。
何が強いのかも、どこまで成長するのかも分からない初日に、後戻りしにくいところまで決める必要はない。
人間で始める。
必要になったら、その時に変える。
今はそれで十分だった。
腰に吊られた初期装備の剣を抜き、軽く振る。
振り下ろす。
返す。
左手へ持ち替えて、同じように動かす。
感覚は悪くない。
細かな違いはあるが、それは使っていれば馴染むだろう。
剣を戻して、俺は街の外へ向かった。
最初にやったことは、特別なことでも何でもなかった。
敵を探して、倒した。
近くにいたものを何体か狩り、少し奥へ行って強い敵に追い回され、逃げ切れずに死んだ。
戻って、また外へ出た。
最初の報酬と拾ったものを売った金で、店に並んでいた安い剣をもう一本買った。
二刀流が最初からできるのか試したかっただけだ。
できた。
強いかどうかは別だった。
両手に剣を持って街の外へ出てみると、片手だけで戦っていた時より露骨に操作が忙しくなる。
右で攻撃している間に左が遊ぶ。
左を動かそうと意識すると、今度は相手を見る時間が減る。
両方を好き勝手に振れば、ただ攻撃動作が増えるだけで、かえって隙が大きくなった。
最初のうちは、一本で戦った方が明らかに楽だった。
それでも剣を一本に戻す気にはならなかった。
上手く使えれば面白そうだったからだ。
それからは、ほとんど毎日のようにログインした。
攻略情報も見たが、必要な部分だけだった。
何かを選ぶ前には調べる。
取り返しのつかないものなら、特にそうする。
逆に、どこへ行けば何があるのかまで全部見る気はなかった。
何も知らずに歩いていたら、森の奥で見たこともない建造物を見つけることがある。
入ってみたら、どう考えても今のレベルでは来る場所ではなく、そのまま殺されたこともあった。
それはそれでよかった。
次は装備を整えて戻ればいい。
対人戦を始めたのは、それほど後ではなかった。
最初はかなり負けた。
単純に知らないことが多い。
発動を見てからでは避けられない技能。
見た目より長い攻撃判定。
装備の特殊効果。
こちらの知らない情報を一つ持っているだけで、そのまま負けることもあった。
ただ、一度見たものは残した。
戦闘の記録を保存して、ログアウトした後で見る。
攻撃を食らった瞬間ではなく、その前から。
相手が何をしたのか。
自分はどこを見ていたのか。
見えていたのに反応できなかったのか、そもそも必要な情報を拾えていなかったのか。
同じ敗北でも原因は違う。
操作が遅いなら、慣れればいい。
見えていないなら、見る場所を変える。
判断に時間がかかっているなら、起こり得る選択肢を先に絞る。
現実側でやっていた訓練も、《YGGDRASIL》に合わせて少し変えた。
複数の動体を同時に追う。
視界の端に短時間だけ出した情報を拾う。
左右の手で別々の入力を処理する。
条件を途中で変えて、それに合わせて選択を切り替える。
何時間も続けるようなことはしなかった。
飽きたらやめる。
気が向いたらまたやる。
それでも積み重ねていけば、以前なら攻撃を見てから動いていたところで、その前に動けるようになった。
武器がこちらを向いている。
距離が少し近い。
さっき使った技能はまだ戻っていない。
なら、次に選ぶものはある程度限られる。
さらに同じ相手と何度か戦えば、そこに癖まで入ってくる。
そこまで見えるようになると、二本の剣も使いやすくなった。
右で斬る。
左で斬る。
そう考える必要がなくなった。
右を見せれば、相手はそちらを見る。
防御に武器を使えば、その武器は一瞬ほかの場所には動かせない。
左の剣は、その一瞬を取るためにも使える。
逆も同じだった。
単純に二倍攻撃するためのものではない。
相手に二つ見せられることの方が大きい。
それに気づいてから、対人戦が急に面白くなった。
何度か戦った相手の中に、槍を使うプレイヤーがいた。
最初の二戦は負けた。
剣を届かせようとすれば、その前に槍が来る。
横へ避ければ穂先が追ってくる。
無理に懐へ潜れば、柄を使って距離を戻された。
三戦目も、最初は大して変わらなかった。
俺が踏み込む。
槍が出る。
右へ抜けて避ける。
距離を戻す。
もう一度入った時も、右へ避けた。
三度目も同じようにした。
四度目。
踏み込んだ瞬間、槍先が最初から少し右へ寄った。
俺はそこで進路を変えた。
左へ入る。
穂先が横を通り過ぎた。
間合いの内側まで入り、右の剣を上げる。
相手の柄がそちらへ寄る。
振り切る前に止めて、左を胴へ入れた。
HPが削れる。
相手が距離を取った。
俺も追う。
今度は左を先に使う。
一度目。
二度目。
三度目に入るところで、相手の構えがわずかに左へ寄った。
今度は右を通した。
残っていたHPがなくなり、勝敗が決まる。
少しして、相手からメッセージが来た。
『さっきの右、誘ってた?』
俺は返した。
『途中から』
しばらくして、
『ああ、やっぱり』
とだけ戻ってきた。
そのままやり取りは終わった。
次に戦えば、もう同じことは使いにくい。
それでいい。
また別の方法を考えればいい。
そういうことを繰り返しているうちに、俺の名前を知っているプレイヤーが少しずつ増えていった。
試合が始まる前に装備を変える相手も出てきた。
俺が距離を詰めるのを嫌って、最初から近接対策を厚くする者もいた。
二刀を見て、片側への攻撃を誘ってくる者もいる。
こちらも変えた。
職業を調べ、取ったものを実際に使い、合わなければ次の候補を探す。
種族を変えたのもその途中だった。
条件が揃った時には、もう人間へ残る理由がなかった。
種族変更を終え、自分の背中から伸びた翼をしばらく見た。
そのまま街の外へ出て、飛んでみる。
最初から上手く使えたわけではない。
上昇と下降なら簡単だった。
前へ進むのも難しくない。
問題は、速く動きながら戦おうとした時だった。
曲がりたいところで曲がり切れない。
攻撃に意識を持っていかれると高度がずれる。
地上と同じ感覚で相手との距離を測ると、上下の分だけ判断が遅れる。
何度か酷い動きをした。
一度、戦闘中に相手の横を抜けようとして、そのまま岩壁へぶつかったこともある。
後から記録を見て、これはかなりひどいなと思った。
そこからまた慣らした。
地上では使えなかった方向から入れる。
頭上を取る。
背後へ抜ける。
上へ逃げるように見せて、途中で身体を落とす。
一度見せた軌道を相手が待つようになれば、次はそこを通らない。
飛行そのものより、相手が警戒しなければならない方向が増えることの方が大きかった。
気づけば、《YGGDRASIL》を始めた頃よりかなり長く遊ぶようになっていた。
最初は十二年後のことを考えて始めたはずだった。
ただ、その頃には、それだけではなくなっていた。
ある夜、ログアウトした後に接続機器から身体を起こし、そのまましばらく天井を見ていたことがある。
サービス終了の日。
その日にも、こうして目を開けるのか。
分からない。
何も起きず、この部屋へ戻ってくるのが一番普通だろう。
俺ではなく、俺と同じ記憶を持った何かが向こうにできるだけかもしれない。
こちらの意識が途切れて、向こうだけ続くのかもしれない。
考えれば他にもいくらでも出てくる。
けれど、どれも今は確かめようがなかった。
俺は端末へ手を伸ばし、翌日の予定を確認した。
少し空いている。
なら、またログインすればいい。
新世界がなくても、《YGGDRASIL》は面白かった。
それからしばらくして、公式から大会の告知が出た。
ワールドチャンピオン。
表示された文字を見て、俺はそのまま参加条件を開いた。
最後まで読んでから登録する。
迷いはなかった。
欲しかった。
報酬もそうだし、職業も欲しい。
何より、取れる可能性があるのに出ない理由がなかった。
大会までの間、対人戦の相手を少し変えた。
自分が勝ちやすい相手は避ける。
槍。
大剣。
重装。
高速型。
空中戦へ付き合ってくる相手。
逆に、徹底して飛ばせない構成。
魔法を補助に使う近接職。
いくつも戦った。
負けた試合は当然見る。
勝った試合も同じように見た。
こちらが読み違えたのに、装備の差で押し切った場面。
相手が偶然操作を失敗して、それをこちらの成功だと思いそうになる場面。
結果だけ見れば勝っている。
けれど、大会で同じことをすれば負けるかもしれない。
そこは分けた。
やがて大会が始まった。
予選を通過し、本戦へ進んだ。
そこから、試合の感触が変わった。
一度見せた回避方向を次には狙われる。
安易に距離を取れば、その先へ技を置かれる。
こちらが相手の試合を見ているように、相手も俺の試合を見ている。
適当に動けば、その適当さまで拾われる。
準決勝の相手は槍使いだった。
試合開始と同時に中央へ出て、そこから動かない。
こちらを追い回すつもりはないらしい。
俺が飛び上がると、それに合わせて槍先が上を向いた。
かなり慣れている。
空へ逃げれば安全、とはいかない。
少し距離を取ったまま周囲を回る。
斜め上から一度入る。
槍が伸びた。
途中で軌道を外して離れる。
もう一度。
今度も突き。
三度目には少し低い位置から入った。
相手は同じように迎撃した。
四度目。
それまでよりわずかに高く見せてから、途中で高度を下げる。
槍が動いた。
穂先が、俺の進路より上へ寄る。
それを見て翼を畳んだ。
身体が一気に落ちる。
槍が頭上を通った。
地面へ着く寸前で翼を開き直し、その勢いのまま懐へ入る。
右の剣を振る。
柄で受けられた。
左へ繋ぐ。
それも止められる。
近づけば終わるほど簡単ではない。
相手は槍を短く持ち直し、柄をこちらへぶつけてきた。
右の剣で逸らす。
空いたところへ左を入れる。
相手が下がって避けた。
一歩追う。
また下がる。
さらに追う。
三度目に相手が下がった時、俺は足を止めた。
槍だけがこちらを迎えるように一瞬動いた。
そこへ踏み込む。
右が通る。
左を続ける。
相手のHPが消えた。
勝利の表示を確認してから、俺は息を吐いた。
あと一つだった。
決勝の相手は大剣を使っていた。
全身を重い鎧で固めている。
試合が始まる前に過去の戦闘も見たが、見た目通りの鈍重な相手ではない。
攻撃の出が速いものをいくつも持っている。
その代わり、いつでもそれを使えるわけではない。
開始。
俺は先に高度を取った。
相手は追わず、こちらへ身体の正面だけを向けている。
少し高度を落とす。
大剣の構えが変わる。
そのまま近づいて、攻撃範囲へ入る寸前に横へ抜けた。
動かない。
次は正面から行った。
剣が上がる。
俺は右へ逃げる。
大剣は振られなかった。
まずいと思った時には遅かった。
着地に合わせて、横から刃が来る。
両剣を当てて受け流したが、勢いを殺し切れない。
身体が横へ押し流され、HPも削れた。
相手が踏み込む。
追撃。
今度は上へ避けた。
さらに攻撃が続く。
左の剣を当てて軌道をずらしながら、右を胴へ滑らせる。
浅い。
それでも当たった。
俺はそのまま距離を取る。
相手も追わずに止まった。
面倒だった。
同時に、かなり楽しかった。
そこから何度も距離を変えた。
上から入る。
正面から入る。
地上へ降りる。
途中で引く。
相手も、同じ対応を繰り返してはくれなかった。
一度こちらの攻撃を止めた動きを、次には途中で変える。
こちらがそれを警戒すると、最初の動きへ戻す。
互いのHPが少しずつ減っていった。
一撃をまともに受ければ向こうの方が重い。
その分、俺は攻撃できる方向が多い。
戦いながら、相手が何を選んだのかだけを覚えていく。
上から入った時。
横へ抜けた時。
距離を詰め切った時。
途中で止まった時。
同じ状況でも反応はいくつかある。
ただ、何でも選んでいるわけではない。
俺は一度、高度を取った。
そこから正面へ降りる。
相手が大剣を構える。
俺は避けるのを少し遅らせた。
攻撃が身体を掠める。
HPが減る。
そのまま離れた。
相手が追ってこないことを確認し、別の角度から二度ほど攻める。
しばらくしてから、もう一度同じ高さへ上がった。
ほとんど同じ角度で降りる。
相手の剣が動く。
さっきと同じだった。
今度は攻撃が出るまで待たない。
翼を畳む。
急に高度を落とした俺の上を大剣が通り過ぎた。
地面へ足が着く。
すぐ目の前に相手がいる。
左を振る。
大剣が戻る。
左を止めた。
右へ切り替える。
相手も構えを動かす。
それも最後までは振らない。
二度、相手の大剣を動かした。
そこから正面へ入る。
左。
今度は止めない。
刃が鎧へ入る。
すぐ右を続けた。
相手のHPが大きく減った。
それでも残る。
大剣が下から持ち上がった。
見たことのない技能だった。
距離を取ることもできる。
ただ、それをすればまた最初からになる。
俺は相手の剣ではなく、腕と足を見た。
踏み込み。
腰の向き。
刃が来る。
身体を少しだけずらす。
完全には避けられなかった。
肩を削られ、HPが赤まで落ちる。
けれど残った。
大剣は振り切られている。
右を入れた。
まだ残る。
左。
相手のHPがなくなった。
一瞬遅れて、闘技場全体の表示が切り替わる。
俺の名前が出る。
その下に、新しい文字が表示された。
ワールドチャンピオン。
しばらく画面を見ていた。
それから、自然に笑った。
「取れたな」
声にすると、ようやく実感が出てきた。
嬉しかった。
思っていたより、ずっと。
勝てるつもりではいた。
それでも、勝てると思っていることと、本当に最後まで勝つことは別だった。
新しく使えるようになったものを確認していく。
職業。
報酬。
装備。
試したいものが一気に増えた。
その日は結局、かなり遅くまでログインしていた。
頂点を取れば一度満足するかと思っていたが、あまり変わらなかった。
むしろ、今まで手が届かなかったものが見えるようになった分だけ、次が増えた。
まだ欲しいものがある。
まだ行ったことのない場所もある。
それで十分だった。
◇
それから、しばらく経った。
鈴木悟とは相変わらず連絡を取っていた。
何年も付き合っていれば、最初の頃のように毎回話題を探すこともなくなる。
時間が合えば話す。
悟が仕事の話をすることもあれば、何かのゲームについて話すこともある。
俺も適当に返す。
ある日、その途中で悟が言った。
「そういえば、YGGDRASILってあるだろ」
俺は手元の画面を見たまま答えた。
「ああ」
「ちょっとやってみようかなと思って」
そこで初めて顔を上げた。
悟の様子はいつもと変わらない。
特に楽しみにしているようにも見えなかった。
「急だね」
「そうでもないけど。前から名前は知ってたし」
「へえ」
「最近よく見るから、まあ一回くらい」
「いいんじゃない」
悟は少し黙ってから、
「合わなかったらすぐやめると思うけど」
と言った。
「ゲームなんだから、それでいいでしょ」
俺はそう返した。
数日後、本当に始めたらしい。
そのことを聞いた時、俺は何気ないふうに尋ねた。
「何にしたの?」
「アンデッド」
一瞬だけ笑いそうになった。
「人間じゃないんだ」
「せっかくなら、違うのでいいかなと思って」
「まあ、そうか」
それ以上は聞かなかった。
キャラクター名を聞けば、もっと詳しい話へ続く。
どこにいるのか、どう育てているのか。
今の俺には必要ない。
現実で話す分には、今まで通りでいい。
《YGGDRASIL》の中まで同じ関係を持ち込むつもりはなかった。
しばらくすると、悟の口からゲームの話が増えた。
ただし、あまり楽しそうではなかった。
「昨日また殺された」
ある時、悟が言った。
「前も言ってなかった?」
「言った。今日もやられた」
「結構いるんだね、そういうの」
「異形種だからって狙ってくる奴がいるみたいでさ」
声には疲れが混じっていた。
仕事を終えてから遊んでいるのに、その先で何度も一方的に殺される。
それが続けば嫌にもなる。
何日か後。
また似たような話をしていた時に、悟が言った。
「もうやめようかな」
俺は少しだけ考えた。
「もう?」
「うん。別に、そこまでやりたいわけでもなかったし」
「まあ、でも始めたばっかりなんでしょ」
「そうだけど」
悟が少し間を置いた。
「帰ってきてまで、知らない奴に何回も殺されるのもな」
「それは分かる」
俺は一度そこで止めた。
すぐに続けろと言えば不自然だ。
悟は《YGGDRASIL》を遊んでいる俺を知らない。
俺がこのゲームへ特別な関心を持つ理由も、悟からすればない。
「でも、もう少しやってみてもいいんじゃない?」
「そうかな」
「まだ何があるかも分からないでしょ。もう少しやって、それでも合わないならやめればいいし」
悟はしばらく黙っていた。
「……まあ、そうするかな」
「うん」
それで話題は終わった。
俺は別の話を始めた。
悟には残ってもらった方がいい。
俺が覚えている通りの未来になる保証はない。
それでも、アインズになる可能性のある人間が、ここでゲームをやめるよりは残っていた方がいい。
わざわざ理由を教える必要はなかった。
それからも、悟は《YGGDRASIL》を続けた。
時々、またやられたという話を聞いた。
一度くらい助けに行くことを考えなかったわけではない。
場所を聞き出して探せば、それほど難しくはないだろう。
けれど、やらなかった。
俺が行けば、その時点から関係が繋がる。
今それをする理由はなかった。
そんな頃、別のワールドチャンピオン大会の結果が公開された。
俺は一覧を眺めていて、その名前で目を止めた。
たっち・みー。
横にはワールドチャンピオンの表記がある。
少し長く見た。
俺と同じところまで来た。
どれくらい強いのか、純粋に興味はあった。
原作で知っていた強さと、実際に対戦して感じる強さは別だ。
一度戦ってみたい。
そう思ったが、わざわざ連絡を取ることはしなかった。
急ぐ必要もない。
結果画面を閉じる。
それから数日後だった。
悟から連絡が来た。
いつものように話していると、途中で《YGGDRASIL》の話になった。
「今日もやられたの?」
俺が聞くと、悟は少し笑った。
「いや。まあ、やられそうにはなったけど」
「また?」
「うん。でも今日は助けてもらった」
俺は悟の顔を見る。
「へえ」
「たっち・みーって人」
名前を聞いても、知らないふりをした。
「強い人?」
「かなり。俺を狙ってた人たち、すぐ倒してた」
悟は少し考えてから続ける。
「そのあと、少し話したんだけど」
「うん」
「また一緒にやろうって」
そこで悟は少しだけ笑った。
大きな変化ではない。
けれど、これまで《YGGDRASIL》の話をしていた時とは違った。
「よかったじゃん」
「うん」
短い返事だった。
しばらくして、悟が思い出したように言った。
「ワールドチャンピオンって分かる?」
「名前くらいは」
「その人、それらしい」
「へえ。じゃあ相当強いんだ」
「たぶん。俺にはまだよく分からないけど」
悟はそう言ってから、さっきの話へ戻った。
どういう場所で襲われたのか。
たっち・みーが来てからどうなったのか。
その後、何を話したのか。
一つ一つは大した話ではない。
それでも、悟の方から《YGGDRASIL》についてこれだけ話すのは初めてだった。
俺は途中で口を挟まずに聞いた。
話が終わったところで、
「じゃあ、もうやめないの?」
と聞く。
悟は少し迷った。
「もう少しやると思う」
「そっか」
「せっかく誘ってもらったし」
「うん」
それだけだった。
けれど十分だった。
連絡を切った後、俺は少しの間そのまま座っていた。
俺が引き留めた時には、まだ理由らしい理由はなかった。
今は違う。
ゲームの中に、次に会う相手がいる。
たぶん、それだけでかなり変わる。
端末へ手を伸ばし、《YGGDRASIL》を起動する。
視界が暗くなる。
鈴木悟と最後に話した声が遠ざかり、代わりにゲーム内の環境音が戻ってきた。
俺はいつもの場所に立っていた。
背中の翼を広げる。
少し離れたところで、何人かのプレイヤーがこちらを見た。
そのうち一人が俺の装備を見て、別のプレイヤーへ何か言っている。
気にせず空へ上がった。
どこかには、モモンガがいる。
その近くには、たっち・みーもいるかもしれない。
俺とはまだ関係のない場所で、勝手に知り合い、勝手に遊び始めている。
それでいい。
俺は別の方向へ身体を向けた。
今日は、昨日見つけた場所の続きを調べるつもりだった。
翼を打つ。
街が後ろへ流れていく。
俺には俺の《YGGDRASIL》がある。
今はまだ、それぞれ好きに遊んでいればよかった。