天獄の熾翼、墳墓の魔王 作:マジックス
ゼロになった。
それでも、視界は暗転しなかった。
強制ログアウトも、終了を告げるウィンドウもない。
代わりに押し寄せてきたのは、《YGGDRASIL》では一度も感じたことのない感覚だった。
冷たい空気。石と土の臭い。翼の表面を撫でる僅かな風。鎧が身体に触れる感触。
指を動かせば、ゲームの入力ではなく、自分の身体を動かしているとしか思えない感覚が返ってくる。
一度だけログアウトを試した。
反応はない。
そもそもメニュー自体が呼び出せなかった。
「……よし」
少なくとも、《YGGDRASIL》が正常に終了した状態ではない。
なら、次にやることは決まっている。
ここから離れる。
俺は隠密状態を維持したまま動き出した。
今いるのはナザリック地下大墳墓の第一階層。最終日のために何度も侵入経路を確認し、直前まで外部の情報を追いながら自分でも試していた場所だ。
もし転移が起きたのなら、モモンガもいる可能性が高い。
原作と同じなら、NPCたちも既にただのプログラムではなくなっている。
そんな状況で見つかるのは面白くない。
初手でナザリックと接触すれば、その後の関係まで一気に決まりかねない。
俺がやりたいのは、アインズと世界を賭けて遊ぶことだ。
最終的に敵対するにしても、協力するにしても、そこへ至るまでには積み上げがあった方がいい。何も分からない転移直後に第一階層で鉢合わせするのは、さすがに雑すぎる。
だから今は離れる。
来た経路を戻り、足音を抑えながら第一階層を抜けていく。
見覚えのある通路。罠を警戒していた地点。侵入試験の時に何度も確認した分岐。
俺が知る限り、特に変化はない。
追跡されている様子も、警戒が上がった気配もなかった。
そのまま外へ出る。
周囲を見渡して、すぐに気づいた。
地形が違う。
遠くには森と草原が広がり、地面には緩やかな起伏が続いている。《YGGDRASIL》でナザリックが存在していた場所とは明らかに一致しない。
ここまで来れば、かなり確度は高い。
俺は翼を広げ、地面を蹴った。
一気に高度を取り、そのままナザリックから離れる。数分飛んだ後、さらに転移魔法を挟んで距離を稼いだ。
どこまで離れれば安全なのかは分からない。
なら、自分で問題ないと思えるところまで行けばいい。
やがて人気のない森を見つけ、木々の間へ降りる。
人影はなく、追跡されている兆候もない。
ここでようやく、次の確認へ移った。
俺が最優先で知りたいのはナザリックではない。
天空城だ。
正確には、そこへ残したNPCたち。
俺の記憶にある転移が起きているなら、天空城も何らかの形でこちらへ来ている可能性がある。
同時に来たのか。
別の時代なのか。
そもそも来ていないのか。
七人のWorld Championはどうなったのか。
外から推測していても仕方がない。
直接聞けばいい。
《Message》。
転移後も正常に機能する保証はないが、試す価値はある。
対象に選んだのは、外部での活動を前提に作ったNPCだった。
変装、潜入、情報収集。
俺がいない状態が長期間続いても動けるよう、かなり前から指示を残してある。
周辺社会へ入り込み、情報を集め、必要なら長期間潜伏する。ただし俺が戻るまでは、独断で世界を大きく動かしすぎない。
そういう役割のために作った個体だ。
魔法を発動する。
――繋がった。
一瞬遅れて、頭の中へ声が届く。
『――誰だ』
低い声だった。
俺は少しだけ笑った。
声がある。
そして、その短い一言だけでも意思があることが分かる。
少なくとも、ただのNPCだった頃とは違う。
「俺だ」
数秒の沈黙。
『……主、様?』
声色が変わった。
「そうだ」
今度の沈黙では、息を吸う音まで聞こえた。
『本当に……』
「確認は後でいい」
聞きたいことはいくらでもある。
天空城。七人。ほかのNPC。俺がいなかった間に何が起きたのか。
だが、まず確認すべきことがあった。
「お前は今どこにいる?」
『スレイン法国にございます』
やはり。
少なくとも、残していた指示に沿って動いているらしい。
「法国の情報網は使えるか?」
『はい』
返答に迷いはなかった。
「なら、リ・エスティーゼ王国との国境付近を確認してほしい。カルネ村という小さな村があるはずだ。その周辺で、法国が何か部隊を動かしていないか?」
向こうが黙った。
何かを確認しているのだろう。
数十秒ほどして、返事が来た。
『ございます』
「詳細」
『陽光聖典が王国領内へ侵入しております。帝国兵に偽装し、国境付近の村落を襲撃。王国戦士長ガゼフ・ストロノーフを誘引する作戦です』
ほぼそのままだ。
「目的はガゼフの殺害か?」
『その認識で間違いございません』
「指揮官は?」
返ってきた名前も記憶と一致した。
俺は木に背を預ける。
ナザリック。
カルネ村。
陽光聖典。
ガゼフ。
これだけ揃えば、時期は原作開始直後と考えてよさそうだ。
もちろん、完全に同じ世界ではない。
俺がいる。
天空城も存在しているらしい。
そこのNPCたちは、既に長い時間こちらで活動している可能性が高い。
それでも、少なくとも現時点の表面上の流れは俺の知っているものに近い。
なら、わざわざ崩す必要はない。
このまま進めば、陽光聖典が村々を襲い、ガゼフが動く。
モモンガはカルネ村を発見し、エンリとネムを助け、その後ニグンたちと接触する。
あれはアインズが新世界で初めて外部へ踏み出す切っ掛けだ。
「陽光聖典には触るな」
『承知いたしました』
「カルネ村周辺も同じだ。俺から命令するまで、今ある流れを変えなくていい」
『かしこまりました』
これでいい。
モモンガが原作通り動くなら、そのまま見ればいい。
違いが出た時に考える。
それより、今は自分の陣営を確認する方が先だ。
「他にも聞きたいことは多い」
『はい』
「直接会って聞く」
向こうから声が消えた。
そして返ってきた時には、先ほどより僅かに震えていた。
『……こちらへ、お越しになられるのですか』
「そのつもりだ」
『では、直ちにお迎えの準備を――』
「いらない」
大勢を動かされる方が困る。
「今まで通りにしていろ。俺が戻ったことで余計な動きを増やすな」
『承知いたしました』
その返答にはどこか慣れたものがあった。
俺が以前から残していた方針と、それほど違わないのだろう。
「あと、俺が戻ったことも勝手に広めなくていい」
少し間があった。
『天空城の者にも、でしょうか』
その一言で、もう一つ分かった。
天空城は存在している。
少なくとも、そこにいる者と連絡を取れる状態にある。
詳しく聞きたいところだが、《Message》越しに全部済ませる必要はない。
「それも会ってから決める。目立たず接触できる場所を教えてくれ」
法国国内で、NPC側が安全を確保できる場所を指定させる。
通信を切ろうとしたところで、向こうから声がかかった。
『主様』
「何だ?」
短い沈黙。
『お待ちしておりました』
それだけだった。
俺は返事をせず、《Message》を切った。
転移は起きている。
NPCたちもいる。
天空城も、この世界のどこかに存在している。
そして彼らは、俺の知らない時間を既にここで過ごしているらしい。
一方で、カルネ村周辺では俺の知っている最初の事件が動き始めている。
思っていたより面白いことになっていた。
まずは法国へ行こう。
そこで、俺がいなかった間に何があったのかを聞く。
七人はどうなったのか。
天空城は今どこにあり、俺が残した指示は何を生んだのか。
知るべきことは山ほどある。
俺は再び翼を広げ、教えられた方角へ身体を向けた。
その先にあるのは、スレイン法国。
そして、俺がずっと昔に残してきたものだった。