天獄の熾翼、墳墓の魔王 作:マジックス
法国へ向かいながら、俺は昔、天空城へ残したものを思い返していた。
NPCや装備、資産だけではない。もし天空城だけが俺より先に転移した場合に備えて、俺が知っている新世界の情報と、その情報を使って何をしてほしいのかもかなりの量を残してある。
ただし、そのまま読める形ではなかった。
重要な指示の多くは暗号文にしてあり、その解読方法をNPC側の設定として持たせた。指定された暗号をどう読めば意味のある文章になるのかを知っており、そこで得られた内容が創造主である俺からの正式な指示であることも理解している。
転移後にNPCが設定通りの人格と知識を得るなら、それで十分なはずだった。
だが念の為、手紙も残した。
国家名、人物名、将来起こる可能性の高い事件、プレイヤーや竜王について俺が覚えていること。転移後に必要な者が読んだ後は消去するよう指示してある。
俺が何百年後に来るのか、それともそもそも来ないのかは分からなかった。
だから、やってほしいこと自体はかなり細かく決めた。
法国を可能な限り存続させること。
六大神信仰を無意味に崩さないこと。
各国、特に法国の内部へ入り、必要な情報と影響力を確保すること。
プレイヤー由来の血統を保護し、利用価値があるなら増やすこと。
天空城を秘匿し、資産を浪費しないこと。
俺が知る未来と現実が食い違った場合には現実を優先し、その差が生じた原因を調べること。
俺が後から現れた場合には、それまでの命令よりも俺本人の判断を優先すること。
他にもかなり残した。
だから、NPC側が五百年間ずっと俺の考えを推測する必要はない。
何を目指すかは俺が決めてある。
法国へ入り込めとは命じられるが、五百年前の俺には、現地で誰を利用すれば最も安全なのかまでは分からない。そこを実際に処理するために、外で長期間動けるNPCを用意した。
その結果がどうなったのか。
ようやく直接聞ける。
◇
指定された屋敷は、法国の中央部から少し外れた場所にあった。
街道から僅かに離れた土地で、周囲には耕作地と疎らな家々が広がっている。二階建ての屋敷も、この辺りでは裕福な商人か地方の有力者が所有していそうな程度の規模で、わざわざ目を留めるほどではない。
上空から周辺を一度確認してから、人目のない林へ降りる。
着地して異形形態を解くと、背に広がっていた六枚の翼が消えた。
それから装備の外見も周囲から浮かないものへ整え、徒歩で屋敷へ向かう。
門を抜けても誰も迎えには出てこなかった。
頼んだ通りだ。
玄関まで来たところで、こちらが扉へ触れるより先に内側から開く。
立っていたのは四十代ほどの男だった。
灰色がかった髪を整え、仕立ての良い服を身につけているが、貴族ほど華美ではない。顔にも強く印象へ残る特徴がなく、商人にも役人にも地主にも見える。
五百年間、いくつもの身分を使い分けてきたのなら、今の姿もその一つなのだろう。
男の視線が俺を捉えた瞬間、その動きが止まった。
すぐに周囲へ目を向け、通りに誰もいないことを確認してから俺を中へ通す。扉が閉じ、外の音が遠ざかったところで、ようやく男は俺へ向き直った。
そして膝をついた。
頭を深く垂れたまま、しばらく声が出ない。
「……お帰りなさいませ」
《Message》越しよりも低い声だった。
僅かに震えている。
「我が主」
五百年。
俺にとっては昨日まで《YGGDRASIL》だった。
こいつにとっては違う。
その差が、初めて少しだけ実感できた。
「ただいま。立っていいよ」
すぐには動かなかった。
数秒遅れてから、男はようやく立ち上がる。
「あと、本来の姿でいい」
「……御意」
人間の輪郭が崩れた。
肌も顔も体格も変わり、やがてそこに現れたのは、滑らかな卵を思わせる頭部と四本の指を持つ人型だった。
グレーター・ドッペルゲンガー。
俺が《YGGDRASIL》で作った姿。
名はメルクリウス。
天空城に属するLv100NPCであり、拠点の外で長期間活動することを前提に設計した実働担当だった。
潜入、変装、諜報、交渉、経済活動、組織への浸透。
俺が目的と制約を与え、その中で現地の状況に合った方法を組み立てる。
何百年という時間が本当に発生するなら、そういうNPCが一体くらい必要だと思って作った。
まさか実際に五百年使うことになるとは思っていなかったが。
「ずっと活動してたんだよね?」
「はい。主様より頂戴した命令に従い、現在まで」
そこで言葉が途切れた。
顔らしい表情はほとんどない。
それでも、いつも通りの報告へ戻ろうとしているのは分かった。
「先に座ろうか。聞くこと多いし」
「御意」
奥の部屋へ移る。
そこは応接室らしく、厚い木製の机と数脚の椅子が置かれ、壁際の棚には帳簿や綴じられた書類が並んでいた。装飾は少ないが、長期間使われている場所らしく物の配置には無駄がない。
俺が椅子へ座ると、メルクリウスも向かいに腰を下ろした。
机の端には既に何冊かの資料が揃えてある。
俺が来ると聞いてから用意したのか、それとも元々そういう状態で保管していたのか。
「最初から五百年分話す?」
「ご希望であれば」
「何時間かかる?」
「概要のみでも、相応に」
だろうな。
「じゃあ現在に繋がってるところをまとめて。その後、俺が気になったところを聞く」
「承知いたしました」
メルクリウスが一冊目を開いた。
◇
天空城がこの世界へ現れたのは、およそ五百年前。
同時に転移したのは城そのもの、NPC、ギルド資産、そして最終日に集めた七人のワールドチャンピオン。
俺だけはいなかった。
当時は捜索も行われ、《Message》を含めて接触手段も試されたが、俺を確認することはできなかったという。
七人は当初、天空城を拠点に周辺を調査した。
その後は次第に外部へ活動を広げ、この世界の国家や種族、強者たちと関わるようになった。
ワールドチャンピオンが七人。
当然、この世界では無視できる規模ではない。
各地での戦争や強者との衝突を経て、その名は歴史へ刻まれた。
七欲王。
「そこは七になったんだ」
「はい。公に活動した王が七名であったことから、比較的早い時期には既にその呼称が広まっております」
俺が知る歴史なら八欲王。
この世界では七欲王。
原因は分かりやすい。
実際に来たのが七人だった。
「で、全員死んだ」
「はい」
メルクリウスは一冊の記録をこちらへ滑らせた。
ページには年代ごとに名前と事件が並んでいる。
俺はまだ細部を追わず、ざっと眺めるだけにした。
外敵との戦闘。
真なる竜王との衝突。
蘇生。
勢力拡大。
七人同士の対立。
一度の内乱だけで簡単に全滅したわけではないらしい。
何度も戦い、何人かは死んでは戻り、その過程で関係が壊れ、最後には誰も残らなかった。
「これは後でちゃんと読む。誰が何やったかは気になる」
「個別記録もございます」
「あとで」
五百年分ある。
ここで読み始めたら終わらない。
メルクリウスは別の資料へ移った。
天空城のNPCについて。
三十体のうち、現在も活動しているのは二体。
一体は目の前のメルクリウス。
もう一体は、天空城の維持管理を長期的に担うために作ったNPC。
それ以外の二十八体は、五百年の間に全て死亡していた。
役割はそれぞれ違い、死亡した経緯も一様ではない。
七欲王と共に外へ出た者もいれば、別の任務で失われた者もいる。
天空城の防衛や資産保全に関わって死んだ者もいた。
「復活用の金貨は?」
俺が聞くと、メルクリウスはすぐに別のページを開いた。
「現在の備蓄で、レベル百のNPC十二名を復活可能です」
十二。
俺の中で、死んだNPCの顔がいくつか浮かぶ。
戦闘に強い奴から戻すか。
情報系か。
特殊な役割を持っていた奴か。
今の世界で必要な構成から逆算するか。
十二体しか戻せないなら、順番にも意味がある。
――まあ、今決めることじゃない。
「使用してないのは、俺が残した保全基準のせい?」
「その通りでございます。天空城そのものの存続、指定された重要資産の防衛、または命令遂行に不可欠な場合を除き、一定量以下へ減少させないよう運用しております」
「了解。その判断で合ってる」
誰を復活させるか俺に決めてもらうためではない。
単に使い切るなと命じていたから残っている。
その方が自然だった。
◇
天空城も健在だった。
外洋上空を中心に、人間の航路や人口密集地から離れた空域を選び、定期的に位置を変えている。
同じ場所へ留まらないのは、俺が残した指示。
どこへ動かすか、いつ動かすか、どの程度の観測を危険と見なすか。
そこは管理役のNPCが五百年間処理してきた。
「大きく損傷したことは?」
「複数回ございます。ただし、現在は主要機能を回復しております」
「そこも記録ある?」
「はい」
「あとで」
倉庫。
復活設備。
ギルド資産。
それらも大部分が維持されている。
完全無傷ではない。
五百年という長さを考えれば当然だった。
失われた物。
消費した物。
代替できた物。
新世界で追加取得した物。
それぞれ別に記録されている。
思っていたより、かなりちゃんとしている。
◇
報告が法国へ移る。
ここからはメルクリウス自身が大きく関わった部分だった。
「法国へは、転移から間もなく接触を開始しております」
「最初から内部に入った?」
「いいえ」
即答だった。
そこは少し興味が湧いた。
「当時の法国へ外部の身分で直接入り込み続けるより、周辺交易を利用する方が長期的には安全と判断いたしました」
最初に作ったのは、法国の人間ですらなかった。
周辺地域で商人として活動し、法国と取引する。
取引先を増やす。
情報を集める。
必要な者へ資金を流す。
そこから何十年もかけて、法国の内部へ繋がる経路を作った。
途中では、築いた地位を意図的に捨てた時期もあったという。
「なんで?」
「一系統への依存が強くなりすぎました。維持すれば短期的には有利でしたが、その一族が失脚した際に私まで連鎖して露見する危険がございましたので」
なるほど…?
「そこで一度、当該身分を死亡したことにし、別系統へ移行しております」
「それ何回くらいやった?」
「大規模なものだけで十一回」
思わず少し笑った。
「結構やってるな」
「五百年ございますので」
そう言われればそうだ。
法国へ入り込め。
それは俺が命じた。
だが五百年間どう潜り続けるかまでは、俺には書けない。
そこがメルクリウスの仕事だった。
現在の法国は、表向きには法国自身が運営している。
政治家も宗教家も軍人も、基本的にはこの世界の人間。
ただ、その裏にはメルクリウスが積み重ねた資金、人脈、情報源、複数の身分がある。
必要なら内部情報を取れる。
特定の方向へ僅かに押すこともできる。
しかし国家そのものを丸ごと操り人形にはしていない。
「六大神信仰はそのまま?」
「はい。命令に従い、教義の根幹へ直接介入することは避けております」
《傾城傾国》も法国に残っている。
回収する機会がなかったわけではない。
あえて取らなかった。
俺が残した未来情報の中で、あれが将来重要な意味を持つ可能性を伝えていたからだ。
使わせるかどうかは今後決める。
選択肢が残っているなら、それでいい。
血統についても同じだった。
プレイヤーの血を引く者を把握し、可能な範囲で系譜を残す。
デケムを含め、利用価値の高い血統は使う。
その結果。
現在、覚醒を確認している神人は十名。
アンティリーネと同程度まで到達している者は本人しかいないらしい。
「なるほど」
それなら十分だ。
原作の法国より明確に強い。
しかも、単純に強者を増やしただけではない。
俺が知る国家構造をある程度残したまま、内部戦力だけ底上げしている。
こういう改変なら扱いやすい。
◇
「暗号と手紙は?」
そこも確認しておく。
「暗号文は全て指定された方法で復号いたしました。私自身の設定により解読手順を知っており、復号された内容が主様より与えられた正式な命令であることも理解しております」
「手紙は?」
「指定された者で内容を共有した後、全て消去いたしました。複製も行っておりません」
問題ない。
「じゃあ、次」
机の上の資料から目を上げる。
「俺が残した未来情報と、実際に違ったところ。大きいのから教えて」
メルクリウスの手が一瞬止まった。
それから、何冊かある資料の中から薄い黒表紙のものを選ぶ。
「差異記録でございます」
最初のページが開かれた。
「最も危険度の高い差異として分類しているのは、真なる竜王です」
そこで俺も少し姿勢を変えた。
「どのくらい違う?」
「主様より頂いた情報だけでは、個体を特定できない事例が複数ございます」
メルクリウスは三つほど記録を示した。
同一個体が別名で伝承されている可能性。
既知の真なる竜王が、俺の知らない時代や地域で活動しただけの可能性。
伝聞が混ざり、一体を複数と数えている可能性。
全部残している。
その上で。
「これらを全て既知個体の誤認として処理することは、現時点では困難です」
「最低でも?」
「確実な最低数は申し上げられません。ただ、主様から伝えられた一覧より多く存在すると仮定した方が、現状の記録とは整合いたします」
俺はページを見たまま、しばらく黙った。
これは結構大きい。
原作知識が外れた、というだけじゃない。
俺が知らないLv100級の敵がいる可能性がある。
しかも真なる竜王。
ワイルドマジック持ち。
対策を知らない相手。
「……いいな」
「はい?」
「いや、こっちの話」
少し面白くなってきた。
知っている敵だけの世界より、その方がいい。
ただし遊ぶにしても、まず情報は欲しい。
「未確認個体は最優先で情報集め継続。戦闘はしなくていい」
「御意」
これで一つ。
未来情報を盲信しない理由が、実例として出た。
◇
次に出たのは法国の秘密伝承だった。
これは差異というより、俺の命令を五百年運用した結果に近い。
「『真なる神』の伝承は現在も維持しております」
「あれ、どういう形になった?」
元々の狙いは単純だった。
俺が五百年後に現れた時、法国側が完全な部外者として扱わないための受け皿を作る。
ただし六大神信仰そのものを壊してはいけない。
メルクリウスは、その条件を守った。
最初から完成した教義を押し込んだわけではない。
ごく少数の継承者へ、
六大神とは別に、いずれこの地へ現れる存在がいる。
その者は六大神と敵対するものではなく、より古い約束によって法国と結ばれている。
そういう形で断片的な伝承を渡し、代替わりするたびに継承させた。
当然、五百年も経てば解釈は変わる。
ある時代には「六大神が待っていた神」と理解され。
別の時代には「六大神すら知らない上位存在」と考える者が出た。
一時期は、単なる象徴的な予言だと解釈する派閥まであったらしい。
「かなり変わってるな」
「原文の固定より、伝承として自然に存続することを優先いたしました。主様より指定された認証条件のみ、内容を変えず保持しております」
「それならいい」
むしろ五百年間、一字一句同じ宗教伝承の方が不自然だ。
重要なのは、俺が現れた時に照合できる部分だけ残っていること。
「今、それ知ってるのは?」
「最高位の一部と、継承を担当する者のみです」
「俺が法国へ出たら、すぐ通せる?」
「認証を行えば」
使える。
それで十分だった。
◇
メルクリウスが次の頁を開いた。
「七欲王に関しても、主様の情報には存在しない後世の説が一つございます」
「何?」
「七欲王には、表へ現れなかった八人目が存在したのではないか、というものです」
少し笑った。
「俺じゃん」
「可能性を論じる者たちは、当然ながら主様の存在を確認しておりません」
「分かってる」
七欲王という呼称そのものは、七人が活動していた時代から広がり、彼らが滅びる頃には既に歴史上の名称として定着していた。
だから後になって八人目の説が出ても、八欲王へ呼称が変わったわけではない。
七欲王は七欲王。
ただ、その七人とは別に、もう一人いたのではないか。
そういう説だけが生まれた。
「起点は?」
「断定はできません」
さっきまでのメルクリウスの報告より、こちらは慎重だった。
「ただし、現存する記録では、十三英雄のリーダーが七欲王と天空城について調査した時期より後に、この説が明確な形で現れます」
「本人が『八人目がいる』って言った記録は?」
「ございません」
そこは重要だ。
「彼が七欲王について何らかの疑問を持っていたことを示す証言は残っております。ただし、それが八人目を意味したと直接確認できる資料はありません」
「じゃあ、後世の人間が結びつけた可能性もある?」
「はい」
なるほど。
ただ。
十三英雄のリーダーが《YGGDRASIL》プレイヤーだったのなら、引っかかる理由はある。
サービス終了前。
俺のギルドにはワールドチャンピオンが八人いた。
別に秘密にもしていない。
八人で街を歩いた。
見物人も集まった。
スクリーンショットも撮られた。
ゲーム末期にまだ遊んでいたプレイヤーなら、知っていてもまったく不思議ではない。
その人間が新世界へ来て。
七欲王。
天空城。
ワールドチャンピオン七人。
そこまで知れば。
「……数字が一個足りないって思うか」
「私も、その可能性は高いと考えております。ただし、確認はできません」
「それでいい」
確定させる必要はない。
その方が面白い。
噂は後世に形を変えた。
七欲王を束ねた真の主がいた。
天空城には誰も見たことのない王がいた。
七欲王そのものが、その八人目の配下だった。
あるいは、最初から存在しない。
説はいくつもある。
「法国では真の神と結びついてる?」
「公式には結びつけておりません。ただし、両方の情報へ接触できる一部の者が、同一存在ではないかと推測しております」
「放置で」
「御意」
わざわざ否定する必要はない。
本当に俺なのだから。
むしろ、後から利用する価値がある。
◇
「他の差異は?」
俺が聞くと、メルクリウスは黒い資料へ指を置いたまま答えた。
「大小を含めれば相当数ございます。国家の細部、人物、歴史の年代、確認できない事件、主様から情報を頂いていなかった勢力もございます」
「今すぐ知らないと困るものは?」
「現時点では、真なる竜王に関する差異を最優先と考えております。その他は個別に行動される地域と照合していただくのが効率的かと」
「そうしよう」
全部覚え直す必要はない。
行く場所。
会う相手。
関わる事件。
その都度見る。
俺が知っていた原作。
この五百年間に発生したこと。
現在の情報。
三つを重ねればいい。
机の上には、そのための資料が既に用意されている。
かなり楽だ。
「メルクリウス」
「はい」
「よくやったね」
今度は、少し間があった。
報告中はほとんど崩れなかった姿勢が、僅かに揺れる。
「……恐悦至極にございます」
五百年。
俺の命令を読み。
その通りに法国へ入り。
身分を作っては捨て。
情報を集め。
世界の変化を記録し。
俺が来るかどうかも分からないまま、ここまで維持した。
目的は俺が決めた。
だが、この結果を作ったのはこいつだ。
その部分まで俺の功績にする気はなかった。
「じゃあ残りの資料も見る」
「ただちに」
メルクリウスが立ち上がり、壁際の棚へ向かう。
その背中を見ながら、ふと思い出した。
「あ、その前に」
足が止まる。
「天空城へ連絡して」
メルクリウスが振り返った。
「俺が帰るって伝えて」
今度こそ、完全に動きが止まった。
数秒。
何も言わない。
五百年間、いくつもの国と人間の中へ潜り続けたNPCが、返事を忘れたようにこちらを見ている。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「……天空城へ、御帰還なされるのですね」
「うん。俺の城だし」
「はい」
声が少し掠れている。
「ただいま、お伝えいたします」
俺にとっては、最後に天空城を出てからまだ一日も経っていない感覚だった。
だが、あそこには五百年間待っていた奴がいる。
その違いは、多分俺が思っているより大きい。
まず資料を読む。
それから帰る。
七欲王は滅びた。
NPCも大半を失った。
それでも天空城は残っている。
法国には何百年分もの仕込みがある。
俺の知らない真なる竜王までいるかもしれない。
法国には、俺を迎えるための伝承が残り。
歴史の中では、知らないうちに七欲王の幻の八人目にされかけている。
原作通りではない。
むしろ、その方がいい。
全部知っている世界より、知らないものが混じっている方が遊べる。
ナザリックでは今頃、アインズもこの世界の情報を集め始めているはずだ。
向こうには、向こうの最初の一日がある。
俺には。
五百年前から積み上げられた盤面がある。
まずはそれを全部見よう。