人生満喫部の青春活動〜今度の人生は、先延ばし禁止です!〜 作:淺野 蛍
――アタシ、また長生きできないの……?
鈴蘭は部屋に閉じ籠り、ベッドの上で布団に包まりながら横たわっていた。食事は喉を通らず、眠ることもできない。思考が死のイメージだけに塗りつぶされていく。
「嫌だ……っ! 死にたくない……死にたくないよぉッ!!!」
溢れ出る涙で視界が歪む。一度目の人生で味わった、あの体が冷たくなって意識が消えていく感覚。冷酷なカウントダウンが頭の中でカチカチと鳴り響き、全身の血が凍りつく。
「……っ、あ……ひっ……く……っ、う……!」
息を吸おうとするたび、喉が激しく痙攣する。耐えきれず布団から這い出た瞬間に、胃が激しく収縮した。
「嫌……っ、消えたくない……ッ! げほっ……うぇっ……!」
床に手をつき、死の影に追い詰められた恐怖そのものを吐き出すように、胃液と胃粘膜の混ざった酸っぱい液体を激しく吐き散らした。
「うえっ……オエッ……っ!! ゴホッ、オエッ……!」
吐瀉物が床を汚し、苦い酸味が口いっぱいに広がる。そして、吐き切った直後――「死」という圧倒的なストレスの波が脳を直接殴りつけた。
(死ぬ……本当に死んじゃう……ッ! 嫌だ、置いていかないで、消えたくない……!!)
嘔吐のショックと死への異常な恐怖でパニックが頂点に達し、呼吸器が一気に暴走を始める。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……! っ、あ……吸えない……ッ! はぁッ……!」
酸素を求めて激しく息を貪ろうとするが、浅く速い呼吸しか出来ず、吸っても吸っても酸素が肺に行き渡らない。激しい眩暈が襲い、血の気が引いた指先が急速に痺れ始める。
酸素不足で脳が締め付けられ、体中の細胞が「死」に向かって崩壊していくような錯覚に、鈴蘭は絶叫混じりの呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「はぁッ……っ、あ……ひっ……! 助け……助けてぇッ……!」
――せっかく、二度目の人生をもらったのに。
――今度こそ、後悔しないって決めたのに。
乱れた呼吸の合間に、拭っても拭っても涙が滴り、床の汚物に混ざっていく。
一度目の人生の死に際の苦しみが鮮明にフラッシュバックし、過呼吸で過熱した脳のまま、鈴蘭の身体は冷たい床で痙攣するように震え続けた。
◆◆◆◆◆◆◆
「鈴蘭? 入るわね……? ゼリーだけでも、一口食べない?」
ガチャリとドアが開き、母が入ってきた。トレイには冷たいゼリーと水、そして腫れ物に触るような、痛々しいほどの優しさが乗っていた。
「……出てって」
「鈴蘭、お願い。少しでもお腹に入れないと体力が落ちちゃうから……ね?」
母の目が赤く腫れている。泣いていたのだ。鈴蘭のために、可哀想な娘のために。その「心から心配し、哀れんでいる顔」を見た瞬間、鈴蘭の喉の奥から猛烈な吐き気が突き上げてきた。
「……いらないって言ってるでしょッ!!」
鈴蘭は床を蹴り、トレイを力任せに叩き落とした。ガシャンと高い音が響き、ゼリーが床に飛び散り、グラスが割れる。
「鈴蘭……っ」
母は怒りもせず、ただ悲しそうに眉をひそめ、割れたグラスの破片に手を伸ばした。
「ごめんね、お母さんがしつこくしたから……痛いの? 苦しいの? 代わってあげられたらいいのに……っ」
「やめてよッ!!!!」
鈴蘭の悲鳴が狭い部屋に鼓膜を刺すように響いた。
「代われるわけないじゃん! 口先だけで優しいフリしないでよ! なによその目! 『可哀想な鈴蘭』って顔で見ないで! 気持ち悪いんだよッ!!」
「そんなこと思ってないわ! 鈴蘭が大切だから、心配で……っ」
「その心配がウザいんだよ!! お母さんはこの先もフツーに何年も何十年も生きていくんでしょ!? アタシが死んだあとも『可哀想だった娘』の思い出に浸って生きてくんでしょ!? お母さんの自己満足にアタシを使わないで!!」
「鈴蘭……お願いだから、そんな悲しいこと言わないで……!」
母は涙をぼろぼろとこぼしながら、震える手で鈴蘭の肩を抱きしめようと手を伸ばしてきた。無償の愛。完全な善意。だからこそ、鈴蘭にとっては狂いそうなほどの毒として蝕んだ。
「触るなッ!! 薄汚い手で触らないでッ!!!」
鈴蘭は伸ばされた母の手を思い切り殴りつけた。バチン、と鈍い音が響き、母の手の甲が真っ赤にはね上がる。
「お母さんの顔なんて見たくない! アタシの人生を哀れむなら、いっそ殺してよッ!!」
「あ……あ……」
母はショックで声を詰まらせ、床にへたり込んだ。打たれた手を押さえ、ただ泣きじゃくる母。その足元には、散らばったゼリーと割れたグラスの破片が転がっている。
罪悪感と猛烈な苛立ちで頭がおかしくなりそうだった。鈴蘭は裸足のまま母の横を通り抜け、乱暴に玄関へ向かうと、家を飛び出した。背後で母が泣き叫びながら名前を呼ぶ声が聞こえたが、吐き気と恐怖で振り向くことすらできなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
行くあてもなく、ただ涙で濡れた顔を伏せながら街を彷徨う。息が上がり、身体が重い。
その時だった。
「……あ、鈴蘭!?」
聞き覚えのある声にハッとして顔を上げると、そこには中学校の同級生がいた。
「やっぱり鈴蘭だ! 急に学校休むから心配したんだよ! 連絡もつかないし……サボり? 何かあったの?」
何も知らない友人の、眩しすぎる笑顔。病気のことなんて、誰にも言っていない。言えるわけがなかった。
(……この子たちは、何も知らない。)
明日も、来年も、二十歳を過ぎても当たり前に生きていく彼女たち。自分の不登校を「ちょっとした悩み」や「ズル休み」程度だと思っている無邪気さ。
その残酷なまでの温度差に、鈴蘭の頭の中で何かがぶち壊れた。
「ねえ、顔色悪いよ? 大丈夫? 何かあったなら言いなよ、友達でしょ?」
心配そうに顔を覗き込んで伸ばされた手。その「気やすさ」が、たまらなく惨目で、不快だった。
「……気安く触らないでよ!!」
バチンと音を立ててその手を叩き落とすと、友達の空気が一瞬で凍りついた。
「っ!! どうしたの急に……」
鈴蘭の変わりように皆驚く。いつもの明るい彼女とは何かが違う。
「アタシの悩みも知らないくせに。何が友達よ」
「……はあ? 何それ」
叩かれた子が真っ赤になった手元を見つめた後、グループ全体へ嘲笑が伝染していった。
「うわ、マジで何様のつもり? 心配して損した」
「ほんとそれ。裏表ない明るいイイ子ぶってさ、無自覚に男子たらしこんで調子乗ってたくせに」
「そうそう、計算高いわけでもないからタチ悪いんだよね。天然ぶって男子に好かれてさ、周りの女子がどんな目で見てたか気づいてなかったの?」
「ほんとウザかったんだよね。アンタがただ笑ってるだけで男子が群がってさ、裏で私たちがどんな思いでアンタの引き立て役させられてたか分かってんの?」
「本当は女子全員から嫉妬されて嫌われてたの、分かってないあたりマジでめでたいよね」
「自分が世界の中心だとでも思ってんの? ちょっと人生上手くいかなくなったからって八つ当たりして、哀れすぎるんだけど」
「ただ顔が良くて愛想が良いだけの女」「男子に媚び売るしか能がないやつ」「学校来ないでくれて正直みんなスッキリしてたんだよね」「そのまま永遠に来なきゃいいのに」
途切れることなく浴びせられる悪口。溜め込まれていた激しい嫉妬と悪意の言葉。隠されていた本音と罵詈雑言が、容赦なく鈴蘭の頭上から降り注ぐ。
「……っ、う……あ……っ」
逃げ場のない侮辱と過呼吸で、猛烈な悪心が突き上げてきた。
「げほっ……うぇっ!!」
「きゃあああッ!?」「うわ、最悪!!」「嘘でしょ、吐いたんだけど!!」
路上に倒れ込み、胃液を吐き散らす鈴蘭。元友人たちは汚物を見る目になり、一斉に飛び退いた。
「なんなのこれ、マジで気持ち悪い!!」
「うあああッ!! 死ね!! みんな死ねよおおおッ!!!」
口元を吐瀉物で汚したまま、鈴蘭は四つんばいの状態で叫んだ。目を血走らせ、血が滲むほど自分の髪をかきむしり、地声を枯らして狂ったように街中で咆哮する。
「あはははは! 殺してやる! みんな死んじゃえよおおッ!!」
「ひっ……!」「な、なに……コイツ、ヤバいって!」「狂ってるよ……逃げよう!」
あまりの狂気と異様な光景に、さっきまで勝ち誇っていた顔から余裕が吹き飛んだ。彼女たちは悲鳴を上げ、引きつった顔で鈴蘭を置き去りにし、一目散に逃げ去っていった。
泥のように重い足取りで、命からがら自分の部屋へ逃げ帰った。
全身の血管が脈打つような激しいストレスと衝動。呼吸は荒く、思考はまともにまとまらない。
「あ……っ、あ……っ」
立っていられず床にへたり込むと、ガタガタと震える指先を口にねじ込んだ。
ポリポリ、バリッ。
親指の爪を激しく噛みちぎる。痛みに構う余裕すらなかった。深爪になった皮膚から血がにじみ、鉄の味が口内に広がっても、歯を立てて皮膚ごと爪をむしり取った。自分の爪を痛めつけることでしか、沸騰しそうな頭の圧力を逃がせなかった。
「なぁにが二度目の人生だよ……ッ! ふざけんなァッ!!」
噛んでいた指を血みどろのまま吐き出し、すぐ脇にあった勉強机の小物を力任せに薙ぎ払った。ペンスタンドが壁に突撃して割れ、ペンやハサミが散らばる。
「死ね!! みんな死ねッ!!!」
狂ったように叫びながら、ベッドの上の枕や掛け布団を投げ捨て、机の上の教科書を片端から破り捨てる。元友人達と撮った写真立てを床に叩きつけると、ガラスが甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
「うああああああああッ!!!」
壊しても、散らかしても、この胸を焼き尽くす惨めさと死の恐怖は一向に消えてくれない。
床に散乱するガラス片の上に、爪をむしり取った親指から血がポタポタと滴り落ちていく。自分の壊した部屋の中心で、鈴蘭は荒い息を吐きながら、壊れてしまった爪と赤く汚れた床を見つめていた。
「あは……っ、あはは……」
散らかった部屋の真ん中で、鈴蘭は力なく笑った。
母の手を振り払い、溜め込まれていた元友人たちからの強烈な嫉妬と暴言を叩きつけられて発狂して見捨てられ、自ら部屋を荒らして居場所を完全に粉々に砕いた。
「やり直せるわけ、ないじゃん……。前より、ひどくなってるじゃん……」
血の滲む手で抱え込むように小さくなり、ぐちゃぐちゃになった顔を埋める。
「嫌だ……誰か……誰か助けてよ……っ! 死にたくないよぉ……っ!」
事情を知る者からは「哀れみ」を受け、事情を知らない者からは「隠されていた嫉妬と嫌悪」を叩きつけられた。
感情を暴走させ、全てを壊し尽くしたあとに残ったのは、圧倒的な虚無と絶望だった。
喉は擦り切れ、涙も枯れ果てた。叫び疲れた体は鉛のように重く、爪をむしり取った指先の痛みすら、遠い世界の出来事のように麻痺していく。
「……ふぅ……っ、はぁ……」
血と破片が散らばる冷たい床の上に、鈴蘭はそのまま力尽きたように横たわった。
耳の奥で、元友人たちから投げつけられた刃のような言葉が何度も何度もリフレインする。視界が急速に狭まり、天井の輪郭がボヤけていった。
激しい過呼吸の反動と、心身の限界を超えた極度の疲労。過熱していた脳が急激に冷却されていくように、冷たい睡魔が足元からじわじわと這い登ってくる。
(……もう、疲れたな……)
あんなに恐ろしかった「死」の恐怖すら、重たく重なっていく瞼の裏側に溶けていく。抵抗する気力すら湧かない。
「……助け……て……」
最後のかすれた呟きは、誰の耳にも届くことなく途切れた。
重い瞼が完全に落ち、鈴蘭は散らかり果てた自室の真ん中で、泥のような深い眠りへと沈み込んでいった。
◆◆◆◆◆◆◆
桜が咲く季節。
新しい制服に身を包み、希望に満ち溢れた若人たちが門をくぐっている。
その中に、一際目立つ生徒がいた。
ウルフカットをベースに、顔の周りにはザクザクとしたレイヤーカット。髪は鮮やかな金色。そこには赤のメッシュが入っている。両耳には、複数のピアス。
周囲から向けられる視線など、まるで気にしていない。少女は、校門の前で自分の姿をスマホのカメラに映す。
そして、満足そうに笑った。
「よしっ! 今日もアタシは可愛い!」
その声に、周囲の視線が一斉に集まる。
「……あの子、すご」
「めっちゃ派手じゃん」
そんな声が聞こえてくる。けれど、少女は気にしない。むしろ胸を張って、校門をくぐった。
「さてと……」
少女は校門を見上げる。
「高校生活、楽しんじゃいますか!」
そして、一歩を踏み出した。病気を抱えていることも。いつか人生が終わるかもしれないことも。
全部、分かっている。
それでも。アタシは、人生を諦めない。
だって――人生は、楽しまなきゃ損じゃん。
――ここからまた、アタシの人生を始めよう。
高校一年生。
こうして、アタシの新しい青春が始まった。
挿絵は主人公の一条鈴蘭のイメージ画像です。