綾紬芦花の背後霊   作:夕暮れの家

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とりあえず出来てるところまでは毎日上げていきます


1話

 

 ◯

 

 

「やったッ!」

 

 自分の頭の上に置いた手のひらをそのまま前にすべらせて。その手が相手の頭の少し上の空間を通ったのを見て、喜びの声を上げる。遂にやった、抜いてやったぞ、身長。

 

「勝ったっ、ヤクよりも大きくなったっ!」

 

『いーやおかしいっ、もう一回だっ! 不正があったに違いない』

 

「そんな事してないよ〜」

 

 絶対に勝ってた、いやぁおかしい、と何度か同じやり取りが繰り返されて。頑として敗北を認めようとしないヤクによってもう一度背比べが行われることが決定した。

 

『ほらっ、俺の方が大きい! ほらっ』

 

「えぇ? そんな筈……。あ」

 

 今度は私の頭の上を通り抜ける手を此方に見せつけるように振って、勝ち誇るヤクに、さっきは絶対に私の方が大きかった、と納得のいかない表情を浮かべる私。その疑問は、私が視線を下に向けたことで直ぐに解消されることとなる。

 

「……浮いてるじゃん、ずる」

 

『ぐぅ、ば、バレたか』

 

「そりゃバレるでしょ、……まったく」

 

 そんなに私に背抜かされるのが嫌? と首を傾げる。そりゃあ嫌だろ、と口を尖らせながら宙にふよふよ浮いたヤクはそう答えた。

 

『あーあー、あんなにちっちゃくて可愛かったのになぁ。身長ばっかりすくすく伸びちゃってまぁ』

 

「どういう意味かなぁ……?」

 

『何でも無いです、はい』

 

 握りしめた拳を掲げてみせると、すん、と静かになって頭を下げてくる。私がこのまま手を振るったって別に当たりやしないのに、律儀なものだ。

 

 まぁ、謝るなら最初から変なことを言わないで欲しい、という気持ちもあるけど。

 

『ずるだ……。俺はどうやっても伸びないのにそっちばっかり……』

 

「成長期ですから」

 

 恨めしそうな顔をしてそんな事を言われても。私には胸を張るくらいしか出来ないじゃないか。隣でぶーたれているヤクを見やる。初めて会ったときは、ずぅっと私が見上げなきゃいけないことに気を使ったヤクがいつも視線の高さを合わせてくれていたのに。

 

 今じゃ、わざわざそんな事しなくてもおんなじ高さだ。

 

「私はもっと高くなりますから」

 

『そ、そんなに大きくなってどうするつもりだ……? ま、まさかっ』

 

 世界征服……? などとアホな事を言ったヤクが私から少し距離を取る。ご丁寧に口に手を当てて、顔を青ざめさせてだ。どうやってるの、それ。

 

「なに変なこと言ってるの」

 

『やめろぉ! 思いとどまるんだっ』

 

 一歩近づくと、一歩後ずさる。随分と芝居がかった動きで、だ。ころころ変わるその表情も、コミカルなその仕草も見慣れたものの筈なのに、笑いが込み上げてくるけど。

 

 今日は、その手には乗らないよ。

 

「有耶無耶にしようとしてない?」

 

『そ、ソンナコトナイヨ』

 

「片言〜」

 

 そっぽを向いたその頬に、人差し指を突き出す。変わらずその指は何にも触れること無く、只宙を掻く。

 

 きっと今ここに他の人がいたら、私は何もいない空間に向かって話しかけて、一人で笑って。変な人に見られるんだろうな。

 

 でも、仕方がないな、と息をつきながら此方に向き直るこの幽霊は確かにここにいて。

 

 他の誰に見えていなくても、私にだけは見えている、私の、わたしの……。

 

 なんだろ、友達、はなんか違う気がするし。兄、にしては小さすぎるし。弟、弟だな、うん。

 

「私が勝ったら何でも言うこと聞いてくれるって約束、忘れてないよね?」

 

『分かった、分かったよ。んで、何してほしいんだ?』

 

 次のテストの模範解答見てくるとかか? などと真面目な顔でのたまうヤク。それは確かに少し心惹かれるけど。そういうのは自分でちゃんとやらなきゃダメになるってお母さんが言ってた。

 

「あのね」

 

 うん、と私の正面にいたヤクが頷いて姿勢を正す。相変わらず、こういう時ばっかり変に察しが良い。長ぁい間人を、見てるだけだったからかな。

 

 こんな、お喋りなのに。

 

「他の人のところに行くってなったら、ちゃんと私に言ってからにしてね……?」

 

 ヤクは別に私から離れられない訳じゃない。急にいなくなったりするし。大体はその日の内に帰ってきて、何を見てきたかこれでもかってくらい喋り倒すけど。

 

 朝起きて、ヤクがいない私の部屋は、変に静かで。なんか、嫌だ。

 

 ヤクに好きな人のこと、私は知ってる。何度も何度も聞いたし。その人のことをずっと探してるってことも。

 

 だから多分、その人を見つけたらその人のところに行って帰ってこなくなるから。

 

「約束」

 

『? お、おう……』

 

 伸ばした私の小指に、戸惑いながらもヤクが同じように小指を伸ばす。結ぶはずだったその指は、触れた、と思ったところですり抜けていった。

 

 

 

 

 ◯

 

『良いか? 絶対、今度はちゃんと渡すんだぞ!?』

 

「……分かってる」

 

 分かってないだろ! と私の周りをびゅんびゅんと飛び回る。視界が煩い。前が見えなくて転びでもしたらどうしてくれるの。まったく。

 

「前のクッキー渡せなかったこと、そんなに引っ張らなくてもいいじゃん……」

 

『だってさー、やりようなんていくらでもあっただろ?』

 

「例えば?」

 

『それは、あー、あれだよ』

 

 分かってないじゃん、と言った私の口元に自然と笑みが浮かぶ。未だにあれだよ、あれ、と空中で指を振っているヤクに対して、此方も人差し指を突きつけた。

 

「おこちゃまには、恋愛は早かったんじゃない?」

 

『あぁん? こちとら芦花よりもよっぽど年上じゃあ!』

 

 逆さまになってこちらにメンチを切ってくるヤクから、はいはい、と視線を外して、そのまま何事もなかったかのように目的地への道を歩く。

 

「前見えなくなるから、やめてよね」

 

『へ〜い』

 

 言ったら直ぐにどいてくれる。どうせまたすぐに似たような事やるけど。長い付き合いで慣れっこになってはいるけど、一度前が見えなくて電柱に頭ぶつけた事あるんだから。

 

 あのときは、ぶつけた額は痛かったけど、それ以上にぶつけた私よりもずっと慌てて私の周りをぐるぐる回ってるヤクの様子が可笑しくて、笑ってしまった事を覚えている。

 

 そう言えば、あれからは前に何かがある時に視界を塞いでくることは、なくなったな。

 

「そもそも、幽霊って年取るの? 死んだ時の年齢のままじゃないの?」

 

『……いいだろ、長いこと生きてんだよ』

 

「生きてないじゃん」

 

 そこまで言わなくたっていいじゃん……。と膝を抱えていじけ始めてしまった。膝を抱えてるのに、ふよふよと浮きながらちゃんとついてくるのは、器用だと感心すればいいのか。

 

「そもそも、ヤクって何歳なんだっけ」

 

『え? あー……。どうだろ』

 

「分かんないんだ」

 

 勝手に話してくるどうでもいい情報は沢山持ってるのに、そう言えばヤクの昔の話なんて全然知らないな、と気がついたのはごく最近のこと。

 

 本人も分かってないってことが分かったのも、ここ数日のことだ。話さないってことは隠したがってるのかな、とも思ったけど。

 

 どーだったっけなー、と横で首を捻る様子を眺める。嘘をつくのがド下手なヤクが、こんな上手い演技出来るはずがない。

 

 本当に覚えてないんだろうな。

 

「じゃあ、仕方ないか」

 

『何だって?』

 

「なんでもなーい」

 

 そう言って、伸びを一つ。いつの間にか目的地の直ぐ側まで来ていて。律儀に集合時間前についている真実が眠そうに欠伸をしている姿が遠目に見えた。

 

『なぁ、芦花』

 

「なに?」

 

『んー、いや。後で良いや』

 

「そう?」

 

 私が着いたのは約束の5分前。その後に、彩葉が時間ぴったりに来た。真実は持ってきていたチョコレートを一粒食べたことで目が覚めたらしい。

 

「ごめんっ、待たせちゃった?」

 

「ううん、時間ぴったりだよ」

 

 遠くから私たちの姿が見えてから走ったからか、息を切らせている彩葉が落ち着くまで少し待って。

 

「じゃあ、行こっか」

 

「れっちご〜」

 

 今日はお花見である。

 

 心地いい風が頬を撫でる。休日で、まばらに雲が見える程度のいい天気なのにも関わらずあまり人は見えない公園の芝生の上にレジャーシートを敷いて。

 

「やっぱり咲いてないねぇ〜」

 

「そりゃあもう5月ですから……」

 

「ほ、ほら。葉桜でも綺麗だから、ね?」

 

『うーん、思った通り』

 

 お花見と称してでてきたのに、桜の花びら一枚見えない目の前の光景に皆して半笑いの表情を浮かべていた。やっぱり、と笑った真実がレジャーシートの上に寝転んで。そりゃそうでしょ、と言った彩葉が寝転んだ真実の頭がレジャーシートの外にはみ出そうになったのを見て慌てて止めていた。

 

『いい天気だなー』

 

 俺ちょっとカブトムシ探してくる、と言ったヤクが、手頃だとみなしたのかすぐ近くの木の頂上付近にまで飛んでいってしまって、生い茂った葉に隠されてその体が見えなくなる。

 

「気持ちいいー……」

 

「ねぇ、ほんとに良かったの? 別に私は遠出でも……」

 

 液体のようにとろけ始めてしまった真実の様子を見て口元にほんの少し笑みを浮かべてから、彩葉が私の方に向き直る。確かに、もしかしたら遠出して、いつもと違うことを沢山した方が良いのかもしれないけど。

 

「ううん、私がしたかったの。ピクニック」

 

「……お花見じゃなかった?」

 

 そうだっけ、といって笑う。私がヤクとあーでもない、こーでもないと二人して頭を捻った結果だ。

 

 きっと彩葉は、この時間を開けるために沢山無理をしてしまうから。私たちの時間が、楽しい上にゆっくりと息を一つつける時間であってくれたら、と思ったから。

 

『やっぱり芦花だな〜』

 

 らしいよ、とヤクは太鼓判を押してくれて。真実も二つ返事でいいね! と言ってくれた。だから、今日、今この時間に、誰も遠慮をする必要なんて、無いんだ。

 

「ほら、真実、起きて」

 

「んぇ〜」

 

「んぇ〜、じゃなくて」

 

 はらり、と堕ちてきた新緑の葉が真実の鼻の上に音もなく乗って。それに驚いたのか、大きなくしゃみと共に飛び起きた真実がなにごとか、と左右を勢いよく見やる。

 

 その様子が可笑しくて二人して笑って。真実は飛び起きた拍子に膝に堕ちた葉っぱをつまんで、不満そうな顔を見せていた。

 

「コイツが私の昼寝を……」

 

「まずなにもしてないのに寝ないでよ」

 

 何しよっか、と言った私に応えるように真実がバッグを探り出す。そして直ぐに片手で持てるほどのカードの束を持ち出した。

 

「じゃーん、トランプ!」

 

「「おぉ〜」」

 

 これでなんかしよ! と言って器用にシャッフルを開始する。トランプ、学校行事とかで人が沢山いる時にしかやらないなぁ。

 

「彩葉、なにかやりたいゲームある?」

 

「うーん、ババ抜きくらいしか……」

 

「芦花は?」

 

「私も……」

 

 じゃあ覚えながらやろっか、と笑う。下が2人もいるからか、こういう時の真実はなんだかお姉ちゃんだ。最初の一回は私と彩葉がルールをいまいち把握しないままやったので真実の一人勝ちだったけど、その次からは早々にコツを掴んだ彩葉が勝って、その次は運良く直ぐに私が勝って。

 

 とにかく、何だかんだ誰かが負け続けるということもなく皆が同じくらい勝って。普段やらないゲームに熱中していたら、いつの間にか時間は経っていた。

 

「お腹すいた〜」

 

「わ、もうお昼すぎ」

 

 熱中しすぎたね、と真実が息をつく。始めてみれば何だかんだ楽しくて、そして負けた側もむきになってもう一度、を繰り返していたら気がついたら時間が経っていて。

 

 なんのことはない、この3人は全員、それなりに負けず嫌いだったというだけのことだ。

 

「お昼ご飯、どうしようか?」

 

「お店探す?」

 

 周りになにかあるかな、とスマホを差し出した彩葉を手で制して、少し大きめの荷物の中から作ってきたお弁当を取り出す。

 

 今日早起きして作ったそれは、3人で食べても問題ないくらいの大きさだ。皆で食べよ、と言って持ち上げると、真実が目を輝かせた。

 

「芦花のお弁当? やった〜っ!」

 

「え、作ったの? すごい……」

 

 ウキウキで渡されたお箸を持って、重箱の中に詰められたおかずを物色し始めた真実を横目に、彩葉が近づいてきて耳打ちしてくる。

 

 なんとなく予想していたことだったのに、いざ近くに来られてしまうと、体温すら伝わってきそうなその距離に密かに心臓が跳ねてしまった。

 

「お代、払うから……。あとで教えてね」

 

「そんなのいいのに……」

 

「そういうわけにはいきません」

 

 絶対だからね、と此方に指を刺す彩葉の姿に、胸の奥にほんの少しさみしさがよぎる。分かっていたことではあったけど。

 

 やっぱり何も言わずに受け取ってはくれないんだな、と。「都合のいい話は毒や、一番食ってかからなあかん」だったっけ。

 

「じゃあ、その代わりにさ、今度彩葉のことメイクさせてよ」

 

「えっ? い、いいけど……。そんなことでいいの?」

 

 未だ腰が引けている彩葉。このままじゃ多分、彩葉にとって只の都合のいい話のままで。ヤクが言うには、『そういうのは勢いと熱で相手に考える隙を与えないのが一番』だったかな。

 

「そんなことじゃないよ! 彩葉あんまりメイクしないでしょ? もっともっと可愛くなると思うの。私が見たいから、お願いできる?」

 

「そう、なの?」

 

 そうだよ、と一歩踏み出す。ほんの少しの間の後、彩葉はおずおずと頷いてくれた。その姿を見て、彩葉の後の緑が青々と生い茂っている桜の木に目線を向ける。その木の一番高い枝の上で、ヤクが嬉しそうに笑っていた。

 

「殺人級の睡魔が〜……」

 

 お腹が膨れた後、満足して眠気が襲ってきたのか真実がレジャーシートの上でそんな事を言いながら寝転がる。お弁当を片付けながら見ていると、ほんの一分くらいで気持ちよさそうに寝息を立て始めてしまった。相変わらずものすごく寝つきが良い。

 

 出していた全てを包み終わって、カバンに詰め直して。寝てしまった真実をどうしようかな、と思いながら彩葉に向き直る。

 

 珍しいな、と思った。視線を少し下に落とした彩葉の頭がほんの少しずつ左右に揺れている。瞼も少し堕ちかけていて。早い話が、とても眠そうにしていた。

 

 学校では、見ない姿だ。本当なら心配すべきだ。忙しい彩葉が態々一日時間を作るためには、きっと色んな無茶を押し通してきていて。その疲れが今、出ているだけ。でも私は、そんな彩葉の姿を見て、

 

 嬉しいと、思ってしまった。

 

 自分の、自分たちの傍が彩葉に取ってほんの少しでも気を緩めることが出来る、そんな場所になれている気がしたから。

 

「彩葉、寝ててもいいよ?」

 

「そ、そんなわけには」

 

 気ぃぬけてるわ、そんなん。方言が漏れてることにも気がついてない。無理なんてしてほしくないのに。貴方はいつも、何かに追われるみたいに自分を追い詰めてばかり。

 

 何でそんなに頑張るの? なんで、自分のことを大事にしてくれないの? いつだって前を向いてばかりの彩葉は眩しくて、かっこいいけど。いつか転んじゃいそうで、どこかに消えちゃいそうで、心配だよ。

 

「ほら、こっち」

 

 少し崩して座って、自分の膝をぽんと叩く。ふるふると力なく首を振って拒否の態度を示す彩葉に、やっぱりダメかな、嫌かな、と少し胸が痛むけど。

 

 『ほら、ここだよ』とん、と背中を押された気がした。振り向きはしないまま、何も反応も返すこともなく、心の中だけで頷いて。

 

 ほんの少し、彩葉の方に私から近づいた。肩が触れてしまうほど、近く。

 

「彩葉は今日まで頑張ってきたから。はい、はなまる」

 

「私なんて、全然……」

 

「そんなことない」

 

 そんなことないよ。全部じゃないけど、ちゃんと知ってるよ。少しだけで良いから、自分のこと、褒めて上げてよ。

 

「彩葉には、頑張る理由が沢山あるんだよね」

 

 でも、頼ってほしい。気を抜いて欲しい。そう言葉にすることは出来なかった。直ぐ側の彩葉の顔が、少し曇ったから。目線が、私からそれて下に行ってしまったから。

 

 背筋が急に冷える。踏み込みすぎてしまった、という後悔が募って。思考を止めてしまいそうになった私の頭に、『ちゃんと渡すんだぞ?』と口酸っぱく言ってきたヤクの姿がよぎる。

 

 そうだ、彩葉が言葉に詰まったら渡せ、って言ってた。

 

「彩葉、はい、これ」

 

 食後のデザートに、と言って差し出したのは、ヤクがどうしても買っていけ、と言って聞かなかった一つの和菓子。葉っぱを丸めたような形をしたそれは、たしか。

 

「落とし文……?」

 

「よく知ってるねぇ」

 

 来る途中で寄ったスーパーでこのお菓子を見つけた時のヤクの様子を思い出す。いつもはそんなこと無いのに、必要になるから、なんて言って聞かなくて。渡す時にこう言うと良い、なんてことまで言ってきて。

 

「私、こういうのは中々開けられないんだよね」

 

 彩葉は、どう? そう言って首を傾げる。手の中に収まったお菓子と、私のことを交互に見て。それから、ふ、と力の抜けたような笑みを浮かべてみせた。

 

「そう。……私も、そうかも」

 

 触れるほどに近くにあった彩葉の身体がゆらりと揺れて、私の方に倒れてくる。ぽす、と軽い音を立てて私の肩に彩葉の頭が収まった。

 

「かして、くれるんでしょ?」

 

「……うんっ」

 

 顔を動かすことが出来なかった。揺らすとせっかくほんの少しでも寄りかかった彩葉が離れていってしまう気がして。だから、その表情を見ることも、出来なかった。

 

 すぐ近くから、寝息が聞こえてくる。春の風が私の頬に溜まった熱をほんの少しでも和らげてくれないものか、と顔を傾ける。

 

『落とし文はさ』

 

『直接言えないことを書いて丸めて、伝えたい人の近くに落とすんだ』

 

 だから、開けないってことは。『言いたくないなら言わなくて良い』ってこと。静かな、全然似合わない語り口でヤクがそんな事を言う。いつもふざけて笑ってばかりのその青い瞳が、私のことをその中に収めて。穏やかに細められる。

 

『伝わったかは分からないけどな』

 

「そっ、か」

 

 確かに、分かんないな。そう言って笑う。結局、私は彩葉の事を全然分からないまま。でも、なぜだかほんの少しだけ彩葉に近づけた気がして。

 

「ヤク」

 

『ん?』

 

「ありがとね」

 

 伊達に長く生きてないさ、と冗談めかして言ったヤクは、いつものように馬鹿みたいに明るい笑顔で笑ってみせた。

 








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