◯
「ねぇ、なんでそんなところにいるの?」
ある夏の日のことだった。蝉がこれでもかと声を張り上げて泣き喚き、天高く昇った太陽が地面に小さな影をつくる。顔を上げれば、遠くに大きな入道雲がもくもくと出来ている。そんなありふれた夏の日のこと。
祖父母の家の近くにある神社の大きな鳥居のてっぺん。どうやって上るのか想像もできない場所にいる小さな人影に、私は声をかけていた。逆光でその姿は影しか見えていない。
まぶしさで塗りつぶされてしまいそうになる視界に手で影を作って、目を細めながらもう一度、今度は先ほどよりも声を張り上げて。
「そんなところにいたら、危ないよー?」
結構大きな声だったはずだ。蝉の鳴き声に負けないように頑張ったにも関わらず、こちらに気づいた素振りすら見せず、鳥居の上、高いところからさらに上を見上げてばかりのその影を見て、不満を表すように頬を膨らませる。
「ねぇ、ねぇってばっ」
気が付いていないだけかな、と思って大きく手を振ってみた。そもそもこちらに目を向けてないんだから何の意味もない。少し飛び跳ねてみた。以下同文。自分に声をかけられているなんてまるで思っていないようなその様子に少し腹が立ってきて。胸いっぱいに空気を吸い込んで、これでもかというくらい大きな声で呼びかけた。これで無視されたなら、帰ってしまおうと、そう決めて。
「おーいっ」
ぴくり、と影が動く。二度ほどこちらを振り返った後に、首をひねって。それから数秒して、恐る恐るという風に下りてくる。
空中をふわふわと浮きながら。
『な、なぁ。俺のこと、呼んだのか?』
自分のことを指さしながらそういう男の子。近づいてみれば、小さいと思った彼は自分よりは随分大きくて。後ろで一つ結びにされた長い髪の毛が、夏の熱気を乗せた風に乗って揺れる。ただ、そんなことよりもずっと気になることがその時はあって。
「すごいっ、なんでお空飛べるのっ? どうやってるの⁉」
『え? いや、どうやるかって言われても……。そ、そんなことよりさぁ』
どうやるのかと、自分にもできるのかと興奮しながら詰め寄って。相手の手をつかもうとした私の手がすり抜ける。掴んだと思ったのに、と首を傾げて、もう一度手を伸ばして。またすり抜けて。そこでようやく、相手の正体を頭が理解し始めて。
そうだ、その後は。
幽霊だと分かって怖くなってしまった私が泣いて泣いて。それをどうにか宥めようとするヤクが私の周りを飛び回ってあやして。それを怖がった私がさらに泣いて。ようやく落ち着いたのは、太陽が少し傾き始めたころ。
『おぉ~、泣き止んだなぁ。いい子だ。花まるをあげよう』
「ぐすっ……。悪い幽霊じゃない? 本当?」
『本当本当、だぁ~れも俺のこと見えないし、声も聞こえないから暇だったんだ!』
堪んないよな、と腰に手を当てて笑って。私から離れて、振り返ったヤクは青く透き通った目を細めて、静かに笑った。
『久しぶりに楽しかったよ。ありがとな~』
「……まって」
寂しそうに見えたから。笑ってるのに、全然楽しそうじゃなかったから。あの時引き留めた理由は、そんなところだった気がする。あんまりちゃんと覚えてないな。
「──────」
それから、私は。なんと、言ったんだっけ。
ピピピ、と鳴る目覚ましの音が、その先の記憶をかき消していってしまった。こんな夢を見たのも、いつもよりも少し遅い時間にアラームの音で目を覚ましたのも、原因なんて明白で。
なんだかとても静かな自分の部屋をぐるりと見回して。人影が見当たらないことを確認してから、溜息を一つついた。ヤクがいない、久しぶりの朝だった。昨日の夜、家出していってしまったのだから。
〇
「芦花~、どうしたの? 元気ない?」
いつもだったらそろそろ戻ってくる頃なんだけど。
お昼前の空に、私の視線の先にふわふわと飛ぶ人影があったりしないかな、なんてぼぅっと窓の外を眺めていた私に向かって、真実がかけた言葉だ。
一瞬反応が遅れて、「え?」という間の抜けた声が出る。まだ授業中だと思っていたのに、いつの間にか終わっていて。先生が立っていたはずの教壇には誰もおらず、教室は休み時間特有の騒めきで満たされている。全然気が付いていなかった。そんなことを想いながら僅かに目を開いた。
「芦花が授業中にぼーっとしてるなんて珍しいね。大丈夫?」
「あ、うん。なんでもないよ」
にこりと笑う。きっと、放課後になるまでには帰ってくる。それに、怪我も病気もしないヤクを心配するだけ無駄だ。そう自分に言い聞かせて首を振る。
『俺だけかよっ』
飛び出して行ってしまう直前。こちらの言葉を聞こうともせずに、それだけ言ってどこかに行ってしまったヤクの表情。
携帯も持ってないし、誰かに聞いて回ることもできないし。いつも私の後をついてきてたから、どこがお気に入りの場所とかも知らないし。探そうと思っても、きっと見つからない。
それに、仮に見つけたとしても、どんなところでも通り抜けていけるヤクを捕まえられる訳が、ないし。
「……あれ?」
真実に促されて取り出したお弁当箱を見て違和感。もう一度それを入れていたバッグを見て、中に手を入れて確認して。違和感が確信になる。
「お箸、忘れた……」
「えぇ? 割り箸あるよ? 使う?」
「うん、ありがと」
入れ忘れてしまったのか、お弁当を食べるためのお箸がない。幸い、何故か予備の割り箸を持っていた真実がそれを差し出してくれたことで、お昼を食べられないなんてことにはならなかったけど。
よくよく思い出してみれば、今日は朝どんな風に準備をして、家を出たんだっけ。あんまり覚えてないな。
「芦花、体調悪いんじゃない? 熱あるなら帰ったほうが……」
「ううん、大丈夫。熱はないと思う」
試しに自分で額に手を当ててみたけど、熱っぽい感じはない。頭が痛いわけでもないし。それに、私が早く帰ってしまったら。もしヤクが戻ってきた時に、二度手間になってしまうから。
(今日は、少しゆっくり帰ろうかな)
窓から見える空は、厚い雲に覆われて随分と暗い。あの夏の日とは、大違いだった。
◯
「降ってきた……」
放課後、下駄箱を出てすぐの庇の下で、一人佇む。私の横をお喋りしながら通り過ぎていった3人組は皆傘を手に持っていたし、今更ながら天気予報を確認しても、今の時間は降りますよ、ということを90%という数字が明確に教えてくれている。
(もうちょっと待ってたら、止むかな)
濡れたらそれこそ風邪を引いてしまいそうだから、そんな風に理由をつけて、立ち止まる。今日は特に課題も出ていなかった筈だし、なにか用があるわけでも無いから、帰りが遅くなっても大丈夫、な筈。
「あれ? 芦花?」
どうしたの、と後ろから声が掛けられる。振り返ると、先に帰ったとばかり思っていた彩葉が不思議そうな表情を浮かべてそこに立っていた。
「どうしたの? 傘忘れた?」
「……うん、ちょっと困ってて」
「今日はとことん珍しいねぇ〜」
いつもはそんなこと無いのに、と笑いながら手に持った傘を勢いよく開く彩葉。一歩、前に出て私の方を振り返って、笑う。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
入れてあげましょう、と得意げに手に持った傘を掲げる彩葉の前髪を留めるヘアピンが、一瞬キラリと光った。
「彩葉、先に帰ったと思ってた」
「うん。ちょっと先生に進路のこと聞かれてて」
ぱたぱたと、手に持った傘に雨粒が当たって弾けていく。すぐ横で微笑みながら歩く彩葉のことを横目で見て、ほんの少しそちらに傘を傾ける。
「そうなんだ、もう進学先は決めてるの?」
彩葉なら、きっと何でも出来るしどこにだって行ける。大学は離れ離れになるんだろうな、とぼんやり考えて。
ぱしゃ、と前に出した右足が、目の前にあった水溜まりを踏みつけて濡れる。じんわりと靴下に水が染みていく不快感で、現実に意識が引き戻される。
先程まで前を向いて歩いていた彩葉が、私の顔をじっと見上げていた。
「芦花」
「ど、どうしたの?」
ぐい、と腕を引かれて彩葉との距離が急に近くなる。そんな唐突な行動に驚きの声が口から漏れて。彩葉はそんな私のことを目をほんの少し細めてじぃっと見ていた。
「肩、濡れてるよ。風邪引いちゃう」
「え? ……別に良いのに」
「良くないです」
寄れば良い話でしょ、とそのまま先程よりも半歩近づいた距離のままでまた歩き出す。いつもよりもずっと近い肩同士が、ほんの少し、触れる。
「芦花、なにかあったでしょ」
ぴくり、と肩が跳ねたことが自分でも分かる。それは、きっとすぐ傍にいた彩葉にも伝わっていて。
そうだとしても、説明しようがない。幽霊の家出なんて、なんと説明すればいい。視線が彩葉からそれて、斜め下に動いて。
「芦花」
ぐい、と顔に当てられた手で引き戻された。彩葉が背伸びするように伸ばした両手が私の頬を包んでいて。
翡翠のような淡い緑色の瞳が、降りしきる雨を映しながら私のことをじっと見つめていた。
「全部じゃなくていいから、話して?」
私、芦花の力になりたい。
そう言った彩葉は、穏やかに微笑む。その姿を見ると、何故か涙が零れそうになってしまった。
すごいなぁ、彩葉は。私が怖くて怖くてどうしても超えられない一線を、当たり前みたいに超えてくる。私には、出来ない。
「……喧嘩しちゃって」
「うん」
一度立ち止まって、言葉を探す。思い出すのは、昨日の夜のヤクとの会話のこと。あれは、喧嘩だったのだろうか。……多分、違う。ただ、私が相手を怒らせてしまっただけ。
「ううん、違う。私が怒らせたの」
ただのなんでも無い会話だった。ヤクの『何年友達やってると思ってんだ』という言葉に私が「友達……?」と首を傾げるまでは。
だって、私はずっとヤクのことを家族だと思ってて。ヤクだってそうだと思ってたから。なんでヤクが“友達”という関係にそんなに拘るのか、わからなくて。
だから、ただただ困惑する私と、静かに怒るヤクの間には言い合いの喧嘩すら起こらなくて。そのまま飛び出していく後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
本当は分かってた。いつものくだらない喧嘩じゃないこと。
もう、戻ってこないかもしれないと、自分が心の何処かで考えていることも。
「相手が大切にしてる事を、私が大事にしてなくて」
「きっと忘れちゃいけないことを、忘れてて」
きっとこれだけ聞いても何も分からないのに。それでもぽつりぽつりと言葉を零す私の話を、彩葉は懸命に頷きながら聞いてくれていた。
「芦花は、どうしたいの?」
仲直りしたい? と彩葉が首を傾げる。仲直り、はちょっと違って。謝りたい、もきっと何か違って。私は。
「私は、ちゃんと分かりたい」
思い出したい。ヤクがあんなに大切にしてる理由を。私だけが忘れてしまった、その記憶を。
「ちゃんと思い出して、理解したい」
「……なんで」
なんで、そう思うの? 急に立ち止まった彩葉に腕を引かれて、たたらを踏む。慌てて彩葉が濡れないように傘を傾けて、振り返って。
でも、私の腕を掴んだままうつむいた彩葉の表情は、私からは見えない。
なんで、なんでだろう。
「ちゃんと思い出して、そんなこともあったねって、一緒に笑いたいから、かな」
自分が大事にしてることを、大切にしてもらえたら嬉しいから。私だって、そうしたい。おんなじものを大事に出来たら、きっと、もっと一緒に笑えるから。
「そうかな。芦花は、そう思うの?」
「うん。……上手く、言えないけど」
「そっか。……そっか」
いつの間にか駅に着いていて。差している傘を叩く雨の音は止んでいる。私が差し出した傘を受け取った彩葉が、やっと顔を上げてふわりと笑った。
「ありがとね、芦花」
「え、う、うん」
なんで彩葉がお礼を言うんだろう。困惑した私はゆるく片手を振って。彩葉もそんな私に半身だけ振り返って、手を小さく振っていた。
◯
『あのー』
帰ったら、ベッドの上で正座しているヤクがいた。玄関を開けても、出てこないし。リビングにもいなかったから、きっと居ないと、思っていたのに。
自室のドアを開けたら、気まずそうな顔で普通にそこにいて。なんだか力が抜けて、手に持っていたカバンを取り落としてしまった。
『ごめ──』
「ごめんっ」
勢い良く頭を下げる。昨日は、ただただ困惑するだけで何も言うことができなかったから。
「ごめん、ヤク」
教えてほしい。思い出したい。そんな事を言ったような気がする。あまり定かでは無いけど。
確かなのは、きっと明日の学校の通学路には、私の後にふわふわと浮く誰かがいるであろう、ってこと。
「……ん」
枕元で鳴った電話の着信音でまどろみ始めていた意識が引き戻される。まだ回りきっていない頭のまま、電話に出ると、向こうから遠慮がちな声が届けられる。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「ううん。大丈夫。……どうしたの? 彩葉」
珍しい。そう思った。彩葉が私に電話してくることもそうだし、それがこんな夜中だってことも。
「あー、えと、その」
それに、こんなに言葉に詰まる彩葉も。彩葉は普段、言いたいことは言うし、言いたくなかったら笑って誤魔化すから。
段々と頭が冴えていく。なんとなく窓を開けて、外の空気を吸ってみた。6月の空気はなんだか少し湿っていて。きっとこれは日中降っていた雨の残り香だ。
「そ、そうだっ。あの、仲直り、出来た?」
「──うん。出来たよ、彩葉のおかげ」
電話口の向こうから、ほ、と息を吐く音が聞こえる。それと同時に、微かにガラリと窓を開けたような音。彩葉も、同じようにしてるのかな。
上を向くと、いつの間にか薄くなってきている雲の隙間から輝く月が見えた。
「……彩葉?」
何故か黙ったままで声が返ってこない電話口に向かって呼びかける。そのまま少し待って。すると、はにかむような。でもどこか泣いているような声で彩葉が言った。
「ごめんね、本当はそれが聞きたかったんじゃなくて……」
「うん」
「えと、あの」
また言い淀む彩葉の次の言葉を待って、私も口を閉じる。少し開けた窓辺に座り込んだ私の頬を、冷たい夜の風が撫でていった。
「なんか、芦花の声が、聞きたくて……」
その時の気持ちを、なんと言えばいい。外の空気で冷たくなっていた私の頬が一気に熱を持つ。
「ご、ごめんっ。変なこと言った。こんな夜遅くに──」
「うん、びっくりした」
心の裏側を、くすぐられているような。そんな感覚。
「私も、かけようとしてたの」
「……そうなの?」
そうだよ、と答えると、彩葉がなんだか安心したように笑って。それにつられて、私も声を抑えてくつくつと笑う。
人のいない夜の街に、ほんの一瞬、2人の笑い声が響いていた気がした。