ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
ミレニアムでの長時間にわたる会議を終え、アキナとイチカはトリニティに戻り、校舎の廊下を歩いていた。アキナは相変わらずの無表情。
先ほどまで先生と同じ部屋にいたという事実が残っているにもかかわらず、その歩調には乱れがないが、イチカには分かっていた。これは平静なのではなく、平静であろうとしているだけだ。それに、わずかながら顔に疲れが現れ始めてるのを見逃さなかった。
エデン条約の一件以来、先生に対するアキナの敵意がどれほど根深いものなのか。イチカは身をもって知っている。だからこそ、今は余計なことを言わなかった。
「アキナ様。今日は本当にお疲れ様っす」
「⋯⋯仕事をしただけです。ナギサ様を支るためにも、あの仕事は必要なものでしたから」
「それでも、あんなに色々あっても最後まで残り、銃に指一本触れなかったのは凄いと思ったっすよ。まあ、途中で帰られそうになった時は、どうなることかと思ったっすけど。あの時のアキナ様、目が完全に『帰る』って言ってたっすから」
「余計なこと言わなくて良いんですよ。サポート役ならサポートに徹して、口を閉じて下さい」
「はいはい。了解っす」
そんな会話をしながら角を曲がると、前方から歩いてくる二人の少女と遭遇した。
一人は、淡い茶色の長い髪を左右に分けた、柔らかな雰囲気の少女、阿慈谷ヒフミ。もう一人は背中に天使のような白い翼をはやし、紫の花の飾りを付けた長く白い髪に薄紫の瞳見覚えのある顔の少女、白洲アズサ。その人物にアキナの足が止まり、イチカも遅れて立ち止まる。
「……アキナ様?」
アキナはイチカの心配そうに呼びかける声に答えなかった。ただ、目の前の少女を見ている。
白洲アズサ。かつてアリウススクワッドに所属していた少女。そしてナギサを傷つけた少女。アズサもアキナの存在に気づいて立ち止まった。
「黒月アキナ。ここで会えたのは幸運だった」
その声には、驚きも怯えもほとんどない。ただ、静かな覚悟だけがあった。
「アズサちゃん?」
ヒフミもアキナに気づき、少し慌てたように頭を下げる。
「こ⋯⋯こんにちは、アキナ様、イチカさんも」
「こんにちはっす、ヒフミさん。まあ、もう夕方だからこんにちはってのも変っすけど」
イチカは普段通りの笑顔を浮かべて挨拶するが、その視線はアキナから離れない。アキナは挨拶を返すこともなう、アズサだけを見ていた。
「……アリウスの女ですか」
ヒフミの表情が固まるが、アズサは表情を変えずに答えた。
「そうだ。あなたが憎むアリウスの人間だ」
アキナの右手が動いて神殺しへと伸びると、イチカの表情が変わった。
「アキナ様」
「分かっています。攻撃する気はありません」
一方のアズサは武器を構えない。ただ、アキナの前に立っているだけだった。
「⋯⋯撃たないのか? あなたはハナコの腕を折ったと聞いてるが」
「撃ってほしいんですか? アリウスの女」
「あなたになら、撃たれても殺されても構わないと思っている」
「あ、アズサちゃん!? 何を言ってるんですか!」
駆け寄ろうとするヒフミを、アズサは手で制して止める。
「ヒフミ。これは私と彼女の問題だ。だから、ヒフミは関わらないでくれ」
そして、彼女は自分の武器を捨てて丸腰となり、さらに一歩近づいていく。
「アキナ、私を殺したいなら殺せ。ここでなら、私を殺してもあなたが犯人だと疑われないようにすることが出来る。まあ、イチカとヒフミが黙ってることが前提ではあるが」
「⋯⋯随分と準備が良いですね。何が狙いですか?」
「狙いなんてものはない。あなたには、私を殺す理由がある。エデン条約の1件の後、襲撃事件の事を知って、何度も何度も必死に考え直して、あなたが私を殺そうとするなら抵抗するべきでないという結論を出した。そして、あなたが私を殺して不利益を被らないようにするべきだと思ったから、色々と準備してきた」
ヒフミは青ざめた顔をし、イチカは眉をひそめる。アキナは何も言わず、冷たい目をしていた。そして、右手がゆっくりと神殺しへと動く。そんな姿と彼女の瞳を見てイチカが腕を掴む。
「アキナ様」
「分かってると言っているでしょう。攻撃する気はありませんよ。ナギサ様からの命令もありますし」
イチカも、アキナが本気で攻撃する気がないのは理解していた。もし本気で攻撃する気だったのなら、この程度で止まるわけがない。
それでも思わず動いたのは、アキナの瞳を見たからだ。その瞳に宿っているのは、あまりにも冷たく、直接的な殺意そのもの。見ているだけで恐怖してしまいそうな恐ろしさがそこにはあった。しかし、その瞳で見つめられていても、アズサは恐怖していない。
「止めないでくれ、イチカ。さっきも言ったけど、この場所なら、私が死んだとしても、アキナに疑いの目はかからない。ここでなら、彼女の好きにさせることが出来る。私は抵抗する気はない。彼女が殺したいと思うなら」
パアアアアアン!!!
全て言い終わる前に、ヒフミがアズサの頬を叩く音が夕暮れの廊下に響いた。イチカはその光景に驚いており、アキナも少しばかり目を見開いている。
「⋯⋯ひ、ヒフミ?」
アズサも完全に意表を突かれたらしい。いつもの無表情が崩れ、目を丸くしている。叩かれた頬は赤く腫れていた。
「⋯⋯どうして」
「どうしてじゃありません!」
ヒフミは珍しく声を荒らげていた。しかし、それは怒っているというより、泣きそうな声だった。瞳から涙を流しながらも、彼女は睨みつけるようにアズサを見た。
「アズサちゃんが死んでしまうなんて⋯……私は、嫌です。アキナ様に殺されればいいなんて。そんな暗くて憂鬱なお話、私は嫌なんです」
「⋯⋯でも、私にはこんな償いしか見つけられなくて」
「それでも駄目です! アキナ様が、アズサちゃんのしたことを全部許してくれるとは思いません。許してほしいとも言いません。ナギサ様を傷つけたことで、アキナ様がどれだけ苦しんだのか……私なんかが全部理解できるわけないですから」
ヒフミは一度振り返ってアキナを見る。その瞳に宿る殺意に、一瞬だけ身体が強張るが、それでも逃げなかった。
「でも……だからって、アズサちゃんが死んでいい理由にはならないです」
「……けど、私が生きていることで、誰かが苦しむなら。せめて、その苦しみを死ぬことで取り除きたいんだ。それが、私の償いだと思うから」
「そんなの償いじゃありません! 本当に償いたいと思うなら、生きて償ってください。友情で苦難を乗り越え、努力がきちんと報われて、辛いことは慰めて、お友達と慰め合って! 苦しいことがあっても……誰もが最後は、笑顔になれるような! そんなハッピーエンドに行くために!」
その答えに、アズサが目を見開く。そして、ヒフミはアズサの肩を掴んで話し始める。
「死んでしまったら、もう何もできません。謝ることも、償うことも、誰かを助けることもできません。アズサちゃんは、昔のアリウスの仲間たちのことを心配しているんでしょう?」
「……ああ。皆が無事にやれてるのか、今でも心配になる」
「だったらなおさらです。生きてください。生きて、これからできることをしてください。それが、アズサちゃんが選べる、これからなんじゃないでしょうか」
アズサは顔を俯け、何も答えられなかった。そんな中、イチカも深く息を吐いて話しかける。
「アズサさん。私もヒフミさんと同じ意見っす」
イチカはアキナをちらりと見るが、彼女は何も言わない。しかし、神殺しへ伸ばしかけていた手は、いつの間にか下ろされていた。
「正直に言えば、アキナ様がアズサさんを殺したいと思う気持ちは、理解も納得も出来るっす。だって、アズサさんはアキナ様の大切な人を傷つけたんすから」
「イチカさん!?」
ヒフミが驚いたように振り返る。まさか、ここでアズサを殺したいと思う気持ちに共感されるとは考えておらず、涙が引っ込み、唖然とした目で見ている。
「いや、仕方ないじゃないっすか。アキナ様にとって、ナギサ様がどれだけ大切なのか。私も何度も見てきたんすから。補習授業部の件は私も詳しく聞いてます。色々大変だった事やナギサ様を守りたいという意思も本物だったのも知ってるっす。けど助けるためとはいえ、アズサさんがハナコさんと共にナギサ様を襲撃したり傷つけたりしたことは事実ですし、アキナ様がそれを簡単に許せるわけがないのも理解できるっす。でもだからこそ、死ぬなんて簡単に言わないでください。死んだって何の償いにもならないし、あなたが死んだら、ナギサ様が悲しむっすから」
「ナギサが? でも、私は彼女を傷つけて」
「どんな相手だろうと、ナギサ様は、誰かが死ぬことで問題が解決することを望むような人じゃないっすから。それに」
イチカはアキナを見て話を続ける。
「アキナ様だって、ナギサ様に『アズサさんを殺しました』なんて報告したくないでしょう? かといって、隠したままなんてもっと嫌でしょうし。アキナ様、ナギサ様に嘘や隠し事するの苦手っすからね」
アキナは何も答えなかったが、その沈黙がほぼ答えになっていた。暫しの沈黙が流れる中、アズサが話しかける。
「アキナ。私はどうすればいい。どうすればあなたに償える」
「知りませんよ、そんなの。私としては、今でもあなたが死んでくれればと思っています。あなたが無残に死ねば、少なくとも、一つの苦しみや憎しみから解放されるでしょう。ですが、あなたが死ぬことで、ナギサ様が悲しむことも分かっています。あの方を悲しませるようなことはしたくありません。だから私はあなたを殺しませんし、攻撃する気もありません」
ヒフミが安心したように、ほっと息を吐く。アキナの声は尚も冷たく、殺意が籠もったままだったが、この場では矛を収めてくれることに安堵していた。アズサは困惑しているようで、表情に戸惑いが見える。
「勘違いしないでください。私はあなたを許したわけではありません。あなたがナギサ様を傷つけた事実も、私があなたを憎んでいる事実も変わりません。それでも」
アキナは一歩だけアズサへ近づいた。その距離に、ヒフミの身体が僅かに強張る。
「あなたが生きるというのなら、勝手にして下さい。ただし、二度とナギサ様を傷つけないでください」
「……約束する。もう二度と、ナギサは傷つけない」
「言葉ではなく、行動で示してください。アリウスの女の薄っぺらい言葉に絆されるほど、私も馬鹿ではないので」
アズサは、アキナからの強い殺気に怯える事もなく、ゆっくり頷く。
「分かった」
「では、私は仕事がありますので」
アキナはそのまま歩き出そうとし、イチカが慌てて追いかける。その背後から、ヒフミの声がした。
「アキナ様!」
「……何ですか」
ヒフミは少し迷った後、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「……礼を言われるようなことはしていません」
「でも、アズサちゃんに何もしなかったですから。アキナ様も思う所はあるはずなのに」
「ナギサ様のためです。それだけですよ」
それだけ言うと、アキナは歩き始め、イチカもその後を追う。少しほど進んで、アズサたちに声が聞かれないほど離れたところで、イチカが聞く。
「アキナ様。大丈夫っすか?」
「⋯⋯大丈夫です。少し疲れただけですから。早く執務室に戻りましょう」
アキナは表情に疲れを見せ始めながらも、弱みを見せないかのように強気に振る舞い、イチカの心配を跳ね除けて先へ先へとと歩いていく。
一見すると問題ないように見えるし、どこか頼もしそうな雰囲気さえ感じるが、彼女はアキナの足が、アズサと会う前と比べてどこかふらついてるようになってるのを見逃さなかった。
「……全く。こりゃ確かに、大丈夫と言われても信じられないっすね」
二人の姿が消えていった廊下を、アズサとヒフミはしばらく黙って見つめる。先ほどまでそこにあった緊張感だけが残っているような、重い空気が漂っていた。そんな中、ヒフミがぽつりと口を開く。
「アズサちゃん」
「何だ?」
「さっき言ってましたよね。『何度も何度も必死に考え直して、ようやく結論を出した』って。その結論がどうして、自分が殺されても構わないなんてなったんですか?」
そう聞くと、アズサは辛そうな顔をし、ヒフミから視線をそらして答える。
「……知っているからだ。アキナが、アリウススクワッドに襲撃された事件。その全容を」
その言葉に、ヒフミの表情が僅かに曇る。アリウススクワッドの襲撃事件。その全容やアキナの体に残る傷跡の事を知っているのは、トリニティでは救護騎士団と桐藤ナギサのみであった。
しかし、アズサはアリウススクワッドのメンバーから事件の全容を聞かされていた。そして、救護騎士団から独自に調べ上げた情報により、アキナの体に残る傷跡の事も把握している。
思うところがあるような暗い表情を見せるアズサに、ヒフミは戸惑いながらも話す。
「私は、そこまで詳しく知りません。アキナ様がアリウススクワッドに襲われて、幽閉されていた、その事件のきっかけを作ったのがミカ様だという事ぐらいしか」
「そうだろうな。救護騎士団所属でもないなら、それが普通だろう」
「でも、アズサちゃんは知ってるんですか?」
「……ああ。サオリたちから聞いたんだ。でも、これはヒフミが知る必要はない」
「どうしてですか! 私にも教えてくれれば」
「これは、ヒフミが背負う必要のない重みだからだ。それに知ったところで、ヒフミに出来ることは何もない。それでも言えることがあるとするなら⋯⋯あれを知って、私の中の何かが揺らいだ。いや、見るべきものを見てなかったツケというべきか。大切な物を守るために戦ってるのは私だけじゃない。そんなの知っているはずなのに。アキナの事は、きちんと調べて理解していたはずなのに」
アズサは自嘲するように目を伏せる。
「ナギサにも大切なものがある。アキナにもある。そんなこと分かっていたはずなのに⋯⋯私は、自分が守りたい者すら禄に見ていなかった」
アズサはゆっくりと自分の手を見る。その瞳には後悔の色が濃く浮かんでおり、表情は悲しそうにしていた。
「だから、アキナがあの事件で何をされたのかを知ったとき……初めて、自分が何をしたのかを真正面から考えた。私の行動で傷ついた人間がいる。それを知って何度も悩んだ。もっと別の方法があったんじゃないかと。私ならアキナを助けられたんじゃないかと。ずっとずっとずっと⋯⋯悩んでいた」
「……だから、自分を殺してもいいと思ったんですか?」
「そうだ。私はアキナに恨まれて当然だと思った。だから、もしアキナが私を殺すことで少しでも苦しみから解放されるのなら、それを拒む資格は私にはないと思った」
ヒフミは悲しそうにアズサを見て、その手を強く握りしめる。
「さっきも言いましたけど、それは償うこととは違います。アキナ様も、最後には言ってたじゃないですか。『行動で示してください』って」
「そうだな。私は、死ぬことが償いだと思っていた。で も、ヒフミに頬が赤くなるくらいに引っ叩かれて、イチカやアキナに諭されて、少しだけ考えが変わった」
ヒフミはそれを聞き、アズサの赤く腫れた頬を見て顔を真っ青にする。
「ご、ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃ」
「分かっている⋯⋯ありがとう、ヒフミ。私が間違った方向へ進もうとしていることを止めてくれた。ヒフミには何度も助けられてばかりだな」
その言葉にヒフミは瞳を潤ませ、握りしめた手は更に強く握られる。2度と離したくないという思いが、語らずともアズサに伝わってきていた。
「何度でも助けます。だから、ちゃんと生きましょう。苦しいこともあると思います。アキナ様に許してもらえないかもしれません。それでも生きてください。辛いことがあっても、私たち補習授業部がいますから」
「分かった。もう二度と、殺されても構わないなんて思わない」
アズサは、もう一度だけ廊下の向こうを見る。そこには、もうアキナの姿はない。それでも、2人はしばらく廊下の先を見つめていた。
「……アズサちゃん。アキナ様、疲れていましたよね」
「そうだな。顔色も良くなかった。立っていること自体は問題なさそうだったが、あれは無理をしていたと思う。それでも決して弱みを見せず、堂々と振る舞っていた」
「凄い人ですね。とても強いです」
「でも……だからこそ心配だ。あの人は、私たちが思っている以上に色々なものを抱えているんだろう。それを知ろうともせず、私はナギサを傷つけて、サオリたちがあの人を苦しめたことさえ気づかないままで……何が、ナギサを守るだ」
アズサは悔しそうに拳を握りしめる。そんな中、ヒフミは優しくその拳を手でつつみ込んだ。
「アズサちゃん。今度は、私たちで一緒に考えましょう。アキナ様を助ける方法を。今の私たちに何が出来るのかを」
「……ああ。そうだな」
アズサは小さく頷く。今助けるために近づいても、きっとアキナは拒絶する。下手をすれば、互いに傷つけ合うことになるだろう。ならば、今の自分にできることは何なのか。
遠くからでもいい。アキナがこれ以上傷つかないように、ナギサや仲間たちを守れるように何が出来るのかを必死に考える。
「せめて、あの人がこれ以上何かを背負うことがないよう、私に出来ることをやろう」
「私たちですよ。私も微力ながらお手伝いしますから」
「そうだな。頼りにしてるぞ。ヒフミ」
「はい。では今から、寮に戻って作戦会議をしましょう。アキナ様救出作戦開始です!」
ヒフミはそう言って走っていく。アズサも追いかけてたが一度立ち止まり、アキナたちの方を見る。
「アキナ。あなたは私を許さないのかもしれない。ずっと憎み続けるのかもしれない。それでも、私はこの歩みを絶対に止めない。Vanitas vanitatum。たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならないから」
そうつぶやくと、遠くからヒフミの声が響く。
「アズサちゃんー! 置いていっちゃいますよー!」
「今行く」
アズサはそう言って、ヒフミの元へ走っていく。過去を消すことはできない。自分がナギサたちを傷つけた事実は消えない。それでも死ぬことで終わらせるのではなく、生きながら背負い、アキナを支える。それが、アズサが新たに選んだ道だった。