ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
執務室へ戻ったアキナは、そのまま振り返ることなく机へ向かい、イチカも続いて入室した。
「アキナ様。大丈夫っすか?」
イチカが心配そうな声で話すも、アキナは振り返らない。
「……今日はもう結構です。イチカさん、あなたは部屋から出てください」
声だけを聞けば、いつもの淡々としたアキナと変わらない。けれど、イチカには分かっていた。明らかにいつもの彼女ではない。歩き方も、声も、そして何より、その背中から感じられる強さのようなものが弱くなっている。
「でも……」
「大丈夫ですから」
「大丈夫な人は、そんな顔しないっすよ。ミレニアムで長時間の会議。しかも先生と会って、さらにはアズサさんとも……今日は精神的にもかなり負担が大きかったはずです」
「問題ありません」
「問題あるっす。少し休みましょう、アキナ様。急ぎで終わらせないといけない仕事はもう無いんですし、ちょっとばかりカフェで時間を潰すというのも」
アキナを止めようと、イチカが手を伸す。しかし、その手は肩に触れる直前でパシーンと弾かれた。
「アキナ様」
「……お願いです」
そこで初めてアキナが振り返る。イチカは彼女の顔に思わず息を呑んだ。冷静な緑色の瞳、いつもなら、そこには強い意志が宿っている。けれど今は違う。疲労と苦痛を隠しきれず、今にも崩れてしまいそうな瞳になっていた。
「今日はもう疲れたんです……誰の顔も見たくありません。正直、こうしてイチカさんの顔を見るのもしんどいです」
その言葉に、イチカは黙り込むしかなかった。何とかしてあげたいとは思うが、今のアキナが求めているのは、助けではなく一人になること。仮に彼女が無理に助けようと動いても逆効果になるのは明白だった。ゆえに、彼女は下がることしか出来ない。
「……分かったっす。でも、何かあったらすぐ呼んでくださいね」
「わかっています……早く行って下さい」
「じゃあ、私はこれで。明日もよろしくお願いするっす」
イチカは最後まで心配そうな顔をしながら、執務室を出ていく。カチャリと扉が閉まる音を最後に、部屋は静寂に包まれた。
しばらくの間、アキナは、その場から動かなかった。10分ほど経った後、ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。
「……疲れました」
誰もいない部屋に、か細い声が落ちる。机の上には、まだ大量の書類が残っている。本来なら、すぐに取り掛かるべきだった。ナギサから任された仕事であり、終わらせなければならない。それが自分の役目なのだから。
「……やらないと」
手を伸ばす。しかし、書類を掴もうとした指が震える。
「まだ、できます。私は……ナギサ様のために」
彼女の心は限界だった。フィリウス分派のNo.2だった頃は、アリウスたちに拘束されるまで、1日に1回は必ず会えた。しかし、パテル分派の代表代理となり、ティーパーティの生徒会長代理となって変わってしまった。
代理を務めてから数日経っているが、彼女は1度もナギサと会えていなかった。ナギサはアリウス自治区の件にかかり切りであり、自分も晄輪大祭の事があるため、会えないのは仕方のないことである。しかし頭では分かっていても、心はそうは行かない。
おまけに、今日一日だけで積み重なったものはあまりにも多すぎた。アコから向けられた言葉、先生との出会い、白洲アズサ。殺意を必死に抑え、ナギサのためになると信じて手を出さなかった。それは自分自身で選んだことだが、それでも心に積み重なる痛みが無くなるわけではない。
「……苦しい」
ぽつりとその言葉が口から漏れた瞬間、アキナの瞳から一粒の涙が落ちた。
「どうして。どうして会えないのですか……ナギサ様」
その名を呟いた瞬間、堪えていたものが完全に崩れた。
「……会いたいです。ナギサ様」
沢山の涙が机のうえにこぼれ落ちる。抑えようとしても止まることがない。
「寂しいです……こんなに会えない日が続くなんて……ひぐっ……ううっ」
アキナは幼い子供のように、涙を流し続け、いつもの冷徹な顔は完全に崩れていた。
「ずっと、お会いできなくて……私、こんなに頑張っているのに」
ナギサから任された仕事をこなし、ティーパーティーの一員として責務を果たし、晄輪大祭の担当を務め、何があっても弱音を吐かない。それが自分の役目だと思っていた。けれど、本当はずっとナギサに会いたかった。その気持ちを押し殺し、憎む相手と出会ってもずっと心を平常心で保てるよう、怒りや殺意を必死に抑えてきた。
「ナギサ様……会いたいです。少しだけでいいから……そばにいてください」
やがて、その声も小さくなり、疲労で意識が霞んでいく。机に突っ伏したまま、アキナは最後にもう一度だけ呟いた。
「ナギサ……様」
そして、そのまま眠りへ落ちていった。
「……アキナ」
優しい声が聞こえ、アキナはゆっくりと目を開ける。
「……あれ?」
執務室とは違う場所の天井、柔らかな布団。そして、彼女は膝枕されていることに気づく。それをしていたのは。
「ナギサ……様?」
「はい。私です」
聞き間違えるはずがない。ずっと会いたいと思っていた愛する相手であった。
「こんばんは、アキナ。よく眠っていましたよ」
「どうして……ここに」
「セリナさんから連絡をいただきました」
「セリナさんが?」
「はい。私にしか解決出来ない事があると言われまして。仕事も一段落したので急いで戻ってきました」
アキナは何も言えなかった。ただ、ナギサの姿を見つめる。本当にいる。夢ではないことを確認するように、彼女はナギサの頬に触れる
「……ナギサ様」
「はい」
「本物ですか?」
「ええ」
「夢じゃないですよね?」
「ええ。夢ではありませんよ」
ナギサはそう言って、アキナの手を優しく包み込む。すると、アキナの目から、また涙が溢れ始めた。
「……よかった。会いたかったです」
「私もですよ」
ナギサは優しく髪を撫で、アキナは気持ちよさそうに目を細める。
「ああ。ナギサ様からのナデナデ。気持ちいいです」
「それは良かったです。よく頑張りましたね」
その一言だけで、アキナの涙が止まらなくなった。
「ナギサ様……私……」
伝えようと思えど、言葉が続かない。ナギサは何も急かさず、ただ頭を撫で続ける。
「今日はもう、仕事のことは考えなくていいのです」
「ですが」
「これは命令ですよ。今夜くらいは、私に甘えてください」
「……はい」
アキナは小さく頷き、ナギサの膝に頭を預けたまま目を閉じる。
「ナギサ様。もう少し、ここにいてください」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
その声には、ようやく安堵が戻っていた。
アキナにとってナギサは、主君であり、恩人であり、自分がこの世界に存在する理由そのものに近い。
だからこそ、離れている時間が長くなるほど、心の奥底にある不安も大きくなる。
今はナギサがそばにいて、甘やかしてくれる。それだけで彼女は、最高に幸せだった。
「おやすみなさい、アキナ」
「おやすみなさいませ、ナギサ様」
アキナはナギサの膝の上で、穏やかな表情を浮かべながら、再び目を閉じた。
しばらくして、アキナの呼吸がゆっくりと落ち着いていき、表情も穏やかになっている。ナギサはその様子を見ながら、そっと、アキナの金色の髪を撫で続けていた。
「……眠りましたか」
返事はない。どうやら本当に眠ってしまったらしく、ナギサは安堵したように息を吐いた。しかし、その表情には心配が残っていた。
「……数日ですよ。私と離れていたのは、たった数日です。それなのに」
視線を落とす。膝の上で眠るアキナは、起きている時とはまるで別人だった。
普段は冷静で、仕事も完璧にこなし、多少の困難では決して弱音を吐かない。
けれど、ナギサの前では違う。甘える、頼る、愛する、そして何より、ナギサがいなくなることを必要以上に恐れている。
「アキナ。あなたは、私が思っていた以上に……私を必要としているのですね」
もちろん、ナギサ自身もアキナにとって自分が特別な存在であることは知っていた。
アキナは昔から、自分のためならどんな無茶でもする。仕事を任せれば限界まで働く。自分が傷つけられれば、相手に対して容赦をなくす。
「私が、もっと早く戻ってくるべきでした」
ナギサは自分を責めるように呟く。アリウス自治区の復興、それに伴う食料や医療物資の確保、住居の整備、トリニティとの関係調整。やらなければならないことは山ほどある。だからこそ、晄輪大祭をアキナに任せた。アキナなら出来ると信じていたから。
実際、仕事そのものには何の問題もなかった。外交の件も、イチカのサポートがあったとはいえ、先生に会いながらも最後まで仕事を果たしたし、銃口を向けることもしなかった。しかし。
「仕事ができることと、無理をしても平気なことは、別ですものね」
ナギサは眠っているアキナの頬へ、そっと手を添えた。
「ごめんなさい、アキナ」
アキナは眠ったまま、ほんの少しだけ身じろぎする。
「……ナギサ様」
「はい。ここにいますよ」
その声を聞くと、アキナは安心したように再び静かになった。ナギサは胸が締め付けられるような感覚を覚える。
「……そんなに、私がいないことが辛かったのですか」
答えは返ってこない。けれど、こうして彼女が縋り付くように甘える事こそが答えのように思えた。
たった数日。それだけ離れていただけで、アキナはここまで追い詰められてしまった。それを考えると、ナギサは単純に「可愛い」と思うことが出来ない。むしろ心配だった。自分への依存が、アキナ自身を苦しめているのではないか。
「……私があなたの支えになることは、構いません。あなたが私を信頼してくれることも、嬉しく思っています。ですが……私がいなければ何もできない、という状態にはなってほしくありません」
それはアキナを突き放す言葉ではなかった。むしろ、その逆だった。ナギサはアキナに、自分だけの人生を生きてほしいと思っていた。
「あなたには、あなた自身の人生があります。あなた自身の幸せがあります。私のために生きてくれることだけが、あなたの幸せになってしまったら……私はきっと、嬉しいよりも心配になってしまいます」
アキナは眠っている。故にその言葉は届いていない。それでもナギサは話し続けた。
「……いつか、私がそばにいない時でも笑えるようになってください。それでも、私に会いたい時は会いたいと言ってください。無理に我慢する必要はありません。私も、あなたに会いたい時はそう言いますから」
その言葉を聞いたかのように、アキナの指が僅かに動いた。
「ナギサ様……ずっと……そばに……いなくならないでください」
ナギサは、その寝言に胸を締め付けられるような思いを抱いた。
「大丈夫ですよ、アキナ。私はここにいます」
眠ったままのアキナの手を、そっと握る。すると、アキナの表情が僅かに緩んだ。
「……ナギサ様」
「はい。ここにいますよ」
ナギサは優しく髪を撫で続ける。けれど、その表情から心配が消えることはなかった。アキナが自分を慕ってくれることは嬉しい。自分を必要としてくれることも、決して嫌ではない。それでも。
「考えなければいけませんね。あなたが、私だけを支えにしないように」
依存させたいわけではない。自分がいなくても、アキナには笑っていてほしい。その時こそ、自分の秘めてる想いを伝える事が出来る。ナギサはそう思いながら、眠っているアキナの顔を見つめていた。
「……焦る必要はありませんね」
心配ではある。けれど、今すぐ何かを変えようとは思わなかった。アキナが自分を必要としていることは、もう十分に理解した。ならば今は、安心して眠れる場所を作ってあげることが最優先である。無理して何かを変えようとすれば、逆に彼女の心を壊してしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
「少しずつでいいのです。あなたが一人で生きていけるようになることも、私だけを支えにせず、他の人たちのことも大切にす るのも。どちらも、急がなくていいのです」
アキナは眠ったまま、ナギサの袖を小さく握った。
「……ナギサ様」
「はい。ここにいますよ。アキナ」
ナギサはそう言って手を優しく握り、アキナの額にキスをする。すると、アキナは安心したように眠り続ける。
ナギサもまた、彼女を起こすことなく、そのまま傍にいることを選んだ。
今夜くらいは何も考えず、ただ二人で過ごしてもいい。
そう思いながら、ナギサは静かに彼女の髪を撫で続けて夜を過ごした。