ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
トリニティ総合学園、正義実現委員会の部室。
昼休み。窓から差し込む強い日差しが、机に積まれた書類を照らして熱していた。
正義実現委員会の副委員長『羽川ハスミ』は、報告書を手に取りながら目を通していた。静かな部室に響くのは、紙をめくる音と時計の針の音だけ。そんな中、控えめな足音が彼女の元へ近づいてきた。
「……ハスミ先輩」
「どうしました、マシロ」
顔を上げると、そこには一年生の静山マシロが立っていた。背筋は真っ直ぐに伸び、表情もいつも通り真面目。しかし、その両手は落ち着かなさそうに制服の裾を握っていた。
どうしましたとは聞いたものの、ハスミは彼女が何を尋ねに来たのか察しており、また同じようなことを聞かれるのかと思って軽くげんなりし、ため息を吐いた。
「あの。イチカ先輩は、今日もアキナ様とちゃんとやれているでしょうか。アキナ様は、お元気でいらっしゃるのでしょうか」
「……マシロ。それを聞くのは、今日で十七回目です」
「そ、そうですか。すみません」
「謝罪は今日で十三回目ですね。ちなみに、アキナ様の様子については昨日も尋ねられました」
「はい」
「一昨日もです」
「……はい」
「その前の日も」
「…………はい」
「アリウスの事件以降、聞いてくる頻度はとてつもなく高くなっています。今では1日に2回はざらにありますよ」
「…………すいません」
淡々と数えられ色々言われる度に、マシロの声はもんどん小さくなっていく。責められていると思ったのか、彼女はすっかり萎縮してしまっていた。すっかり縮こまってしまった後輩を見て、ハスミはまたため息を吐く。
「はあ……そこまで気になるのでしたら、本人に聞けばいいのではありませんか?」
「!? ほ、本に……アキナ様本人にですか?」
「他に誰がいるのですか? まさかコハルにでも聞くつもりですか?」
「い、いえ……そう、ですよね」
明らかに動揺している。ハスミはそんな彼女を見て疑問に思っていた。彼女は人付き合いが苦手というわけではなく、委員会のメンバーとはよく話している。仕事上とはいえ、桐藤ナギサや聖園ミカ、百合園セイアと話したことも何度かあった。やのに、黒月アキナの事になると動揺が多くなり、まるで別人のようになってしまって、全く話しかけなくなってしまう。それがハスミにはどうにも不可解だった。
「何か問題でもありますか?」
「問題というわけでは……ただ、少し、聞きづらくて」
「なぜです?」
マシロは答えずに俯くだけ。ハスミにはそれが分からなかった。
彼女が黒月アキナを気にかけていることは、以前から知っていた。エデン条約の一件やアリウススクワッドによる襲撃事件があったからではない。どういうわけか、正義実現委員会に入部した時からやたらと目で追うことが多い。
しかし、そこまでして、さらには他の人には頻繁にアキナの様子を尋ねる一方で、そのアキナ本人には一切話しかけようとしない。どう考えても不自然で腑に落ちなかった。
「マシロ。アキナ様は、あなたに何かしたのですか?」
「い、いえ! そんなことはありません! あの方が、誰かを理由もなく傷つけるような人ではないことは理解しています!」
「では、何かやらかして嫌われたりしましたか?」
「それも……たぶん、違うと思います」
「それなら、どうしてそこまで遠慮するのですか? アキナ様は、質問すればきちんと答えてくださる方です。あなたが一方的に恐れる必要は無いと思うのですが」
「……分かっています。それは分かっているんです」
そう答えるマシロの声には、いつもの力強さがなかったハスミは腕を組み、しばらく後輩の様子を観察している。
正義について語るときのマシロは、実に饒舌だ。哲学書から得た知識を交え、自分なりの考えを熱心に説明する。難しい問題を突きつけられても、すぐには諦めず、答えを探そうとする。
それなのに、アキナのことになると、途端に口が重くなり、答えを探すどころか逃げ回るばかり。
「……マシロ。私は、あなたが何をそこまで気にしているのか、正直よく分かりません。あなたは、アキナ様の何を恐れているのですか?」
「恐れている……私は、アキナ様にどう接すればいいのか、分からないんです」
「どう接する、ですか?」
「はい。そもそも……私なんかが、あの方に近づいていいのかも分からなくて」
「どうしてそのように考えるのです? あなたは仕事上とはいえ、ナギサ様や聖園ミカ、セイア様に話したこともあるでしょうに」
「それは……そうなんですけど。でも、今のアキナ様は沢山のものを背負っていらっしゃいます。エデン条約のことも。その後のことも、ナギサ様のことや晄輪大祭の事まで。きっと、私には想像もできないくらい、大変な思いをされているはずです」
「まあ、イチカとセリナさんがサポートに入ってるとはいえ、苦労はされてるでしょうね」
「なのに、私は……何もできていません。アキナ様が苦しんでいるとき、私は何もできなかった。アリウススクワッドに襲撃されたときも、その場にいなくて……助けることができませんでした。それなのに、正義をろくに実行できないような私が話しかけて良いのかと思いまして」
マシロは悔しそうに、胸元で両手を握り締めた。その瞳には涙が流れており、ただ事ではないということをハスミは理解した。
「……マシロ。襲撃の件はあなたの責任というわけではありません。私やツルギも、アキナ様が罠にかけられてるのに気づけなかった。だから、あなたがそうやって思い悩む必要は」
「それは分かってます。でも、その時のことをふと思い出して後悔して……いつもそうなんです。私は、誰かを助けたいと思っているのに。正義を実現したいと思っているのに……本当に助けが必要な人がいるとき、何もできない」
その言葉を口にした瞬間、彼女の脳裏に、忘れようとしても忘れられない光景が蘇った。
マシロが中学二年生の頃。当時、中学三年生だった黒月アキナが、校舎裏で複数の生徒に囲まれていた。アキナの頬は赤く腫れており、制服は傷だらけになっていた。
「お前さぁ、なんでそんな偉そうなんだよ」
「……別に、偉そうになんて」
言い終わるより早く、アキナの髪が乱暴に掴まれて身体を引っ張られ、壁に叩きつけられる。
「調子乗ってんじゃねえよ!」
鈍い音が響いた。倒れたアキナの身体に、容赦なく蹴りが浴びせられる。それでも、彼女は泣かなかった。
「……やめて……ください」
小さな声だった。しかし、そこには確かな抵抗の意志があった。それが気に障ったのか、生徒たちはさらに暴力を振るった。顔を踏みつけ、腹部を蹴り、立ち上がろうとするたびに地面へ引き倒す。
マシロは、少し離れた物陰からその光景を見ていた。
(助けないと。あの人たちを倒して、彼女を助けないと!)
そう思った。何度も、何度もそう思って踏み込もうとしたが、足は縫い付けられたかのように、ピクリとも動かなかった。
相手は自分よりも上級生で、人数も多い。校内でも有名な問題児たちであり、教員さえ簡単には手を出せないと噂されている程の存在。もし、突撃してきた自分まで殴られたら。もし、次は自分が標的になったら。もし、友達まで巻き込まれたら。そんな考えばかりが頭の中を埋め尽くしていた。
「……やめ、て」
アキナが、地面に手をついて起き上がろうとするも、いじめていた生徒は顔を蹴って地面に倒した。
「まだ立つのかよ」
再び髪を掴まれ、拳が振り下ろされる。制服に血が滲んでいく。マシロは唇を噛み締め、今にも飛び出そうとしていた。
(行かないと。声を上げないと。ここで助けられなかったら、私は何のために正義を目指しているのですか!)
だが、最後まで彼女は何もできずにただ見ているだけだった。アキナが殴られるところを、蹴られるところを、何度も地面に倒されるところを。
そして、やがて生徒たちは飽きたように立ち去り、残されたアキナはその場からしばらく動かなかった。マシロもまた、物陰から出ることができなかった。怖かったから。ただ、それだけだった。
その日の夜。
自室の鏡の前で、マシロは自分の拳を見つめていた。小さな手が震えている。
「……私は」
何もできなかった。正義を語り、本で学んでおきながら、誰かを助ける勇気すらない。自分の身を守ることばかり考えて、助けを求める人を見捨てた。いくら後悔しても、時間は戻らない。ならば、これからどうするべきなのか。そんなことは、彼女は既に理解していた。
「……もう、二度と。目の前で誰かが傷ついているのに、ただ見ているだけの人間にはならない」
正義を語るだけではなく、正義を実行できる人間になる。その決意を胸に、マシロは努力を始めた。身体を鍛え、射撃の腕を磨き、苦しい訓練にも耐えた。正義とは何かを考え、書物を読み、自分なりの答えを探し続けた。
やがてトリニティ総合学園に入学し、正義実現委員会の門を叩き、重ねた努力が実を結んで、首席で入部を果たした。その強さは副委員長の羽川ハスミや委員長の剣先ツルギも一目置くほどまでとなっていたのだ。
あの頃の自分とは違う。今なら、誰かを助けられる。そう信じていた。
だが、マシロが正義実現委員会に入った頃には、アキナはすでに桐藤ナギサに救われていた。
かつての弱々しい少女は、ナギサを支える秘書となり、誰もが簡単には近づけないほどの強さを身につけていた。
もう、彼女が助ける必要などどこにもない。むしろ、自分が関われば足を引っ張ってしまう。
さらには、アキナは自分のことを覚えてすらいなかった。
だが、マシロは当然の事だと思っていた。あの日、マシロは物陰から一歩も出なかったのだから。アキナにとって、自分は記憶に残るような存在ですらなかったのだ。
圧倒的な差を見せつけられたこと、助けが間に合わなかったこと、覚えられていなかったこと、どう接すれば良いのか分からなくなったこと、様々な思いが積み重なり、彼女はアキナと距離を置くようになった。
話しかけたい、謝りたい、あのとき何もできなかったことを、今度こそ伝えたい。けれど、何を言えばいいのか分からない。今さら謝ったところで、アキナを困らせるだけではないのか。自分の罪悪感を軽くしたいだけではないのか。そもそも、アキナは自分のことなど覚えていない。同じ中学にいたことだって、マシロがそう言って初めて理解される程の記憶に残らなかった存在。
そんな認識しかしてない相手に過去の話を持ち出すことに、どんな意味があるのだろう。
考えれば考えるほど、言葉は喉の奥に詰まっていった。
「……マシロ?」
ハスミの声で、マシロは我に返る。いつの間にか、ずいぶん長い時間黙り込んでいたらしい。
「すみません……少し、考え事をしていました」
「そのようですね。詳しい事情までは分かりませんが……あなたがアキナ様を心配していることは、よく分かりました」
「はい」
「ですが、心配しているだけでは、何を考えているのか伝わりません。本人に聞かなければ、分からないこともあるでしょうし」
「……そう、ですね」
「もちろん、無理に話せとは言いません。あなたにも事情があるのでしょうから」
ハスミはそこで一度言葉を切り、マシロをまっすぐ見つめた。その瞳はマシロに何かを問いかけるように、ただじっと見つめている。
「ただ、いつまでも遠くから心配しているだけで、本当にいいのですか?」
マシロは答えられなかった。その問いが、自分自身に何度も投げかけてきたものと同じだったからだ。
自分も彼女の力になりたい。今度こそ、ただ見てるだけの傍観者から卒業したい。それは分かっているのに、いざ踏み込もうとすると、足がすくんでしまった。仮に助けに行ったとしても、自分みたいな存在では迷惑になるだけではないかという思いも、足踏みの一因となってしまっている。
「……でも、アキナ様はお強い方です。私なんかがそばにいても」
「強い方なら、心配する必要も支える必要もないと?」
「い、いえ……そういう意味では」
「なら、答えは出ているのではありませんか? あなたが本当にアキナ様を心配しているのなら、遠くから様子を尋ねるだけでなく、少しだけ近づいてみてはどうでしょう。上手く話せなくても構いません。何か特別なことをしてあげる必要もありません。ただ、気にかけていると伝えるだけでも、意味はあるはずです」
「……私に、できるでしょうか」
「できるかどうかは、やってみなければ分かりませんよ。正義を実現するために、あなたは努力してきたのでしょう? なら、今度はその勇気を、あの人と向き合うために使ってみてください」
マシロは目を見開き、それから体を震わせながらも、ゆっくりと俯いた。
「……はい。少しずつ、頑張ってみます」
「ええ。それで十分です」
ハスミは再び書類に目を落とした。マシロは深く頭を下げ、今度こそ部室を後にする。
「全く。マシロも世話が焼けますね。晄輪大祭の件やこちらの件もあるというのに」
そうつぶやいて、ハスミはある書類を取り出す。それは正義実現委員会の仮入部申請書であり、そこに書かれているのは白洲アズサと阿慈谷ヒフミ。
「晄輪大祭の警備への参加ですか。コハルの強い推薦があったとは聞きますが、この2人が参加するとは予想外でしたね。何かきっかけでもあったのでしょうか?」
ハスミは仮入部申請書に視線を落とし、首を傾げていたそのとき、部室の扉が勢いよく開く。
「帰ったぞ。全く、最近は手応えの無い奴らばかりが沸いていてうんざりするな」
長い黒髪を揺らしながら、ツルギが戻ってきた。手にしていた武器を壁際に立てかけると、ハスミの机に置かれた書類に気づく。
「……ん? アズサとヒフミの申請書か?」
「ええ。晄輪大祭の警備に参加したいそうです。ツルギは何か知っていますか?」
「詳しくは知らないが、少し前にアキナと揉めたらしいな。なんでも、アズサが自分を殺してくれなんて言い出したとか。で、ヒフミがそれに対してブチギレて引っ叩いたとかなんとか」
ハスミは思わず目を見開いて驚き、唖然としてしまった。
「……それはまた、ずいぶんと物騒な話ですね。それに、アズサさんが自分を殺してほしいと言った理由も気になります」
「私もそう思う。しかもなぜかは知らないが、その後はティーパーティーの人間たちに、仕事で手伝えることがないか、アリウス自治区の件で協力出来ることがないか聞いたりしてるらしい」
「ふむ。色々と詳しく知らないといけない事が多いようですね。ツルギ、この仕事が終わったら、その一件について教えてください。ヒフミさんも関わっているようですし、晄輪大祭の警備を任せる以上、アキナ様との間にある事情は把握しておきたいですから」
「私に聞くよりも、イチカに聞いたほうが良いだろう。あいつも当事者のようだからな」
「では、後で一緒にイチカに聞きに行くとしましょう」
「了解した」
ツルギは大きく息を吐いて椅子に腰を下ろし、ハスミは書類を見つめながら考えていた。
アキナとアズサの間に何があったのか。そして、アズサたちがなぜティーパーティーの仕事を手伝おうと言い始めたのか。
(仕事が終わったら、きっちりと色々聞かないといけませんね)
ハスミはそう思いながら、報告書に手を付けた。