ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
放課後。トリニティ総合学園の校舎から少し離れたカフェは、授業を終えた生徒たちが談笑を楽しみ、穏やかな空気が流れている。
そんな中。イチカだけは、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、大量の冷や汗を流して固まっていた。
理由は明白。テーブルを挟み、彼女の向かい側に座るのは、正義実現委員会の副委員長の羽川ハスミと委員長の剣先ツルギ。2人とも普段から接する先輩ではあるものの、今日ばかりは顔を合わせた瞬間から、イチカは自分の置かれた状況を理解していた。
──あっ、これ逃げられないやつっすね──
ハスミは注文した紅茶に手を伸ばすこともなく、机の上で静かに指を組んでいた。表情こそ普段どおり落ち着いているが、その眼差しは明確にイチカを捉えている。一方、ツルギは頬杖をつきながら、いつもより幾分大人しく椅子に座っていた。ただし、その膝の上では両手がぎゅっと握り締められており、何かを聞こうとしてることは一目瞭然だった。あまりにも凄まじい緊張感漂うそのなかには、店員でさえはいることを躊躇するほどであった。
「さて、イチカ。そろそろ聞かせてもらえますか?」
「何をっすかねぇ。いやー、放課後に先輩たちとカフェでお茶なんて、なかなか優雅でいいっすね。普段の任務とは違って、こういう楽しい時間も大切にしたいところっす」
「イチカ。申し訳ありませんが、今日は冗談を言う気分ではありません」
「……すいませんっす」
お茶濁しの雑談すら許される気配がなく、イチカの背筋がぴんと伸びる。ハスミは微笑みすら浮かべておらず、淡々と言葉を重ねていった。
「アズサさんとアキナ様の件です。先ほどもお話ししましたが、私たちは、あなたから詳しい事情を聞くためにここへ来ました。ツルギから聞いた話だけでは、あまりにも情報が不足していますから」
補足するようにツルギが話を引き継ぐ。
「アズサがアキナ様に自分を殺せと言った。それに対して阿慈谷ヒフミさんが怒って、アズサを叩いた。私たちが知ってるのはこの程度でな。どうしてそんなことになったかの詳細がよく分からないんだ。アズサは何を考えてそんな事を言い出した。アキナ様は最後はどうした。ヒフミはどう動いたんだ」
「……ツルギ先輩。質問が多いっす。そんなに一片に聞かれても困るっす」
「すまない。だが聞きたいことは山のようにあってな。なんせ、私たちの知らないところで、そんな物騒なことが起きていたんだ」
「それに、アズサさんとヒフミさんは晄輪大祭の警備を志願していますからね。私たちとしても、アキナ様とアズサさんとの間に何があったのか知っておかないと、後々大変な事になりそうですから」
ハスミの言葉に、イチカは思わず視線を泳がせる。2人の言葉は最もなことである。アズサたちが晄輪大祭の警備を志願してる以上、晄輪大祭を全面的に任されてるアキナとの間に起きた出来事を詳しく知ろうとするのは当然の事だろう。
とはいえイチカとしては、正直に全てを話すべきか悩んだ。別に口止めされてるわけでもないが、下手にあの話を伝えて、アキナやアズサに迷惑をかけないか考えてしまったのだ。しかし、ハスミたちには生半可な嘘や誤魔化しは通用しない。仮に言い逃れをしようとしても地の果てまで追求してきそうな恐ろしさが感じられた。
イチカはしばらく迷った末、話すことに決めた。このまま黙っていたところで意味はないだろうし、2人がどう思うにせよ、まずは話さないと始まらないと考えたからだ。それに、アズサの思惑を知ってくれたほうが、警備に志願してる件もきちんとした判断を下せるだろうという考えもあった。
「……分かったっす。ちゃんと話すっすよ。ただ、先に言っておくと、あれは結構、重たい話っすからね。聞いた後で、やっぱり知らなければよかったとか言わないでくださいよ?」
「構わない。聞かせてくれ」
「ええ。お願いします」
2人の返事を聞き、イチカは小さく息を吐いた。運ばれてきた飲み物に手を伸ばし、冷めかけた紅茶を一口だけ飲み、アズサとアキナの間に起きた事を話し始めた。
廊下でアズサさんとヒフミさんに偶然会い、アキナとアズサが一触触発といった様子で話していたこと、アズサが殺してくれと言ったことの真意、ヒフミが止めた理由、アキナが最後に何をしたのかの全てを。
そして全てを聞き終えたハスミとツルギは難しい顔をしていた。2人はイチカの言葉をゆっくりと咀嚼するように聞いており、ときにはメモを取ったりもしていた。
「なるほど。だからアズサさんは警備を志願したり、ティーパーティーの仕事を手伝おうとしてるのでしょうね。それが償いになると思って」
「補習授業部がやたらと動き回ってるのも、そういう事情があったわけか。皆、自分に出来ることをやろうと頑張ってるわけだ」
ツルギは腕を組み、難しい顔で唸った。普段の彼女なら、複雑な事情を抱えた相手に対しても、まずは真正面からぶつかっていくところだ。しかし、今回ばかりは簡単に結論を出せなかったらしい。
「ただ、アズサさんの行動が償いになるとは限りません。本人がそう思っていたとしても、アキナ様がそれを受け入れるかは分かりませんから」
「あいつならそれぐらいの事は理解してるだろう。それでも何か出来ることがないか、アキナ様を少しでも支えたいと思って行動しているはずだ。でないと、コハルも強く推薦したりはしないだろうしな」
「確かにそうですね。とはいえ、アズサさんとヒフミさんの申請をどう扱うかは慎重に考える必要があります。二人が反省していることと、警備を任せられるかどうかは別の問題ですから。アキナ様の事もありますし、慎重に議論すべき内容です。明日にでも、晄輪大祭の警備計画について会議をしましょう」
ハスミはそう言うと、少し柔らかな表情を浮かべてイチカに話しかける。
「イチカ、教えてくれてありがとうございます。話しづらいことだったでしょう。それでも、隠さずに話してくれて感謝しています。これで、私たちも必要な対応を考えられますから」
「……どういたしましてっす」
イチカはいつもの笑顔を浮かべた。けれど、その表情はいつもより少しだけ疲れて見えた。ツルギはそんな後輩を見る中、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばイチカ。今日のアキナ様はどうだった? 仕事中、アズサのことを気にしたりしていたのか?」
「いや。それが全然っす。今日の仕事でも、アズサさんの話なんて一度も出ませんでしたよ。晄輪大祭の会場設営、他校との調整、警備計画の確認……いつもどおり、必要なことを淡々と片づけてました。まあ、あれはアキナ様にとっては、もう終わった話なんでしょうね。少なくとも、仕事を中断させるほど気にかける相手ではない。そういうことだと思うっす」
イチカはそう答えたが、胸の奥には、あの日の光景がまだ残っていた。
彼女は確かに怒っていた。アズサに向けた殺意は、見ているだけでも息が詰まるほどの恐ろしいものだった。それなのに、ひとたびその場を離れれば、彼女は自分の感情を押し込め、何事もなかったかのように仕事へ戻った。アズサのことを考え続けるでもなく、怒りを周囲へぶつけるでもなく、ただナギサのためにやるべきことを進めていたのだ。
そこには許しも、和解も、未練もない。あるのは、ナギサを守るという揺るぎない意志だけだった。
暫しの沈黙が流れる中、ハスミは話を締めるように話し始めた。
「とりあえず、今日はこの辺でお開きにしましょう。これ以上話せることも無さそうですからね。イチカ、アズサさんたちの申請については、こちらで情報を止めておきますので、まだアキナ様に伝えないで下さい。ただでさえ色々な重荷を背負っていますし、これ以上余計な負担をかけるわけにはいきませんからね」
「そうだな。私たちは、私たちにできることを考えよう。今のトリニティは起爆寸前の火薬庫のようなもの。何が起きてもおかしくはない。小さな火種は、こちらで摘んでおかないとな」
ツルギも頷きながらそう答えた。カフェの窓の外では、夕暮れの光が少しずつ校舎を染め始め、生徒たちも帰路につき始めている。放課後の穏やかな時間は、いつの間にか終わりを迎えようとしていた。
イチカは残った紅茶を飲み干しながら、心の中で願った。晄輪大祭が無事に終わることを。アキナが少しでも心穏やかに過ごし、ティーパーティーが正常に回復するるようになることを。
同時刻。トリニティ総合学園の敷地内にある訓練用の走路には、三人の少女の足音が響いていた。
「はぁっ……はぁっ! あ、アズサちゃん、これ、本当に晄輪大祭の警備に必要な訓練なんですか!?」
大きな荷物を背負ったヒフミが、息も絶え絶えになりながら前を走るアズサに問いかけた。その隣では、同じように重い荷物を背負ったコハルが、今にも倒れそうな顔で走っりながら、アズサの代わりに答える。
「当たり前でしょ……こ、これくらいで音を上げてたら、警備なんて務まらないんだから。ヒフミ、あんたももっとやる気出しなさい。この程度でへばってたら、警備の役に立たないわよ! ほら、もっと足を動かす!」
口では威勢の良いことを言っているが、コハルの呼吸もすでに乱れており、足はフラフラになっていて、ヒフミとそこまで違いがない。
どちらかといえばアウトドア寄りではあるものの、普段から毎日運動をしてるわけでもない二人にとって、重荷を背負っての走り込みは想像以上に過酷だった。
一方、先頭を走るアズサは十分な余裕があった。呼吸は乱れておらず、足取りも安定している。彼女にとって、かつてのアリウスで積んだ過酷な訓練に比べれば、まだまだ軽いものであった。本当なら重荷は今の5倍以上にはしたかったが、ヒフミたちには耐えられないと思って重荷の量を減らしたのだ。
「ヒフミ。警備をしてる最中、重量物や負傷者を運ぶこともあるかもしれない。弾薬や装備を携行したまま移動する場面も考えられる。だから、重い荷物を背負って走る訓練をしておくに越したことはない」
提案の内容自体は至極もっともだった。とはいえ、ヒフミとコハルは、もう少し段階を踏んでほしかったなあと内心思っていたが
「そ、そうですけどぉ。アズサちゃん、ちょっと速いです!」
「……分かった。少し速度を落とす」
アズサは素直に速度を緩めつつ、後ろを振り返る。二人がついてこられるよう調整したつもりだったが、ヒフミとコハルはすでに肩で息をし、フラフラになっていた。
「ぜえ……はぁ……べ、別に私にとっては……この程度余裕なんだけどね。こんなの委員会の仕事に比べれば」
「コハル。無理はしないほうが良いぞ。少しペースを落としたほうが良い」
「わ、分かってるわよ! ま、まあ……私は全然余裕だけど……ぜえ……はあ、はぁ……あ、あんまり飛ばしすぎるとヒフミたちも大変でしょうし、すこーしだけペースを落としてあげるわ」
言葉の強さだけは一丁前であるが、コハルの顔には大量の汗が流れており、どう見ても余裕がないのは誰の目から見ても明らかだった。ヒフミはそんな彼女の姿に苦笑しながらも、なんとか足を動かし続ける。
「でも……アキナ様のためにも、これくらいはこなせないと話にならないんですよね。晄輪大祭の警備って物凄く大変みたいですし」
その言葉に、コハルの表情がわずかに変わる。晄輪大祭の準備を取り仕切り、他校との調整から警備計画まで担っている黒月アキナ。以前から、アキナがどれほど張り詰めた様子で仕事をこなしていたか、コハルも見ている。
「……べ、別に。あいつのために走ってるわけじゃないからね!」
誰に聞かせるでもなく、コハルは声を張り上げた。
「ただ、私たちが警備で失敗したら困るでしょ! 晄輪大祭を台無しにするわけにはいかないし……それに、あんなに仕事を抱えてる人に、これ以上面倒をかけるのも嫌だし!」
最後の一言は、ほとんど聞こえないほど小さかった。ヒフミはそんなコハルを見て、柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。コハルちゃんも、アキナ様のことを心配してるんですね」
「ち、違うってば! 変なこと言わないでよ、ヒフミ!」
「……そういうことにしておくか」
「アズサ! あんたも変な勘違いしないでよ!」
アズサまで淡々と同意したものだから、コハルは顔を真っ赤にして抗議する。
そんな話をしてる最中でもアズサは前を向き、二人の速度に合わせて走り続ける。彼女が背負っている重荷は、訓練用の装備だけではない。アキナに向けてしまった言葉と、彼女の怒りを真正面から受け止めたあの日の記憶が、今も胸に残っている。
──私としては、今でもあなたが死んでくれればと思っています。あなたが無残に死ねば、少なくとも、一つの苦しみや憎しみから解放されるでしょう──
彼女の言葉は刃のように深く刺さり、アズサの心に残っている。彼女に償うため、これ以上の重荷を背負わせないためにも、アズサは自分にできることをしたかった。
「もう一周だ。無理なら速度を落としてもいい。でも、最後まで走り切ろう」
「ええっ、まだあるんですかぁ!?」
「うそでしょ! あ、いや……わ、私は余裕だけどさあ!」
「大丈夫。私も付き合うから」
その言葉に、ヒフミは疲れた顔で笑い、コハルも不満そうに頬を膨らませながら、再び足に力を込めた。
誰かに許してもらうためではなく、誰かの負担を少しでも減らすために。三人はそれぞれの思いを胸に、夕暮れの走路を走り続けた。
そうして夕暮れの走路を、三人の足音がしばらく響き続け、最後の一周を終えた。
「ここまでにしよう。二人とも、もう限界に近い」
「はぁっ……はぁっ……や、やっとですかぁ」
ヒフミはその場にしゃがみ込み、コハルも膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。
「べ、別に……私はまだまだ……走れたし!」
「コハルちゃん、足が震えてますよ?」
「う、うるさいわね! これは武者震いよ!」
二人のやり取りを見つめ、アズサはわずかに表情を和らげた。かつての自分なら、訓練を完遂できない者を弱いと判断していただろう。けれど今は、無理をさせることだけが正しいとは思わない。
「……ありがとう。付き合ってくれて」
突然の言葉に、ヒフミとコハルが顔を上げた。
「えっ? い、いえ、私たちが勝手に参加してるだけですから!」
「そ、そうよ。あんたに感謝されるようなことじゃないわ!」
「それでも助かる。二人とも、私の自己満足に付き合ってくれたから。本当にありがとう」
そう言って、アズサは深く頭を下げて礼を言った。コハルは気恥ずかしくなったのか頬を赤くして視線をそらし、ヒフミは微笑んでる。
「……ふふっ。なんだか、アズサちゃんがそんなふうにお礼を言うのって、少し新鮮ですね」
「そうね。訓練のことになると容赦ないくせに」
「二人とも、私を何だと思っているんだ?」
顔を上げたアズサが困ったように眉を寄せると、ヒフミは小さく笑った。コハルも、疲れ切った顔ながら口元を緩めている。
「でも……あんたが本気なのはちゃんと分かってる。でないと、私たちも付き合わないわよ。あんたのやってることが自己満足になるなら、私たちのやってることも自己満足だし、私たちが勝手にあんたを気にかけてるだけだから、気にしなくて良いのよ」
「……そうか」
アズサは少しだけ目を伏せて涙を隠した。自分のために、こうして疲れ果てるまで付き合ってくれる仲間がいる。その事実が、今でも時折、不思議に思える。
かつてのアリウスでは、弱さを見せることなど許されなかった。誰かに頼ることも、誰かのために努力することも、ただ生き延びることに比べれば些細なことだった。けれど、今は違う。
「……ありがとう、コハル。ヒフミも」
「だから、お礼なんていらないってば! こんなの礼を言われるほどでもないし!」
「ふふっ。どういたしまして、アズサちゃん」
二人の返事を聞き、アズサは小さく微笑んだ。けれど、すぐにその表情を引き締める。
「私はやれることをやりたい。アキナの言葉を忘れるつもりはないし、許してもらえるとも思っていない。それでも……あの人が背負っているものを、少しでも軽くできるなら。だから、明日も訓練を続けたい。二人が無理だと思ったら、そのときはちゃんと言ってほしい。私も、二人に無理をさせたいわけじゃないから」
「……別に無理じゃないわよ。まあ……あんたたち2人だけだと不安だし、付き合ってあげるわ!」
「私も頑張ります! 晄輪大祭を成功させるために目」
コハルは照れ隠しのように顔を背け、ヒフミも力強く頷いた。夕暮れの空を見上げながら、アズサは静かに拳を握る。許されるためではない。罪をなかったことにするためでもない。ただ、自分が選んだ道の先で、もう二度と誰かを傷つけないために。彼女は明日も、仲間たちと共に歩き続けるつもりだった。
アズサたちのいる場所から離れた木陰に、ひとりの少女が身を潜めていた。
浦和ハナコ。補習授業部の一員であり、ヒフミたちの仲間である彼女は、三人に気づかれないよう、木の陰からそっと様子を窺っていた。
「ふふふ。皆さん真面目ですねぇ。もう少し、その心意気を勉強に活かせれば良いんですけど」
いつものように柔らかな笑みを浮かべ、独り言を漏らしながら、遠くにいる補習授業部の仲間たちを見つめる。アズサはともかく、ヒフミは疲れ切っていたし、コハルも口では強がりながら、立っているのがやっとという様子だった。
それでも二人はアズサを責めることなく、明日も訓練に付き合うと約束していた。その光景を見つめるハナコの唇から、笑みが消えた。
「本当に、お人好しなんですから」
いつもの調子で口にしたつもりだった。しかし、声は自分でも驚くほど乾いていた。
ヒフミは優しい。誰かが困っていれば、相手が誰であろうと手を差し伸べようとする。コハルは口が悪くてすぐに怒るけれど、本当に大切な場面で仲間を見捨てるような子ではない。そしてアズサは、自分が犯した過ちから目を逸らさず、許される保証などなくとも、できることを探して前へ進もうとしている。
三人とも、少しずつ変わろうとしていた。
過去の失敗をなかったことにはできない。傷つけた相手が、自分を許してくれるとも限らない。それでも、今からできることがあるのなら、手を伸ばす。たとえそれが、すぐに報われないことだとしても。
今だって、アズサはアキナのためにできることを探していいて、ヒフミとコハルもそれに協力している。
「なんで、あんな毒蛇のためにそこまで」
黒月アキナ。ナギサに歪んだ忠義を抱き、彼女のためなら他者を容赦なく排除し、かつて自分の腕を折った少女。彼女の冷たい眼差しも、主を守るためなら一切の躊躇を見せない姿勢も、ハナコは忘れていない。
正直に言えば、今でも好きにはなれなかった。あんな女のために働きたいとは思わない。アキナがどれほど仕事を抱えていようと、それは彼女自身が選んだ立場の結果だ。ティーパーティーの生徒会長代理として、晄輪大祭の準備を一手に担っているのなら、その責任を果たすのも彼女の仕事だろう。自分たちがわざわざ手伝ってやる必要などない。
「……そうですよね。別に、私が手伝う義理なんてありませんもの」
口に出してみると、もっともらしい理屈に聞こえた。
アキナのために働きたくない。それだけのことだ。無理に好きになる必要もないし、過去に受けた仕打ちを忘れる必要もない。そもそも晄輪大祭の警備は正義実現委員会が担当する領分であり、補習授業部の面々が志願したからといって、全員が参加しなければならないわけでもない。ハナコには、断る理由がいくらでもあった。
実際、警備の志願について話が出たときも、彼女は適当な理由を並べて申請を見送っていた。自分には別の用事がある、警備の経験が不足している、他の仕事を優先したほうが効率的だ──いくらでも言いようはあったし、ヒフミたちも無理に誘おうとはしなかった。
ヒフミは「ハナコちゃんにも都合がありますから」と笑い、コハルも「別に全員で参加する必要なんてないでしょ」と、それ以上は追及しなかった。アズサでさえ「気にしなくて良い。これは私の自己満足だ。ハナコが無理に付き合う必要もない」と言った。誰も責めなかった。誰も、ハナコに変われと迫らなかった。だからこそ、彼女は今日まで、何事もなかったかのように過ごせていたのだ。
「……ふふっ。本当に、便利な理由ばかり思いつきますねぇ。私って」
自分が傷つけられた側であること。アキナを好きになれないこと。警備には向き不向きがあること。無理をしてまで参加する必要はないこと。
どれも間違いではない。少なくとも、完全な嘘ではなかったが、それらを並べ立てたところで、胸の奥に生まれた嫌悪感は少しも消えてくれなかった。
そもそも、警備に参加することだけが正解ではないのだ。警備に参加せずとも、別の形でヒフミたちを支えることは可能である。自分の得意なことを活かし、晄輪大祭を成功させるために力を貸す方法はいくらでもあるはずだ。
それは理解している。理解してるのに、ハナコは何もしていなかった。できないのではない。やろうと思えばできるのに、やりたくないから理由をつけている。
──あの女は嫌いです──
──ナギサさまに歪んだ忠義を抱くあの女のために、働きたくありません──
──報酬があるわけでもないのに、私が彼女の為に働く義理なんてありませんから──
そう考えて正当化している自分自身に、何度も腹が立っていた。苛立ちを感じた。そんな醜い自分から卒業したかった。だが、そのための一歩を踏み出そうとせず、何をすれば良いのか考えようともしない。
「……嫌ですねぇ。私はなんで、何も出来ないのでしょうか。ヒフミちゃんたちは、大切な仲間の筈なのに」
仲間が大事だ。その気持ちに嘘はないはずと考えている。ヒフミが困っていれば助けたいし、コハルが無理をしていれば心配になる。アズサが過去の罪に苦しんでいるのなら、少しでも力になりたいと思う。誰が相手であろうと、どんな敵が立ちはだかろうと、仲間が苦しんでいると知れば、見捨てるつもりなどなかった。だが。
「行動が、全然伴ってないじゃないですか。皆頑張ってるのに、変わろうとしてるのに……ナギサさんやミカさんも頑張ってるのに、私だけは……何もしてない」
言葉にすればするほど、自分の醜さが浮き彫りになっていく。聖園ミカも、桐藤ナギサも、白洲アズサも、阿慈谷ヒフミも、下江コハルも皆変わろうと頑張り、己に出来ることをしようと模索している。
それなのに自分だけが何も変わっていない。変わる必要がないと考えているわけではない。むしろ変わらなければいけないことなど、ずっと前から分かっていた。しかしいざ変わろうとすれば、自分を正当化しようとする思考が邪魔をする。
アキナのために働くのは嫌だ。あんな女のために努力するなんて馬鹿らしい。折れたくないのなら、折れる必要などない。自分は悪くない。自分が動く必要はない。自分には自分の考えがある。変わるタイミングなど皆に合わせる必要もない。
その思考を隠し、皆が納得しそうな適当な理由でも吐いていれば、誰かに変われと責められることはない。ヒフミも、コハルも、アズサも誰も責めなかった。だからハナコはその優しさに甘えて変わらなかった。変われなかった。
「……本当に嫌な女ですね。私」
口元に笑みを浮かべようとしたが、うまくいかなかった。いつものように冗談めかして、軽薄な態度で振る舞えばいい。そうすれば、自分の胸の内にあるものなど、誰にも悟られずに済む。これまでもそうしてきたし、これからだって、そうやって生きていくことはできるだろう。けれど、今はそれすらも嫌だった。
変わろうとしない自分に嫌気が差しているのに、変わるための一歩を踏み出す勇気もない。そのくせ、仲間たちが変わっていく姿を見ては、どうして自分だけが、と勝手に苛立っている。あまりにも身勝手で、あまりにも幼稚だった。
「……ああ、もう。どうして、こんなに面倒くさいんでしょうねぇ。私の心は」
夕暮れの空は、少しずつ夜の色に染まり始めている。空の景色を見てると、遠くからヒフミたちの声が聞こえた。荷物を抱え、これから家へ帰るところのようだ。
「ハナコちゃん……来なかったですね。一緒に訓練出来たら良かったんですけど」
「まあ、本人にも都合があるんでしょ。警備の仕事も大変なんだし、無理にやらせるのも良くないわ」
「そうだな。本人がやりたいと思ったときに、参加してくれればいい」
ヒフミたちは誰も責めず、誰も不満を口にせず、ただ当たり前のように帰っていく。その優しさが、今はひどく痛かった。
「……違うんですよ。そうじゃないんです。私が……私が、勝手に逃げているだけなんですから」
けれど、その言葉を聞く者はいなかった。ハナコは木陰から一歩も動けないまま、暮れゆく空を見上げた。
明日になれば、またいつもの自分に戻るだろう。冗談を言い、笑顔を浮かべ、仲間たちと何事もなかったかのように過ごす。警備への参加を断ったことも、今日ここで何を考えていたのかも、誰にも話さないまま。そうやって、また明日も自分を守るのだろう。
「……どうすれば良いんですか、私は。私も変わりたいのに。ヒフミちゃんたちを助けたいのに。どうすれば変われるんですか……誰か、誰か教えて下さいよ」
その問いに答えるものは、誰もいなかった。