ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
放課後のトリニティ総合学園。夕陽が窓から差し込む静かな廊下を、二人の少女が歩いていた。
一人は救護騎士団の鷲見セリナ。そして、もう一人はティーパーティーの生徒会長代理、黒月アキナである。二人の歩調は揃っているが、アキナの表情は明らかに不満げで、私不機嫌ですという感情を隠す気が全くなかった。彼女は不満ありありといった感じでセリナに尋ねる。
「……セリナさん。確認しますが、本当に今日でなければいけないのですか」
「はい。今日は以前から予定していた定期健診の日ですから。例の傷についても入念な確認が必要ですし」
「あの傷は既に治療が終わっていますし、痛みもありません。日常生活にも戦闘にも支障はない。わざわざ時間を割く必要性を感じませんが」
「それはアキナ様が決めることではありません。傷が痛まないことと、完全に問題がないことは別です。救護騎士団としても経過を確認しておきたいんですし、これはナギサ様からのお願いでもありますから」
「分かってますよ。だからこうして従ってるじゃないですか」
「ふふふ。そうでしたね」
セリナは思わず、口元を緩める。アキナが自分の言葉を受け入れたことが嬉しかったのだ。
もちろん、ナギサの名前を出せば従うことは分かっていた。それでも今までの彼女なら、自分の身体のことなど二の次にして仕事へ戻ろうとしたに違いない。だからこそ、セリナは少しだけ期待してしまった。
「ありがとうございます、アキナ様。ちゃんとご自身の健康についても考えてくださるようになって、私は嬉しいです」
「勘違いしないで下さい。私はナギサ様のご意向に沿っているだけです。私自身の健康を優先したわけではありません」
「……そうですか」
あまりにも予想通りな言葉に、セリナは苦笑いしてしまった。期待してるとは言え、内心分かっていたことではある。彼女の行動原理は全く変わらない。自分の身体を気遣うのはナギサを心配させないためであり、ナギサの望むとおりに動き続けるだけなのだ。
だが、それでも構わないとセリナは思っていた。きっかけが何であれ、アキナが自分の身体を顧みる理由をひとつでも持ってくれるのなら、それは決して無意味ではない。
「それでも、来てくださって良かったです。アキナ様の頑固なところが改善されたようでうれしくなりますね」
「余計なことは言わなくて良いです。それに私は頑固ではありません」
「ふふ。そういうことにしておきますかね」
セリナのどこかとぼけたような返答に、アキナは呆れたように溜息を吐きつつ、それ以上何も言わなかった。やがて二人は、救護騎士団の医務室へとたどり着く。セリナが扉をノックすると、すぐに中から返事があった。
「どうぞ。開いていますよ」
聞き覚えのある張りのある声だった。セリナが扉を開けると、薬品の清潔な匂いが二人の鼻を刺激し、整理された医療器具が目に入る。
医務室の奥では、白衣をまとった長身の少女が書類に目を通していた。淡い青色の髪が肩から流れ、机の上には医療器具の点検記録と、いくつもの診療記録が並べられている。
蒼森ミネ。救護騎士団の団長であり、ヨハネ分派の首長でもある少女だ。彼女は二人に気づくと書類を置き、すぐさま立ち上がる。彼女の視線は、セリナの隣に立つアキナへと向けられた。
「お待ちしておりました、アキナ様! 定期健診の予定は把握しています。さあ、こちらへ! 今日は傷の状態をしっかり確認させていただきます!」
「……随分と気合いが入っていますね」
「当然です。アキナ様の腹部に残る傷は、決して軽いものではありませんでした。あの時、傷を確認した私は……いえ、今はその話をしている場合ではありませんね。重要なのは、現在の状態を正確に把握することです」
彼女は診察台の周辺を確認し、必要な器具を手際よく準備し始めた。その姿を眺めながら、アキナは小さく溜息を吐いた。
「はあ……セリナさんだけでも十分に面倒だというのに、団長まで待ち構えているとは」
「アキナ様。聞こえていますよ」
「聞こえるように言いましたので」
「ふふっ。相変わらずですね。アキナ様は」
ミネはどこか嬉しそうにしてあり、アキナは無表情のまま、わずかに眉を寄せる。
「やけに嬉しそうな顔ですね。何かあったのですか?」
「いえ。こうしてアキナ様が健診に来てくださることが嬉しいのです。アキナ様は頑固なところがありますし、本当に来てくれるのか不安でしたから。傷も治ったとはいえ、まだ予断を許さない状況ですからね」
アリウススクワッドとの戦闘。圧倒的な数と兵器を相手に彼女は敗北し、捕らえられた。腹部から胸の下にかけて負った大きな火傷は、救護騎士団の治療を受けても完全には消えず、今も傷跡として残っている。
そして傷を負った自分を治療するため、救護騎士団の面々が懸命に動いてくれたことを、アキナは覚えていた。
もっとも彼女にとって、あの出来事で最も許しがたかったのは自分が傷つけられたことではない。大切な主であるナギサの傍を離れ、危険に晒してしまったことだった。
「……あの時の治療には感謝しています。ですが、既に治療は終わっているはずです。今さら過度に心配する必要はありません」
「過度かどうかは、診察してから判断します。痛みがないから問題ない、という判断は認められません。救護騎士団は、患者本人が大丈夫だと言ったからといって、そのまま帰すような組織ではありませんから!」
「私は患者ではありません。現在は健康です」
「それを確認するのが今日の健診です!」
アキナはセリナへ視線を向けた。この暴走機関車をどうにかしてほしいと言わんばかりの目だったが、セリナは困ったように微笑むだけで味方になってくれそうにない。
「ミネ団長の言うとおりです、アキナ様。まずは診察を受けましょう」
「あなた方は、どうしてそこまで私の身体にこだわるのですか」
「それはもちろん、アキナ様が大切な生徒だからです。救護が必要な方を放置するわけにはいきません。以前あれほどの傷を負われた方ならなおさらです。私は救護騎士団の団長として、アキナ様の健康状態を確認する責任があります」
「……そうですか」
アキナはしばらくミネを見つめた後、諦めたように診察台へ向かった。
「はあ……必要な確認だけ、手早く済ませてください。私はまだ仕事が残っていますので」
「仕事のことは、今は忘れてくださいね」
「忘れる理由がありません」
「少なくとも診察中は、です」
「……善処します」
「本当にお願いしますね、アキナ様」
ミネはそう言って、アキナが診察を受けやすいように準備を整える。先ほどまでの朗らかな表情を引き締め、医療従事者としての真剣な顔つきに変わった。
「ではアキナ様。まずは傷跡の状態を確認します。痛みがなくても、違和感や動かした際の突っ張りなどがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「承知しました」
アキナは制服の上着を脱ぎ、診察に必要な準備を進める。腹部に残る傷跡は、今では塞がっている。けれど、皮膚に刻まれた痕は、あの日の戦いが決して軽いものではなかったことを物語っていた。その傷を見て、ミネの表情が少しだけ曇る。
「……やはり、大きな傷跡ですね」
「今は問題ありません」
「問題がないかどうかは私たちが確認します。その確認が終わるまでは安心できません」
ミネは器具を手に取り、慎重に診察を始めた。セリナも隣で記録を取りながら、アキナの顔色や呼吸の変化に注意を払っている。しばらくの間、医務室には器具を扱う小さな音と、記録を取るペンの音だけが響いていた。やがて、ミネが診察を続けながら口を開いた。
「アキナ様。ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
「診察に必要な質問であれば」
「あの時、治療を受けている間も、ずっとナギサ様のことを気にされていましたよね」
「当然です。あの時は詳しい状況も把握できてませんでしたから。ナギサ様が危険な目に合う可能性も考えると、居ても立ってもいられなかったので」
「それは、ご自身の傷よりも重要だったのですか?」
「私の傷など、ナギサ様がご無事であれば大した問題ではありません」
あまりにも当然のことを述べるような口調であった。ミネは手を止めなかったが、その表情は複雑そうにしている。
「アキナ様。私は、誰かを救護することを大切にしています。傷を負った方を治療し、これ以上傷つく人が出ないようにする。それが私の務めです」
「存じています」
「ですが、治すのは結局のところ本人の意思次第です。だからアキナ様にも、ご自身を大切にしていただきたいのです。アキナ様がナギサ様を守りたいと思う気持ちは、理解しています。ですが、アキナ様ご自身が傷つき、倒れてしまったら、ナギサ様も悲しまれるのではありませんか?」
アキナの指先が、ほんのわずかに動いた。ナギサが自分の身を案じていることは知っている。彼女はいつも、自分を守るために無茶をするなと言う。自分の人生を大切にしろとも言う。
けれど、アキナには、その言葉を完全に受け入れることができなかった。ナギサを守るために働くことこそ、自分が存在する意味なのだから。
「……私は、ナギサ様のご意向に従います。今回の健診も、その一環です。それ以上でも、それ以下でもありません」
ミネは少しだけ困ったように微笑んだ。今の彼女には、これ以上強気で言った所で届かないだろうし、続けたところで議論が平行線になることは理解した。だからこそ、今はまだ踏み込まないようにした。
「そうですか……でも今だけは、私たちの言うことを聞いてくださいね」
「健診が終わるまでは従います」
「ありがとうございます。では、もう少し詳しく確認しましょう。必要であれば、追加の検査も」
「必要ありません」
「必要かどうかは、私が判断します!」
「……セリナさん。これどうにかしてください」
「すいません。私もミネ団長と同じ意見ですし、止められません。なのでアキナ様、もう少し頑張りましょうね」
セリナはにこやかに告げ、アキナはまた呆れたように溜息を吐く。ティーパーティーの生徒会長代理として、学園運営のあらゆる案件に目を通し、必要とあれば自ら現場に立つ彼女も、救護騎士団の医務室では勝手が違う。
ここでは、ナギサの命令を盾にするセリナと、救護への使命感に燃えるミネが相手なのだ。
そして二人とも、アキナがどれほど不満そうな顔をしようと、本当に必要なことなら決して譲らないし、どこまでも追いかけてきそうなしつこさもある。
「……まったく。厄介な方々ですね」
「聞こえていますよ、アキナ様」
「聞こえるように言いましたので」
先ほどと同じやり取りに、セリナは思わず小さく笑った。ミネもまた、頼もしい笑顔を浮かべながら診察を続ける。アキナは終始不満げな顔をしていたが、それでも席を立とうとはしなかった。
それがナギサの望みだから。
アキナが動く理由は、今日も変わらない。けれど、彼女が自分の身体を顧みることを望む人間は、ナギサだけではないのだということを──アキナはまだ、素直に認めるつもりはなかった。
医務室を出てから、執務室へ戻るまでの道のりで、アキナは一度も機嫌を直さなかった。
「……まったく。定期健診という名目で、あそこまで時間を取られるとは思いませんでした」
「それだけ心配してくださっているんですよ。それに、そのおかげで必要な検査はすべて終わりましたし、ひとまず経過は良好になったから良いじゃないですか」
アキナはその言葉に返事をせず、眉間にはうっすらと皺が寄らせる。普段の冷静な彼女を知る者が見れば、かなり珍しい表情だっただろう。セリナはそんな様子を見て、くすりと笑う。
「アキナ様。なんだかんだ言いつつ、最後まできちんと受けてくださってありがとうございます」
「ナギサ様のお願いに応じただけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「はい。そうでしたね」
やがて二人はティーパーティーの執務室へと到着した。セリナが扉を開けると、室内には既に一人の少女が待っていた。
「お疲れ様っす、アキナ様。セリナさんも」
机のそばで書類を整理していた仲正イチカが、いつもの調子で手を振る。
「イチカさん。何か用ですか?」
「今日の業務報告と、明日の会議について確認したいことがありまして。アキナ様が戻ってくるのを待ってたんすよ」
「そうですか。では、報告を」
アキナは上着を整えながら執務机へ向かう。しかし、椅子に座る直前、セリナが穏やかな声で呼び止めた。
「アキナ様。少し休憩してからにしませんか?」
「必要ありません。診察は終わりました」
「診察が終わったことと、休憩が必要ないことは別ですよ。ナギサ様からも、無理をしないようにとお願いされていますよね?」
その一言に、アキナの動きが止まった。数秒の沈黙の後、彼女は小さく息を吐き、渋々と椅子に腰を下ろす。
「……分かりました。少しだけです」
「ありがとうございます」
「いやー、セリナさん、アキナ様のコントロール上手いっすねえ」
イチカが感心したように呟くと、アキナはギロリと冷たい視線を向ける。
「サポート役なら余計なこと言わずに黙っててください」
「はいはい了解っすー」
おどけたように両手を振るイチカ。その様子にセリナは微笑みながら、近くのテーブルに紅茶を用意し始めた。アキナは不満げな表情のまま紅茶を飲む。穏やかな時間が流れる中、セリナが質問する。
「そういえば、アキナ様。最近はお食事もきちんと召し上がっていますか?」
「当然です」
「本当ですか?」
「……何か問題でも?」
「いえ。以前、仕事に集中するあまり昼食を抜いていたことがありましたから」
「それは過去の話です」
「先週のことですよ」
アキナは無言で紅茶を口に運んだ。イチカが吹き出しそうになるのを堪えていると、アキナの冷たい視線が向けられる。
「イチカさん。笑われるのは不愉快なのですが」
「いやいや、笑ってないっすよ。私はただ、セリナさんの観察力に感心していただけっす」
「……まあ、そういうことにしておきましょう」
アキナはそう言って何度目か分からない溜息を吐いた。晄輪大祭も近づき始めてると言うのに、面倒なことになってしまったとアキナは心底めんどくさそうにしていると、セリナとイチカが話をする。
「そういえば、イチカさんも今日は遅くまで残っているんですか?」
「いえ。私は報告を済ませたら帰ろうと思ってたんすけど」
「それなら、一緒に休憩していきませんか? せっかく紅茶を用意しましたし」
「おっ、いいんすか? いやー、救護騎士団の方って本当に優しいっすねぇ。遠慮なくいただくっす」
「はい。今ご用意しますね」
セリナは微笑みながら、イチカの前にもカップを置いた。自分の分も用意すると、アキナの向かい側に腰を下ろす。
「……セリナさん。あなたも休憩するのですか?」
「はい。私も今日は少し疲れましたから」
「救護騎士団の仕事は終わったのでしょうか」
「ひとまず今日の分は終わりました。急ぎの患者さんが来れば戻りますけれど、今は少しだけゆっくりさせてください」
「そうですか」
アキナはそれ以上追及せず、紅茶に口をつけた。イチカもカップを持ち上げ、ほっと息を吐く。彼女にとってこのお茶会は、先ほどのツルギやハスミとの尋問めいたお茶会と比べてかなり息抜きできるし、紅茶の味も素晴らしいで非の打ち所が無いように思えた。
「いやー、こうして三人でお茶を飲むのも珍しいっすね。普段はみんな仕事ばっかりですし」
「そうですね。たまにはこういう時間も必要だと思います」
「……私は、休憩を取る必要性については疑問ですが」
「アキナ様、せっかく休んでいるのですから、今は難しいことを考えなくてもいいんですよ」
「難しいことではありません。単に、時間の使い方について述べているだけです」
「ふふっ。では、その時間を紅茶を楽しむことに使いましょう」
セリナの穏やかな提案に、アキナは呆れたようにまた溜息を吐く。
「はあ……まあ良いでしょう。私はナギサ様のご意向に従うだけです」
それからしばらく、三人は他愛のない話をしながら紅茶を楽しんだ。セリナは救護騎士団での何気ない出来事を話し、イチカは最近の学園内の様子を面白おかしく語る。
「そういえば最近、ハスミ先輩が隠れてパフェを爆食いしてたっすね。エデン条約とか晄輪大祭の件でかなり疲れてたみたいで。私が見かけたときには、4杯くらいパフェを食べてたっす」
「ハスミさんらしいですね。しかし、そんなに食べて大丈夫なのでしょうか?」
「私もそう思って隠れて見てたんすけど、そのあと追加で三杯注文してましたよ。しかも楽々と食べきったっすからより驚きっす。ちなみに、その直後にツルギ先輩とばったり遭遇して、『ハスミ、そんなに甘いものを食べて大丈夫なのか?』って心配してたんすよ」
「それは……」
セリナが口元を押さえて笑いをこらえる。
「ハスミ先輩、すっごい勢いで否定してましたねぇ。『これは任務に必要な補給です』って。いやいや、どう考えても必要な補給量超えてるって笑いこらえるのに必死でしたよ」
「ふふっ。ハスミさんも大変なんですね。いつも正義実現委員会をまとめていらっしゃいますし、甘いものくらい楽しんでもいいと思います」
「そうっすね。まあ、ハスミ先輩の場合、食べた後に体重を気にして、無理してダイエットしてまーたストレスを貯めそうなのが問題なんすけど。そういえばダイエットと言うと、最近ツルギ先輩がバトルダイエットとかいうのを提案してて。何でもツルギ先輩とガチンコで戦いまくって痩せるって方法なんすけど、あれを聞いた時のハスミ先輩の顔の青さは凄かったっすね」
雑談が続く中、アキナは時折短く相槌を打つ程度だったが、先ほどまでの不機嫌そうな表情は少しずつ和らいでいた。もっとも、本人にその自覚はない。
セリナはふとした時にそれを見て、楽しそうに微笑んだ。
普段なら、アキナは休憩など後回しにして仕事へ戻ろうとする。けれど今日は、こうして紅茶を飲み、他愛のない会話に付き合っている。それだけでも十分な変化なのかもしれない。
執務室には、紅茶の香りと穏やかな静寂が満ちていた。今だけは、晄輪大祭の準備も、山積みの書類も、三人の頭から遠ざかっていた。