ブルーアーカイブ 桐藤ナギサの秘書 作:リハビリ作者
ティーパーティー執務室にて。
夕方頃。日が沈み始めた所で、アキナが執務室へと戻ってきた。
「失礼します」
彼女が扉を開けて室内へ入ると、そこには、いつものように大量の書類と向き合っているナギサの姿が。ナギサは彼女の姿を見ると、嬉しそうに笑う。
「お帰りなさい、アキナ」
「ただいま戻りました、ナギサ様」
愛する人からの「お帰りなさい」という言葉。それを聞いただけで、無表情な彼女の顔が緩む。先ほどまで廊下でハナコと対峙していた時の、凍りついたような顔とはまるで違っていた。
「鎮圧任務ご苦労様でした。何か問題はありませんでしたか?」
「特にはありません」
「そうですか。それは良かったですが」
ナギサはなぜか、彼女から視線をそらさず、じっと顔を見つめていた。
「……ナギサ様?」
「アキナ、こちらへ来てください」
「? 承知致しました」
来てほしい理由は分からなかったが、彼女は素直にナギサの側まで歩いていく。じっと顔を見つめられるのは変わらず、少ししばかり恥ずかしくなって顔を赤くし始めた。
「あの……どうかなさいましたか?」
「随分と難しい顔をしていますね。何か考え事ですか?」
その質問には答えられなかった。考え事の内容を明かせなかったからだ。頭の中では、まだハナコの言葉が煩わしく響いている。
もし、いつかナギサさん自身が「あの時の私は間違っていた」と言ったら?
ナギサが間違う。その可能性を考えること自体があり得ないことだ。今まで一度も疑った事などない。
多くの人からいじめられ、地獄のような日々を過ごしていた自分を救ったのがナギサであった。彼女にとって、偉大なる救世主ともいえるナギサの言葉は絶対のものであり、疑う必要など微塵も感じられない。それどころか、疑うことを悪とさえ考えている。
今でも昨日の事のように覚えている。力がなく、ただ虐められるだけで終わっていた自分に、手を差し伸べてくれた日の事を。何の価値もないと思っていた自分に価値を与えてくれたことを。
『私には、あなたの力が必要なんです。どうか力を貸してください。アキナさん』
自分を頼ってくれたあの言葉も一言一句、言葉を言った時の愛する人の顔も全て覚えている。それは自分を救い出し、幸せな世界に導いてくれた言葉だから。
故に、彼女は絶対に疑わない。その言葉、判断、計画、全てを正しいと信じてきた。
だが、ハナコから言われた言葉のせいで、変に考え込むようになってしまったのだ。
「……アキナ。こちらへ」
ナギサは自分の椅子から立ち上がり、ソファへ向かう。
「座りなさい」
「ですが、まだ仕事があります」
「急いで終わらせないといけない仕事は既に終わらせてます。それに仕事をするより、あなたの顔色をどうにかする方が優先です」
「私は大丈夫です。何の問題もありません」
「信じませんよ。あなたは昔から、何があっても『大丈夫です』と言いますから。半年前、熱を出してたのに問題ないと言ってたことも昨日のように覚えてます」
それを言われてしまい、アキナは少し恥ずかしくなって顔を赤くする。ナギサはそれを見て小さく微笑んだ。
「何度も言ってるじゃないですか。隠し事をしても構いませんが、無理はしないでほしいと」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいのです。アキナ、今日はもう十分頑張ったでしょう? なら、もう頑張る必要はありません。休めるときは休みましょう」
「……はい。承知致しました」
彼女はソファへ腰を下ろす。ナギサもその隣に座り、彼女の頭をそっと自分の膝へ導いて乗せた。
「……え? な、ナギサ様。これは」
「膝枕ですよ。嫌でしたか?」
「い、いえ! 嫌ではありません。むしろ、その」
「では、そのままで」
「……はい」
アキナはおずおずと頭を預ける。愛するナギサの膝の上。いつも自分が仕える相手の膝の上に、自分が頭を乗せている。それだけのことで、心臓は妙に早くなり、鏡で見なくても分かるくらい、顔が赤く、熱くなっていった。
「落ち着きませんか? 凄く顔が赤いですけど」
「これは、その……ナギサ様に膝枕をしていただくという状況に、慣れていないだけです」
「なるほど。私も初めてですから、お互い様ですね」
「……ナギサ様も初めてなのですか?」
「ええ。私がこういうことをするのは、貴方が初めてですよ。ミカさんやヒフミさんにもやったことがありません」
その言葉に驚くと同時に、アキナの心は嬉しくなっていった。幼馴染の聖園ミカや寵愛してる阿慈谷ヒフミにもやったことのない事を自分にやってくれる。自分を信頼し、大切にしてるという実感を得ることが出来るのが、とても嬉しかった。
「あなたが少しでも休めるなら、私は出来る限り何でもしますよ。あなたには、ずっと元気でいてほしいですから」
そう言って、ナギサはアキナの頭を優しく撫でる。アキナは撫でてくれる手に幸せを感じながら、リラックスしてる猫のように目を細める。
いつもより近くにいるため、強く感じるナギサの香りが鼻腔をくすぐり、思わず寝落ちしそうになったが、なんとか堪えた。
(流石に今の状況で寝るわけにはいきません。それにナギサ様の膝の上で寝るなど、秘書として最悪です)
必死に寝落ちしないように堪えながらも、彼女は膝枕してくれる幸せに、心が満たされていた。
ナギサが自分の側にいてくれて、大切にしてくれる。そして、こうして頭を撫でてくれる。それがとても嬉しくて、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜けていく
「……温かいです。それに、気持ちよくて幸せです」
「そうですか? なら、しばらくこうしていましょう」
「お願いします」
静かな時間が流れる。ナギサはアキナの長い金色の髪を、指先でそっとなぞり、髪が床に落ちないように整えてくれた。
「髪も少し乱れていますね」
「任務で派手に動きましたから」
「それだけではなさそうですが」
見透かすようなナギサの視線から逃れるように、アキナはナギサの膝に顔を埋める。
「何かありましたね?」
アキナは黙った。本当なら黙ったままでいようと思ったが、見なくても感じるその視線に、隠し事をしていることが嫌になってしまい、遂に話した。
「浦和ハナコと会いました」
「ハナコさんと?」
「はい。その時に……色々とありまして」
「そうですか。色々と」
ナギサは、それ以上すぐには聞かなかった。何かしらの事情があるのは理解できたし、アキナが隠してることを無理に暴くようなことはしたくなかったから。
「話したくなければ、無理に話さなくても構いませんよ」
「いえ、話します。ナギサ様には、教えないといけませんから。私は……あの女を殺そうとしました。イチカさんに止められました」
ナギサは驚いた表情を浮かべる。とはいえ、なぜそんな行動に出たのか理解は出来た。アキナは自分を大切にしてくれる。そして、彼女はハナコが自分に何をしたのかを既に知っている。だからこそ、ミカや先生の時のように、怒りを抑えられなくなったのだろうと。
むしろ驚くことはイチカが止めたということだ。アキナが殺そうとしたから止めたのだろうと考えたが、よく彼女を止められた物だと、ナギサは内心、イチカの力に感心していた。
「随分と危険なことをしましたね」
「申し訳ありません」
「私に謝ることではありません。アキナ、あなたが怒った理由は分かっています。でも、殺そうとするのは駄目ですよ」
「それでも……私はナギサ様を傷つけた人を許せませんでした。あなたが傷ついていたことを思い出すだけで、今でも腹が立ちます。今すぐにでも、ナギサ様を傷つけた者たち全員を八つ裂きにしたくなる。それでも何とか我慢しようと思ってましたが、あの女に会った瞬間、私は怒りを抑えられず、殺そうとしました」
「でも、イチカさんが止めてくれたのですね」
「……はい。イチカさんの言葉で、私は仕方なく銃を下ろしました。おかげであの女は、骨が折れた程度の怪我で済んだのが不本意ですが」
「それは程度と言ってよろしいのか、判断に迷いますね。ですが、よくイチカさんの言葉で止まりましたね。あなたなら、邪魔する人は薙ぎ払うと思ったのですが」
「彼女に言われたんです。ナギサ様が望まないことを、他でもない私がやってしまうのは、それこそ傷つけることになるんじゃないかと。それを聞いて、私はナギサ様が悲しむ姿を思い浮かべて、そんな姿は見たくないと思って止まりました」
しばらくの沈黙が続く。アキナは内心、ハナコを傷つけたことで嫌われたのではないか、軽蔑されたのではないかと内心不安に思っていたが、ナギサはそんな彼女の気持ちを振り払うかのように、優しく頭を撫でた。
「ありがとうございます。私のために止まってくれたのでしょう? なら、それで十分ですよ。骨を折った件は……近いうちに謝罪するとして、今はあなたが殺さずに止まってくれたことが、何よりも嬉しいです」
「ナギサ様が悲しむ姿や傷つく姿を見るのは嫌ですから。ずっと離れ離れになって苦しんで……ようやく会えたというのに、ナギサ様を悲しませることはしたくないんです。でも、あなたを傷つけた人間を見ると、怒りが湧いて、どうしようもなくなって」
彼女は姿勢を変え、すがるようにナギサの腰に抱きついて強く抱きしめる。悲しげに話すその声の中にあったのは、怒りでも殺意でもない。ただ、ナギサを失うことへの恐怖であった。
「ナギサ様を傷つけた奴らがのうのうと生きているのを見ると、どうしても許せなくなって……私の手で天罰を与えたくなるのです。だから浦和ハナコや先生、ミカを見ると殺したいと思ってしまって……すいません。あなたがそんな事を望まないことは、私が1番分かってるはずなのに……すいません」
涙を流しながら伝えられた謝罪に、ナギサはしばらく何も言わず、彼女の髪を撫で続ける。
「アキナ。こちらを向いてください」
「……はい」
アキナはゆっくりと顔を上げると、彼女の目に、ナギサが映る。そして、自分を救ってくれた時と変わらない穏やかな表情。それを見ただけで、アキナの胸にあった不安が少しずつ薄れていく。
「申し訳ありません。あなたの苦しみを、私は全く分かっていませんでした。あなたの気持ちを何も理解せず、私はただ殺してほしくないという自分の思いだけで止めてました。謝らないといけないのは私の方です」
「ナギサ様は悪くありません! 全ては私の力不足によるものです。ナギサ様が間違うことは絶対に無いのですから、私なんかに謝らないでください」
「もう。アキナはいつもそれですね。私のことをいつでも正しいと思っていて。でもアキナ、私だって間違うことはあるのですよ?」
「ありえません! ナギサ様は絶対なる指導者で救世主。間違うことなどあるはずが」
「アキナ。私は指導者でも救世主でもありません。ただの人間です。人間ですから、失敗することはあるのですよ」
その言葉を聞いた瞬間、アキナの思考が止まる。ナギサが間違える。そんなのは彼女にとって絶対にあり得ないことだった。
「……違います。ナギサ様は……間違いません。私が知っているあなたは、いつだって正しかった」
地獄のような日々を過ごし、虐められていた自分を救ってくれた。何の価値もないと思っていた自分に、居場所を与えてくれた。そして、自分の力を必要としてくれた。
ナギサが助けたからこそ、今の自分があるのだと、アキナは崇拝に近い思いを抱いていた。
「ナギサ様がいなかったら、今の私はここにはいません。あなたが私を必要としてくださったから、私は強くなれたんです。私を拾ってくれたから、自分に価値があると思えた」
彼女はナギサの手を両手で強く握りしめた。それは、何かに縋り付くように見えて、ナギサはその行動に少しだけ不安を感じてるようで、瞳には彼女を案じる思いが籠もっているようだった。
「ナギサ様が間違うなんてありえません。いつだってあなたは正しいのです。あなたの判断を、誰にでも分かる形で皆に正しいと理解させるのが、剣であり、秘書である私の役目なのですから」
しばらくの沈黙が流れ、執務室は時が止まったかのように静かになっていた。しかし、ナギサがアキナの手を握り返して話し始める。
「……アキナ。あなたは、私のことを少し買いかぶりすぎていますよ」
「そんなことはありません」
「あります」
「ありません」
「ありますよ」
「絶対にありません。ティーパーティーのホストであるあなたが、自分を卑下しないで下さい」
「絶対にあります。それに卑下してません。むしろ、あなたが私を高く見すぎなのです」
珍しく子供のように言い張るアキナとそれに応じて口論してしまうナギサという、普段なら絶対にあり得ない光景がそこにはあった。何度も肯定と否定を繰り返す中、ナギサは呆れたようにため息を吐く。
「……はあ。頑固ですね」
「ナギサ様にだけは言われたくありません」
「ふふ……そうですか」
ナギサは微笑みながら、再びアキナの髪を撫でると、その表情が少し緩む。
「ナギサ様がこうして撫でてくれると、幸せな気持ちになれます。ここにいると、自分が何のために生まれてきたのかを理解できます。私の力、体、血液、細胞の一片に至るまで、あなたを支え、幸せにするためだけに存在しているのだと、改めて理解出来ます。そして、それこそが私にとって最高の幸福なのだと」
その言葉に、ナギサの手がほんの一瞬止まるが、アキナは気づかない。アキナの言葉は、普段から当たり前のように考えてることで、ごく自然なこと。ゆえに、自分がどれだけ異常な事を言ってるのか、それを聞いたナギサが悲しそうな顔をしてるのか、どんな思いを抱いてるのか気付かなかった。
ナギサが必要としてくれるから、自分には価値がある。全てにおいて彼女を優先し、彼女の人生のためだけに生き、あらゆる障害を排除する。それが当然のことであり幸せな事。それ以外の生き方など、アキナにとっては塵芥に等しい。人間関係も、身につけた能力も全てナギサのためだけにあるものであり、自分のために使うものではない。それがアキナの考えだった。
そんな中、ナギサが悲しそうに微笑みながら話しかける。
「……アキナ。あなたは、私のためだけに生きなくてもいいのですよ。あなた自身が何をしたいのか。それも大切なことです」
「私がしたいことですか? それはナギサ様を支えることです。それ以外にしたいことなどありません。それ以外のことを考える必要もありませんから」
ナギサはその答えに戸惑い、しばらく黙っていた。
「……そうですか」
そしてそれ以上、無理に問い詰めることはしなかった。ただ、再びアキナの頭を優しく撫でる。仮に、今無理やり否定したてしても、何の意味もないことは分かりきっていた。
それどころか、スクワッドに襲撃された心の傷も癒えてない今の状態で下手に刺激すれば、逆に壊してしまう可能性もある。だから、ナギサは歯がゆい思いをしながらも、深く踏み込めなかった。
「ならば、今はそれでいいでしょう。でも、一つだけ約束してください」
「何でしょう?」
「私をちゃんと見ていてください。ただ肯定するためだけに見るのではなく、客観的な視点で見ることを約束してください。そして、心に留めておいてください。この世に絶対者や救世主、神という存在はいません。そして、人は生きている以上、必ず間違いを犯すものなのだと。大切なのは間違いを正しいものと盲信するのではなく、間違いを認め、やり直そうと努力するなのだと。それが約束です。私はきっと、またどこかで間違いを犯すと思います。その時には、貴方に止めてほしいのです。フィリウス分派の中で……いいえ。トリニティで最もあい……ではなく、信頼してる貴方に」
「? ナギサ様、今何かを言いかけましたか?」
「気の所為です。気にしないでください。それより、約束してくれますか?」
「……それは」
「約束できますか?」
すぐには答えられない。アキナにとってナギサは救世主であり絶対者そのもの。その言葉に逆らうことなど論外に等しいし、間違いを指摘するなどあり得ない。それでも、ほかならぬナギサとの約束なら、彼女に守らないという選択肢などありえない。
「……承知致しました。ナギサ様が間違えることなど絶対にあり得ないと思いますが」
「ありがとうございます。今は、それで十分ですから」
「……はい」
アキナは再び目を閉じると、頭の中に、ハナコに言われた言葉が残響のように響く
もし、いつかナギサさん自身が『あの時の私は間違っていた』と言ったら? その時も、あなたは『ナギサ様は正しかったです』と言うんでしょうか?
今は、その質問の答えが分からない。それでも、自分の頭を撫でて、癒してくれるくれるこの手は、ナギサの存在だけは、決して失いたくなかった。
「……ナギサ様」
「何ですか?」
「もう少し、お膝をお借りしてもよろしいでしょうか? 今日は……少し疲れてしまいまして」
「もちろんです。あなたが望む限り、休んでいてください。今日はもう頑張らなくて良いのですから」
「……ありがとうございます」
彼女は瞳を閉じ、意識が薄れていって眠りについた。そこには、ナギサという存在に寄りかかりながら、幸せそうに微笑んで眠っている彼女の姿が。
「愛してますよ、アキナ。いつか……貴方の考えが変わった時に。この気持ちを伝えようと思います」
そしてそれを愛おしそうに見つめ、その額に口づけをするナギサの光景が、そこにはあった。