その日の夜、少女は目覚めた。
見知らぬ天井、何処かの部屋の中である事は分かるが、暗い室内の様子は分からない。
ふかふかのベッドはそれまで硬い地面の上で夜を過ごしていた少女にとっては天国そのもので、その感触は少女を再び夢の中へと誘おうとする程の力を持っていた。
しかし少女はそんな誘惑を振り切りベッドから降りると、上手く力の入らない足を懸命に動かし、ヨロヨロフラフラとしながらも手探りで室内を歩き回る。
するとその手に布の感触があり、それを掴み手繰ってみると、それはカーテンであり手繰ったことによって開かれたカーテンから窓から差し込む月明かりが室内を照らした。
そこで少女は自身が豪華な室内で寝かせられていた事を知った。
そして少女は自身が何も覚えていないという事に気付く。
名前も分からない……ただ〝ルナ〟という単語が頭の中に浮かんではいるが、これが自分の名前なのか、それとも何かしらの名称なのかが分からない。
それとどうして自分はこんな場所にいるのかさえ分からない。
辛じて誰かに追われていたというのは薄らと覚えている……が、追いかけてくるものは誰だったのか、あるいは人であったのかまでは分からない。
とりあえず少女は室内をぐるりと見て回るが自分以外誰もおらず、部屋の外にも誰かがいる様子は無い。
窓を開けようとするも少女の背ではノブまで届かず、ドアも同様に少女では届きそうに無い。
もう一度室内を見渡してみては、先程まで自身が寝ていたベッドの隣に椅子が置かれているのを発見……これならば届くのでは無いかと喜んだ少女はそれを持って行こうとするも、全く力が入らず持ち上げるどころかそこから僅かにすら動かすことすら出来なかった。
何か紐のようなものを椅子の足に括り付けて引っ張ろうかと思ったがそれに使えそうな紐は無く、さてどうしたものかと少女が室内をウロウロしていると少女の腹から可愛らしい音が鳴った。
きゅるるるるるる……
少女は自身のお腹を両手で抑えると、恥ずかしそうに僅かに赤面しながらその場に座り込んだ。
誰かを呼ぼうとするも声は出ず、その代わり喉に痛みが走る。
そういえば喉も渇いていたなと思った時には、少女は部屋の床の上でゴロンと横になっていた。
酷い飢えと渇きによる虚脱感である。
(おなか……すいた……)
そう思いながらふと少女が窓へと視線を移した時、彼女の視線はそこにいた者とぶつかった。
「……」
「……?!」
驚く少女は完全にこちらに視線を向けている人物に思わず目を見開く。
しかし空腹のせいで思うように身体が動かせず、逃げようとしてもその場でモゾモゾと身動ぎする事しか出来なかった。
それを見ていたその人物はひとつ首を傾げたあと、窓の扉を
「動けねぇのか?」
「……(コクリ)」
とりあえず問われたので頷いてみせる。
するとその人物……シグマは少女を優しく担ぎあげると、ベッドの上に座り少女の身体を支えながら、ベッド脇の小台に置かれた水差しを少女の口元へと運ぶ。
最初、少女はその中に入っている液体を警戒したが、思い切ってそれに口をつけ、そしてその液体を飲み込もうとして────
「────っ、ケホッ、ケホッ!」
盛大に噎せた。
それを見たシグマが考え込む。
「流石に飲まず食わずだった期間が長かったか?水すら飲み込めないほどに喉が弱ってると見て間違いはなさそうかな?」
「……?」
「とは言っても流石にこの時間じゃ料理長も帰っちまってるしなぁ……だからと言って他に白湯が作れそうな奴は────あぁ、一人いたわ」
シグマはそう呟くと部屋を出てどこかへと向かう……少女をまるで荷物のように小脇に抱えながら。
そうして辿り着いたのはまた違う部屋────
シグマがそのドアをノックすると、中から一人の男性がドアを開けて現れる。
「シグマ君か……どないしたん?」
「いや、叔父鬼って白湯作れたよな?」
「せやなぁ、シグマ君にもよぉ作っとるしなぁ」
「普通にブラックコーヒー頼んだのに白湯が出てきた時は何を試されていたのかって小一時間悩んだ事があったけどな」
「いつもトンチキな注文するからや。んで、急に何でそないな事聞くんや?」
「あぁ、こいつ目ぇ覚ましたもんだから白湯をと思ってさ」
「〝こいつ〟?」
シグマの言葉に斬鬼丸はその小脇に抱えられている少女へと目を移す。
そしてその姿に一瞬固まると、再度シグマの顔へと目を向けてこう言った。
「荷物運んどるわけとちゃうんやぞ?」
それから数分後、屋敷内の厨房にて斬鬼丸が淹れた白湯を少女は不思議そうな顔でじっと見ていた。
「……?」
目の前の白湯が何なのか分からず少女はシグマに顔を向けながらコテンと小首を傾げた。
「あん?それが何なのかまったく分かんねーって顔だな?それは〝
「〝
「……」
少女は恐る恐る白湯が入った湯呑みに手をかける……が、少女には少し熱かったのか直ぐに手を離し、自身で両手に息を吹きかけた。
「ありゃ、熱かったか?叔父鬼、湯呑みもコイツには少し重そうだし、もう少し小せぇやつねぇのか?」
「まぁあるにはあるけども……」
そう言いながら斬鬼丸は棚からひとつの小さな桐箱を取り出す。
そして中に入っていたものをシグマの目の前に置くと、それを見たシグマはジトっとした視線を斬鬼丸へと向けた。
「叔父鬼、これ……」
「分ーっとる……でも小さいの言うたらそれしかあらへんねん」
斬鬼丸が取り出したのは普段から彼が愛用しているお
斬鬼丸はそのお猪口に白湯を淹れ直し少女へと手渡すと、少女は息を吹きかけて白湯を冷ました後、ぐいっとそれを飲み干した。
「完っ全に清酒飲んでる子供にしか見えんのよなぁ……」
「それは言わん約束やでシグマ君?それで……ずっと気になっとったんやけど、なんでこの子喋らへんの?」
「分からん……長らく飲食をしていなかったからか、はたまた人と話す事が無かったのか……もしくは心因性によるものなのか……」
シグマと斬鬼丸がそのような会話をしていると、少女の頭が前後に揺れ始めている事に気がつく。
どうやら少女は再び睡魔に襲われているらしく、数回船を漕いでは目をくしくしと擦っている。
「白湯飲んだからか眠気が来たらしいな。ほれ、部屋戻んぞ?」
「一応言うておくけど、また小脇に抱えるような事はせんようにな?」
「わーってるって……どれ」
「ちょお待てや」
斬鬼丸が抱き方を考えろと言った矢先にシグマは少女を荷物のようにその肩に少女を担いで行こうとするので思わず斬鬼丸が呼び止める。
「どした?」
「〝どした?〟やないわ。言ったそばから何でそないな運び方になんねん。その子も嫌そうな顔を……しとらんな」
呆れたようにそう話しながら斬鬼丸は丁度こちらに向けるようにある少女の顔を見る。
しかし少女はキョトンとした表情であり、シグマの抱え方に嫌そうな表情はしていない。
それどころか自身の両手をシグマの肩において上体を上げ、キョロキョロと厨房を見渡している始末であった。
「なんやけったいな子やなぁ。普通なら不満そうな表情ひとつしとってもおかしないやろうに……そもそもさっきから思っとったんやけど、その子幾つなんやろな?」
「この身体の大きさから……ざっと五歳くらいじゃないか?」
「そんくらいか?」
「こいつから教えて貰えてねぇから分からんけどな」
「そういやずっと喋っとらへんかったな?白湯飲んだからある程度話せそうなもんやのにな」
「試しに聞いてみ……もう寝てたわ」
「まるで電池切れのように寝てもうたな」
いつの間にかシグマの肩の上で眠ってしまっている少女にシグマと斬鬼丸はふっと笑みを浮かべると、少女をまた元の部屋へと連れベッドにつかせる。
「まぁともかくこいつに関しては明日だな。先ずラムダに診察して貰って、それから声のことやら何やら聞くとしようや」
「せやな。気になることは幾つかあるけども明日にならな分からんしな」
そうして二人は部屋を出て、それぞれ自室へと戻るのであった。
【人物紹介(詳細版)】
「シグマ・レヴナント」
赤猫ファミリー六幹部の一人にして暗殺者として活動している男性。
元は人間だが〝とある事件〟が原因で妹であるラムダと共に人外の身体になってしまった。
元々は他国の軍に所属していた兵士で、当時からどれ程の重傷を負っても直ぐに平然と戦地へと戻る姿から〝不死身〟と呼ばれていた。
最大規模の戦争の終戦後にお払い箱となってしまい、その後は傭兵家業を始めることになる。
同じく軍医として軍に所属していたラムダが町医者となった事で同居するようになったが、シグマを脅威だと感じた政府からの刺客による襲撃で祖国に見切りをつけ、一夜のうちにその王族、悪徳議員、悪徳貴族の全ての首を刎ねてラムダと共に国を出た。
その後ラムダと共に隠れるように暮らしていたが追っ手に見つかり襲撃を受ける。
満身創痍の状態でラムダを護るようにして路地裏で座り込んでいたところでモカと出会い、彼女の誘いによりニャンルージュ公爵家の世話になる。
その後、モカや斬鬼丸達と共に赤猫ファミリーを結成した。
ラムダ曰くシグマの身体は何事も無さそうに見えて実際は実体と霊体の境を彷徨う不安定な状態らしく、死霊魔術に詳しいラムダが定期的に検査をしているらしい。
それ故に〝透過〟や〝不可視化〟などといった能力が使える。
普段は大鉈刀(マチェット)を使用しているが、状況に合わせ剣、刀、槍、その他刀剣類や遠距離武器、弓や銃等の飛び武器等も扱える。