幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります   作:ユズナミキ

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下手くそな交渉

 

 季節は冬の入り口、朝の息が白い。

 

 わたしは書斎の机に領地の地図を広げ、朝から睨み続けていた。

 石灰の売り先は、九ヶ所のうち六ヶ所を失った。残りの三ヶ所も、いつまで持つか分からない。

 だが、それは相手の手が届く場所での話だ。

 

(手の届かない場所に、価値を作る)

 

 そのために必要なのが、道だった。

 冬になると街道が使えなくなる。だから領地の収入は三ヶ月止まる。

 この地方の誰もが、それを当たり前だと思っている。

 

 もし、その当たり前を壊せたら。

 

「――で? なんで冬は通れないんですか」

 

 わたしは向かいの椅子に座った父様に、そう尋ねた。

 朝食のあと、いきなり書斎に呼びつけたので、父様は少し困惑した顔をしている。

 

「なんでと言われても……雪が積もるからだが」

「雪をかき分けたら通れませんか」

「うん? ……ああ、いや」

 

 父様は首を振った。

 

「雪はな、実は大した問題ではないのだ」

「え?」

「積もった雪くらい、踏み固めれば荷馬車も通る。問題は、その後だよ」

 

 わたしは顔を上げた。

 

「昼に解けて、夜にまた凍る。それを繰り返すと、地面が緩んでな。ぐずぐずになる。そこに荷馬車が入ると、車輪が沈んで抜けなくなるのだ」

 

 父様は身振りを交えて説明した。

 

「一度沈むと、もう出せん。牛を三頭つけても動かん。だから冬は誰も荷を運ばんのだ。雪より、泥の方がずっと恐ろしい」

 

(――泥濘(でいねい)

 

 わたしは思わず身を乗り出した。

 

「特にひどい場所ってありますか」

「ヴェルドの坂だな」

 

 父様は即答した。

 

「あそこは谷から水が染み出すから、年中ぬかるんでおる。夏でも(わだち)が深いし、冬など膝まで沈むぞ」

「膝まで?」

「うむ。実際に沈んだからな」

「……え?」

 

 父様が、少し照れくさそうに笑った。

 

「若い頃、試した。父上に大目玉を食らってな」

 

 わたしは、しばらく言葉が出なかった。

 

(この人、実際に歩いてるんだ。しかも厳しいとされる時期に)

 

 利子の計算はできない。帳簿も読めない。

 だがこの人は、自分の領地の道を、自分の足で歩いて知っている。

 

「父様。他の場所は?」

「そうだな。ヴェルドを越えれば、あとはそう悪くない。東の三叉路も少しぬかるむが、あそこは砂地だからすぐ乾く」

「南の川沿いは?」

「あれは石が多いから大丈夫だ。ただし夏に増水すると渡れん」

 

 訊けば訊くほど、出てくる。

 どこがぬかるみ、どこが乾き、どこが崩れやすいか。どの季節にどうなるか。

 この人の頭の中には、この領地の道が、丸ごと入っている。

 

(……数字は分からないのに、土地のことは全部知ってる)

 

 わたしは地図の上に、父様の言葉を書き込んでいった。

 書き終えて、はっきりしたことが一つある。

 

 ヴェルドの坂。

 ここが塞がると、領地の東西が分断される。迂回路は山を大回りするしかなく、冬は事実上、通行不能。

 逆に言えば。

 

(ここさえ通れれば、冬でも街道が機能する)

 

 二キロほどの、たった一区間。

 

「父様。明日、そこに連れて行ってください」

 

 ヴェルドの坂は、想像以上にひどかった。

 片側は切り立った崖。反対側は谷。

 道幅は荷馬車がぎりぎりすれ違える程度で、その中央が黒くぬかるんでいた。

 

 わたしは一歩踏み込んで、後悔した。ずぶり、と足首まで沈む。

 

「わあっ、リーゼお嬢様!?」

 

 マーサが慌てて引き抜いてくれた。靴が片方、泥の中に残った。

 

「……これなんですね」

「まだ序の口だ」

 

 父様が沈痛な顔で言った。

 

「本格的に凍って解けを繰り返すと、この倍はぬかるむ」

 

 (わだち)の跡が、膝の深さまで掘れている。谷側の斜面からは、じわじわと水が染み出していた。

 

 ヴィエラは、さっきから道端にしゃがみ込んでいた。

 泥を手ですくい、指で潰し、匂いを嗅ぎ、少し離れた場所の土も同じように調べている。

 やがて立ち上がって、手についた泥を払った。

 

「粘土質ですね。しかも水を抱え込むやつです」

「どう? 石灰でどうにかなる?」

 

 彼女は少し考えてから、はっきりと頷いた。

 

「なります」

「本当に?」

「窯場で似たことをやったことがあるので。粘土に灰を混ぜると、締まって硬くなるんです。石灰なら、もっと効くはずです」

 

 ヴィエラは崖の方を見上げた。

 

「順番としては、まず水を逃がす溝を掘ります。谷側に。それから道の土に石灰を混ぜて、突き固める。上に砕石を敷いて、また石灰で固める。……たぶん、それで通ります」

 

 説明が具体的で、迷いがない。

 

「どのくらいの厚さで?」

「やってみないと分かりません。試しながら決めます」

 

 彼女は当たり前のようにそう言った。この人はいつも、やってみないと分からないことを、やってみて決める。

 

「それと、お嬢様。一つ良いことがあります」

「なに?」

「これ、冬向きです」

 

 わたしは目を瞬かせた。

 

「冬の方がいいの?」

「石灰は水と混ぜると熱を持つでしょう。あれ、凍った土でも溶かしながら固まるはずなんです。……たぶん、夏よりやりやすい」

 

(――それだ)

 

 わたしは思わず拳を握った。

 冬は不利だと思っていた。生産が落ち、輸送が止まり、何もできない三ヶ月だと。

 だが、この工事に限っては違う。

 

(冬が有利な仕事もある)

 

「やります。今すぐ準備を」

 

 ――そして、その夜。

 わたしは書斎で、頭を抱えていた。

 

「……無理です、これ」

 

 帳簿係の少年が、青い顔で計算用紙を差し出してくる。

 

「二キロを一ヶ月で仕上げるなら、常時六十人から八十人は必要です。掘る人、運ぶ人、混ぜる人、突き固める人。全部同時に動かさないと間に合いません」

「うちの人員は」

「鉱山から出せるのが、多く見積もって二十人。屋敷からは五人が限界です」

 

 全然足りない。

 

「人を雇うと?」

「日当を計算しました。……六十人を一ヶ月雇うと、これだけかかります」

 

 差し出された数字を見て、わたしは天井を仰いだ。

 払えない。

 

 石灰の売上が三分の二消えた今、そんな余裕はどこにもない。むしろ今は、一銭でも多く返済に回さなければならない時期だ。

 

(人がいない。金もない)

 

 方法は分かっている。効果も見えている。

 なのに、実行するための資源がない。

 

 ――前世でも、これは悔しかった。

 良い企画があって、やれば必ず成果が出ると分かっていて、それでも人と金が足りなくて潰れていく案件。わたしは人事だったので直接は関係なかったものの、そういう仲間たちを何度見たことか。

 

「……お嬢様」

「ちょっと考えさせて」

 

 わたしは机に突っ伏した。

 規模を縮小するか。一キロだけにするか。だが半端に舗装しても、ぬかるみが残れば意味がない。

 来年に回すか。だが来年では遅い。返済期限まで一年半しかない。

 

 どこかから金を借りるか。

 ――冗談じゃない。四年前に父様がやったことの繰り返しだ。

 

「うーん」

 

 その時、書斎の扉が開いた。

 

「リーゼ。まだ起きておるのか」

 

 父様が顔を出した。手には湯気の立つカップを持っている。

 

「お前たちが根を詰めていると、母様が心配してな。持って行けと」

 

 わたしは差し出された温かい牛乳を受け取った。

 帳簿係の少年の分もある。

 

「恐縮です、旦那様!」

「はは、家の頑張ってくれているのだ。礼を言わなくてはならぬのはこちらだ」

 

 わたしたちは温かい牛乳を口にしながら、ひと息ついた。

 

「二人とも難しい顔をしておるな。道のことか」

「はい」

 

 わたしは父様へ正直な説明をした。

 必要な人数と、払える金と、その差額を。

 

 父様は「ふむ」と頷いて、それから不思議そうな顔で言った。

 

「なら、村に頼めばいいではないか」

「……頼む?」

「冬は農閑期だ。手が空いておる者も多い」

 

 わたしは眉をひそめた。

 

「でも、賃金が払えません」

「うん、それは聞こえた」

「なら無理です。人は、金を払うから働くんです」

 

 我ながら、身も蓋もない言い方だった。

 だが事実だ。前世のわたしは、それを身で感じていた。人が動くには対価がいる。ボランティアで組織は回らない。

 

 ところが父様は、心底不思議そうに首を傾げ。

 

「なぜ、金の話から始めるのだ」

 

 ――え。

 

「必要なことなら、まず頼めばよかろう。断られたら、その時に考えればいい」

「いや、でも」

「明日、村に行ってみよう。私が話す」

 

 父様は、あっさりとそう言った。

 わたしは、しばらく返す言葉が見つからなかった。

 

 翌日、北の村。

 冬支度を終えた村は、静かだった。

 収穫が終わり、畑も規模が小さくなっていた。多くの男たちは家の修繕をしたり、縄を綯ったりして時間を潰している。

 

 父様が広場に立つと、村人たちがぞろぞろと集まってきた。

 

「旦那様、どうなさいました」

「頼みがあって来た」

 

 父様は、前置きも駆け引きもなく切り出した。

 

「ヴェルドの坂を、舗装したい」

 

 ざわ、と広場が揺れる。

 

「あそこを固めれば、冬でも荷が通る。そうなれば、この領地は冬に止まらなくなる。うちの石灰を使えば、できるとリーゼが言っておる」

「……本当ですか、あの坂が」

「うむ。うちの職人が、できると言った」

 

 父様は頷いて、それから、いきなりこう言った。

 

「だが、金がない」

 

 わたしは思わず「父様!?」と声を上げそうになった。

 交渉の場で、いきなり手の内を全部見せるやつがあるか。前世なら即座に会議室から連れ出しているところだ。

 村人たちも、面食らった顔をしている。

 

「人手が六十人いる。だが、うちが払える日当はこれだけだ」

 

 父様は正直に額を言った。

 村人たちがざわめく。普通の日雇いの、半分にも満たない額だった。

 

「足りんのは分かっておる。だから頼みに来た」

 

 父様は、深く頭を下げた。

 

「力を貸してくれんか」

 

 ――静まり返る。

 村人たちが顔を見合わせた。

 当然、渋る声が出る。

 

「そりゃあ、冬に通れるなら有り難いですが」

「一ヶ月も出るとなると、うちも冬の内職がありますし」

「その日当じゃあ、ちょっとなあ……」

 

 まずい流れだった。

 わたしは口を挟もうとした。数字を出して、説得しよう。この工事がどれだけの利益を生むか、それが村にどう還元されるか、理屈で説明すれば――。

 だが、父様の方が早かった。

 

「ダン」

 

 名前を呼ばれて、後ろの方にいた老人がびくりとした。

 

「腰はどうだ。去年よりましか」

「へ、へえ。まあ、なんとか」

「無理はするな。お前は粉挽きの方が大事だ。あれが止まると村が困る」

「……はあ」

「だが、息子が戻ってきたのだったな。あれに来てもらえんか。若いから、腰も強かろう」

 

 老人が目を丸くした。

 

「……よくご存知で」

「春に村長から聞いた。嫁を連れて帰ってきたと」

 

 父様は次に、別の男を見た。

 

「オーレン。上の子は十三になったか」

「へ、へえ。今年で」

「なら、手伝いに出せる歳だな。……いや、待て。双子はどうだ。先月の熱は、もう心配ないか」

「もうすっかり。走り回ってます」

「そうか。それは良かった」

 

 父様は、心から嬉しそうに笑った。

 ――それから、次々と名前が呼ばれた。

 

「ハンス。お前の家は屋根を直したいと言っておったな。うちの余った木材を回そう。だから来てくれんか」

「ミルダのところは、ご主人が去年亡くなったのだったな。お前は来なくていい。子が小さかろう」

「クラウス。お前は腕が良い。石を積む仕事を任せたい」

 

 全員だ。

 この人は、集まった村人全員の名前と、家族構成と、去年何があったかを、覚えている。

 わたしは、後ろからその光景を眺めていた。

 

(――ああ)

 

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 父様は交渉が下手だ。手の内を晒し、金の話を後回しにし、こちらの弱みを平気で見せる。

 前世の基準なら、最悪の交渉役だ。

 だが。

 村人たちの表情が、明らかに変わっていた。

 

「……旦那様」

 

 村長が、前に出た。

 

「一つ、伺ってもよろしいか」

「なんだ」

「なぜ、我々に頼まれるのです。他所から人を雇う手もあったでしょうに」

 

 父様は、きょとんとした顔をした。

 

「なぜと言われても。この道は、お前たちにとって大事な道だからな」

 

 ――ああ、この人は。

 

「他所の者に作らせるより、大事に思う者が作った方がよかろう。どこが悪いかも、お前たちが一番よく知っておる」

 

 村長が、ぐっと唇を噛んだ。

 しばらく俯いて、それから顔を上げる。

 

「……旦那様。わしは、旦那様に謝らにゃならんことがあります」

「うん?」

「去年まで、わしらは旦那様のことを、口先だけの人だと思っておりました」

 

 父様の顔が、少し強張った。

 

「年貢を免除すると言いながら、執事長様に取り立てられた。だから、旦那様は優しいふりをして結局は絞り取るお方なのだと。……そう思っておりました」

「…………」

「でも、違った。旦那様は本当に免除してくださっていた。間に挟まった男が握り潰していただけだった」

 

 村長の声が、震えていた。

 

「あの時、旦那様はこの村で頭を下げてくださった。領主が農民に頭を下げるなんぞ、他所じゃありえねえ。わしは、六十年生きて初めて見ました」

 

 広場が、シンとしていた。

 

「そのあなたが、また頭を下げた」

 

 村長は、村人たちを振り返った。

 

「――やるぞ。手が空いてる者は全員出ろ」

「お、おい村長、日当が」

「日当なんぞ出せるだけでいい!」

 

 村長が怒鳴った。

 

「四十年、あの坂には苦しめられてきたんだ。それが固まるってんなら、わしは無償でも行く!」

 

 どっと声が上がった。

 

「なら俺も行く!」

「うちの倅も出す!」

「おい、鍬を持ってこい!」

 

 あっという間に、場が沸き立つ。

 父様は目を丸くして、それから慌てて手を振った。

 

「い、いや待て。日当は払うぞ。少ないが、必ず払う」

「そんなのはいいから、早く始めましょう!」

「旦那様、いつからです!?」

 

 村人たちに詰め寄られ、父様がたじたじになっている。

 わたしは、その光景を見ていた。

 

(――信用だ)

 

 帰りの馬車の中で、わたしはずっとそのことを考えていた。

 

 前世のわたしは、人を数字で動かしてきた。

 給与。待遇。評価。昇進。条件を整え、合意を取り、契約を結ぶ。それが人事だと思っていた。実際、それで組織は動く。

 

 だが、あの広場で動いたのは、契約ではなかった。

 

(父様は、四十年かけて積み立ててた)

 

 無償の援助。年貢の免除。後先を考えない施し。

 全部、経営としては愚かだった。この家が傾いた原因の一つは、間違いなくそれだ。

 

 だが、その全部が、村人たちの中に残っていた。

 帳簿には一銭も載っていない。だが確かに、あの人たちの中に積み上がっていた。

 

(――この人の善意は、無駄じゃなかったんだ)

 

 わたしは、隣で機嫌よく鼻歌を歌っている父様を見上げた。

 同時に、頭の冷静な部分が、こう分析していた。

 

(これは、うちの最大の資産だ)

 

 貨幣に換算できない。担保にもできない。

 だがこの信用があるから、六十人が動く。金では買えない六十人が。

 

 もし前世の会社に、これがあったら。

 あの人たちは、もう少し楽に働けただろうか。

 

「リーゼ? どうした、難しい顔をして」

「……いえ」

 

 わたしは首を振った。

 

「父様」

「うん?」

「わたし、間違ってました」

 

 父様がきょとんとする。

 

「人は金を払うから働く、って言いました。あれ、半分だけ正しくて、半分は間違いです」

「ほう?」

「金がないと、人は生きていけません。だから対価は絶対に必要です。それは譲りません」

 

 わたしは膝の上で手を組んだ。

 

「でも、それだけじゃ動かないものがある。……今日、初めて見ました」

 

 父様は少しのあいだ黙っていた。

 それから、わたしの頭にぽん、と手を置いた。

 

「私はな、リーゼ」

「はい」

「難しいことは分からん。帳簿も読めん。利子だの担保だのと言われても、正直、さっぱりだ」

 

 自嘲するでもなく、父様は言った。

 

「だが、あの者たちが困っておるのは分かる。誰が病んで、誰の子が生まれて、誰が去年つらい思いをしたか。それだけは、覚えておるのだ」

 

 父様の手が、わたしの髪を撫でた。

 

「お前は、私にできんことを全部やってくれる。……だから私は、私にできることをやろう」

 

 わたしは、俯いた。

 窓の外では、また雪がちらつき始めていた。

 

「……はい」

 

 それ以上、何も言えなかった。

 そして三日後。

 

 ヴェルドの坂の入り口に、人が集まっていた。

 北の村から四十人。東の村から二十五人。南と西の村からも、合わせて三十人以上。

 鉱山から鉱夫が二十人。屋敷から五人。

 

 総勢、百二十人。

 

「……多すぎない?」

 

 わたしは呆然と呟いた。

 

「六十人でいいって言ったよね?」

「言いましたね」

 

 隣で帳簿係の少年も、青い顔で人数を数えている。

 

「あの、お嬢様。日当の総額が、計算より倍以上に……」

「うん、そうだね」

「どうしましょう」

「……払うしかないでしょ」

 

 わたしは頭を抱えた。

 だが、その顔は自然と緩んでいた。これは父様の人徳が成した業だ。

 

 荷馬車には、ヴィエラが焼いた石灰が山と積まれている。

 彼女は既に現場で指揮を執っていた。

 

「溝はこっちから掘ってください! 谷側に向かって傾斜をつけて!」

 

 テオが測量用の縄を持って歩き回り、地形を頭に入れている。

 交渉係の男が、村々から借りた牛車の手配を進めている。

 マーサは、なぜか十個の石を袋に入れて仁王立ちしていた。護衛のつもりらしい。

 

 そして父様は、村人たちの輪の中で、一人ひとりに声をかけて回っていた。

 

「無理をするなよ。怪我をしたら元も子もない」

「旦那様も泥だらけじゃないですか」

「そうなのだ、困ったものだ。これでも男爵なのだが」

「知ってますよ!」

 

 笑い声が上がる。

 わたしは坂の入り口に立って、その全部を見渡した。

 

 二キロ。一ヶ月。

 できるかどうかは、正直まだ分からない。冬は深まり、寒波が来れば作業は止まる。石灰が足りるかも計算通りにいくとは限らない。

 だが。

 

(――やってやる)

 

 わたしは、大きく息を吸い込んだ。

 冷たい空気が、肺の奥まで届く。

 

「みなさん!」

 

 できる限りの大声を出した。

 百二十人が、一斉にこちらを向く。

 

「一ヶ月で、この坂を通れるようにします! この冬、この領地を止めないために!」

 

 白い息が、朝の光に溶けていく。

 

「よろしくお願いします!」

 

 ――おう、と地鳴りのような返事が返ってきた。

 

 

 

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