幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
ロンバルト男爵領は、ヴェルドの坂を西へ半日行った先にあった。
馬車の窓から見える景色は、うちの領地とよく似ている。麦畑と、牧草地と、点在する村。
だが一つだけ違うものがあった。
「……あの橋、ですか」
わたしが川にかかる大きな石橋を指差すと、父様は頷いた。
「そうだ。あれがロンバルト領の大橋でな。百年前からあるらしい」
立派な橋だった。
石造りのアーチが三つ連なり、彫刻の施された欄干が両側に伸びている。
だが。
その橋脚の根元に、大きく黒い亀裂が走っていた。
水に洗われて、下の石が抜け落ちかけている。
「……あれ、危ないですね」
「うむ。去年の増水でやられたと聞いた。今は荷馬車の通行を止めておるそうだ」
わたしは橋を見つめた。
あの橋が使えなければ、川を渡るには上流まで大回りするしかない。ロンバルト領の物流は、事実上、半分止まっていることになる。
(――これは、相当苦しい)
橋の修繕には、大金がかかる。
金がなければ、借りるしかない。
そして、金を貸してくれると言ってくれる者が、東にいる。いてしまう。
グラウスト伯爵という、黒とも灰色とも言えぬ遣り手がわたしたちのすぐそばに居てしまうのだ。
(間に合ってほしい)
わたしは膝の上で、手を握りしめた。
◇◆◇◆
ロンバルト男爵家の館は、古く、そして立派だった。
うちの屋敷よりずっと大きい。石造りで、門には家紋を刻んだ紋章板が掲げられている。
だがよく見れば、壁の漆喰は剥がれ、庭の生垣は伸び放題で、玄関の扉は片方が歪んでいた。
(――手入れが追いついてない)
案内された広間で、その男は待っていた。
「久しいな、ジェレイド殿」
四十前後だろうか。
背が高く、肩幅が広い。武人らしい体つきで、しかし着ているものは上等な生地だった。
短く刈り込んだ黒髪。角ばった顎。そして、まっすぐにこちらを見る強い目。
ヴァルター・ロンバルト男爵。
「お久しぶりです、ロンバルト殿。橋の件、伺いました」
「うむ。……恥ずかしい話だがな」
男爵は苦い顔をした。
「百年、あの橋は落ちなかった。それがわしの代で、こうだ」
自嘲するように言って、彼は椅子を勧めた。
家令が杯を運んでくる。父様たちにはワインを、わたしには果実水を。
「まあ座られよ。……そちらの娘御が、噂の?」
「はい。娘のリーゼです」
わたしは椅子から降りて、きちんと礼をした。
「リーゼ・ヴァンザールです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
男爵の眉が、わずかに動いた。
「……八つと聞いたが」
「はい」
「ずいぶん、しっかりしておられる」
その声には、感心が半分と、値踏みが半分あった。
さっそく実務の話に入るわたしたち。
橋を直すための技術指導の話は、順調に進んだ。
わたしがヴィエラの派遣について説明し、必要な期間と、石灰の量と、指導料を提示する。
男爵は腕を組んで聞いていたが、一つ一つに的確な質問を返してきた。
「橋脚の水中部分は、どうする」
「水を堰き止めつつ一度脇に流し、水嵩を減らして乾かしてから施工します。数日かかりますが」
「堰き止められるか、あの川を」
「一時的になら。うちの職人が、方法を考えます」
「……ふむ」
男爵は身を乗り出した。
「その職人というのは、腕が良いのか」
「腕は良いです。ただ、女性です」
「女?」
男爵の眉が、はっきりと動いた。
――来た。
わたしは身構えたが、彼の反応は予想と違った。
「そうか。うちの者が失礼を働かんように、先に言っておかねばな」
彼はあっさりとそう言った。
そしてわたしの視線に気が付いたのだろう、補足するように続けてみせた。
「腕が立つなら性別は関係ない。……わしの祖母は槍の名手でな。男どもをよく叩きのめしておった」
わたしは思わず目を丸くしてしまう。
(――この人)
誇り高いと聞いていたが、頑迷ではない。
良いものは良い、と認められる人だ。
だからこそ、わたしは踏み込むことにした。
「ロンバルト様。もう一つ、ご相談があります」
男爵が顔を上げる。
「なんだ」
「冬季の街道利用についてです」
わたしは地図を広げた。
「ご存じかと思いますが、ヴェルドの坂を舗装しました。この冬、うちの領地では荷馬車が止まりませんでした」
「聞いておる。……信じ難い話だがな」
「事実です。この二ヶ月で、延べ二百四十三台が通りました」
男爵の目が、鋭くなった。
「ロンバルト領の荷が、冬に東へ行くには、今はグラウスト伯爵領を通るしかありません。通行料が高いと伺っています」
「……高い。橋一つで銀貨だ」
「うちの道を使ってください。通行料は伯爵領の半分にします」
男爵が、わずかに身を乗り出した。
「代わりに、こちらからもお願いがあります」
わたしは指を二本立てた。
「一つ。ロンバルト領の荷を、優先的にうちの道へ流していただきたい」
「うむ」
「二つ。今後、この地方の街道整備について、うちと歩調を合わせていただきたい」
男爵が眉をひそめた。
「歩調を合わせる、とは」
「道は、繋がって初めて意味を持ちます。うちだけが舗装しても、その先が泥なら荷は止まる」
わたしは地図の上に、指で線を引いた。
「ヴァンザール領の道と、ロンバルト領の道と、北のリーヴェン領の道。三つが繋がれば、この地方に冬でも通れる街道ができます。グラウスト伯爵領を通らずに、東西を抜けられる道が」
男爵の目が、地図の上を走った。
しばらく沈黙が続いた。
「……面白いな」
やがて、彼は低く呟いた。
「三家で、街道を握るということか」
「はい」
「伯爵領の通行料に対抗できると」
「できます。というより、選択肢を作れます。今は伯爵領を通るしかないから、言い値を払うしかない。別の道があれば、値段は自然に下がります」
男爵が初めて笑った。
「……なるほどな。悪くない」
わたしは心の中で拳を握った。
(――いける)
ここで止めれば、良い商談で終わっただろう。
だが、わたしは続けてしまった。
「それと、もう一つ」
ゆっくりと、息を吸って。
「ロンバルト様。グラウスト伯爵から、融資のお話が来ていませんか」
――空気が止まった。
男爵の表情から、笑みが消えた。
「……なぜ、それを」
「来ているんですね」
わたしは確信した。
男爵は答えなかった。だがその沈黙が、答えだった。
「橋の修繕には大金がかかります。ロンバルト家に余裕がないことは、伯爵もご存じのはずです」
わたしは、持参した紙束を取り出した。
「これを見ていただけますか」
テオが作った一覧を、わたしは机の上に広げた。
十一年前からの、日付順の記録。
「これは、うちの道を通る商人たちから集めた話です。断片的で、噂話がほとんどです。ですが、時系列に並べると――」
男爵の目が、紙の上を追っていく。
十一年前、伯爵領の北にあった男爵領を併合。
十年前、クレン子爵家の当主が急死し、跡取りが伯爵家に養子入り。
八年前、ヴェルグ男爵家が融資を受ける。
六年前、返済に窮して、領地の一部が商会へ。
四年前、断絶。残る領地も商会が取得。
三年前、その土地が商会から伯爵家へ。
そして。
五年前、ヴァンザール男爵家が融資を受ける。
「うちの契約書です」
わたしは、写しを差し出した。
「担保は、鉱山と水源を含む東部一帯。わかりにくいですが、利子の設計上、通常の返済では元本がなかなか減りません。期限は六年。……あと一年と少しで、うちはあの土地を失います」
男爵が写しを手に取った。
その手が、わずかに止まる。
「……これは」
「たぶん、似た形の契約をヴェルグ男爵家も結んでいたのではないでしょうか。そして、家ごと消えました」
わたしは男爵を見上げた。
「ロンバルト様。グラウスト伯爵からの融資は、受けないでください」
――長い沈黙が落ちた。
男爵は紙を見つめたまま、動かない。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
その目に浮かんでいたのは、驚愕でも、恐怖でもなかった。
――不快感だった。
「……娘御」
男爵の声が、低くなっていた。
「一つ、聞かせてもらおう」
「はい」
「この紙に書かれておることに、証拠はあるのか」
わたしは、正直に答えた。
「ありません」
「ないのか」
「はい。商人たちの雑談を集めたものです。裏は取れていません」
男爵の眉が、跳ね上がった。
「では、これはただの噂話ではないか」
「並びを見てください。同じことが、何度も――」
「並べたのは貴殿だろう」
その一言が、鋭く刺さった。
「都合の良い話だけを拾って並べれば、どんな形にでもなる。……わしは商人ではないが、そのくらいは分かる」
男爵は紙束を机に置いた。
「グラウスト伯は、わしの父の代から付き合いのある方だ。三年前、うちの牧場が疫病でやられた時も、真っ先に見舞いを寄越してくださった」
「それは――」
「その方を、証拠もない噂で疑えと」
男爵の声が、太くなる。
「わしは、確かめもせずに人を疑う男にはなりたくない」
――ああ。
わたしは内心で唸った。
この人は、悪い人ではない。むしろ真っ当だ。
証拠のない告発を退けるのは、正しい判断だ。前世でも、噂だけで人を裁く組織はろくなことにならなかった。
だから、わたしは食い下がった。
「では、確かめてください」
「なに?」
「わたしを信じなくて構いません。ですが、どうか確かめてください。ヴェルグ男爵家がどうなったか。クレン子爵家の養子の件が、どういう経緯だったか」
わたしは身を乗り出した。
「そして、伯爵が提示している契約書を、もう一度読んでください。担保に何を取られているか。利子の計算が、どうなっているか。そして、ちゃんと伯爵様との直接契約であるか」
男爵の目が、わずかに揺れた。
――もう少しだ。
そう思った時だった。
「……ジェレイド殿」
男爵が、父様に向き直った。
「貴殿は、これをどう思っておられる」
父様は困ったように眉を下げた。
「私は、その……よく分からんのだ。初耳でもある。だが」
困惑しながらもわたしの方を見て。
「リーゼがそう言うなら、そうなのだろうと」
「娘御が言うなら、と」
「伯爵殿は良い方だと思っておるのだが。娘がそう言うのならば」
男爵の目が、すっと冷えた。
「……ジェレイド殿。それは、当主の言葉ではないな」
父様が、きょとんとした。
「疑うにせよ、疑わぬにせよ。家としての方針を決めるのは貴殿だ。娘御ではない」
彼は杯を置いた。
「貴殿は昔からそうだ。学生の頃からな」
――侮蔑が、はっきりと滲んでいた。
「人が良い。誰のことも悪く思わん。……だから、誰にでも決めさせる」
彼は鼻で笑った。
「いや、失礼。美徳ではあるのだろう。人を疑わぬというのは、貴族としては稀有なことだ」
言葉は褒めている。だが、口調がまるで違った。
「もっとも、その美徳のおかげで、貴殿の家は傾いたのだろうが」
――プチ、と。
わたしの頭の芯で、何かが切れる音がした。
「執事に金を抜かれておったと聞いた。四年も気づかずにな。……人の良さも、そこまで行くと」
男爵は、笑いながら首を振った。
「まあ、その分を娘御が補っておられるのだろう。よくできた娘御で――」
「――失礼ですが」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
男爵が、言葉を止める。
「ロンバルト様。父は確かに、人を疑うのが下手です。それは事実です」
わたしは立ち上がった。椅子から降りると、目線は男爵の胸の高さにも届かない。
それでも、まっすぐに見上げた。
「ですが、父の領地では、この冬に百二十人が無償同然で働きました。三日で集まりました。誰も強制していません」
男爵の眉が、ぴくりと動く。
「傾いた家です。日当も満足に払えませんでした。それでも、村の人たちは来ました。何十年分もの信用があったからです」
わたしは息を吸った。
「父は帳簿が読めません。利子も分かりません。人を疑いません。……その通りです」
そして、言ってしまった。
「ですが、父を笑う人が、同じことをできますか」
――シン、と。
広間が、静まり返った。
男爵の顔から、表情が抜け落ちていた。
わたしは、自分が何を言ったかを理解した。
(――やった)
やってしまった。
これは交渉じゃない。ただの喧嘩だ。
「……リーゼ」
父様が、小さく袖を引いてくる。
男爵は、しばらく無言でわたしを見下ろしていた。
その顔は赤くもなく、怒鳴りもしない。ただ、冷え切っていた。
「……本日は、これまでとしよう」
彼は静かにそう言った。
「橋の件は、改めて書状を送る。技術指導については、こちらで検討させていただく」
拒絶ではない。しかし明確な打ち切りだった。
「だが街道協力の件は、忘れていただこう」
帰りの馬車の中は、重かった。
わたしは膝の上で拳を握ったまま、窓の外を見ていた。
沈む夕日。ロンバルト領の麦畑。そしてヒビの入った、あの石橋。
(――失敗した)
完全に、わたしの落ち度だった。
証拠のない話を持ち出したこと。相手の性格を読み違えたこと。
そしてなにより、感情で言い返したこと。
(橋の技術指導だけは残してくれたけど、街道と同盟の話は完全に潰れた)
何やってんだ、わたし。
前世で、何十回も見た光景だ。
正論を振りかざして、相手の面子を潰して、それで交渉を壊す担当者。無能の典型だと思っていた。
それを、自分がやってしまった。
「……リーゼ」
父様が静かに声をかけてきた。
「ごめんなさい」
俯いたまま言った。顔を見れない。
「わたしのせいです。あんなことを言わなければ」
「うん?」
「街道協力の話、うまくいきかけてたんです。それを、わたしが台無しにしました」
声が震えた。
「あの人は悪い人じゃありませんでした。誇りが高いだけで。……なのに、わたしが」
父様は、しばらく黙っていた。
それから、わたしの頭に手を置いて。
「嬉しかったぞ」
「……え?」
顔を上げると、父様が困ったように笑っていた。
「あんなふうに言ってもらったのは、初めてだ」
「でも、交渉が」
「交渉は失敗したな。うむ、間違いなく失敗した」
父様は、あっさりと頷いた。
「だがな、リーゼ。私はあの時、少し胸がすいた。……情けない父だな」
そして彼は窓の外を見ると
「ヴァルター殿は、昔からああなのだ。悪気はない。ただ、思ったことを口にしてしまうだけでな」
そう言って、少し遠い目をした。
「学生の頃、剣の稽古で私が負けた時も、あの調子だった。『貴殿は優しすぎる。斬る気がない者は勝てん』とな」
「……ひどい」
「うむ。だがあの時、あれは正しかった。私は本当に、斬る気がなかったのだ」
父様は笑った。
「あの男は、いつも正しい。腹は立つがな」
その夜、わたしは眠れなかった。
天井を見上げて、何度も同じことを考える。
どう言えばよかったのか。
証拠を集めてから行くべきだったのか。街道の話だけで留めるべきだったのか。
(……順番を、間違えた)
わたしは寝返りを打った。
いや、違う。順番の問題じゃない。
あの人は、証拠がないから断ったのだ。
なら、証拠がなければ何を言っても同じだった。
(――待てよ)
わたしは目を開いた。
あの人は、言ったじゃないか。
――わしは、確かめもせずに人を疑う男にはなりたくない。
確かめもせずに。
(……ということは)
わたしは、ゆっくりと身を起こした。
あの人は、確かめる人だ。
断ったのは、疑わないと決めたからじゃない。確かめていないからだ。
(もし、確かめたら?)
窓の外では、春の初めの風が吹いていた。
◇◆◇◆
同じ夜。
ロンバルト男爵家の書斎には、まだ明かりが灯っていた。
ヴァルター・ロンバルトが、机の上に一枚の書状を広げている。
グラウスト伯爵家からのものだ。
だが、書かれていることは少ない。
時候の挨拶。橋の件を耳にしたという一文。そして最後に、こうある。
『詳しくは、使いの者より申し上げます』
――使いの者は、冬の終わりに来た。
その男は丁重に頭を下げ、こう伝えた。
修繕費用については、伯爵に用立てる用意がある、と。
旧知の間柄ゆえ遠慮は無用にして欲しい、と。
有り難い話だと思った。素直に感謝した。
いま彼は、その短い書状を、じっと睨んでいた。
「……面白くない」
低い声で、彼は呟いた。
面白くないのは、八つの娘に説教されたことだ。
あの小さな娘は、まっすぐに見上げてきて、こう言った。
――父を笑う人が、同じことをできますか。
「くそ」
ヴァルターは、掌で顔を擦った。
できるわけがない。
日当も払えぬ工事に、百二十人が集まる。誰も強制されずに。
自分の領地でそれをやったら、何人来るだろうか。
――考えたくもない。
彼は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
ジェレイド・ヴァンザール。
学生の頃からの知り合いだ。人が良く、押しが弱く、そして誰にでも好かれる男だった。
剣では自分の方が強かった。学問でも上だった。家柄も、こちらが古い。
だが、あの男の周りには、いつも人がいた。
(――わしは、あの男が嫌いだったのか)
いや、と彼は首を振った。
嫌いではない。むしろ好ましい。
ただ、羨ましかったのだ。ずっと。
そして、その羨ましさを認めたくなくて、いつも一言多くなる。
「……悪い癖だ」
ヴァルターは書状を置いて、部屋の隅に目をやった。
そこにはリーゼが置いていった紙束が、無造作に積まれていた。
商人の噂話を並べただけの、証拠にもならない代物。
突き返すべきだったのに、なぜか捨てられずにここにある。
彼はそれを手に取った。
十一年前。北の男爵領を併合。
十年前。クレン子爵家、当主急死。跡取りが養子に。
八年前。ヴェルグ男爵家、融資。
六年前。領地の一部が商会へ。
四年前。断絶。残りも商会へ。
三年前。その土地が、伯爵家へ。
――そして、伯爵から届いたこの書状。
ヴァルターの指が止まった。
(……なぜ、今なのだ)
橋が壊れたのは去年の秋だ。
修繕費が足りぬと分かったのは、この冬。そのことは、誰にも話していない。ヴァンザール家にも、技術の相談をしただけだ。
なのに、伯爵からの申し出は冬の間に届いた。
(誰が、話した?)
背筋を、冷たいものが撫でた。
「……いや」
ヴァルターは頭を振った。
考えすぎだ。伯爵は昔から気配りの人だ。橋のことなど、人の口から自然に伝わる。
そう思おうとして――できなかった。
ヴァルターは書状をもう一度読み返した。
金の話は、一行も書かれていない。
いくら貸すのか、いつまでに返すのか、条件は何か。全部、使者の口から聞いた。
(……なぜ、書かん)
大金の話だ。普通は書面にする。
口約束で済ませる額ではない。
『――わたしを信じなくて構いません。ですが、確かめてください』
娘の声が、耳の奥に残っている。
無視しえない声が。
ヴァルターは、しばらく紙束を睨んでいた。
しかしやがて彼は立ち上がって、書斎の扉を開けた。
「誰かある」
廊下に控えていた家令が、慌てて駆けつける。
「はっ、こちらに」
「ヴェルグ男爵家のことを調べろ」
家令が目を丸くした。
「ヴェルグ、と申しますと……四年前に断絶された?」
「そうだ。あの家がどう潰れたか、当時を知る者を探せ」
ヴァルターは机の上の書状を見た。
「それと、クレン子爵家だ。十年前の当主の死と、養子縁組の経緯を洗え」
「……旦那様。それは」
家令が、恐る恐る尋ねる。
「なにか、ございましたので」
「分からん」
ヴァルターは、正直に答えた。
「分からんから、確かめる」
彼は椅子に座り直し、紙束をもう一度手に取った。
窓の外では、春の風が古い館を撫でていた。
「……八つの娘に、宿題を出されるとはな」
ヴァルター・ロンバルトは、苦々しそうに笑った。