幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
王都の学院は、丘の上にあった。
白い石造りの回廊が幾重にも巡り、その中庭には季節の花が絶えることがない。
全土から集まった貴族の子弟が、ここで六年から八年を過ごす。学問を、剣を、そして何より人脈を得るために。
リーゼの兄。
ユリウス・ヴァンザールは、その回廊の一室にいた。
「――だから私は思うんだ。血統というものは、もう役目を終えたと」
部屋の中央で人に囲まれ、その男が語っていた。
オーレリオ・グラウスト。
二十一歳。伯爵家の嫡男にして、この学院で最も人が集まる男。
背はさほど高くないが、姿勢が良い。柔らかな金色の髪と、緑の瞳。声は決して大きくないのに、不思議とよく通る。
「三百年前、貴族の家格は意味があった。土地を守り、民を養い、戦えば先頭に立った。だから民は爵位に敬意を払った」
オーレリオは、集まった十数人を見回した。
「では今は?」
誰も答えない。
「私の知る限り、この国で最も無能な領主は侯爵家の当主だ。彼は生まれた時から侯爵で、死ぬまで侯爵だ。領地が荒れても、民が飢えても、その地位は揺るがない」
彼は静かに続けた。
「一方で、優れた才を持ちながら、家格が低いというだけで一生を終える者がいる。……この部屋にも、何人かいるだろう」
空気が、わずかに震えた。
ユリウスは周囲の顔を見た。
男爵家の三男。落ちぶれた騎士家の嫡子。爵位すら持たない地方領主の子。
みな、学院では『その他』として扱われる者たちだ。
「それは間違っていると、私は思う」
そんな彼らの前で、オーレリオは、はっきり言い切った。
「能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つ。それだけのことが、この国ではできていない」
――ユリウスの胸が、熱くなる。
この言葉を、彼はもう何度も聞いていた。
だが何度聞いても、同じ場所が疼く。胸の奥だ。心の、奥の奥。
(そうだ。その通りだ)
「私は変えたい。血ではなく、能力で人が評価される国に」
オーレリオは微笑んだ。
「そのために、君たちの力がいる。私たちは一人じゃない」
静かな興奮が室内に満ち、皆は拳を握りしめてオーレリオの言葉に聞き入っていたのだった。
◇◆◇◆
集まりが解散し、皆が去っていく。
ユリウスも席を立とうとした時、声がかかった。
「ユリウス。少しいいかな」
振り返ると、オーレリオが窓辺に立っていた。
夕日が差し込んで、彼の輪郭を淡く縁取っている。
「はい」
「座って。……堅苦しいのはやめよう。友人なんだから」
ユリウスは、勧められた椅子に腰かけた。
心臓の鼓動が、少し早い。
この人と二人きりで話す機会は、そう多くない。取り巻きは大勢いるのだ。
その中で、自分が名前で呼ばれること。
それがどれだけのことか、彼は知っていた。
「君の領地のことなんだが」
オーレリオは窓の外を見たまま言った。
「北の街道の話を聞いた。冬に通れるようになったとか」
ユリウスは目を瞬かせた。
「……そんな話が、王都まで?」
「商人の口は速いからね。……お父上が?」
「まさか」
苦い笑いがユリウスの口から漏れる。
「父にそんなことができるなら、うちはとっくに立ち直っています」
言ってしまってから、少し後悔した。
父を悪く言うつもりはなかった。
「自分のお父上のことを、そんな風に言うものではないよ、ユリウス」
「すみません。いや……父は、悪い人ではないんです」
「わかってる。君からは幾度も聞いてるからね、君は本当に家族のことを愛している」
俯き加減になるユリウスの肩に手を添えるオーレリオの声は、優しい。
「父は領民の名前を全部覚えていて、誰かが困っていると放っておけない人なんです。子供の頃、村の子が熱を出したと聞いて、夜中に薬を持って走っていく姿を見ました」
あの背中を今でも覚えている。
誇りに思った。いや、今でも思っている。
ユリウスは、自分に言い聞かせるように、小さく頷いた。
「立派な人だと思っていたのです。……十四の時までは」
オーレリオが、静かに振り返った。
「……なにが、あったんだい」
「帳簿を、見てしまったんです」
ユリウスは膝の上で拳を握った。
「王都へ発つ少し前でした。ふと気になって、書斎に入って。……何が書いてあるか、半分も分かりませんでした。でも、蔵の在庫と支出の欄だけは読めた」
声が掠れた。
「足りていなかった。全然、足りていなかった」
あの日のことは、はっきり覚えている。
薄暗い書斎で、数字の列を見つめながら、足元が抜け落ちるような感覚がした。
「僕は父に聞きました。大丈夫なのか、と」
ユリウスは笑った。自嘲の笑いだった。
「父は言いました。『なんとかなる』と」
――なんとかなる。
その一言で、全部が分かってしまった。
「あの人は、数字をまともに読めないんです。読めないまま、ずっとやってきた。……そして誰かが困っていると、何も考えずに蔵を開ける」
ユリウスは顔を上げた。
「憎んでいるわけじゃありません。むしろ尊敬しています。あんなふうに人を信じられる人を、僕は他に知らない」
「わかってるよユリウス。君の気持ちはわかってるつもりだ」
「ありがとうございますオーレリオ様、でも」
と彼は続けた。
「あの人に、ヴァンザール家は守れない」
オーレリオは、しばらく黙って立っていた。
どれくらい時間が経ったろう。ゆっくりと、ユリウスの隣に腰かける。
「五年前の融資のこと、知っていたんだね」
――ユリウスの肩が跳ねた。
「なぜ、それを」
「私の家が――グラウスト家が貸したんだよ。知らなかったのか」
オーレリオが困ったように微笑む。
「父が話していた。ヴァンザール男爵が困っているから、力になったと」
「……そう、でしたか」
「気を悪くしたなら謝る。君に恩を着せるつもりはない」
「いえ。……むしろ、ありがたい話です」
実際、そう思っていた。
あの年、領内で流行り病が出た。父は蔵を空にして、それでも足りなかった。
誰かが貸してくれなければ、村がいくつか潰れていただろう。
「返済は、進んでいるのかい」
その問いに、ユリウスは首を振った。
「分かりません。父からは何も。……ただ、進んでいるとは思えません」
「ユリウス。……こんなことを言うのは心苦しいんだが」
「はい」
「あの領地は、もたないと思う」
ユリウスは目を伏せた。
分かっている。ずっと前から。
「私は君の家を悪く言いたいんじゃない。ただ、事実として」
オーレリオの声は、優しかった。
「善良さで領地は回らない。回すには、数字が読めて、人を切れて、必要なら憎まれる覚悟のある人間がいる」
彼は、まっすぐにユリウスを見た。
「君のような人間が」
――どくり、と。
心臓が、大きく鳴った。
「僕、は……」
「君は優秀だよ。この学院で、私が一番買っているのは君だ」
オーレリオは、静かに言った。
「君が講義に参加した初日のことを覚えているかい。税制の話で、君だけが講師の前提の誤りを指摘した。あの時から見ている」
ユリウスは息を呑んだ。
覚えている。もちろん覚えている。
誰も反応しなかった。講師は不快そうな顔をした。ただ一人、後ろの席で頷いていた男がいた。
それが、この人だった。
「……買いかぶりです」
「そうかな。人を見る目には自信があるんだが」
オーレリオは笑って、それから真顔に戻った。
「ユリウス。君が家を継ぐべきだ」
その言葉を聞いたのは、初めてではなかった。
この一年で、もう何度も言われている。
だが、聞くたびに同じ場所が痛む。
「……父はまだ、四十を過ぎたばかりです」
「継承に年齢の決まりはない。当主が退けばいいだけの話だ」
「そんな、簡単には」
「簡単だとは言っていない」
オーレリオは首を振った。
「辛いことだ、父君を退けるのは。君にとって一番したくないことだろう。……だからこそ私は、君を尊敬している」
――尊敬。
その言葉が、鋭く刺さった。
「君は、自分が一番傷つく選択を考えられる。それは誰にでもできることじゃない」
ユリウスは俯いたまま拳を握った。
目の奥が、熱い。
(この人は)
この人だけが、分かってくれる。
自分がどれだけ悩んでいるか。父を思う気持ちと、家を守る責任の板挟みになっているか。
誰にも言えなかった。友人にも、教師にも。
この人だけが、それを言葉にしてくれた。
「……僕は、どうすればいいでしょうか」
気づけば、そう聞いていた。
その問いに、オーレリオは優しく微笑んだ。
「まず、学ぶことだ。今は力を蓄える時期だよ」
彼はユリウスの肩に手を置く。
「時が来れば、私が力になる。……君は一人じゃない」
窓の外が、暗くなり始めていた。
オーレリオが立ち上がって、ランプに火を入れる。
小さな灯りが、部屋の輪郭を浮かび上がらせた。
「そうだ。一つ聞きたいことがあった」
彼は火をつけながら、何気ない調子で言った。
「君には、妹がいたね。いくつだったかな」
「妹?」
ユリウスは面食らった。
「七つです。……いや、八つになったかもしれません」
最後に会った時は、まだ三つか四つだった。
庭で花を摘んでいた記憶がある。よく笑う子だった。
「それが、なにか?」
「いや」
オーレリオはランプの火を見つめていた。
「少し気になる話を聞いてね。……まあ、末端の報告だ。誤りだろう」
それきり、彼はその話題に触れなかった。
ユリウスも、深く考えなかった。
(妹に、なにかできるはずもない)
あの子はまだ子供だ。
自分が家を出た時、庭で花冠を作っていた妹。父と母に愛されて、何も知らずに育っている。
(――守らなければ)
その思いだけが、胸に残った。
父も、母も、妹も。
あの領地が潰れれば、全部失われる。
だから自分がやらなければならない。
誰も傷つけずには済まないとしても。
話が終わり、辞去しようとした時。ユリウスはふと足を止めた。
机の上に、地図が広げられていた。
この国の全図だ。だが、彼が見慣れたものとは違う。
国境線の他に、いくつもの線が引かれ、印がつけられている。
――そして、その印は、国内だけではなかった。
「オーレリオ様。これは」
「ああ、片付け忘れていた」
彼は地図に手を伸ばしながら、軽く笑う。
「趣味の類だよ。地理は好きでね」
だが、ユリウスの目は、その一点から離れなかった。
東の国境。
その向こう側――隣国アルデシアの領内にまで、細い線が伸びている。
しかも、その線は街道をなぞっていた。
いくつかの地点に丸印がつけられ、脇に小さく数字が書き込まれている。
(……これは)
ユリウスは、学院で習った知識を手繰った。
街道沿いに、等間隔で印。数字が添えられている。
こういう図を、教本で見たことがある。
――兵站図だ。
軍を動かす時、どこで補給し、何日で到達できるかを示すための。
「オーレリオ様。この数字……」
「日数だよ」
彼はあっさりと答えた。
「軍が街道を進んだ場合、その地点まで何日かかるか。……ほら、この道は起伏が多いから、平地の倍かかる」
ユリウスは息を呑んだ。
「なぜ、そんなものを」
「知っておきたいからさ」
オーレリオは地図を巻き取り始めた。
「アルデシアとは、四十年間なにも起きていない。ずっと平和だ。……君は、それがなぜだと思う?」
「なぜ、と言われましても。……条約があるからでは?」
「条約は紙でしかない」
彼は静かに言った。
「四十年前、あの国は内乱で疲弊していた。だから動けなかった。それだけだ」
巻かれていく地図の上を、彼の指が滑る。
「そして今、あちらの内乱は終わっている。三年前にね」
ユリウスの背筋が、冷たくなった。
「……まさか、攻めてくると?」
「分からない。だが、備えている者がいない、とは思っている」
オーレリオは、巻き終えた地図を脇に置いた。
「この国の貴族は、四十年の平和を当たり前だと思っている。侯爵も、公爵も、宮廷の連中もだ。誰も国境を見ていない」
彼は笑った。優しい笑みだった。
「私は、それが恐ろしい」
――ああ。
ユリウスの胸に、熱いものが込み上げた。
(この人は)
自分の家のことばかり考えていた自分が、恥ずかしくなる。
この人は、国そのものを見ている。
「オーレリオ様は、国を守ろうとされているのですね」
「守る?」
オーレリオは、少し不思議そうな顔をして。
「……うん。そうだね」
と、しばし遅れて頷いた。
一瞬の間に、ユリウスは奇妙な違和感を覚えた。
いま、この人は「守る」という言葉に、少しだけ引っかかった。
まるで、別の言葉を言おうとして、飲み込んだかのように。
(考えすぎか)
ユリウスは首を振った。
「それでは失礼します、オーレリオ様」
「ああ。おやすみ」
扉を閉める間際、ユリウスは振り返った。
オーレリオは窓の外を見ていた。
その横顔に、いつもの柔らかな微笑みはなかった。
夜の王都を見下ろす目は、ひどく静かで――そして、何かを数えているように見えた。
「――足りないな」
小さな呟きが、聞こえた。
ユリウスは足を止めた。
「なにが、でしょうか」
「ん? ああ、いや」
オーレリオは振り返って、いつもの顔で笑った。
「独り言だよ。気にしないでくれ」
ユリウスは会釈をして、扉を閉めた。
灯りの落ちた回廊を歩きながら、彼はさっきの言葉を反芻していた。
足りない。
何が足りないのだろう。
(人だろうか。それとも、金か)
どちらにせよ、この人は集めている。
国を守るために必要なものを、一つずつ。
(僕も、その一つになりたい)
ユリウスは拳を握った。
窓の外には、王都の夜景が広がっている。
その遥か北に、故郷があった。
(もう少しだけ、待っていてください)
ユリウス・ヴァンザールは、そう心の中で呟いた。
(僕が必ず家を立て直します。守るんだ。父上も、母上も――まだ花冠を作って遊んでいるであろうリーゼも、僕が必ず)