幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります   作:ユズナミキ

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鉱山監督の不正

「――窯場に、よく人が来ます」

 

 書斎に呼び出されたヴィエラは、開口一番そう言った。

 わたしは顔を上げた。

 

「誰が?」

「監督です」

 

 彼女は少し眉をひそめた。

 

「前は一度も来なかったんですよ。わたしが鉱山に来てから、窯場になんて足を踏み入れたこともなかった。……それが、この半年やたらと来ます」

「何をしに?」

「見物です。『景気が良くて結構だ』とか言いながら、ずっと立ってるんです」

 

 ヴィエラは腕を組んだ。

 

「気にはなってました。でも、うちの窯ですし、監督が見に来るのは変じゃないと思って」

 

 わたしは机の上の紙を引き寄せた。

 

「ヴィエラ。焼き方を正確に知ってるのは、誰と誰?」

「わたしと、窯職人が四人です」

「ロンバルト領で教えた人たちは?」

「向こうは向こうで焼いてますけど、契約通りです。あちらから多少漏れたとしても、窯を真似て作ることができないと思います」

 

 彼女は断言した。

 

「あとは、冬の工事に出た村人たち。でもあの人たちが知ってるのは、混ぜ方と敷き方だけです。焼く工程は見ていません」

 

 わたしは頷いた。

 ――つまり、窯場に入れる人間だけが、その情報を持っている。

 

「テオ」

「……きいてた」

 

 部屋の隅で書き物をしていたテオが、顔を上げた。

 

「鉱山からの報告、全部覚えてる?」

「おぼえてる」

「監督が窯場に来た日、分かる?」

 

 テオはしばらく目を伏せた。

 指先が、小さく動いている。何かを数えているらしい。

 

「……にじゅうろっかい」

「二十六回?」

「はじめは、あきのおわり。だけど、いっかげつまえくらいから、かいすうふえた」

 

 わたしは別の紙を取った。

 交渉係の男が持ってきた、買い占めの報告書。

 

「石灰の買い占めが始まったのは」

「せんげつ、って、いってた」

 

 テオは正確に答えた。

 二つの日付を紙に書いて並べてみる。

 監督が窯場に通い始めた時期は半年前だが、頻繁になったのは一ヶ月前。

 

 つまり先月。

 買い占めが始まった時期。

 ――重なっている。

 

(そういえば、あの監督は……)

 

 わたしは、去年の夏を思い出した。

 鉱山の産出量が、階段を落ちるように減っていた。

 鉱脈が細ったと監督は言った。だが掘る場所は変えていなければ、新しい坑道も掘っていない。

 

 そして去年、「四年前に何かありましたか」と聞いた時、監督は目を逸らした。

 

(――ずっと、引っかかってた)

 

「マーサ」

「はい!」

「鉱山に行きます。馬車を出して」

 

 鉱山に着いたのは、その日の夕方だった。

 監督の部屋は事務所の奥にある。

 扉を叩くと、いつもの愛想笑いが出迎えた。

 

「これはこれはお嬢様。またわざわざ、こんな汚いところまで」

「少しお時間をいただけますか」

「もちろんですとも。……今日はなんの御用で?」

 

 わたしの後ろには、マーサとテオが立っている。

 監督は二人をちらりと見て、それからわたしに、机の前の椅子を勧めてきた。

 

 わたしは座らず、その前に立った。

 どうせすぐ立つ。座っても意味がない。

 

「監督。産出量のことで、伺いたいことがあります」

 

 監督の頬が、わずかに強張った。

 

「はあ、産出量。……相変わらず芳しくありませんな」

「去年、鉱脈が細っていると仰いましたね」

「へえ、そのように」

「掘る場所を変えていないのは、なぜですか」

 

 わたしの問いに、彼は目を一瞬泳がせて。

 

「そ、それは前にも申し上げましたが、人手も金も足りませんので」

「今は足りています」

 

 静かに逃げ場をふさぐわたし。

 

「石灰の事業が始まって、鉱山には人が増えました。予算も出しました。……なのに、新しい坑道は一つも掘られていません」

「それは、ですな。……準備というものが」

「半年、準備をしていたんですか」

 

 監督は口を閉じた。

 わたしは紙を一枚、机に置いた。

 

「これは、あなたが窯場に来た日の記録です。二十六回。とくにひと月前から頻繁ですね」

 

 目を見開く監督。その顔が青ざめた。

 

「な、なぜそんなものを」

「実は気になって、報告させていたのです。そしてうちには、見た報告を全部覚えている人間がいます」

 

 わたしは後ろのテオを示した。

 彼は無表情のまま、監督を見ている。

 

「そして、こちらが石灰の買い占めが始まった時期。ひと月前です」

 

 二枚目の紙を置く。

 

「重なっています。……偶然ですか」

 

 監督は答えなかった。

 その額に、汗が浮かんでいる。

 

「もう一つ」

 

 わたしは三枚目を置いた。

 

「五年前の産出量の推移です。この年から、階段状に落ちていますね。鉱脈が細ったなら、こんな落ち方はしません」

 

 わたしは監督を見上げた。

 

「五年前に、なにがありましたか」

 

 ――長い沈黙が落ちる。

 やがて。

 どさり、と音がした。

 監督が、床に膝をついていた。

 

「――申し訳ございません」

 

 そのまま額を床につける。

 

「……五年前」

 

 監督は床に額をつけたまま、掠れた声で言った。

 

「流行り病の年です。覚えておいでですか」

「はい」

「あの年、わしの妻と娘が、病にやられました」

 

 わたしは息を呑んだ。

 

「薬が要りました。ですが、あの年は薬が足りず、値が十倍にも跳ね上がっておりました。……わしの給金では、とても」

 

 監督の肩が震えている。

 

「妻はもう三日と保たんと言われました。娘は、当時十二でした」

 

 彼は顔を上げた。

 その目が、赤く濁っていた。

 

「そこへ、二人組が来たんです」

 

 ――ぞわり、と。

 背中に悪寒が走る。

 

「頭巾で、顔を隠していましたか」

「……ご存じで?」

「続けてください」

 

 男は頷いた。

 

「外套の頭巾を、深く被っておりました。二人とも。……その男たちが、薬を持ってきたんです」

 

 彼は震える手で、自分の膝を掴んだ。

 

「『奥方とお嬢さんの分です』と。『お礼は要りません』と、そう言って」

 

(――薬を、無償で)

 

「わしは飛びつきました。当たり前です。目の前で妻と子が死にかけとるんですから」

 

 告白する声が割れている。慟哭とでも言えばよいのだろうか。

 

「妻は助かりました。娘も。……あの薬がなければ、二人とも死んでおりました」

 

 わたしは、何も言えなかった。

 

「半年後です」

 

 彼は続けた。

 

「同じ男たちが、また来ました。頼み事がある、と」

 

 監督は、床を見つめたまま、声細く言った。

 

「『鉱山の産出量を、少しずつ落としてください』と」

 

 わたしは眉をひそめた。

 

「理由は?」

「言いませんでした。ただ、そうしてくれとだけ」

「断らなかったんですか」

「断りました」

 

 男は即答した。

 

「当たり前です。それは領主様への裏切りだ。わしはこの鉱山で三十年働いてきたんです」

 

 その声には、確かな怒りがあった。

 

「そう言ったら、男の一人が、こう聞いてきました」

 

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「『あの時の薬ですが。……ご領主様には、なんとご説明を?』と」

 

 ――わたしは、息を止めた。

 

「最初は意味が分からんかった。ですが、すぐに分かりました」

 

 男は自嘲するように笑った。

 

「あの年、薬は金貨でしか買えんかった。わしのような者が、どうやって手に入れたのかと。……そう問われたら、なんと答えます?」

「無償で貰った、と」

「誰が信じますか」

 

 男は首を振った。

 

「証文もない。相手の顔も知らん。名も知らん。……ただ『どこかから、高価な薬を手に入れた男』が残るだけです」

 

 鉱山の監督だ。

 鉱石を扱っている。横流ししているとでも疑われれば、それだけで終わる。

 

「わしは、そこから抜けられなくなりました」

 

 監督の告白は、それから五年分続いた。

 産出量を、少しずつ落とし続けた。

 鉱脈が細ったという嘘をつき、新しい坑道を掘らせず、鉱夫を減らし、設備の修繕を先延ばしにした。

 

 鉱夫たちは次第に諦めていった。

 ここはもう終わりだ、と。

 

「理由は、最後まで分かりませんでした」

 

 男は言った。

 

「なぜ産出量を落とさせるのか。誰が得をするのか。……ですが、去年、お嬢様がいらして」

 

 彼は苦しげに続けた。

 

「借金の契約書の話を、鉱夫から聞きました。この鉱山が、担保に入っていると」

 

 その時、全部が繋がったのだという。

 

「……この土地を、安く見せるためだったんですな」

 

 ――そうだ。

 わたしは心の中で頷いた。

 

 担保として取り上げる時、価値が低い方が都合がいい。

『枯れかけた鉱山』なら、周囲も気に留めない。男爵家が土地を手放しても、誰も不審に思わない。

 

 そして受け取った後で、本気で掘ればいい。

 

(――五年前から、そこまで)

 

 背筋が凍った。

『敵』は、うちの土地を取ることを決めていただけでなく、取りやすくするための工作まで済ませていた。

 

「そして去年の冬、また来ました。石灰の焼き方を調べろ、と」

 

 監督は目を伏せる。それでも。

 

「断りました」

 

 彼は、はっきりと言った。

 

「もう十分だろうと。これ以上は無理だと、そう言いました」

 

 その声が、震え始める。

 

「そうしたら、男が言ったんです」

 

 監督は両手で顔を覆った。

 

「『お嬢さんは、今年で十六になられますな』と」

 

 ――わたしは拳を握った。

 

「『町の織物屋に奉公に出ておられる。……あそこの女将は、腕が良いと評判ですね』と」

 

 男の声が、嗚咽に変わった。

 

「店の名前まで、知っておりました。娘が何時に店を出るかも。……俺は」

 

 彼は床に崩れた。

 

「俺は、話しました」

 

 部屋が静まり返った。

 窓の外では日が落ちかけている。

 鉱山の斜面が、赤く染まっていた。

 わたしは、床に伏せた男を見下ろしていた。

 

 ――と、その時。

 

『ステータスアイ、起動』

 

 頭の中に、無機質な声が響いた。

 

(……こんな時に)

 

 わたしは、思わず唇を噛んだ。

 この目は、いつもそうだ。

 こういう場面でもお構いなく勝手に開く。

 

 だが、視界に浮かんだ枠から目を逸らすこともできなかった。

 

【対象:鉱山監督】

【潜在限界値:B】

【現在到達度:八割】

【現在ステータス:強度の自責・精神的限界・睡眠障害】

 

(……B)

 

 わたしは、その一文字をしばらく見つめていた。

 

 SSRでも、SRでもない。

 平凡だ。どこにでもいる、ごく普通の数値。

 そして、到達度は八割。

 

(――出し切ってる)

 

 この人は、自分の持っているものを、ほとんど全部使っていた。

 三十年、この鉱山で働いてきた。特別な才能があったわけじゃない。ただ真面目に、自分にできる範囲のことを積み上げてきただけの人だ。

 その八割を、五年間、嘘をつくことに使い続けた。

 

(……そりゃ、限界も来るよね)

 

【現在ステータス:強度の自責・精神的限界・睡眠障害】

 

 睡眠障害。

 わたしは、床に伏せた男の後頭部を見た。

 白髪が増えている。去年、初めて会った時よりも明らかに。

 

(五年、眠れてなかったんだ)

 

 ――胸の奥が、鈍く痛んだ。

 わたしは、この目に何を期待していたのだろう。

 

 この人が本当は何者なのかを、教えてくれると思ったのか。

 裏切り者なのか、被害者なのか。切るべきか、残すべきか。

 

(……そんなの、出るわけないのに)

 

 浮かんでいるのは、ただの事実だ。

 平凡な能力。八割まで使い切った状態。そして、限界。

 

 この人が三十年かけて何を積み上げたかも、五年間どんな夜を過ごしたかも、娘の顔を思い浮かべながら何を書き換えたかも――そこには一文字も書かれていない。

 

 当たり前だ。

 

(――この目は、人を測る道具じゃない)

 

 才能の在処を教えてくれるだけだ。

 その人をどう扱うべきかは、教えてくれない。

 わたしは、光る枠から目を離した。

 

(……自分で決めるしかない)

 

 ――そう。

 結局、判断するのは、いつだって自分だ。

 

(――どう判断する)

 

 頭の中では、前世の自分が答えを出していた。

 

 情状酌量の余地はある。だが、処分しないという選択肢はない。

 背任だ。五年間にわたる、継続的な。損害額は計算不能。

 組織は、例外を作った瞬間に緩む。

『事情があれば許される』という前例ができれば、次の裏切りは軽くなる。

 だから切る。それが正しい。

 

(――正しい、けど)

 

 わたしは拳を握りしめた。

 

(この人は、娘を守っただけなのに)

 

 病の年に薬を差し出され、その借りを人質に取られ、五年間、逃げ道を塞がれ続けた。

 断ればよかった、と言うのは簡単だ。

 最初の時点で領主に報告すればよかった、と。

 

 だが、あの状況で。

 

(――もし、わたしなら)

 

 誰かが、マーサの名前を出したら。

 テオの名前を、ヴィエラの名前を、村長の名前を出したら。――父様母様の名前を出したら。

 

 断れるのか。

 

(……分からない)

 

 答えが出なかった。

 それが、答えだった。

 わたしは口を開いた。

 

「顔を上げてください」

 

 監督が、のろのろと顔を上げる。

 

「あなたを、解雇します」

 

 男は目を閉じて、頷いた。

 

「……はい。当然です」

「ですが、罪には問いません」

 

 ――彼の目が、大きく見開かれた。

 

「え」

「牢に入れることも、賠償を求めることもしません。今日限りで職を解きます。それだけです」

 

 監督は、ぽかんとした顔でわたしを見ていた。

 

「……なぜ、です」

「その代わり、二つお願いしたいことがあります」

 

 わたしは指を二本立てた。

 

「一つ。知っていることを、全部話してください。男たちの背格好、声、来た日、言われたこと、渡した情報。全部です」

「は、はい。それは、もちろん」

「二つ」

 

 わたしは、彼をまっすぐ見た。

 

「娘さんを、うちで預かることを許してください」

 

 ――男の顔から、表情が消えた。

 

「……は?」

「町の織物屋から引き取ります。屋敷で働いてもらってもいいし、他の場所を用意してもいい。ご本人の希望を聞きます」

 

 わたしは続けた。

 

「あなたが解雇されても、あの人たちが娘さんを人質にするのをやめるとは限りません。むしろ、口封じのために動く可能性もあります」

 

 監督が、床に手をついた。

 

「な、なぜ。なぜそこまで」

「あなたを許したわけじゃありません」

 

 わたしははっきり言った。

 

「五年間、あなたは嘘をつき続けました。そのせいで、この鉱山の鉱夫たちは仕事を減らされ、諦めさせられた。うちの領地の収入も落ちた。……許せません」

 

 男が頭を垂れる。

 

「でも」

 

 わたしは言った。

 

「あなたの娘さんは、何もしていません」

 

 ――しばらく、何も聞こえなかった。

 やがて、押し殺したような音が漏れ始めた。

 三十年この鉱山で働いてきた男が、床に額をつけて、声を殺して泣いていた。

 

 外に出ると、あたりはもう暗かった。

 鉱山の斜面に、いくつかの灯りが点っている。

 夜勤の鉱夫たちが動いているのだろう。

 

「……リーゼお嬢様」

 

 馬車に乗り込んでから、マーサが小さく言った。

 部屋にいる間、彼女は一言も喋らなかった。

 いつもなら余計な口を挟むのに、今日はずっと黙って立っていた。

 

「わたし、あの人を殴りたかったんです」

 

 わたしは彼女を見る。

 その顔は、いつもの間の抜けた表情ではなかった。

 

「リーゼお嬢様がずっと必死にやってきたのを見てましたから。それを裏切られてたって聞いて、頭に血が上りました」

「うん」

「でも、殴れませんでした」

 

 マーサは膝の上で、両手を握りしめていた。

 

「……なんでですかね」

 

 わたしは、しばらく答えを探した。

 だが、見つからなかった。

 

「わたしも、わからない」

 

 正直にそう言った。

 

「切るべきだと思った。前世(まえ)なら、絶対に切ってた。……でも、完全には切れなかった。厳罰に処することができなかった」

 

 馬車が揺れる。

 

「甘いのかな」

「わかりません」

 

 マーサは首を振った。

 

「でもわたしは、リーゼお嬢様がそういう方で嬉しかったです」

 

 彼女はそう言って、それきり黙った。

 窓の外では、鉱山の灯りが遠ざかっていく。

 

 監督の処分は、その夜のうちに父様に伝えた。産出を絞らされていたことも、娘を預かることも。

 父様は長いこと黙っていた。ヴァルターから聞かされた話と、これが同じ糸で繋がっていることは、父様にも分かったのだろう。

 やがて、「お前の判断に任せる」とだけ言った。

 

 翌日から、後始末が始まった。

 監督の後任には、ヴィエラが推した鉱夫が就いた。四十代の、寡黙な男だ。

 

 彼は着任してすぐ、放置されていた坑道の調査を始めた。

 三日後、報告が上がってきた。

 

「お嬢様。……これ、本当ですか」

 

 帳簿係の少年が、震える手で紙を差し出してくる。

 わたしはそれを読んで、しばらく動けなかった。

 

 ――本気で掘れば、記録上の倍は出る。

 五年前の水準に戻せる。いや、新しい坑道を開ければ、それ以上も。

 

「倍……」

「はい。監督が意図的に採掘を絞っていたので、手つかずの層がそのまま残っています」

 

 少年は紙をめくった。

 

「これ、返済計画が変わります。大幅に」

「計算して」

「もうしました」

 

 彼は別の紙を出した。

 

「鉱山の産出が戻れば、石灰と通行料と合わせて――期限の半年前に、返済できます」

 

 わたしは、その数字を見つめた。

 

(――届く)

 

 まだ確定じゃない。全部が計画通りに進めばの話だ。

 だが、初めてはっきりと道が見えた。

 

(そうか。だから)

 

 同時に別のことも分かってしまった。

 

(この鉱山には、それだけの価値があったんだ)

 

 グラウスト伯爵は、それを知っていた。

 五年前の時点で。

 

 だから担保に設定し、価値を隠すために監督を脅し、期限が来るのを待っていた。

 

(――五年前から、全部)

 

 その夜、わたしは書斎で一人になった。

 机の上には、監督から聞き取った記録が置かれている。

 テオが清書したものだ。

 

 男たちの背格好。声の特徴。来た日。言われたこと。

 そして、一つの記述。

 

『くすりを、くばっていた。はやりやまいのとし。むらにも、まちにも』

 

 ――薬を、配っていた。

 あの年、あの二人組は、困っている家を回って薬を配っていたのだ。

 無償で。お礼は要らないと言って。

 感謝されながら。

 

(――父様と、同じことをしてる)

 

 わたしは、椅子の背にもたれた。

 困っている人を見つけて、助ける。見返りを求めずに。

 それは父様がずっとやってきたことだ。だから村人は父様を信じている。

 同じ形を、あの人たちはやっている。

 

 ――後で回収するために。

 

(気持ち悪い)

 

 背中がぞわぞわした。

 これまで、伯爵の手口は「合法的で、誰も傷つけない」と思っていた。

 書類と、噂と、金だけで戦う相手だと。

 

 違った。

 人の一番弱いところに、優しい顔で入り込む。

 助けて、感謝させて、そしてあとでそれを鎖に変える。

 

(――これが、あの人たちのやり方か)

 

 わたしは、机の上で拳を握った。

 窓の外では、春の夜風が吹いている。

 

 返済の目処は立った。

 鉱山の価値も分かった。内通者も排除した。

 だが。

 

(――終わらない)

 

 この程度で諦める相手じゃない。

 五年前から、こんな仕込みをする人たちだ。

 

(次は、何をしてくる)

 

 わたしは唇を噛んだのだった。

 

 

 

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