幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
ラーゼンの街は、軽く傾斜した坂の上にある。
屋敷を頂点として、そこから緩やかな斜面に沿って家々が広がっていく。石畳の通りが三本、それを繋ぐ細い路地が無数に。人口はおよそ千。
この地方では、小さくもなく大きくもない、ごく平凡な領都だった。
――去年は、そう思っていた。
「リーゼお嬢様、あそこ! 新しいお店です!」
マーサが指差した先に、真新しい看板が掲げられていた。
革製品の店らしい。開いた扉から、なめした革の匂いが漂ってくる。
「先月まで、空き家だったよね」
「はい! 東の町から来た職人さんが借りたって、大家さんが言ってました」
わたしは足を止めて、その建物を見上げた。
一年前、この通りには空き家が七つあった。
数えたから覚えている。去年の春、初めてこの街をきちんと眺めた時のことだ。
板を打ち付けられた窓。剥がれかけた看板。人の消えた店先。
その七つが、今は一つもない。
「宿屋も忙しそうでしたねぇ」
坂を下りながら、マーサが言った。
街道沿いの宿屋は、この一年で三軒から五軒に増えた。それでも足りないらしい。
さっき通りかかった時、主人が嬉しそうな悲鳴を上げていた。
『お嬢様、うちはもう満室ですよ! 近隣の村から人を借りて回してるんです!』
その顔が、去年とはまるで違った。
去年、あの人は店先で座り込んで、ぼんやりと通りを眺めていた。
「井戸も、綺麗になりましたね」
マーサが、広場の一角を示した。
街の共同井戸。石灰で補修された縁が、白く光っている。
その周りで、洗濯をする女たちが賑やかに喋っていた。
「あ、リーゼお嬢様!」
そのうちの一人が気づいて、手を振ってくる。
「今日はお祭りですねえ! 楽しみにしてますよ!」
「はい。よろしくお願いします」
わたしが会釈すると、女たちが一斉に笑顔になった。
(……去年は)
去年、この街の人はわたしを知らなかった。
領主の娘がいるらしい、という程度。顔を見ても誰だか分からない。挨拶もされない。
そもそも、わたしが街を歩くこと自体がほとんどなかった。
今は違う。
石畳を歩いていると、あちこちから声がかかる。
パン屋の親父が手を振り、鍛冶屋の親方が会釈をし、路地で遊んでいた子供が「あっ」と言って手を振ってくる。
(変わったな)
街が変わったのか、わたしが変わったのか。
たぶん、両方だ。
春の祈願祭は、ラーゼンに古くから伝わる習わしだった。
作付けの前に、その年の実りを祈る。
広場に
――だが、この十年ほどは、細々としたものだったらしい。
「金がなかったのだ」
父様は、わたしが提出する帳簿に、形式上だけ目を通しながら言ったものだ。
「
父様は少し寂しそうに笑った。
「私が子供の頃は、もっと賑やかだったのだが」
わたしは帳簿を確認した。
祭の費用。過去十年分。
確かに、年を追うごとに減っている。去年は、記録上最低の額だった。
「今年は、出せます」
わたしがそう言うと、父様が目を丸くした。
「出せるのか」
「はい。十年前の水準まで戻せます」
父様は、しばらく口を開けたままだった。
それから、ぽろりと呟いた。
「……
「組めます」
その時の父様の顔を、わたしはたぶん一生忘れない。
そして今日が祭の日。
ラーゼンの広場は、朝から人で埋まっていた。
中央に組まれた
その周りに屋台が並び、香ばしい匂いが立ち上る。
「――お嬢様! こっちです! 見てくださいこの窯!」
人混みの中から、ヴィエラが手を振っていた。
彼女は屋台の一つに陣取って、小さな窯を据えていた。石灰焼きの実演をやるらしい。
「なんで祭で窯焼いてるの」
「見せたいからです!」
彼女の周りには、村の女たちが集まっていた。
「へえ、これが白い粉になるのかい」
「なります。この火の色を見てください。もう少し白くなったら頃合いです」
「姉さん、火の色で分かるのかい?」
「分かります」
ヴィエラが得意げに胸を張る。
その中で、十四、五歳くらいの娘が、じっと窯を覗き込んでいた。
「あの……わたしも、こういうの、できますか」
彼女がそう言った瞬間、ヴィエラの目が輝いた。
「できます! 名前は? どこの村!?」
――ああ、と思った。
ヴィエラは今、あの日の自分を見ている。
鉱山の窯場で、誰にも聞かれないまま火を見ていた頃の自分を。
(……いい傾向だ)
過去の自分を笑顔で思い出せるようになる、それはとても良いことなんだと思う。
さて、少し離れた木陰では、テオが囲まれていた。
「なあテオ! 五年前の祭ってどうだった!?」
「ごねんまえ。おぼえてる」
テオは指を折った。
「あめ。ごぜんちゅう、ふった。やぐらが、たてられなかった。やたい、ななつ」
「七つ!? 今日の五分の一じゃねえか!」
「そのとし、むぎ、ふさく」
村人たちが「おお」とどよめく。
「じゃあ二十五年前は!?」
「ぼく、うまれてない」
「あ、そうか」
同じやり取りを、彼はもう五回はやっている。
だがテオは嫌がる素振りも見せず、淡々と答え続けていた。
その周りで、北の村の人たちが誇らしげな顔をしている。
「うちの村のテオですよ」
「ええ、うちの」
村長が、街の人相手に自慢していた。
(……厚かましい)
わたしは吹き出しそうになった。
一年前、あの人たちはテオを透明人間として扱っていたのに。
だがその厚かましさが、とても微笑ましいものに思えた。
幸せの証だ。
「――あ、あの、ぼ、僕はその、そういうのは」
屋台の陰では、帳簿係の少年が真っ赤になっていた。
目の前に、同じくらいの年頃の娘がいる。素朴に着飾った、かわいい女の子だった。
「でも、あなたお屋敷で偉い人なんでしょ? 帳簿を見てるって聞いたよ」
「い、いえ、僕は、その、まだ十六で」
「わたしも十六だよ」
「そ、そうですか」
少年の顔が、茹でたように赤い。
わたしは通りかかっただけだったが、思わず足を止めた。
(……成長したなあ)
一年前、あの子は薪割りをしていた。
誰にも見向きもされない下働きの少年が、今は年頃の娘に声をかけられている。
立派な出世だ。人事担当として、これほど嬉しいことはない。
「リーゼお嬢様、なにニヤニヤしてるんですか」
「してないよマーサ」
「してます」
「――ですから、その値では飲めませんな。うちの石灰は品質が違います」
「そこをなんとか。年間で契約しますから」
「年間なら、なおのこと値は下げられません」
交渉係の男が、他領から来た商人と商談を始めていた。
祭の会場で。
「――何をやっているのです」
女中が、彼の襟首を掴んだ。
「今日は祭です。仕事は明日になさい」
「い、いや、しかし向こうから話しかけてきたので」
「明日、と申し上げました」
男が引きずられていく。
商人が「ま、また明日!」と叫んでいた。
女中は男を引きずりながら、屋台の配置を指示し、酒の残量を確認し、迷子になった子供を親元に返し、
完全に、この祭の総指揮官だった。
(……頼もしすぎる)
一年前、わたしに真正面から反対した女中が。
「――リーゼ! リーゼはどこだ!」
広場の中央から、上機嫌な声が響いた。
父様だった。
街の人たちに囲まれて、既に相当飲まされている。顔が真っ赤だ。
「おお、いたいた! 見ろ、この
「見てます」
「私が子供の頃と同じ大きさだぞ! いや、少し大きいかもしれん!」
父様は嬉しそうに櫓を見上げた。
「旦那様、もう一杯どうぞ!」
「おお、貰おう」
「あなた」
母様の声が、静かに割り込んだ。
「そのくらいになさいませ」
「い、いや、レイア。今日は祝いの日だ」
「祝いの日でも、昔みたいに
「あれは事故だ!」
街の人たちが笑う。
母様はため息をついて、それから父様の外套の襟を直した。
「……まあ、いいですけれど」
「うん?」
「今年は、飲んでもよろしいですわ」
母様は、少しだけ目を細めた。
「今年は、めでたい年ですもの」
父様が、母様の顔をしばし見つめる。
やがて照れくさそうに笑ったと思うと、杯を掲げて音頭を取る。
「皆も飲んでくれ! 今日という日は、皆の頑張りのお陰でやってきたのだから!」
歓声が上がる。祭りはまだ始まっていないのに、もうお祭り状態だった。
「――ジェレイド殿は、相変わらずだな」
不意に、わたしの背後から声がした。
振り返るとヴァルターが立っていた。
旅装ではなく、きちんとした外套を着ている。祭に招いたのだから当然だが、なんとなく違和感があった。
「ロンバルト様。よくお越しくださいました」
「呼ばれたからな」
彼はぶっきらぼうに言って、それから広場を見回した。
「……賑やかだ」
「はい」
「良い祭ではないか」
ヴァルターは頷いて、それから報告を始めた。
「橋の工事は進んでおる。土台は固まった。夏には荷馬車を通せる見込みだ」
「早いですね」
「貴殿のところの職人が優秀すぎるのだ。……あの娘、うちの石工どもを完全に手なずけおった」
彼は苦笑した。
「最初は誰も言うことを聞かなかった。それが三日で、全員が『ヴィエラさん』と呼び始めた。……どういう手品だ、あれは」
「手品じゃなくて、腕です」
「そうか、そうだな」
ヴァルターは頷いた。
そして、少し声を落とした。
「それと、リーヴェン領の件だ」
「はい」
「話はついた。三家で組む」
わたしは思わず息を呑んだ。
「本当ですか」
「うむ。あの男も、街道協力の話には乗り気だった。……それと、もう一つ」
彼の顔が険しくなった。
「グラウスト伯爵からの融資は、断らせた」
――ああ。
「間に合ったんですね」
「ぎりぎりだ。書状は既に届いておった」
ヴァルターは苦い顔をした。
「あの男、書状を見せながら震えておったわ。『あと十日で署名するところだった』とな。……水害で堤が三つ流されて、金の当てがなかったそうだ」
わたしは目を閉じた。
また一つ。
もう少しで、同じ形に嵌められる家があった。
「堤の修繕は?」
「うちとそちらで、なんとかする。……足りない石灰は、また分けてもらうぞ」
「もちろんです」
ヴァルターは頷いて、それから杯をあおった。
祭が最高潮を迎えたのは、日が傾き始めた頃だ。
子供が走り回り、酒が回り、笑い声が広場を満たしていく。
わたしは、その輪から少し離れた石段に座っていた。
誰にも言わずに抜けてきた。
――膝を抱えて、火を見ていた。
(……あの人は、今どこにいるんだろう)
監督のことだ。
名前も呼ばずに、ずっと「監督」としか呼んでこなかった人。
三十年この鉱山で働いて、五年間、脅されて嘘をつき続けた人。
解雇して、罪には問わず、娘は保護した。
あの判断が正しかったのか、まだ分からない。
(切るべきだった)
前世のわたしなら、そうした。
背任は背任だ。事情があっても、組織を守るためには処分が要る。
例外を作れば、次の裏切りは軽くなる。
(……でも、切れなかった)
そして、今日。
この賑やかな祭の中に、あの人はいない。
鉱夫たちは来ている。ヴィエラも、新しい監督も来ている。
でも、三十年この鉱山で働いた人は、ここにいない。
(本当にこれで、よかったのかな……)
膝に顎を乗せた時。
「……何をしておる、こんなところで」
声が降ってきた。
顔を上げると、ヴァルターが立っていた。
「……少し、疲れて」
「嘘が下手だ」
彼は容赦なく言って、わたしの隣に腰を下ろした。
大男が石段に座ると、それだけで場所がなくなる。
「鉱山の件は聞いた」
「……はい」
「情報を共有する約束だ。貴殿の交渉係が、律儀に知らせてきた」
ヴァルターは前を向いたまま言った。
「監督に、情けを掛けたようだな」
「はい」
「なぜだ」
わたしは、しばらく黙っていた。
それから、正直に答えた。
「……わかりません」
膝を抱えたまま、続ける。
「厳罰にするべきだと思ったんです。五年間、嘘をつかれて、鉱山の産出を落とされて、技術まで漏らされて。組織を守るなら、厳しく処分すべきだった」
火の粉が、夜の空へ上がっていく。
「でも、切りきれませんでした。あの人は娘を守っただけで、……もしわたしが同じ立場だったら、断れたか分からなくて」
わたしは俯いた。
「甘いんだと思います。……領主の娘として」
ヴァルターは、なにも言わなかった。
しばらく太鼓の音だけが響いていたが、やがて彼は口を開いた。
「わしも、似たようなことをやった」
――六年前だ、と。
ヴァルターは火を見つめたまま言った。
「うちの家中に、金を抜いておる者がおった」
わたしは彼を見上げた。
「事情があった。母親が長患いで、薬代が要ったのだそうだ。抜いた額も、大きくはなかった」
彼は淡々と続けた。
「わしは、切った」
その声には、感情がなかった。
「牢に入れ、家財を没収し、家族ごと領外へ追放した。……法の通りだ。誰も文句は言わんかった。むしろ、当然の処置だと」
ヴァルターは杯を握りしめていた。
「正しい判断だった。今でもそう思う」
そして。
「……その男には、七つの子がおった」
わたしは息を呑んだ。
「領外へ出て、どうなったかは知らん。調べもせんかった。……調べる資格がないと思ったのだ」
彼は苦く笑った。
「わしは正しくやった。誰も責めん。法も、家中の者も、領民も。……それでも、たまに夢に見る」
太鼓の音が、遠く聞こえる。
「だからな、娘御。わしには、貴殿の判断が正しいかどうかは言えん」
ヴァルターは、こちらを見た。
「わしは正しくやって、後悔しておる。貴殿は甘くやって、迷っておる。……どちらが良いかなど、誰にも分からんのだ」
「…………」
「正しさというものはな」
彼は呟くように言った。
「――あとから来るのだ」
わたしは顔を上げた。
「その時に正しかったかどうかは、その時には分からん。五年経って分かることもあれば、死ぬまで分からんこともあるだろう」
ヴァルターは肩をすくめた。
「だから、今悩んでも答えは出ん。無駄だ」
「……身も蓋もないです」
「事実だからな」
彼は杯を干して、それから広場を指差した。
「だが、一つだけ言えることがある。……あそこを見ろ」
わたしは、彼の指の先を見た。
父様が村人と肩を組んで歌っている。母様が呆れながら笑っている。
ヴィエラが娘たちに囲まれ、テオが村人に囲まれ、帳簿係の少年が真っ赤な顔で立ち尽くし、女中が全部を仕切っている。
鉱夫が、農夫が、街の職人が、同じ輪の中で踊っている。
「一年前、あれはなかったのだろう」
わたしは、頷いた。
なかった。
一年前、この街の祭は、記録上最低の予算で行われた。
村は疲弊し、鉱山は諦められ、屋敷は麻痺していた。
「貴殿が作ったのだ」
ヴァルターは、はっきりと言った。
「わしは、こういうことを言うのが苦手でな。だから一度しか言わんぞ」
彼は、わたしを見下ろして。
「よくやった」
ひと言だ。
たったひと言だったが、その言葉はわたしの喉の奥を詰まらせた。
「……それと」
だが彼は、さらに続ける。
「作った以上、守る義務がある。それだけは、間違いなく正しい」
ヴァルターは立ち上がった。
「迷うのは構わん。だが、迷ったまま前に進め」
彼は広場を見た。
わたしも倣って、広場に目を向ける。そこでは街の人たちが、心の底から楽しそうに、嬉しそうに騒いでいた。なんとも言えぬ、幸せな光景。
それをボンヤリと見つめていたわたしに、ヴァルターが言った。
「答えが出るのを待っておっては、あの光景が消えることになる」
「……はい」
肝に銘じた。
わたしはこの光景を忘れない。幸せを楽しむ人々の姿を忘れない。
これこそが、わたしが守るべき風景なのだから。
「あー! リーゼお嬢様ー! こんなところにいたんですか!?」
その時、坂の下からマーサが駆け上がってきた。
両手に食べ物を抱えている。どこで手に入れたのか、串焼きが六本。
「探しましたよ! ……あれ、ロンバルト様も」
「うむ」
「なんのお話ですか?」
「難しい話だ」
「じゃあ分かりません!」
マーサは即座に諦めて、わたしの隣にしゃがみ込んだ。
そして串焼きを差し出してくる。
「はい、リーゼお嬢様」
「ありがとう」
「ロンバルト様も」
「頂こう」
三人で並んで、串焼きを
しばらく誰も喋らなかった。
「あのー、リーゼお嬢様」
やがてマーサが口を開いた。
「さっきから難しい顔してましたけど。鉱山の人のことですか?」
「……うん」
「わたし、難しい話は分かりませんけど」
彼女は串焼きを頬張りながら、あっさりと言った。
「リーゼお嬢様が悩んでる時って、大体リーゼお嬢様が正しいです」
わたしは、彼女を見た。
「……なんで?」
「そりゃ、リーゼお嬢様ですから」
「理由になってない」
「なってます」
マーサは真顔で言い切った。
「だって、悪い人は悩まないですもん。執事長も、監督さんに薬を渡した人たちも、たぶん一回も悩んでないですよ」
――ぐ、と。
喉の奥で、何かが動いた。
「悩んでるってことは、リーゼお嬢様がちゃんと考えてるってことです。だから大丈夫です」
彼女は串焼きの最後の一切れを飲み込んで、にっこり笑った。
「はい、この話終わり! 元気が出るお茶飲みます?」
マーサが懐から水筒を取り出した。
――ヴァルターが、勢いよく立ち上がった。
「わしは戻る」
「あれ、ロンバルト様? まだお茶が」
「用事を思い出した」
「とても元気が出るお茶ですよ!」
「だから戻ると言っておる!」
大男が、逃げるように坂を下りていった。
わたしは思わず声を上げて笑った。
広場に戻ると、すぐに囲まれた。
「お嬢様! こっちで飲みましょう!」
「飲みませんよ、八歳です」
「じゃあ果実水で!」
北の村のオーレンに腕を引かれ、村人たちの輪に押し込まれる。
父様が「おお、リーゼ!」と手を振り、母様が乱れた髪を直してくれた。
「あ、おじょうさま」
テオが人垣の隙間から顔を出した。
「きょうの、やたい。さんじゅうはち」
「多いの?」
「じゅうねんで、いちばん」
彼は少しだけ口の端を上げた。
「ふえたの。おじょうさま、の、おかげ」
わたしは何も言えなくなって、ただ頷いた。
太鼓が鳴り、誰かが歌い、子供が走り回る。
(――守る)
答えは、出なかった。
あの判断が正しかったのかは、たぶん何年経ってもわからないだろう。
ヴァルターの言う通りだ。正しさは、あとから来る。
でも。
(この人たちを、守る)
それだけは、決まった。
祭が終わりかけた頃だった。
「――旦那様! 奥様!」
屋敷の使用人が、人混みをかき分けて走ってきた。
「王都から、早馬が!」
父様が振り返る。
母様が使用人の手から手紙を受け取り、封を切って――そして、顔を輝かせた。
「まあ……! あなた!」
母様の声が、喜びに震えていた。
「ユリウスが、帰ってくるそうよ!」
――広場が、どよめいた。
「若様が!?」
「五年ぶりじゃねえか!」
「もう十九におなりで?」
街の人たちが色めき立つ。
父様が母様の手から手紙をひったくって、何度も読み返している。
「ほ、本当だ。来月に一度戻ってくる、と。……レイア、部屋の掃除を」
「もちろんですわ! ああ、どうしましょう、何もかも整えないと」
両親が、子供のようにはしゃいでいる。
周りの人々も、口々に祝いの言葉をかけていた。
(――帰ってくる)
わたしだけが動けなかった。
賑やかな声が、どこか遠い。
「あ、そうだわ。リーゼ」
母様が振り返った。
「あなた宛てにも、来ているわよ」
差し出されたのは、もう一通の封書だった。
宛名に、見慣れない筆跡。
『リーゼ・ヴァンザール様』
「お兄様からね。……手紙、出したの?」
「……はい」
「まあ! そうだったの。嬉しいわ」
母様は本当に嬉しそうに笑った。
「読んであげましょうか?」
「いえ」
わたしは、思ったより強い声で答えてしまった。
母様がきょとんとする。
「……あとで、一人で読みます」
「あら、そう? ……ふふ、恥ずかしいのね」
母様は納得したように笑って、父様の方へ戻っていった。
わたしは、その封書を両手で握りしめた。
封蝋には、ヴァンザール家の紋章が押されている。
兄様も、同じ紋章を持っている。当たり前だ。家族なのだから。
(――読めない)
ここでは、読めない。
もし。
(もし、この中に、何か書いてあったら)
伯爵のこと。オーレリオのこと。あるいは、この領地をどうするつもりかが。
――そしてもし、兄様が向こう側なら。
その時、わたしはどんな顔をするだろう。
この広場で。父様と母様が、五年ぶりの息子の帰りを喜んでいる、この場所で。
(……顔に出る)
わたしは、まだ八歳だ。
どれだけ中身が四十を過ぎていても、この顔は八歳のものだ。
悲しめば、そう見える。
絶望すれば、そう見える。
父様も母様も、すぐに気づくだろう。娘の様子がおかしいと。
そして聞くだろう。どうしたのか、と。
その時、わたしは何と答える。
(――言えない)
だから、ここでは読めない。
わたしは手紙を懐にしまって、顔を上げた。
父様が笑い、母様が笑い、村人が踊り、テオが囲まれ、ヴィエラが窯を焚き、マーサが串焼きを配っている。
その光景を、わたしは焼き付けるように見つめた。
(――守る)
誰から、とは考えないようにしながらも。
わたしは決意したのだった。