幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
祭の翌朝は、静かだった。
広場の
わたしは書斎で、机の上の封書を見つめていた。
昨日から、何度も手に取っては置いていた。
(――読まなきゃ)
わたしはペーパーナイフを取って、封を切った。
『リーゼへ
手紙をありがとう。
正直に言うと、驚いた。君から手紙が来るとは思っていなかったから。
封を開けて、字を見て、しばらく信じられなかった。あんなに小さかった君が、こんなにしっかりした字を書くのだと。母上に教わったのだろうか。
こちらは変わりなくやっている。
学院は忙しいが、退屈ではない。学ぶことは多いし、良い友人もできた。
父上と母上が元気だと聞いて安心した。
父上が村へ出かけることが増えたというのは、少し心配でもある。あの方は人が好すぎるから、また誰かに何か頼まれて、断れずにいるのではないだろうか。
――ああ、こんなことを書くと、君は父上を悪く思うかもしれないな。
そうではないんだ。僕は父上を尊敬している。ただ、心配しているだけだ』
わたしは、ここまで読んで一度息を吐いた。
優しい人だ。
文章から、それがはっきり伝わってくる。
父様を庇いながら心配していて、しかも妹に誤解されないよう慌てて言い訳している。
『学院で、尊敬している方がいる。
僕を見出してくださった方だ。
その方はいつも仰る。血や家柄で人の価値が決まる時代は、もう終わると。
能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだと。
僕はこの言葉に救われた。
自分にも、できることがあるかもしれないと思えたんだ』
――手が、止まった。
(……え)
わたしは、その数行をもう一度読んだ。
能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだ。
(――それ、わたしが常々言ってることだ)
背中に冷たいものが走った。
だが、わたしは無理やり読み進めた。
『リーゼ。来月、そちらへ一度帰る。
父上と、話し合いたいことがある。
これからの家のこと、領地のことだ。難しい話になると思うが、必要なことだと思っている。
君は何も心配しなくていい。
僕が全部やる。君に苦労はさせない。
五年ぶりだね。君はもう八つか。
庭で花冠でも作って、待っていてくれ。
ユリウス』
わたしは、手紙を机に置いた。
しばらく、なにも考えなかった。
いや、正確に言えば考えてはいた。頭の一部が勝手に働いて、内容を整理していた。
――帰郷の目的は、当主交代の打診。
――「父上と話し合いたいことがある」。まず間違いない。
――領地の変化を、ある程度は知っている。だが不正確。
――情報源がある。ただし、詳細までは届いていない。
――「尊敬している方」。名は伏せている。無意識か、指示か。
――その人物の言葉を、そのまま引用している。思考が近づいている証拠。
全部、正しく意味を読めたと思う。だが、兄様が『あちら側であるか』については、やはりグレーのままだ。
最後に追伸があった。
『追伸。
領地で何か新しいことをしているらしいね。父上が村人に何か作らせているとか、街道を直したとか。
商人から聞いた話なので、どこまで本当かは分からないが。
……父上のご気性は分かっているつもりだ。またどなたかに乗せられているのでなければいいのだが。
帰ったら、僕がきちんと確かめる』
(――ああ)
わたしは、目を閉じた。
道のことも、石灰のことも、村の制度のことも。
全部、父様がやったことになっている。
そして『乗せられている』と疑われている。
(……そうだよね)
当たり前だ。
八歳の妹がやったなんて、誰が想像する。
わたしは手紙を折り畳んで、机の引き出しに入れた。
仕事に行こう。今日もやることは山ほどある。
「お嬢様、鉱山の報告です」
午前中、帳簿係の少年とヴィエラが書斎に来た。
「新しい坑道の掘削、始まりました。三本同時です」
ヴィエラが図面を広げる。
「深さがまだ浅いですが、鉱脈の様子は良いです。監督が絞っていた分、手つかずの層がそのまま残ってました」
「産出量の見込みは?」
「先月の倍は堅いかと。……三ヶ月後には、三倍を目指します」
わたしは頷いた。
「窯の方は?」
「七基、全部動いてます。ロンバルト領に二基、こちらで五基。あちらの職人も、もう自分たちで焼けます」
「上出来」
帳簿係の少年が紙を差し出した。
「返済の再計算です。この数字なら、期限の八ヶ月前には」
「八ヶ月? 半年じゃなくて?」
「はい。鉱山が戻れば、それだけ早まります」
わたしはその紙を受け取って、目を通した。
……通した、はずだった。
「お嬢様?」
「うん」
「あの、どこか間違ってますか」
「ううん。合ってる」
二人が下がっていった後。
わたしは、机の上の紙をもう一度手に取り。
(よそう……もう見ない方がいい)
仕事が上の空だった。
なにも頭に入ってこなかったのだ。
数字を見ていたはずなのに、何が書いてあったか思い出せない。
(いけないな、こんなことじゃ)
わたしは自分の頬を軽く叩いて、もう一度、最初から書類を読み直すことにした。
昼過ぎ、庭に出ると、母様が使用人たちに指示を出していた。
「ユリウスは綺麗好きだったから、部屋をよく掃除しておきましょう。ああ、ベッドのシーツは新しいものを。それと、あの子は本をよく読むから、卓上ランプの具合も確認しておいて」
上機嫌だった。
母様がこんなに張り切っているのを、久しぶりに見た。
「あら、リーゼ」
わたしに気づいて、母様が振り返る。
「あなたも何か手伝う? お兄様の好きだったものを覚えていないかしら」
わたしは、首を振った。
「……覚えていません」
「そうよねえ。あなたはまだ小さかったものね」
母様は笑って、それから懐かしそうに目を細めた。
「あの子、豆が嫌いだったのよ。十四になっても皿の端に寄せるものだから、お父様に叱られて」
その顔が、本当に嬉しそうで。
わたしは何も言えなかった。
「そういえばね」
母様が、ふと思い出したように言った。
「ユリウスが発つ日にね。あなた、庭で花冠を作っていたのよ」
――ぴくり、と。
指先が動いた。
「あの子が『行ってくる』って言っても、あなたったら夢中で顔も上げなくて。花を編むのに一生懸命で」
母様はころころと笑った。
「ユリウスったら、寂しそうな顔をしてね。何度も振り返って。……ふふ、あの子、それをずっと気にしていたみたい。手紙にも書いてきたわ。『リーゼは僕がいないのを寂しがっていないか』って」
わたしは庭の芝生を見ていた。
春の陽射しが、そこに落ちている。
五年前も、たぶん同じような日だったのだろう。
「……そう、ですか」
「あなたは覚えていないでしょうけど。三つだものね」
母様は使用人に呼ばれて、そちらへ行ってしまった。
わたしはその場に立ち尽くしていた。
(――そこが、最後なんだ)
兄様が知っている、妹の最後の姿。
庭で花冠を作っていて、顔も上げなかった三歳の子。
その姿を胸に抱えたまま、あの人は五年間、王都にいた。
午後、書斎で女中と打ち合わせをした。
「ユリウス様のお部屋は、念入りにお掃除させて頂きました。奥様のご指示です」
「うん」
「お迎えの馬車は、街道の分岐まで出しますか」
「出して。日程が分かったら教えて」
「かしこまりました。……それと、食事の献立ですが」
「厨房に任せます。庭師のおじいさんに聞いて」
「はい。それと、お迎えの馬車ですが」
「街道の分岐まで出して」
――女中の手が止まった。
「……お嬢様」
「うん?」
「今のは、先ほども伺いました」
わたしは口を閉じた。
書き取っていた紙を見る。確かに、同じことが二回書いてある。
「……ごめん」
「いえ」
女中は静かに紙を閉じた。
「お疲れですか、お嬢様」
「大丈夫」
「祭の準備で、ずっと動いておられましたから。……今日は早めにお休みになった方が」
「うん。ありがとう」
彼女は一礼して、部屋を出ていった。
扉が閉まる直前、少しだけ振り返ったのが分かった。
夕方。
テオが、記録を持って書斎に来た。
「まつりの、きろく」
彼は紙束を机に置いた。
「らいじょうしゃ、やくはっぴゃく。やたい、さんじゅうはち。しょうにんのばしゃ、じゅうろく。……つうこうりょうの、けいじょうは、あした」
「ありがとう」
わたしは紙を受け取った。
テオは、いつも通り無表情で立っている。
そして、こう言った。
「リーゼおじょうさま」
「なに?」
「かお、いつもとちがう」
――わたしは、顔を上げた。
「……分かる?」
「わかる」
テオは頷いた。
「ぜんぶ、おぼえてるから」
彼は少し目を伏せて、それから続けた。
「リーゼおじょうさまが、わらうとき。みぎのくちが、さきにあがる。ひだりは、すこしおくれる」
わたしは、思わず口元に手をやった。
「きょうは、あがってない。ずっと」
テオは、それだけ言った。
理由は聞かない。心配の言葉もない。
ただ、観察した結果を報告しただけだ。
「……そっか」
「うん」
彼は一礼して、部屋を出ていった。
一人になってから、わたしは自分の顔に触れた。
(――そんなに、出てるのか)
鏡を見なくても分かる。
朝からずっと、わたしは同じことを考えている。
仕事をしながら、指示を出しながら、数字を見ながら、ずっと。
夜。
わたしは書斎の椅子に座って、引き出しから手紙を取り出した。
もう一度、あの一行を読む。
『庭で花冠でも作って、待っていてくれ』
――花冠。
わたしは、目を閉じた。
(……覚えてる)
うっすらとだが記憶にある。
母様と庭に出て、花を摘んだ。白い小さな花だった。
茎を編もうとして、うまくいかなくて、何度も切れて。
泣きそうになって、母様に直してもらった。
できあがった冠を頭に載せて、嬉しくて、走り回った。
――あの子は、確かにいた。
(そして)
わたしは、目を開けた。
(去年の春に、いなくなった)
リネン棚の中で、あの子は消えた。
執事長とメイド長の会話を聞いて、帳簿の数字を読んで、前世が流れ込んできたあの瞬間に。
あの日、わたしは自分でこう思った。
――気づいてしまった以上、大人は子供に戻れない。これは不可逆なのだ、と。
あの時は、それを当たり前のこととして受け入れた。
むしろ好都合だと思っていた。この家を救うには、四十年分の記憶が必要だったから。
でも。
(――あの子は、どこに行ったんだろう)
わたしはあの子だ。
この体も、この名前も、この家族も、全部あの子のものだ。
同時に、わたしはあの子じゃない。
あの子は花冠が上手に作れなくて泣いた。
わたしは帳簿を読んで、人を切って、村を動かして、街道を舗装した。
(――兄様が守りたい妹は)
喉の奥が、詰まった。
(わたしが、消したんだ)
誰にも説明できない。
両親は、変わったわたしを受け入れてくれた。理由は分からないまま、それでも信じてくれた。
使用人たちは、変わった後のわたししか知らない。
でも兄様は違う。
あの人が知っているのは、変わる前の妹だけだ。
そして、その妹に会いに帰ってくる。
(会ったら、どうなる)
答えは簡単に想像がついた。
兄様は驚く。妹が別人のようになっていることに。
そして問うだろう。「何があった」と。
わたしは答えられない。
前世の記憶がある、なんて言えるわけがない。
言ったところで、信じてもらえるはずもない。
だから兄様の目には、こう映る。
――五年で、得体の知れない何かになった妹。
(……嫌だ)
わたしは、机に額をつけた。
(会いたくない)
先日、わたしは手紙にこう書いた。「いつか、会いたいです」と。
あれは本心だった。計算じゃなかった。
でも今は違う。
(会ったら、壊れる)
あの人の中にある、庭で花冠を作っている妹が。
五年間、あの人はその子を守ろうとしてきたのではないか。その子のために、家を立て直そうとしてきたのではないか。
その子は、もういないのに。
(――知らないままの方が、いい)
もちろんこれは、兄様が『あちら』に与していないときの話だ。
兄様が敵なら気にするのも詮無いこと。
(だけど)
なんとなくだが、感じるのだ。
あの人は、手紙に本音を書いているのだろう、と。
筆跡から、内容から、人柄の良さが感じられる。
わたしのように、打算と探りで手紙を書いてなどいない。
ああ、たぶん。とても純粋な人だ。
わたしは、もう一度手紙を開いた。
そして、別の場所に目を落とした。
『学院で、尊敬している方がいる。
僕を見出してくださった方だ。
その方はいつも仰る。血や家柄で人の価値が決まる時代は、もう終わると。
能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだと』
――この数行が、朝からずっと引っかかっている。
(尊敬している方)
名前は書かれていない。
だが、心当たりは一つしかなかった。
わたしは、この春を思い出した。
ヴァルター・ロンバルト男爵が馬に乗って帰る間際、思い出したように言った言葉を。
――貴殿の兄も、そのうちの一人だと。
オーレリオ・グラウスト。
二十歳そこそこ。伯爵家の嫡男。学院で人が集まり、理想を語り、慕う者が多いという男。
うちの家を潰そうとしている家の、跡取り。
その信奉者の一人だ、と。
(――この言葉は、オーレリオのものだ)
兄様は『尊敬している方』としか書いていない。
だが、その人物の言葉を、そのまま引用している。自分の言葉のように。
背中に、じわりと汗が滲んだ。
わたしは、去年の広間を思い出していた。
屋敷の使用人を全員集めて、配置を組み替えた日。
帳簿係を交渉に回し、下働きの少年を帳簿係にして、古株の女中を責任者にした。
あの時、わたしはこう言った。
――みんなを、合う場所に置き直しただけ。
鉱山でも同じだった。
女だからと半人前扱いされていたヴィエラを、事業の責任者にした。
北の村でも。
誰にも聞かれなかったテオの言葉を、聞いた。
(――全部、同じことを言ってる)
能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだ。
わたしの信条だ。前世からずっと持ってきた、たった一つの芯だ。
それを、オーレリオも言っている。
(――なんで)
わたしは椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
(同じことを言ってるのに、なんでこんなに違うんだろう)
いや。
本当に、違うのか?
わたしは執事長を追い出した。メイド長も。鉱山の監督も切った。
適材適所という名目で、人を動かし、配置を変え、いらないと判断した人間を外した。
オーレリオも、能力のある者を集めている。
無能な当主が家を潰すくらいなら、能力のある跡取りが取って代わるべきだと。兄様の話をかみ砕くと、そういうことを言っている。
――そして兄様は、それに救われたと書いていた。
(どこが、違う?)
喉が、渇いた。
言葉だけを並べれば、わたしとオーレリオは同じことを言っている。
どちらも、生まれではなく能力で人を測るべきだと言っている。
なのに、あの人の家がやっているのは、他家を食い物にすることだ。
(――わたしは)
わたしは、机の上で拳を握った。
(わたしは、正しいのかな)
その時、扉が開いた。
「リーゼお嬢様ー、夜食持ってきましたよー」
マーサだった。
盆の上に、パンとスープが載っている。
湯気が立っていた。
「……まだ起きてたの」
「リーゼお嬢様が起きてるので」
彼女は当たり前のように言って、机の上に器を置いた。
「厨房のおじいちゃんが、リーゼお嬢様が夕飯ほとんど食べてないって心配してました」
「……そう」
「あと、女中さんも。テオさんも。ヴィエラさんも」
マーサは指を折った。
「みんな心配してますよ。でも誰も聞きに行かないので、わたしが来ました」
「聞きに来たの?」
「いえ。夜食を持ってきただけです」
彼女はにこにこと笑った。
「聞きませんよ。リーゼお嬢様が言いたくない時は、言いたくないんですから」
わたしは、スプーンを取った。
スープは、豆と麦のありふれたものだった。
温かかった。
しばらく、黙って食べた。
マーサは何も言わずに、机の横に立っていた。
いつもならぺちゃくちゃ喋るのに、今日は黙っている。
――気を遣われている。
それが分かって、わたしはますます何も言えなくなった。
でも。
半分ほど食べたところで、わたしは思わず口を開いていた。
「マーサ。ひとつ聞きたいんだけど」
「はい」
「……わたし、変わった?」
彼女がきょとんとした。
「はい?」
「去年の春から。……前と、違う?」
自分でも、なんでこんなことを聞いたのか分からなかった。
マーサはしばらく首を傾げていたが、やがて、あっさりと答えた。
「違いますよ。全然」
――胸の奥が、ずしりと重くなった。
「そう」
「はい」
彼女は、指を折りながら続けた。
「前のリーゼお嬢様は、もっと泣いてました。転んだら泣くし、怒られても泣くし。それでお菓子をあげると泣き止むんです」
「…………」
「あと、よく笑ってました。なんでもないことで、ずっとけらけら笑ってて。わたしが変な顔をするだけで転げ回ってました」
マーサは、少し懐かしそうに目を細めた。
「花冠が上手に作れないって、一時間泣いてたこともあります。あの時は困りました」
わたしは、俯いた。
やっぱりそうだ。
あの子は、そういう子だった。
そして今のわたしは、そのどれでもない。
「……そっか」
「はい」
わたしはスプーンを置いた。
食欲が、なくなっていた。
「――でも」
その時、マーサが言った。
「同じところもありますよ」
わたしは顔を上げた。
「え?」
「あの日。リネン棚から出てきた時のリーゼお嬢様、目が怖かったです」
彼女は、あっけらかんと言った。
「あんな顔、見たことなかったです。全然知らない人が出てきたと思いました。……正直、ちょっと怖かったです」
――そうだろうな、と思った。
実際、そうだったのだから。
「でも」
マーサは首を傾げた。
「その後すぐ、『マーサ』って呼んでくれました」
わたしは、まばたきをした。
「……は?」
「わたしの名前です。いつもと同じ声で、『マーサ』って」
彼女はにこりと笑った。
「それで、思ったんです。ああ、リーゼお嬢様だ、って」
――何かが、喉に詰まった。
「目つきは変わってて、難しい言葉を喋ってて、なんか怖かったですけど。でも、わたしを呼ぶ声だけは、いつも通りでした」
マーサは、不思議そうに続けた。
「なんでですかね。全然違う顔してたのに、すぐ分かったんです」
彼女は器を下げようとして、それから思い出したように付け加えた。
「あ、でも、そのあとすぐ『二人を探れ』とか言われた時は、さすがにびっくりしました。この人誰!? って」
「……ごめん」
「いえ、慣れました」
マーサは笑った。
そして、盆を持って扉に向かいながら、こう言った。
「目が怖くても、難しいこと言っても、リーゼお嬢様はリーゼお嬢様ですよ」
――扉が閉まった。
わたしは、しばらく動けなかった。
やがて、机に突っ伏した。
目の奥が、熱い。
(一人、いた)
変わる前を知っていて、変わった後も知っている人。
両方を見ていて、それでも同じだと言ってくれる人。
証明はできない。理屈でもない。
ただ、名前を呼ぶ声が同じだった。それだけの理由で、あの子はわたしを見分けた。
(……そんなことで)
わたしは、声を殺して笑った。
笑いながら、少し泣いた。
しばらくして、わたしは顔を上げた。
机の上には、手紙が広げたままになっている。
『庭で花冠でも作って、待っていてくれ』
わたしは、その一行をもう一度読んだ。
(――会いたくない)
その気持ちは、消えていない。
会えば、兄様は気づく。妹が変わってしまったことに。
説明はできない。理解もされないかもしれない。
だけど。
(――会おう)
わたしは、手紙を折り畳んだ。
説明できないなら、しなくていい。
記憶を共有できないなら、それでいい。
この一年で作ったものは、全部ここにある。
街に人が戻った。村の畑が実った。鉱山が動き出した。冬に道が通った。
そして、その全部に関わった人たちが、この屋敷にいる。
(――見せればいい)
言葉じゃなく、成果を。
それでも兄様が「変わってしまった」と言うなら、その時はその時だ。
わたしは立ち上がって、窓を開けた。
夜風が入ってくる。春の終わりの、少し湿った風。
東の空に、星が出ていた。
(あと何日だろう)
兄様が帰ってくる。
――そしてたぶん、父様に当主を退くよう言う。
その時、わたしは何をするのか。
まだ決めていない。決められない。
だが一つだけ、はっきりしていることがあった。
(――あの人も、この家を守りたいんだ)
手紙を読めば分かる。あの人は本気だ。
方法が違うだけで、目的は同じだ。
(だったら)
わたしは、窓の外を見上げた。
(話は、できるはずだ)
その考えが甘いことも、わたしは知っていた。
だけど。
それでも、話してみよう。
そう思えた。