幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります   作:ユズナミキ

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ユリウスの帰郷

 兄様が帰ってきたのは、五月の終わりだった。

 

 街道の分岐まで馬車を出し、屋敷の玄関前には使用人が総出で並んだ。

 父様は朝から落ち着かず、母様は三度も髪を直していた。

 

 わたしは、その後ろに立っていた。

 ――車輪の音が近づいてくる。

 門をくぐった馬車が停まり、扉が開いた。

 

「――ユリウス!」

 

 母様が、真っ先に駆け出した。

 降りてきた青年は、母様に抱きつかれて一瞬よろめき、それから両腕でその背を支えた。

 

「母上。……ただいま戻りました」

「まあ、まあ、大きくなって! こんなに背が!」

「五年経ちましたから」

 

 彼は困ったように笑った。

 

 ――兄様。

 ユリウス・ヴァンザール。

 

 背は父様に似て高い。だが顔立ちは母様に似ていた。焦げ茶の髪と、柔らかい目元。

 学院の制服らしい、仕立ての良い外套を羽織っている。

 少年ではなかった。もう、青年の顔をしていた。

 

「父上」

「……ユリウス」

 

 父様が一歩前に出て、それから言葉に詰まった。

 何か言おうとして、口を開いて、閉じて。

 結局、両手で息子の肩を掴んだ。

 

「よく、戻った」

「はい」

 

 父様の目が赤い。

 兄様も、少しだけ目を伏せた。

 その後ろで使用人たちが一斉に頭を下げる。

 

「お帰りなさいませ、ユリウス様」

 

 ――そして。

 兄様の視線が動き、わたしのところで止まった。

 

「……リーゼ?」

 

 彼は目を丸くした。

 そしてゆっくりと近づいてきて、わたしの前でしゃがみ込んだ。

 目線が、同じ高さになる。

 

「大きくなったな」

 

 声が、優しかった。

 兄様は手を伸ばして、わたしの頭を撫でた。

 その手は大きくて、少しぎこちなかった。

 

「……おかえりなさい」

 

 わたしは、それだけ言った。

 他に何も言えなかった。

 

「手紙、ありがとう」

 

 兄様が笑った。

 

「嬉しかった。……本当に」

 

 その夜の食卓は、賑やかだった。

 母様が朝から張り切って用意させた料理が並び、庭師の老人が腕を振るった。

 父様は上機嫌で、何度も息子に酒を勧めては母様に止められている。

 

「学院はどうだ。厳しいか」

「厳しいですが、面白いです。特に法制と税制は」

「税制! お前、そんなものが面白いのか」

「父上には向かないでしょうね」

「うむ、向かん」

 

 父様が正直に頷いて、皆が笑った。

 

 兄様は話し方が丁寧だった。

 父様にも母様にも敬語を崩さない。母様の他愛のない話に相槌を打ち、父様の冗談に付き合い、時折こちらにも気を配る。

 

「リーゼ。それは食べられるか」

「はい」

「無理はするな。豆は残していい。僕もそうしていた」

「あら、ユリウス」

 

 母様が目を細める。

 

「あなた、まだ豆が嫌いなの」

「……克服しました。学院では選べませんでしたから」

「まあ」

 

 笑い声が上がる。

 

(――いい人だ)

 

 わたしは、黙って食べながら思った。

 手紙から想像していた通りだ。優しくて、気配りができて、家族を大事にしている。

 ただ。

 

(……時々)

 

 兄様が父様を見る時。

 一瞬だけ、その表情が硬くなる。

 すぐに笑顔に戻るので、たぶん誰も気づいていない。

 

 だが、確かにあった。

 

 父様が「なんとかなる」と言うたびに。

 父様が村の話を嬉しそうにするたびに。

 兄様の目の奥に、なにかが沈む。

 

「そういえば、リーゼ」

 

 食事が終わりかけた頃、兄様がこちらを向いた。

 

「君は普段、何をしているんだ?」

 

 ――手が止まった。

 正直に答えるなら、こうなる。

 帳簿を読んで、鉱山と村と街道を見て、事業の予算を決めて、人の配置を考えています。

 

 言えるはずがない。

 

「この子はね」

 

 母様が、代わりに答えてくれた。

 

「しっかりしているのよ。お父様のお手伝いをしているの」

「手伝い?」

「ええ。書類を見たり、村へついて行ったり」

 

 兄様が微笑んだ。

 

「そうか。偉いな」

 

 その笑顔は、完全に――子供の遊びを聞いている大人のものだった。

 

「でも、あまり無理はするなよ。まだ八つなんだから」

「……はい」

 

 わたしは俯いた。

 父様が何か言いかけて、母様に袖を引かれて口を閉じた。

 食後、廊下でマーサに呼び止められた。

 

「リーゼお嬢様。ちょっと」

 

 彼女は、いつになく声をひそめていた。

 

「なに?」

「ユリウス様と一緒に来た人たち。……変です」

 

 兄様は一人ではなかった。

 学院からの長旅ということで、二人の従者がついてきている。

 

 どちらも二十代半ばくらいの男で、物腰は丁寧だった。荷物を運び、馬の世話をし、必要以上に喋らない。

 ――普通の従者に見えた。

 

「どう変なの?」

「歩き方が同じなんです。二人とも」

「同じ?」

 

 マーサは眉を寄せて、言葉を探した。

 

「なんて言えばいいのか……足の運びとか、体の向きとか。人がいる方に、いつも半身を向けてるんです。それに、階段を下りる時に音がしない」

 

 彼女は自分の足元を見た。

 

「あれたぶん、訓練を受けた人の動きです」

「マーサ。どうしてそれが分かるの」

「……あれ?」

 

 彼女がきょとんとする。

 

「なんでですかね。見たら分かったんですけど」

 

 いつものことだ。

 この子はいつも、なぜ分かるのか分からないまま、正確に見抜く。

 

(――監視か)

 

 兄様についてきたのではない。

 兄様を見張るために来ている。あるいは、この屋敷を見に来ている。

 その両方かもしれない。

 

「マーサ。その二人から目を離さないで」

「はい!」

「でも、近づかないで。絶対に」

「……はい」

 

 彼女は珍しく、真剣な顔で頷いた。

 

 翌朝、兄様は屋敷の中を歩き回っていた。

 五年ぶりの家を、懐かしんでいるようだった。

 庭を眺め、書斎を覗き、廊下を歩く。

 

 だが、途中から様子が変わった。

 

「……父上。執事長はどうしました」

 

 朝食の席で、兄様が尋ねた。

 父様の顔が曇る。

 

「あれは、去年追い出した」

「追い出した?」

「横領しておったのだ。……四年ほど、気づかずにおった」

 

 父様は正直に言った。

 

「実に恥ずかしい話だが」

 

 ――兄様の表情が、消えた。

 

「四年」

「うむ」

「四年間、気づかなかったのですか」

「……面目ない」

 

 兄様は何も言わなかった。

 だがわたしには、その沈黙が何を意味するか分かった。

 

(――やっぱり、と思ってる)

 

 彼の中で、判断が固まっていく音が聞こえるようだった。

 この家は危うい。父は無能だ。四年も横領に気づかない当主に、領地は任せられない。

 だから、自分が。

 

 昼過ぎ、兄様が父様を書斎に呼んだ。

 母様も同席した。

 そしてわたしも、断られなかったので入った。

 

 兄様は、机を挟んで父様の向かいに座った。

 背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。

 

「父上。折り入って、お話があります」

 

 その声には覚悟が滲んでいた。

 

「なんだ」

「この家の、これからについてです」

 

 ――始まった。

 わたしは、部屋の隅で息を詰めた。

 

「まず確認させてください」

 

 兄様は、指を折るように話し始めた。

 

「五年前、この家はグラウスト伯爵家から融資を受けています。返済は、進んでいるのですか」

「……ああ、それは」

「進んでいないはずです」

 

 兄様は、父様の答えを待たなかった。

 

「あの規模の融資です。この領地の収入では、利子を払うだけで精一杯のはずだ。……違いますか」

 

 父様が口を開きかけて、閉じた。

 

「そして執事長の横領。四年間です。その間に流出した額は、相当なものでしょう」

 

 兄様の声は冷静だった。

 

「村の疲弊も聞いています。鉱山の産出量も落ちていると。……父上、この家はもう、限界です」

 

 母様が、震える手で口元を押さえた。

 

「ユリウス、あなた、何を」

「母上。事実を申し上げているだけです」

 

 兄様は母様に頭を下げた。

 

「僕は父上を責めているのではありません」

 

 そして父様に向き直る。

 

「父上のご人徳は、僕が誰よりも知っています。領民の名を全て覚え、困っている者を放っておけない。そういう方だと」

 

 彼の声が、少しだけ震えた。

 

「子供の頃、街の子が熱を出したと聞いて、夜中に薬を持って走る父上を見ました。……あれを、僕は今でも覚えています」

 

 父様が息を呑んだ。

 

「僕は、あの背中を尊敬しています。本当です」

 

 ――だが。

 

「善良さだけでは、領地は回りません」

 

 兄様は、はっきりと言った。

 

「数字が読めて、人を切れて、必要なら憎まれる覚悟のある人間が要る。……父上には、それができない」

 

 父様は何も言わなかった。

 

「僕にやらせてください」

 

 兄様は深く頭を下げた。

 

「当主の座を、譲っていただきたい」

 

 部屋が静まり返った。

 母様が「そんな」と呟き、父様は目を閉じていた。

 

 わたしは動けなかった。

 ――来る、と分かっていた。

 手紙を読んだ時から、分かっていた。

 

 なのに、いざ言われると、体が固まった。

 

「……ユリウス」

 

 やがて、父様が口を開いた。

 その声は意外なほど静かだった。

 

「お前の言う通りだ」

 

 兄様が顔を上げる。

 

「私は、数字が読めん。利子だの担保だのと言われても、さっぱり分からん。……四年間、執事長に食い物にされておったことにも気づかなかった」

 

 父様は自嘲するでもなく、淡々と言った。

 

「無能だ。それは間違いない」

「あなた、そんな言い方」

「事実だ、レイア」

 

 父様は首を振った。

 

「私は、この家をここまで傾けた。それは私の責任だ」

 

 兄様が、少し安堵したような顔をした。

 

「では」

「だが待ってくれ」

 

 父様が、そう言った。

 

「今のこの家は、お前が思っておるような状態ではない」

 

 眉をひそめる兄様。

 

「どういう意味です」

「この一年で、変わったのだ」

 

 父様は机の上で手を組んだ。

 

「街道を舗装した。冬でも荷が通る。鉱山では新しい事業を始めた。村には新しい仕組みを入れた。……返済も、目処が立っておる」

 

 ――兄様の目が細くなった。

 

「……街道の話は、僕も聞きました」

 

 彼は慎重に言った。

 

「石灰とやらも。商人の噂で」

 

 そして。

 

「父上。失礼を承知で申し上げます」

 

 兄様の声が低くなった。

 

「どなたかに、乗せられているのではありませんか」

 

 父様が目を見開いた。

 

「五年前も、そうでした。グラウスト伯爵家からの融資は有り難い話だった。だが結果として、この家は借金を背負った」

 

 兄様は身を乗り出した。

 

「父上は、人を疑わない。だから、うまい話を持ちかけられれば乗ってしまう。……今度は、誰が持ちかけてきたのです」

 

 彼はまっすぐに父様を見た。

 

「誰が、そんな話を父上に吹き込んだのですか」

 

 父様が答えようとする。しかし。

 ――その前に、わたしは立ち上がっていた。

 

「わたしです」

 

 部屋の全員が、こちらを見た。

 兄様が振り返る。

 

 そして。

 優しく笑った。

 

「リーゼ」

 

 彼は席を立ち、わたしに近づいてきた。

 そしてしゃがみ、目線を合わせようとした。

 

「今、大人の話をしているんだ。……あとで遊ぼう。庭で花冠を作ろうか。僕も手伝うよ」

 

 ――ああ。

 わたしは思った。

 この人には、聞こえていない。

 

 わたしが何を言ったか、耳には入ったはずだ。だが、認識されていない。

 八歳の妹が発した音として、処理されている。

 

(――そうだよね)

 

 仕方ない。当たり前だ。

 わたしが同じ立場でも、そうする。

 だから。

 

「……少し、失礼します」

 

 わたしは部屋を出た。

 

 背後で兄様が、「あれ?」という顔をしたのが分かった。

 書斎に戻ってきた時、わたしは両手で書類を抱えていた。

 持てるだけ持った。重かった。何度か落としそうになった。

 部屋に入ると、全員が振り返る。

 

「リーゼ、何を――」

 

 兄様の声を気にせずに、わたしは机の上にそれを置いた。

 どさり、と。

 

「これが、去年からの帳簿です」

 

 兄様が困惑した顔をする。

 

「リーゼ。だから、今は」

「読んでください」

 

 わたしは書類の山から一冊ずつ抜き出しながら、淡々と続けた。

 

「そちらが、鉱山の産出量の推移。過去五年分と、直近三ヶ月分」

 

 一冊。

 

「これが石灰事業の収支。原価、生産量、卸値、販売先ごとの取引量」

 

 二冊目。

 

「これが街道の通行記録と、通行料の集計。日別、月別」

 

 三冊目。

 

「これが、四つの村の年貢の徴収記録と、村側の控えとの照合表。去年の秋から始めました」

 

 四冊目。

 

 兄様は口を半分開けたまま、机の上を見ていた。

 

「そして」

 

 わたしは最後に、一枚の紙を差し出した。

 

「これが、返済計画です」

 

 彼がそれを受け取った。

 

「五年前の融資は、期限の八ヶ月前に完済できます」

 

 ――部屋が静まり返った。

 兄様はその紙を見つめていた。

 しばらく動かなかった。

 

 やがて、その目が数字を追い始める。

 この人は学院で学んでいる。優秀な学生だと、オーレリオが言うほどに。

 だから、読める。

 ――読めるからこそ、理解してしまう。

 

「……これは」

 

 兄様の顔から、血の気が引いていく。

 

「収入が、一年前の三倍になっている」

「はい」

「鉱山の産出が、倍……いや、これから三倍に?」

「監督が意図的に絞っていました。それを戻しただけです」

「街道の通行料。……こんな項目、うちにはなかったはずだ」

「去年、作りました」

 

 兄様が顔を上げた。

 

「誰が」

「わたしが」

 

 彼はわたしを見た。

 ――初めて、本当に初めて、わたしを見た。

 八歳の少女。背が机に届かない。声も高い。手も小さい。

 だが。

 

「……嘘だ」

 

 掠れた声を絞り出すように、兄様。

 

「そんなわけがない。君は八つだ」

「はい」

「三つだった君が、五年で……いや、この一年で、これを?」

「はい」

 

 兄様が首を振った。

 

「誰かがやったんだろう。父上か、それとも新しい家令か」

「父様は帳簿が読めません」

「では家令が」

「家令はいません」

「では誰が――」

 

 その時。

 ――扉が開いた。

 

「失礼しまーす!」

 

 勢いよく入ってきたのは、マーサだった。

 全員が振り返る。

 

「あの、その、ええと」

 

 彼女は入ってきた勢いのまま、少し口ごもった。

 ――そしてその後ろから、次々と人が入ってくる。

 

 実務責任者の女中。

 帳簿係の少年。

 交渉係の男。

 ヴィエラ。

 テオ。

 

「マーサ、これは?」

 

 わたしが驚いて言うと、彼女はぐっと胸を張った。

 

「聞こえたので!」

「……聞こえた?」

「扉の外で、聞き耳を立ててました!」

 

 堂々と言い切った。

 母様が「まあ」と口を押さえる。

 

「そしたら、ユリウス様がリーゼお嬢様のことを分かってなさそうだったので、みんなを呼んできました!」

 

 彼女は、後ろの面々を親指で示した。

 

「わたしが説明しても頭が悪いのでうまく言えないと思ったので、詳しい人たちを連れてきました!」

 

 ――それは。

 わたしは頭を抱えたくなった。同時に、少しだけ笑いそうになりながら、彼女の顔を見る。

 

「マーサ、あなたね」

「はい?」

「……ありがとう」

「はい!」

 

 女中が、一歩前に出た。

 そして深く一礼する。

 

「ユリウス様。差し出がましいことと存じますが、申し上げたいことがございます」

 

 兄様が戸惑った顔で頷いた。

 

「……どうぞ」

 

 女中は背筋を伸ばした。

 

「わたくしは昨年まで、ただの女中でございました」

 

 彼女は、まっすぐに前を見ていた。

 

「二十年、この屋敷で床を磨き、洗濯をしてまいりました。それ以上のことは、望んだこともございません」

 

 そして。

 

「今は、この屋敷の実務頭を任されております」

 

 女中の声が少しだけ震えた。

 

「お嬢様に、そう命じられましたので」

 

 次に帳簿係の少年が前に出た。

 まだ十六の少年は、緊張で真っ赤になっている。

 

「あ、あの。僕は、去年まで薪を割っていました」

 

 声が裏返った。

 

「下働きで、掃除と薪割りしかしてなくて。字は書けましたけど、それだけで」

 

 彼は深く息を吸い。

 

「お嬢様が、僕の書いた注文書を見て、計算が合ってるって言ってくださったんです」

 

 ――机の上の帳簿を指した。

 

「それ全部、僕が付けました」

 

 交渉係の男が続いた。

 

「私はこの屋敷で五年、帳簿を付けておりました」

 

 落ち着いた声だった。

 

「向いていないとは思っておりました。数字を見ていると気が滅入る。しかし他にできることもなく、そのまま五年」

 

 彼は苦笑した。

 

「お嬢様が、こう仰いました。『あなたは数字が得意なんじゃない。人と話すのが得意なの』と」

 

 そして。

 

「今は取引を任されております。石灰の販路も、街道の契約も、私がまとめました」

 

 ヴィエラが腕を組んだまま言った。

 

「わたしは鉱山の窯番でした」

 

 彼女の声は、はっきりしていた。

 

「五年間、火の番だけをしていました。掘る力がないから半人前だと言われて、嫁に行けと言われ続けて」

 

 彼女は自分の手を見た。火傷の痕が残る手を。

 

「お嬢様は、わたしに屑石を焼けと仰いました。誰も使い道を知らない、捨ててあった石です。あなたにしか出来ない、と」

 

 そして顔を上げた。

 

「今は、七つの窯を任されています」

 

 テオが前に出た。

 

 彼は少しの間、言葉を探していた。

 全員が待つ中で。

 

「ぼくは」

 

 やがて彼は言った。

 

「むらで、へんなやつでした」

 

 抑揚のない声だった。

 

「はなしが、へた。だから、だれも、きかなかった。……はちねん、だれとも、はなさなかった」

 

 彼は指先で石を回しながら。

 

「リーゼおじょうさまが、きいてくれました」

 

 そして。

 

「『ふくろか、たるか』って、きいてくれた。それだけで、ぜんぶ、はなせた」

 

 テオは、机の上の書類を指した。

 

「あの、むらのきろく。ぼくが、かきました」

 

 最後にマーサが手を挙げた。

 

「わたしは、ただのメイドです!」

 

 やけに元気な声だった。

 

「今、リーゼお嬢様の護衛もしていますが、それでもただのメイドです。掃除して、お茶を淹れて、荷物を運んでます」

 

 彼女はニコニコと笑った。

 

「難しいことは、何も分かりません」

 

 そして胸を張った。

 

「でも、リーゼお嬢様の護衛。それだけは誰にも譲りません」

 

 最後に、女中が兄様の方を向く。

 

「ユリウス様」

 

 女中は深く頭を下げた。

 

「この一年、この家が変わったのは、お嬢様がいらしたからでございます」

 

 そして。

 

「わたくしどもは、全員、お嬢様に救われた者でございます」

 

 ――部屋が静まり返った。

 兄様は立ち尽くしていた。

 

 六人の顔を、一人ずつ見ている。

 その視線が机の上の書類に落ちた。

 

 ――と、その時だった。

 

『ステータスアイ、起動』

 

 頭の中に、無機質な声が響いた。

 

(――今?)

 

 そして、目を疑った。

 ピコン、ピコン、ピコン。

 一人ではない。

 部屋に入って来た全員の頭上に、光る枠が次々と浮かび上がっていく。

 

【対象:女中】【潜在限界値:SSR(統率偏重)】【現在到達度:七割】

【対象:帳簿係】【潜在限界値:SSR(計算偏重)】【現在到達度:六割】

【対象:交渉係】【潜在限界値:SSR(交渉偏重)】【現在到達度:八割】

【対象:ヴィエラ・ドルン】【潜在限界値:SSR(火・素材加工偏重)】【現在到達度:七割】

【対象:テオ】【潜在限界値:SSR(記憶・観察偏重)】【現在到達度:五割】

【対象:マーサ】【潜在限界値:SSR(武力偏重)】【現在到達度:三割】

 

(――上がってる)

 

 わたしは、息を呑んだ。

 女中の光る枠を見たのは、去年の春だ。あの時は、まだ到達度という項目がなかった。

 

 あの頃、彼女は二十年間ずっと床を磨いていた。統率の才能を持ちながら、それを使う機会が一度もなかった。

 もし当時の数値が見えていたら、たぶん一割か二割だったはずだ。

 それが、七割。

 

(一年で)

 

 テオは五割。八年間、誰にも聞かれなかった記憶の力が、今は帳簿になり、記録になり、報告になっている。

 ヴィエラは七割。窯番から事業責任者へ。

 交渉係は八割。五年間、数字の前に座らされていた人が、今は他領の商会と契約をまとめている。

 帳簿係の少年は六割。まだ十六だ。伸びしろしかない。

 

 そしてマーサは、三割。

 

(――二割から、増えてる)

 

 冬の坂で見た時は二割だった。

 あれから半年で、一割上がっている。

 

(この子、まだ伸びるんだ)

 

 ――そこで、ふと思った。

 

(わたしは、どのくらいなんだろう)

 

 六人の頭上に並ぶ数字を見ていて、自然に浮かんだ疑問だった。

 だが、答えは既に知っている。

 一度だけ、試したことがある。去年の秋、書斎の鏡の前で。

 自分の頭の上に、何か浮かばないかと思って。

 

 ――なにも出なかった。

 声も響かなかった。枠も浮かばなかった。

 鏡に映っていたのは、目つきの悪い当時七歳の顔だけ。

 

(この目は、自分には向かないんだ)

 

 少し考えて、それからやめた。

 

(……まあ、いいか)

 

 自分がどれだけ持っているかなんて、知ったところで何も変わらない。

 やることは同じだ。目の前に問題があって、それを解ける人がいるなら、そこに置く。それだけ。

 

 わたしは部屋にいる全員を見回した。

 一年前、この人たちの誰一人として、自分の能力を使えていなかった。

 誰も見ていなかった。誰も聞かなかった。誰も機会を与えなかった。

 

 それを見た。

 わたしがやったのは、それだけだ。

 場所を変えた。話を聞いた。仕事を渡した。

 

(それだけで――こんなに、変わるものなんだ)

 

 数字がそう言っている。

 喉の奥が、熱くなった。

 

 わたしは、この目に何度も助けられてきた。

 埋もれた才能を教えてくれた。誰を信じればいいかを示してくれた。

 だが、今この瞬間ほど、この目を持っていてよかったと思ったことはなかった。

 

 だって証明されている。

 この一年が無駄じゃなかったことが。

 数字で、はっきりと。

 

(……ありがとう)

 

 誰にともなく、そう思った。

 そして光る枠から目を離した。

 

 ――兄様は、まだ立ち尽くしていた。

 その視線が、机の上の書類から離れ、六人の顔を辿り。

 そして最後に。

 わたしを見た。

 

「……リーゼ」

 

 兄様の声は掠れていた。

 

「君は、いつから」

 

 わたしは、答えられなかった。

 言えるはずがない。前世の記憶があるなどと。

 中身は四十を過ぎた大人だ、などと。

 だから。

 

「……去年の春から、です」

 

 それだけ言った。

 兄様が、ゆっくりと椅子に座り込んだ。

 そして両手で顔を覆う。

 

「……そうか」

 

 その声が、震えていた。

 母様が心配そうに息子を見ている。父様も、何と言えばいいのか分からない顔をしている。

 

 わたしも、分からなかった。

 この人が今、何を思っているのか。

 ――だが。

 

(……喜んでいない)

 

 それだけは、はっきり分かった。

 

 普通なら、喜ぶはずだ。

 家は立ち直った。返済の目処も立った。彼が五年間、王都で心配し続けたことが、全部解決している。

 目的は達成されている。

 

 なのに、兄様は喜んでいない。

 顔を覆った指の隙間から、荒い呼吸が漏れている。

 肩が、小刻みに震えている。

 

(――なんで)

 

 やがて兄様が顔を上げた。

 その目には、涙の跡があった。

 だが。

 

 ――その奥に初めて見る光があった。

 冷たい光だ。見たこともない、冷たい光。

 

「……教えてくれ、リーゼ」

 

 彼は静かに言った。

 

「じゃあ、僕は」

 

 声が平坦だった。

 

「僕は、この五年間、何のために王都にいたんだ」

 

 ――部屋の空気が凍った。

 わたしは息を呑む。

 

 兄様は書類の山を見ていた。

 そして、そこに並ぶ六人の顔を見てから。

 最後にわたしを見た。

 

「僕は、この家を守るために学んできた」

 

 その声には感情がなかった。

 

「父上には無理だと思ったから。誰かがやらなければならないと思ったから。……そのために、五年かけて準備をしてきた」

 

 彼は、ゆっくりと立ち上がり。

 

「なのに」

 

 ――そして、こう言った。

 

「もう、終わっていたのか」

 

 と。

 

 

 

 

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聖女様の『悪魔の経典 』~元おっさんが遺したクソ料理撲滅レシピ、数百年後に大バズりする~(作者:宙うし)(オリジナル:ファンタジー/コメディ)

気がつけば、元おっさんは金髪碧眼の可憐な美少女――「光の聖女」セシリアに転生していた。▼内面は枯れたおじさんのままだが、プロとして隙のない「聖女スマイル」を振りまき、今日も各地で魔物退治や浄化の仕事を鮮やかに完遂していく。▼……しかし、仕事の後に待っているのは、感謝感激した住民たちが用意する「最高級の伝統郷土料理」。▼緑色のゲロにしか見えない温かい雑草スープ…


総合評価:3863/評価:8.64/連載:9話/更新日時:2026年10月02日(金) 20:05 小説情報

転生少女が工房を開いたら、有力者たちのたまり場になった(作者:暁刀魚)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

 転生者のアリエルは才能に恵まれていたものの、出世に興味がなかった。▼ 学生時代の研究は一部の人間にやたらと評価されていたが、それをひけらかすと嫉妬されて面倒だと考えるのがアリエルだ。▼ あまり人の来ない田舎の故郷で工房を構えることに決めるのは、自然なことだった。▼ しかしどういうわけか、アリエルの工房には常に学生時代に知り合った有力者が各地から集まってくる…


総合評価:5193/評価:8.55/短編:3話/更新日時:2026年05月29日(金) 12:10 小説情報


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