幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります   作:ユズナミキ

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望まぬ対決

 

「――もう、終わっていたのか」

 

 兄様の声が書斎に落ちた。

 誰も、何も言えなかった。

 

 わたしも動けなかった。

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 

 やがて兄様が息を吸い。そして、顔を上げる。

 

「……いや。それでも、当主は父上だ」

 

 その目には、まだ何かが残っていた。

 まずは自分に言い聞かせるように。

 

「リーゼ。君がやったことは、認める」

 

 そして今度は外へ向けて。

 兄様は、机の上の書類を手に取った。

 

「この数字は本物だ。僕が読める範囲では、どこにも嘘がない。……信じられないが、事実なんだろう」

 

 彼はこちらを見た。

 

「だが、それが問題なんだ」

 

 わたしは身構える。

 

「八つの子供が領地を動かしている。……父上、これを正常だとお思いですか」

 

 兄様は父様に向き直った。

 

「執事長の解雇。人事の刷新。事業の立ち上げ。街道の工事。他家との交渉。……全部、リーゼがやったと言うのですね」

「……うむ」

「父上は、なにを?」

 

 ――言葉が、鋭かった。

 

「認可を出しておられただけでは?」

 

 父様は答えられなかった。

 

「これは依存です」

 

 兄様の声が低くなる。

 

「当主が八つの娘に頼りきっている。……失礼ながら、無責任だと申し上げます」

 

 母様が「ユリウス」と声を上げたが、彼は止まらなかった。

 

「それに、外から見ればどう映ります」

 

 彼は続けた。

 

「ヴァンザール男爵家は、幼い娘が領地を仕切っている。当主は名ばかりだと。……そんな噂が立てば、他家との取引にも響く」

 

 ――理屈は通っている。

 わたしは、それを認めざるを得なかった。

 実際、その通り。

 わたしは異常だ。八歳が領地を動かしている状態は、どう説明しても正常ではない。

 

 そして、その理由を説明する手段が、わたしにはない。

 

「リーゼ」

 

 兄様がこちらを向いた。

 その声が少しだけ和らいだ。

 

「君がやったことは、本当にすごいと思う。……正直、信じられないくらいだ」

 

 彼は少し困ったように笑った。

 

「でも君は八歳だ。その小さな体で、あと何年もつ? 二年か、三年か。……きっといつか壊れてしまう」

 

 兄様は、まっすぐにわたしを見ていた。

 

「僕は、それを見たくない」

 

 ――ああ。

 わたしは、思った。

 

 この人は、本気で言っている。

 妹の心配を、本気でしている。

 

(……この人は)

 

 優しい。ただ、優しいのだ。まるで父様のように。

 わたしは、しばらく黙っていた。

 

 彼の懸念には、答えられない。

 いつか壊れるかもしれない。それは事実だ。前世のわたしは、実際に壊れて死んだのだから。

 だから、別の話をするしかなかった。

 

「兄様……。一つだけ聞いてください」

「なんだ」

「グラウスト伯爵家のことです」

 

 兄様の表情が、わずかに動いた。

 わたしは机の上の書類の山から、別の束を引き出して。

 

「これが、五年前の融資契約の写しです」

 

 一枚目。

 

「担保に設定されているのは、領地の東部一帯。鉱山と、三つの村を潤す水源を含みます」

 

 二枚目。

 

「利子の条項です。この設計だと、通常の返済では元本がほとんど減りません。……計算してみてください。兄様なら、できるはずです」

 

 兄様は紙を受け取った。

 そして目を落とす。

 

 しばらく彼は動かなかった。

 やがて、指が震え始めた。

 

「……これは」

「おわかり頂けますか」

「待て。この計算だと、期限内に返済しきるのは……」

「難しいです。期限が来れば、担保に設定されている東の土地一帯は持っていかれてしまいます」

 

 兄様が、顔を上げた。

 

「そんな契約を、なぜ父上は」

「読んでいないからです」

 

 わたしは、はっきり言った。

 

「父様は数字が読めません。いえ、この計算は数字を読める者でも理解しにくい。巧妙なんです」

 

 わたしは次の紙を出した。

 

「四年前の記録です。執事長の日誌の切れ端」

 

『東部、測量完了』

 

「担保区域の測量が、四年前に行われています。……返済期限は、まだ五年も先だったのに」

 

 兄様が息を呑んだ。

 

「向こうは四年前の時点で、この土地が自分のものになると確信していました」

 

 次の紙。

 

「執事長です。五年前から横領を始めました。同じ時期から、村に頻繁に出入りしています。年に四度から五度」

 

 わたしはテオの記録を示した。

 

「徴収は年に二度です。残りの二、三度は、何のためか。……村の記録係が覚えていました。執事長は、フードで顔を隠した二人組と会っていたと」

 

 兄様の顔から血の気が引いていく。

 

「そして、鉱山の監督です」

 

 わたしは続けた。

 

「五年前、流行り病の年。監督の妻と娘が病に倒れました。そこへ、同じ二人組が薬を持って現れたんです。無償で」

 

 母様が口元を押さえた。

 

「半年後、彼らはこう言いました。『鉱山の産出量を落とせ』と。断ると、こう聞かれたそうです。『あの時の薬は、領主にどう説明を?』と」

 

 兄様が椅子の背を掴んだ。

 

「五年間、監督は言われるままに産出量を落とし続けました。鉱脈が細ったという嘘をついて」

 

 わたしは彼を見上げた。

 

「担保に取る土地の価値を、低く見せるためです」

「…………!」

「それから、去年の冬」

 

 わたしは、さらに続けた。

 

「石灰事業を始めたら、妨害が来ました」

 

 ――交渉係の男が一歩前に出た。

 

「私が回っておりましたので、申し上げます」

 

 彼は淡々と語った。

 

「取引先が九ヶ所ございましたが、そのうち六ヶ所が十日のうちに離れました。理由は誰も言いません。ただ『事情がある』と」

「…………」

「同時に、うちの石灰は質が悪いという噂が流れました。出所は不明です。事実無根でしたが、消えませんでした」

 

 彼は続ける。

 

「石灰を運ぶ樽が、市場から消えました。誰かが買い占めたのです。荷馬車の借り賃が倍になり、鉱夫には条件の良い引き抜きの話が来ました」

 

 そして。

 

「全て、合法です。訴えるところがございません」

 

 兄様は何も言わなかった。

 

「その十日前。王都の商会を名乗る人が、うちに来ました。石灰の独占契約を持ちかけて」

 

 わたしは、思い出しながら話した。

 

「破格の条件でした。卸値の一・五倍、輸送も向こう持ち、冬の分も年間契約で。……儲けが出るはずのない条件です」

「断ったのか」

「はい。そうしたら、十日後から妨害が始まりました」

 

 わたしは兄様を見る。

 

「あの人は、商談に来たんじゃありません。聞き取りに来たんです。誰が焼いているのか、技術はどこから来たのか、誰が始めたのか。……値段に関係のないことばかり聞いていきました」

 

 最後にわたしは一番厚い束を出した。

 

「これには、ロンバルト男爵家が調べたものも混ざりますが」

 

 兄様が眉をひそめる。

 

「ロンバルト……西の?」

「はい。あちらにも、伯爵から融資の話が来ていました。断りました」

 

 わたしは、テオが整理した一覧を広げた。

 十一年前から、日付順に並んでいる。

 

【十一年前】伯爵領の北にあった男爵領を併合

【十年前】クレン子爵家、当主急死。跡取りが伯爵家に養子入り

【八年前】ヴェルグ男爵家、融資を受ける

【六年前】ヴェルグ男爵家、領地の一部が商会へ

【五年前】ヴァンザール男爵家、融資を受ける

【四年前】ヴェルグ男爵家、断絶。残る領地も商会が取得

【四年前】ヴァンザール領東部、測量

【三年前】旧ヴェルグ領、商会より伯爵家へ譲渡

 

「そしてこれが、ヴェルグ男爵家の契約書。ロンバルト様が入手されました。……うちのものと、ほとんど同じものです」

 

 わたしは、その写しを差し出した。

 受け取った兄様が、目を通す。

 

「ヴェルグ家も、返済しようとしたそうです。羊毛の品質を上げて、王都に売り込もうと。……潰されました。取引先が離れ、噂が流れ、荷馬車が確保できなくなって」

 

 わたしは言葉を選ばずに言った。

 

「うちと同じ手口です」

 

 兄様の手が震えていた。

 

「ヴェルグ家の当主は、グラウスト伯爵のところへ相談に行きました。『助けてくれ』と。伯爵は快く応じたそうです。追加の融資をしました」

 

 部屋が静まり返る。

 わたしは静かに言った。

 

「そしてそれが致命傷になりました。二年後、ヴェルグ家は断絶しています。当主は最後まで、『伯爵は助けようとしてくれた』と言っていたそうです」

 

 長い沈黙が落ちた。

 兄様は書類を何度も読み返していた。

 彼は優秀だ。五年間、王都の学院で学び続けてきた人だ。

 

 だから、読める。

 構造が見えてしまう。

 

 やがて彼の指が止まった。

 そして、ぽつりと言った。

 

「……オーレリオ様が、僕に言ったんだ」

 

 その声が掠れている。わたしは息を詰めた。

 

「『私の家が貸したんだよ』と。『父が話していた。ヴァンザール男爵が困っているから、力になったと』」

 

 兄様は書類を見つめたまま続けた。

 

 

「僕は感謝した。……本当に有り難いと思った。あの年、村がいくつか潰れるところだった。誰かが貸してくれなければ」

 

 彼の手が、白くなるほど紙を握りしめている。

 そして。

 

「……これは」

 

 言葉が途切れた。

 

「オーレリオ様は、関係ない」

 

 ――兄様がそう言った。

 わたしは思わず顔を上げてしまう。

 

「え?」

「たしかにこれは、グラウスト伯爵のやったことだ。だがそれは、あくまで父君のバルドウィン様が行ったこと。……オーレリオ様は、何も知らないかもしれない」

 

 兄様は早口になっていた。

 

「そうだ。当主のやることを、嫡男が全部知っているとは限らない。僕だって、父上のやったことを知らなかった」

 

 彼は自分に言い聞かせるように続けた。

 

「あの方は、そういう人じゃない。学院で、いつも言っておられた。能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだと。……そういう理想を持った方だ」

 

 ――ああ。

 わたしは悟ってしまった。

 

(――逃げ道を探してる)

 

 この人は、伯爵の企みを理解した。書類を読んで、構造を見抜いた。

 もう否定できない。

 

 だから、切り離そうとしている。

 グラウスト伯爵は悪い。だがオーレリオは違う、と。

 

(……そうしないと、五年間が崩れるから)

 

 わたしは、一つだけ聞くことにした。

 聞かなければ、この人は逃げ切ってしまう。

 

「兄様」

「なんだ」

「学院に行くことを勧めたのは、誰ですか」

 

 ――兄様の動きが、止まった。

 

「……なに?」

「グラウスト伯爵の口利きで入学できたと、父様は言っていました。でも、その前です」

 

 わたしは、慎重に言葉を選んだ。

 

「誰かが、兄様に『学院に行くべきだ』と言いませんでしたか」

 

 兄様は答えなかった。

 だが、その目が泳いだ。

 

「……村に、学者が来ていた」

 

 やがて、彼は言った。

 

「五年前だ。旅の学者だと名乗って、しばらく滞在していた。僕はよく話をした。……その人が、僕には学問の才があると」

 

 彼は、そこで言葉を切った。

 

「その人が、王都の学院を勧めたんですね」

「……ああ」

「その学者は、その後どうなりましたか」

「……知らない。いつの間にか、いなくなった」

 

 ――わたしは目を閉じた。

 次の質問をするのが辛かった。

 だが、しなければならない。

 

「オーレリオ様と初めて会ったのは、いつですか」

「入学して、すぐだ」

「向こうから、声をかけてきましたか」

 

 兄様が口を閉じた。

 

「……講義の初日だ」

 

 彼は、絞り出すように言った。

 

「税制の話で、講師の前提が間違っていた。僕はそれを指摘した。……誰も反応しなかったが、後ろの席で頷いている人がいた」

 

 彼の声が震え始める。

 

「それが、あの方だった」

 

 わたしは静かに言った。

 

「兄様が指摘するのを、待っていたのかもしれません」

「ッッッ!」

「五年前です」

 

 わたしは、指を折った。

 

「グラウスト伯爵がうちに融資したのが、五年前」

「……」

「執事長が横領を始めたのが、五年前」

「……やめろ」

「鉱山の監督が脅されたのが、五年前」

「やめてくれ」

「兄様が王都に発ったのも――」

「――違う!!」

 

 兄様が机を叩いた。

 書類が床に散らばる。

 母様が悲鳴を上げ、父様が立ち上がった。

 兄様は、肩で息をしていた。

 

「あの方は……あの方は、僕を見出してくれたんだ!」

 

 その顔が、歪んでいた。

 

「学院で、僕は『その他』だった!」

 

 彼は叫んだ。

 

「男爵家の三男でも四男でもない、たった一人の跡取りだ。だが誰も相手にしてくれない。家格が低いから。領地が小さいから。田舎の出だから。……名前すら覚えてもらえなかった」

 

 言葉が、堰を切ったように溢れ出す。

 

「家は傾いている。それを知っているのは僕だけだ。父上は気づいていない。母上も。……誰にも言えなかった。言えば、家の恥だから」

 

 彼の目に、涙が浮かんでいた。

 

「一人だったんだ。ずっと」

 

 そして。

 

「そこに、あの方が居た」

 

 兄様は掠れた声で言った。

 

「『君は優秀だ』と言ってくれた。『この学院で、私が一番買っているのは君だ』と」

 

 彼は両手で顔を覆った。

 

「僕が父上を退けようとしていることを話した時も。……あの方は、こう言った。『君は、自分が一番傷つく選択を考えられる。それは誰にでもできることじゃない』と」

 

 嗚咽が混じり始める。

 

「誰も、そんなことを言ってくれなかった。……誰も、僕を見なかった」

 

 そして彼は顔を上げた。

 

「あの方だけが、僕を見てくれたんだ!」

 

 ――部屋が静まり返った。

 わたしは何も言えなかった。

 言葉が、出なかった。

 

「……あの五年が、全部、仕組まれていたと言うのか」

 

 兄様が、わたしを見た。

 その目が、赤かった。

 

「言ってみろ、リーゼ」

 

 わたしは、俯いた。

 

「……わかりません」

 

 正直に答えた。

 証拠はない。学者の件も、初日の講義の件も、全部状況証拠だ。

 断定できることは、何一つない。

 

 だから、そう答えるしかなかった。

 ――だが、それが。

 

「じゃあ言うな!」

 

 兄様が怒鳴った。

 初めて、わたしに向かって。

 

「ユリウス!」

 

 母様が叫んだ。

 兄様が、はっとした顔をした。

 そして自分の手を見て、それから床に散らばった書類を見た。

 

「……すみません、取り乱しました」

 

 彼が小さく言った、そのとき。

 

「――ユリウス」

 

 父様が口を開いた。

 それまで、ずっと黙っていた父様が。

 ゆっくりと立ち上がった。

 

「当主の座は、譲らん」

 

 兄様が振り返った。

 

「……なぜです」

 

 その声には力がなかった。

 

「父上、ご自分でもお認めになったはずです。才がない、と」

「認めた」

 

 父様は頷いた。

 

「今も、そう思っておる」

 

 彼は静かに続けた。

 

「私は数字が読めん。人を疑えん。四年間、執事長に食われておったことにも気づかなかった。……お前の言う通り、私は無能な当主だ」

 

 そして。

 

「だが、退かん」

 

 父様は、まっすぐに息子を見た。

 

「理由を言う」

「り、ゆう……」

「私が退けば、この家の当主は誰になる」

 

 父様が、そう問うた。

 

「……僕です」

 

 兄様が答える。

 

「そうだ。だが、お前は今、王都におる。学院を出るまで、あと一年か、二年か。……その間、この領地を誰が回す」

 

 ――兄様が口を閉じた。

 

「リーゼだ」

 

 父様は、わたしを見た。

 

「いや。今もそうだ。私は名前を貸しておるだけで、実際に動かしておるのはこの子。……お前の言う通りだ、ユリウス。私は無能だ」

 

 父様は正直に認めた。

 そして。

 

「だが、名前を貸すことくらいはできる」

 

 彼は拳を握った。

 

「何かあった時、責めを負うのは当主だ。契約に判を押すのも、他家に頭を下げるのも、失敗した時に恨まれるのも、全部当主だ」

 

 父様の声が少しずつ強くなっていく。

 

「もし村が飢えたら、恨まれるのは私だ。もし返済に失敗したら、責められるのも私だ。もしこの家が潰れたら――」

 

 彼はそこで息を吸った。

 

「その責めを負うのも、私だ」

 

 そして。

 

「私が退けば、それを八つの娘が背負うことになる」

 

 ――わたしは息を呑んだ。

 父様は、こちらを見ないまま続けた。

 

「私は無能だ。この子のやることを、止めることもできん。理解もできん。……何もしてやれん」

 

 その声が震えていた。

 

「だからせめて、盾になる」

 

 父様は目を閉じた。

 

「何かあった時、真っ先に頭を下げるのは私だ。恨まれるのも、責められるのも、私だ。……それだけは、私にしかできん」

 

 そして目を開けた。

 

「ユリウス。お前は数字が読める。人も切れる。私より、ずっと当主に向いておる」

 

 父様は息子を見た。

 そしてはっきり言う。

 

「だがな。この一年で、私にも分かったことが一つある。……向いておらん者にも、役目はあるのだ」

 

 ――わたしは口元を押さえた。

 去年の冬の初め。北の村からの帰りの馬車で、父様はこう言った。

 

『――お前は、私にできんことを全部やってくれる。だから私は、私にできることをやろう』

 

 あの言葉が、今、見事に完成していた。

 兄様は動かなかった。

 立ったまま、床を見ている。

 その顔から表情が消えていた。

 

「父様……。僕は、当主足りえませんか?」

「言っただろうユリウス。私より、よっぽど当主に向いている」

「でも、リーゼの方が向いている。……そうは思ってらっしゃる」

「そんなこと……!」

「いいのです」

 

 兄様の声が、淡々と響く。

 ――彼は理解してしまったのだ。

 わたしには、それが分かった。

 

 家は立て直された。

 父様には、父様の役割がある。

 妹は、彼より遥かに多くのことを、既にやってしまった。

 

 ――ただ、彼の居場所だけが、どこにもない。

 五年間、彼はそのために準備してきた。

 学び、耐え、孤独に過ごし、父を退ける覚悟まで固めて。

 そして帰ってきたら、全部終わっていた。

 

「……いいのです」

 

 兄様は繰り返した。

 その声は、驚くほど静かだった。

 

「父上のお考えは正しい。仰ることも正しい」

 

 彼は顔を上げ。

 

「そしてリーゼの言うことも、たぶん正しい」

 

 ――わたしは顔を上げた。

 兄様は、床に散らばった書類を見ていた。

 

「この数字は本物だ。伯爵家のやり方も、たぶん、君の言う通りなんだろう」

 

 ――認めた。

 わたしの胸に、わずかに希望が灯った。

 

(――伝わった)

 

 そう思った。

 だが。

 

「でも、僕は信じない」

 

 ――え。

 

「なぜ、ですか」

 

 思わず声が震えてしまう。

 兄様は、静かに答えた。

 

「信じたら、僕の五年間が全部無駄になる」

 

 ――わたしは立ち尽くす。

 

「僕は、あの方に見出された。あの方だけが、僕を認めてくれた」

 

 彼の目は乾いていた。

 

「それを疑うということは、僕自身を否定するということだ。僕には、それができない」

 

 わたしは動けなかった。

 

(――違う)

 

 この人は騙されているんじゃない。

 分かっている。全部、理解している。

 書類を読んで、構造を見抜いて、伯爵の企みも、たぶんオーレリオの意図も。

 その上で。

 

(――自分から、目を閉じてる)

 

 目の前が真っ暗になった。

 説得できない。

 証拠を積み上げても、論理を組み立てても、この人には届かない。

 なぜなら、これは理解の問題ではないから。

 

 この人は、理解した上で、拒否している。

 ――と、その時。

 

『ステータスアイ、起動』

 

 頭の中に、無機質な声が響いた。

 

(――やめて)

 

 わたしは、思わず目を閉じそうになった。

 見たくなかった。

 この人の頭上に何が浮かぶのか、なんとなく想像がついてしまったから。

 だが、瞼を下ろすより先に、光る枠が視界に入ってしまった。

 

【対象:ユリウス・ヴァンザール】

【潜在限界値:SSR(法務・実務偏重)】

【現在到達度:三割】

【現在ステータス:強度の依存・自己否定・慢性的な不安】

 

 ――時間が、止まったような気がした。

 

(……三割?)

 

 わたしは、その数字を何度も読み返した。

 

 SSR。

 それ自体は、驚かなかった。むしろ納得した。

 この人は優秀だ。契約書を一目で読み解き、利子の構造を見抜き、話の筋を通す。五年間、学院で学び続けた成果がそこにある。

 だが。

 

(――三割)

 

 わたしは、部屋の隅に立つ六人を思い出した。

 女中が七割。交渉係が八割。ヴィエラが七割。テオが五割。帳簿係の少年が六割。

 

 あの人たちは、一年前まで誰にも見られていなかった。床を磨き、薪を割り、窯の火を見て、村で石を回していた。

 その人たちが、一年で五割から八割まで来ている。

 

(この人は、五年)

 

 五年間、王都の学院で学び続けた。

 国内でも有数の教育を受けた。優秀だと認められ、「一番買っている」と言われ、理想を語る人の隣にいた。

 その結果が。

 

(――三割)

 

 喉の奥が、詰まった。

 

(伸びてない)

 

 いや、正確には違う。

 三割まで来ているのだから、伸びてはいるのだろう。五年前はもっと低かったはずだ。

 だが、あまりに遅い。

 持っているものに対して、出せているものが少なすぎる。

 

(――なんで)

 

 わたしは、下の行を見た。

 

【現在ステータス:強度の依存・自己否定・慢性的な不安】

 

 ――ああ。

 

(そうか)

 

 全部、そこに書いてあった。

 依存。自己否定。慢性的な不安。

 この人は、自分の価値を自分で決められない。

 オーレリオが『優秀だ』と言うから優秀で、認められているから存在していられる。

 

 だから、いつも不安なのだ。

 いつ見放されるか分からないから。認められなくなったら、自分には何も残らないから。

 

(――そんな状態で、能力が伸びるわけがない)

 

 わたしは、前世を思い出していた。

 上司の顔色を窺いながら仕事をしていた社員。評価に怯えて萎縮していた部下。

 能力があるのに、それを出す前に自分で止めてしまう人たち。

 

 あの人たちは、みんな伸びなかった。

 場所を変えた途端に化けた人も、何人もいた。

 

(――この人は、間違った場所にいる)

 

 背筋を、何かが駆け上がった。

 それは絶望ではなかった。

 むしろ、逆だった。

 

(だけど説得できない。それは変わらない)

 

 この人は、理解した上で目を閉じることを選んだ。なにを言っても届かない。

 でもわかることがある。

 

(――あそこにいる限り、この人は伸びない)

 

 これは感情の話ではない。

 数字が、そう言っている。

 オーレリオの隣は、この人の適所じゃない。

 どれだけ認められても、どれだけ理想を語られても、七割が眠ったままなのだから。

 

(――だったら)

 

 わたしは、光る枠から目を離した。

 まだ何も分からない。どうすればいいのかも、何年かかるのかも。

 だが、一つだけ、確かなことがある。

 

(この人は、まだ何も出し切っていない)

 

「兄様」

 

 わたしは、声を絞り出した。

 

「その人は、兄様を利用しています」

「そうかもしれない」

「じゃあ――」

「それでもいい」

 

 兄様は、そう言った。

 あっさりと。

 

「利用されているとしても、あの方は僕を見てくれた。……それだけで、僕には十分だ」

 

 ――十分じゃない。

 わたしは、そう言いたかった。

 あなたは、まだ三割しか使っていない。

 残りの七割を、あの人は引き出していない。引き出す気もない。

 本当に見てくれているなら、そんなことにはならない。

 

 だが。

 

(――言えない)

 

 この目のことを、説明する手段がない。

 誰にも見えない文字を根拠に、この人の五年間を否定することはできない。

 

 わたしには、拳を握りしめることしかできなかったのだった。

 

 ◇◆◇◆

 

 兄様は、その日のうちに発つと言った。

 母様が泣いて止めた。父様が「もう少しいろ」と言った。

 だが、彼は首を横に振った。

 

「学院に戻ります。……まだ、学ぶことがありますので」

 

 荷物はすぐにまとまった。元々、長逗留の予定ではなかったらしい。

 馬車が、玄関先に着けられる。

 二人の従者が、荷を積んでいる。

 兄様は、母様の前に立った。

 

「母上。……ご迷惑をおかけしました」

「ユリウス、お願い。もう少しだけ」

「申し訳ありません」

 

 彼は深く頭を下げた。

 母様が、その背中に手を伸ばして――届かないまま、下ろした。

 次に、父様の前に立つ。

 

「父上」

「うむ」

「……先ほどの言葉は、忘れません」

 

 兄様は頭を下げた。

 

「ですが、僕は諦めません」

 

 父様はなにも言わなかった。

 ただ、息子の肩に手を置いた。

 ――そして。

 

 兄様はわたしの前に立った。

 

「リーゼ」

「……はい」

 

 わたしは彼を見上げた。

 しばらく黙る兄様。そして。

 

「君は、僕の妹だ」

 

 一瞬。

 その言葉が、和解の合図に聞こえた。

 だが。

 

「だから、はっきり言っておく」

 

 兄様の目に、あの冷たい光が戻った。

 

「次に会う時は、たぶん、敵として会うことになる」

 

 ――息が、詰まった。

 

「僕はオーレリオ様のもとに戻る。学院を出て、あの方の下で働く。そして、いつか必ず」

 

 彼は、わたしを見下ろした。

 

「この家の当主になる」

 

 そして。

 

「その時は、手加減しない」

 

 わたしはなにも言えなかった。

 言葉が出なかった。

 兄様は馬車の方へ歩き出し、扉に手をかけたところで、足を止めた。

 振り返らないまま、言う。

 

「……守りたかったんだ」

 

 声が、少しだけ揺れた。

 

「父上も、母上も。……君のことも」

 

 わたしは、駆け出しそうになった。

 だが、その前に。

 

「もう、要らないみたいだけど」

 

 ――兄様は、馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まる。

 馬が歩き出し、車輪が回り始める。

 

 わたしは、その場に立ち尽くしていた。

 白い道を、馬車が東に遠ざかっていく。

 やがて、見えなくなった。

 

 ◇◆◇◆

 

 白い道を、一台の馬車が東へ向かっていた。

 馬車の中は静かだ。

 ユリウス・ヴァンザールは、窓の外を見ている。

 

 流れていく景色は、五年前と同じはずだった。

 麦畑と、牧草地と、点在する村。

 

 だが違っていた。

 

 畑の緑が濃い。手入れが行き届いている。

 道が白い。轍がない。荷馬車が何台もすれ違っていく。

 

 村を通り過ぎる時、農夫たちが手を止めて頭を下げた。

 その顔が、明るかった。

 

(――全部)

 

 彼は目を閉じた。

 

(全部、あの子がやったのか)

 

「――よろしかったのですか」

 

 向かいの席から、声がした。

 

 従者の一人だった。二十代半ばの、物腰の柔らかい男。

 

「……何がだ」

「ご家族と。あのような別れ方で」

 

 ユリウスは答えなかった。

 もう一人の従者が、静かに言った。

 

「オーレリオ様には、私どもからご報告しておきます」

「……ああ」

 

 そして。

 

「ヴァンザール領の件も、詳しく」

 

 ――ユリウスは顔を上げた。

 

「詳しく?」

「ええ」

 

 男は、穏やかに微笑んだ。

 

「石灰の窯の数と配置。街道の通行量と、通行料の相場。鉱山の新しい坑道の位置。……それと、お屋敷の使用人の顔ぶれを」

 

 ユリウスは目を見開いた。

 

「……お前たち、いつの間に」

「丸一日ございましたので」

 

 男は当然のように言った。

 

「一通り、拝見しました。窯場にも、鉱山にも、街道の詰所にも」

「僕は、そんな指示は」

「オーレリオ様のご指示です」

 

 ――ユリウスの喉が、鳴った。

 

「あの方が?」

「はい。『土産話を楽しみにしている』と、仰っておられたでしょう」

 

 男は微笑んだままだった。

 

「あれは、そういう意味です」

 

 ユリウスは何も言えなかった。

 あの言葉を、彼は好意だと思っていた。

 久しぶりに家族に会う自分を、気遣ってくれたのだと。

 

「……そうか」

 

 彼は、それだけ言った。

 

「お気になさらず」

 

 男が頭を下げる。

 

「これが、我々の仕事ですので」

 

 馬車が街道に出た。

 白い道が、まっすぐ東へ伸びている。

 従者の一人が、足元の荷から何かを取り出した。

 

 ――外套だった。

 黒く、丈が長い。そして、深い頭巾がついている。

 彼はそれを羽織り、頭巾を被った。

 顔が、影に沈んだ。

 もう一人も、同じものを取り出す。

 

「王都までは、こちらの方が目立ちませんので」

 

 二つの黒い影が向かいの席に並んだ。

 ユリウスは、それを見ていた。

 ――なぜか。

 背筋に冷たいものが走った。

 理由はわからない。

 

 ただ、その二つの影が気になったのだ。

 なにか引っ掛かる。なにか。

 そうだ。今日どこかで、耳にしたような。

 

 彼は思い出そうとして――やめた。

 なぜやめたのか、自分でもわからぬまま、窓の外に目を移す。

 白い道の向こうに、故郷の山が小さくなっていく。

 

(――僕は)

 

 ユリウスは目を閉じた。

 

(僕は、何を守りに来たんだろう)

 

 今の彼に、答えを出すことは出来なかった。

 

 

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