幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
「――もう、終わっていたのか」
兄様の声が書斎に落ちた。
誰も、何も言えなかった。
わたしも動けなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
やがて兄様が息を吸い。そして、顔を上げる。
「……いや。それでも、当主は父上だ」
その目には、まだ何かが残っていた。
まずは自分に言い聞かせるように。
「リーゼ。君がやったことは、認める」
そして今度は外へ向けて。
兄様は、机の上の書類を手に取った。
「この数字は本物だ。僕が読める範囲では、どこにも嘘がない。……信じられないが、事実なんだろう」
彼はこちらを見た。
「だが、それが問題なんだ」
わたしは身構える。
「八つの子供が領地を動かしている。……父上、これを正常だとお思いですか」
兄様は父様に向き直った。
「執事長の解雇。人事の刷新。事業の立ち上げ。街道の工事。他家との交渉。……全部、リーゼがやったと言うのですね」
「……うむ」
「父上は、なにを?」
――言葉が、鋭かった。
「認可を出しておられただけでは?」
父様は答えられなかった。
「これは依存です」
兄様の声が低くなる。
「当主が八つの娘に頼りきっている。……失礼ながら、無責任だと申し上げます」
母様が「ユリウス」と声を上げたが、彼は止まらなかった。
「それに、外から見ればどう映ります」
彼は続けた。
「ヴァンザール男爵家は、幼い娘が領地を仕切っている。当主は名ばかりだと。……そんな噂が立てば、他家との取引にも響く」
――理屈は通っている。
わたしは、それを認めざるを得なかった。
実際、その通り。
わたしは異常だ。八歳が領地を動かしている状態は、どう説明しても正常ではない。
そして、その理由を説明する手段が、わたしにはない。
「リーゼ」
兄様がこちらを向いた。
その声が少しだけ和らいだ。
「君がやったことは、本当にすごいと思う。……正直、信じられないくらいだ」
彼は少し困ったように笑った。
「でも君は八歳だ。その小さな体で、あと何年もつ? 二年か、三年か。……きっといつか壊れてしまう」
兄様は、まっすぐにわたしを見ていた。
「僕は、それを見たくない」
――ああ。
わたしは、思った。
この人は、本気で言っている。
妹の心配を、本気でしている。
(……この人は)
優しい。ただ、優しいのだ。まるで父様のように。
わたしは、しばらく黙っていた。
彼の懸念には、答えられない。
いつか壊れるかもしれない。それは事実だ。前世のわたしは、実際に壊れて死んだのだから。
だから、別の話をするしかなかった。
「兄様……。一つだけ聞いてください」
「なんだ」
「グラウスト伯爵家のことです」
兄様の表情が、わずかに動いた。
わたしは机の上の書類の山から、別の束を引き出して。
「これが、五年前の融資契約の写しです」
一枚目。
「担保に設定されているのは、領地の東部一帯。鉱山と、三つの村を潤す水源を含みます」
二枚目。
「利子の条項です。この設計だと、通常の返済では元本がほとんど減りません。……計算してみてください。兄様なら、できるはずです」
兄様は紙を受け取った。
そして目を落とす。
しばらく彼は動かなかった。
やがて、指が震え始めた。
「……これは」
「おわかり頂けますか」
「待て。この計算だと、期限内に返済しきるのは……」
「難しいです。期限が来れば、担保に設定されている東の土地一帯は持っていかれてしまいます」
兄様が、顔を上げた。
「そんな契約を、なぜ父上は」
「読んでいないからです」
わたしは、はっきり言った。
「父様は数字が読めません。いえ、この計算は数字を読める者でも理解しにくい。巧妙なんです」
わたしは次の紙を出した。
「四年前の記録です。執事長の日誌の切れ端」
『東部、測量完了』
「担保区域の測量が、四年前に行われています。……返済期限は、まだ五年も先だったのに」
兄様が息を呑んだ。
「向こうは四年前の時点で、この土地が自分のものになると確信していました」
次の紙。
「執事長です。五年前から横領を始めました。同じ時期から、村に頻繁に出入りしています。年に四度から五度」
わたしはテオの記録を示した。
「徴収は年に二度です。残りの二、三度は、何のためか。……村の記録係が覚えていました。執事長は、フードで顔を隠した二人組と会っていたと」
兄様の顔から血の気が引いていく。
「そして、鉱山の監督です」
わたしは続けた。
「五年前、流行り病の年。監督の妻と娘が病に倒れました。そこへ、同じ二人組が薬を持って現れたんです。無償で」
母様が口元を押さえた。
「半年後、彼らはこう言いました。『鉱山の産出量を落とせ』と。断ると、こう聞かれたそうです。『あの時の薬は、領主にどう説明を?』と」
兄様が椅子の背を掴んだ。
「五年間、監督は言われるままに産出量を落とし続けました。鉱脈が細ったという嘘をついて」
わたしは彼を見上げた。
「担保に取る土地の価値を、低く見せるためです」
「…………!」
「それから、去年の冬」
わたしは、さらに続けた。
「石灰事業を始めたら、妨害が来ました」
――交渉係の男が一歩前に出た。
「私が回っておりましたので、申し上げます」
彼は淡々と語った。
「取引先が九ヶ所ございましたが、そのうち六ヶ所が十日のうちに離れました。理由は誰も言いません。ただ『事情がある』と」
「…………」
「同時に、うちの石灰は質が悪いという噂が流れました。出所は不明です。事実無根でしたが、消えませんでした」
彼は続ける。
「石灰を運ぶ樽が、市場から消えました。誰かが買い占めたのです。荷馬車の借り賃が倍になり、鉱夫には条件の良い引き抜きの話が来ました」
そして。
「全て、合法です。訴えるところがございません」
兄様は何も言わなかった。
「その十日前。王都の商会を名乗る人が、うちに来ました。石灰の独占契約を持ちかけて」
わたしは、思い出しながら話した。
「破格の条件でした。卸値の一・五倍、輸送も向こう持ち、冬の分も年間契約で。……儲けが出るはずのない条件です」
「断ったのか」
「はい。そうしたら、十日後から妨害が始まりました」
わたしは兄様を見る。
「あの人は、商談に来たんじゃありません。聞き取りに来たんです。誰が焼いているのか、技術はどこから来たのか、誰が始めたのか。……値段に関係のないことばかり聞いていきました」
最後にわたしは一番厚い束を出した。
「これには、ロンバルト男爵家が調べたものも混ざりますが」
兄様が眉をひそめる。
「ロンバルト……西の?」
「はい。あちらにも、伯爵から融資の話が来ていました。断りました」
わたしは、テオが整理した一覧を広げた。
十一年前から、日付順に並んでいる。
【十一年前】伯爵領の北にあった男爵領を併合
【十年前】クレン子爵家、当主急死。跡取りが伯爵家に養子入り
【八年前】ヴェルグ男爵家、融資を受ける
【六年前】ヴェルグ男爵家、領地の一部が商会へ
【五年前】ヴァンザール男爵家、融資を受ける
【四年前】ヴェルグ男爵家、断絶。残る領地も商会が取得
【四年前】ヴァンザール領東部、測量
【三年前】旧ヴェルグ領、商会より伯爵家へ譲渡
「そしてこれが、ヴェルグ男爵家の契約書。ロンバルト様が入手されました。……うちのものと、ほとんど同じものです」
わたしは、その写しを差し出した。
受け取った兄様が、目を通す。
「ヴェルグ家も、返済しようとしたそうです。羊毛の品質を上げて、王都に売り込もうと。……潰されました。取引先が離れ、噂が流れ、荷馬車が確保できなくなって」
わたしは言葉を選ばずに言った。
「うちと同じ手口です」
兄様の手が震えていた。
「ヴェルグ家の当主は、グラウスト伯爵のところへ相談に行きました。『助けてくれ』と。伯爵は快く応じたそうです。追加の融資をしました」
部屋が静まり返る。
わたしは静かに言った。
「そしてそれが致命傷になりました。二年後、ヴェルグ家は断絶しています。当主は最後まで、『伯爵は助けようとしてくれた』と言っていたそうです」
長い沈黙が落ちた。
兄様は書類を何度も読み返していた。
彼は優秀だ。五年間、王都の学院で学び続けてきた人だ。
だから、読める。
構造が見えてしまう。
やがて彼の指が止まった。
そして、ぽつりと言った。
「……オーレリオ様が、僕に言ったんだ」
その声が掠れている。わたしは息を詰めた。
「『私の家が貸したんだよ』と。『父が話していた。ヴァンザール男爵が困っているから、力になったと』」
兄様は書類を見つめたまま続けた。
「僕は感謝した。……本当に有り難いと思った。あの年、村がいくつか潰れるところだった。誰かが貸してくれなければ」
彼の手が、白くなるほど紙を握りしめている。
そして。
「……これは」
言葉が途切れた。
「オーレリオ様は、関係ない」
――兄様がそう言った。
わたしは思わず顔を上げてしまう。
「え?」
「たしかにこれは、グラウスト伯爵のやったことだ。だがそれは、あくまで父君のバルドウィン様が行ったこと。……オーレリオ様は、何も知らないかもしれない」
兄様は早口になっていた。
「そうだ。当主のやることを、嫡男が全部知っているとは限らない。僕だって、父上のやったことを知らなかった」
彼は自分に言い聞かせるように続けた。
「あの方は、そういう人じゃない。学院で、いつも言っておられた。能力のある者が、能力を発揮できる場所に立つべきだと。……そういう理想を持った方だ」
――ああ。
わたしは悟ってしまった。
(――逃げ道を探してる)
この人は、伯爵の企みを理解した。書類を読んで、構造を見抜いた。
もう否定できない。
だから、切り離そうとしている。
グラウスト伯爵は悪い。だがオーレリオは違う、と。
(……そうしないと、五年間が崩れるから)
わたしは、一つだけ聞くことにした。
聞かなければ、この人は逃げ切ってしまう。
「兄様」
「なんだ」
「学院に行くことを勧めたのは、誰ですか」
――兄様の動きが、止まった。
「……なに?」
「グラウスト伯爵の口利きで入学できたと、父様は言っていました。でも、その前です」
わたしは、慎重に言葉を選んだ。
「誰かが、兄様に『学院に行くべきだ』と言いませんでしたか」
兄様は答えなかった。
だが、その目が泳いだ。
「……村に、学者が来ていた」
やがて、彼は言った。
「五年前だ。旅の学者だと名乗って、しばらく滞在していた。僕はよく話をした。……その人が、僕には学問の才があると」
彼は、そこで言葉を切った。
「その人が、王都の学院を勧めたんですね」
「……ああ」
「その学者は、その後どうなりましたか」
「……知らない。いつの間にか、いなくなった」
――わたしは目を閉じた。
次の質問をするのが辛かった。
だが、しなければならない。
「オーレリオ様と初めて会ったのは、いつですか」
「入学して、すぐだ」
「向こうから、声をかけてきましたか」
兄様が口を閉じた。
「……講義の初日だ」
彼は、絞り出すように言った。
「税制の話で、講師の前提が間違っていた。僕はそれを指摘した。……誰も反応しなかったが、後ろの席で頷いている人がいた」
彼の声が震え始める。
「それが、あの方だった」
わたしは静かに言った。
「兄様が指摘するのを、待っていたのかもしれません」
「ッッッ!」
「五年前です」
わたしは、指を折った。
「グラウスト伯爵がうちに融資したのが、五年前」
「……」
「執事長が横領を始めたのが、五年前」
「……やめろ」
「鉱山の監督が脅されたのが、五年前」
「やめてくれ」
「兄様が王都に発ったのも――」
「――違う!!」
兄様が机を叩いた。
書類が床に散らばる。
母様が悲鳴を上げ、父様が立ち上がった。
兄様は、肩で息をしていた。
「あの方は……あの方は、僕を見出してくれたんだ!」
その顔が、歪んでいた。
「学院で、僕は『その他』だった!」
彼は叫んだ。
「男爵家の三男でも四男でもない、たった一人の跡取りだ。だが誰も相手にしてくれない。家格が低いから。領地が小さいから。田舎の出だから。……名前すら覚えてもらえなかった」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「家は傾いている。それを知っているのは僕だけだ。父上は気づいていない。母上も。……誰にも言えなかった。言えば、家の恥だから」
彼の目に、涙が浮かんでいた。
「一人だったんだ。ずっと」
そして。
「そこに、あの方が居た」
兄様は掠れた声で言った。
「『君は優秀だ』と言ってくれた。『この学院で、私が一番買っているのは君だ』と」
彼は両手で顔を覆った。
「僕が父上を退けようとしていることを話した時も。……あの方は、こう言った。『君は、自分が一番傷つく選択を考えられる。それは誰にでもできることじゃない』と」
嗚咽が混じり始める。
「誰も、そんなことを言ってくれなかった。……誰も、僕を見なかった」
そして彼は顔を上げた。
「あの方だけが、僕を見てくれたんだ!」
――部屋が静まり返った。
わたしは何も言えなかった。
言葉が、出なかった。
「……あの五年が、全部、仕組まれていたと言うのか」
兄様が、わたしを見た。
その目が、赤かった。
「言ってみろ、リーゼ」
わたしは、俯いた。
「……わかりません」
正直に答えた。
証拠はない。学者の件も、初日の講義の件も、全部状況証拠だ。
断定できることは、何一つない。
だから、そう答えるしかなかった。
――だが、それが。
「じゃあ言うな!」
兄様が怒鳴った。
初めて、わたしに向かって。
「ユリウス!」
母様が叫んだ。
兄様が、はっとした顔をした。
そして自分の手を見て、それから床に散らばった書類を見た。
「……すみません、取り乱しました」
彼が小さく言った、そのとき。
「――ユリウス」
父様が口を開いた。
それまで、ずっと黙っていた父様が。
ゆっくりと立ち上がった。
「当主の座は、譲らん」
兄様が振り返った。
「……なぜです」
その声には力がなかった。
「父上、ご自分でもお認めになったはずです。才がない、と」
「認めた」
父様は頷いた。
「今も、そう思っておる」
彼は静かに続けた。
「私は数字が読めん。人を疑えん。四年間、執事長に食われておったことにも気づかなかった。……お前の言う通り、私は無能な当主だ」
そして。
「だが、退かん」
父様は、まっすぐに息子を見た。
「理由を言う」
「り、ゆう……」
「私が退けば、この家の当主は誰になる」
父様が、そう問うた。
「……僕です」
兄様が答える。
「そうだ。だが、お前は今、王都におる。学院を出るまで、あと一年か、二年か。……その間、この領地を誰が回す」
――兄様が口を閉じた。
「リーゼだ」
父様は、わたしを見た。
「いや。今もそうだ。私は名前を貸しておるだけで、実際に動かしておるのはこの子。……お前の言う通りだ、ユリウス。私は無能だ」
父様は正直に認めた。
そして。
「だが、名前を貸すことくらいはできる」
彼は拳を握った。
「何かあった時、責めを負うのは当主だ。契約に判を押すのも、他家に頭を下げるのも、失敗した時に恨まれるのも、全部当主だ」
父様の声が少しずつ強くなっていく。
「もし村が飢えたら、恨まれるのは私だ。もし返済に失敗したら、責められるのも私だ。もしこの家が潰れたら――」
彼はそこで息を吸った。
「その責めを負うのも、私だ」
そして。
「私が退けば、それを八つの娘が背負うことになる」
――わたしは息を呑んだ。
父様は、こちらを見ないまま続けた。
「私は無能だ。この子のやることを、止めることもできん。理解もできん。……何もしてやれん」
その声が震えていた。
「だからせめて、盾になる」
父様は目を閉じた。
「何かあった時、真っ先に頭を下げるのは私だ。恨まれるのも、責められるのも、私だ。……それだけは、私にしかできん」
そして目を開けた。
「ユリウス。お前は数字が読める。人も切れる。私より、ずっと当主に向いておる」
父様は息子を見た。
そしてはっきり言う。
「だがな。この一年で、私にも分かったことが一つある。……向いておらん者にも、役目はあるのだ」
――わたしは口元を押さえた。
去年の冬の初め。北の村からの帰りの馬車で、父様はこう言った。
『――お前は、私にできんことを全部やってくれる。だから私は、私にできることをやろう』
あの言葉が、今、見事に完成していた。
兄様は動かなかった。
立ったまま、床を見ている。
その顔から表情が消えていた。
「父様……。僕は、当主足りえませんか?」
「言っただろうユリウス。私より、よっぽど当主に向いている」
「でも、リーゼの方が向いている。……そうは思ってらっしゃる」
「そんなこと……!」
「いいのです」
兄様の声が、淡々と響く。
――彼は理解してしまったのだ。
わたしには、それが分かった。
家は立て直された。
父様には、父様の役割がある。
妹は、彼より遥かに多くのことを、既にやってしまった。
――ただ、彼の居場所だけが、どこにもない。
五年間、彼はそのために準備してきた。
学び、耐え、孤独に過ごし、父を退ける覚悟まで固めて。
そして帰ってきたら、全部終わっていた。
「……いいのです」
兄様は繰り返した。
その声は、驚くほど静かだった。
「父上のお考えは正しい。仰ることも正しい」
彼は顔を上げ。
「そしてリーゼの言うことも、たぶん正しい」
――わたしは顔を上げた。
兄様は、床に散らばった書類を見ていた。
「この数字は本物だ。伯爵家のやり方も、たぶん、君の言う通りなんだろう」
――認めた。
わたしの胸に、わずかに希望が灯った。
(――伝わった)
そう思った。
だが。
「でも、僕は信じない」
――え。
「なぜ、ですか」
思わず声が震えてしまう。
兄様は、静かに答えた。
「信じたら、僕の五年間が全部無駄になる」
――わたしは立ち尽くす。
「僕は、あの方に見出された。あの方だけが、僕を認めてくれた」
彼の目は乾いていた。
「それを疑うということは、僕自身を否定するということだ。僕には、それができない」
わたしは動けなかった。
(――違う)
この人は騙されているんじゃない。
分かっている。全部、理解している。
書類を読んで、構造を見抜いて、伯爵の企みも、たぶんオーレリオの意図も。
その上で。
(――自分から、目を閉じてる)
目の前が真っ暗になった。
説得できない。
証拠を積み上げても、論理を組み立てても、この人には届かない。
なぜなら、これは理解の問題ではないから。
この人は、理解した上で、拒否している。
――と、その時。
『ステータスアイ、起動』
頭の中に、無機質な声が響いた。
(――やめて)
わたしは、思わず目を閉じそうになった。
見たくなかった。
この人の頭上に何が浮かぶのか、なんとなく想像がついてしまったから。
だが、瞼を下ろすより先に、光る枠が視界に入ってしまった。
【対象:ユリウス・ヴァンザール】
【潜在限界値:SSR(法務・実務偏重)】
【現在到達度:三割】
【現在ステータス:強度の依存・自己否定・慢性的な不安】
――時間が、止まったような気がした。
(……三割?)
わたしは、その数字を何度も読み返した。
SSR。
それ自体は、驚かなかった。むしろ納得した。
この人は優秀だ。契約書を一目で読み解き、利子の構造を見抜き、話の筋を通す。五年間、学院で学び続けた成果がそこにある。
だが。
(――三割)
わたしは、部屋の隅に立つ六人を思い出した。
女中が七割。交渉係が八割。ヴィエラが七割。テオが五割。帳簿係の少年が六割。
あの人たちは、一年前まで誰にも見られていなかった。床を磨き、薪を割り、窯の火を見て、村で石を回していた。
その人たちが、一年で五割から八割まで来ている。
(この人は、五年)
五年間、王都の学院で学び続けた。
国内でも有数の教育を受けた。優秀だと認められ、「一番買っている」と言われ、理想を語る人の隣にいた。
その結果が。
(――三割)
喉の奥が、詰まった。
(伸びてない)
いや、正確には違う。
三割まで来ているのだから、伸びてはいるのだろう。五年前はもっと低かったはずだ。
だが、あまりに遅い。
持っているものに対して、出せているものが少なすぎる。
(――なんで)
わたしは、下の行を見た。
【現在ステータス:強度の依存・自己否定・慢性的な不安】
――ああ。
(そうか)
全部、そこに書いてあった。
依存。自己否定。慢性的な不安。
この人は、自分の価値を自分で決められない。
オーレリオが『優秀だ』と言うから優秀で、認められているから存在していられる。
だから、いつも不安なのだ。
いつ見放されるか分からないから。認められなくなったら、自分には何も残らないから。
(――そんな状態で、能力が伸びるわけがない)
わたしは、前世を思い出していた。
上司の顔色を窺いながら仕事をしていた社員。評価に怯えて萎縮していた部下。
能力があるのに、それを出す前に自分で止めてしまう人たち。
あの人たちは、みんな伸びなかった。
場所を変えた途端に化けた人も、何人もいた。
(――この人は、間違った場所にいる)
背筋を、何かが駆け上がった。
それは絶望ではなかった。
むしろ、逆だった。
(だけど説得できない。それは変わらない)
この人は、理解した上で目を閉じることを選んだ。なにを言っても届かない。
でもわかることがある。
(――あそこにいる限り、この人は伸びない)
これは感情の話ではない。
数字が、そう言っている。
オーレリオの隣は、この人の適所じゃない。
どれだけ認められても、どれだけ理想を語られても、七割が眠ったままなのだから。
(――だったら)
わたしは、光る枠から目を離した。
まだ何も分からない。どうすればいいのかも、何年かかるのかも。
だが、一つだけ、確かなことがある。
(この人は、まだ何も出し切っていない)
「兄様」
わたしは、声を絞り出した。
「その人は、兄様を利用しています」
「そうかもしれない」
「じゃあ――」
「それでもいい」
兄様は、そう言った。
あっさりと。
「利用されているとしても、あの方は僕を見てくれた。……それだけで、僕には十分だ」
――十分じゃない。
わたしは、そう言いたかった。
あなたは、まだ三割しか使っていない。
残りの七割を、あの人は引き出していない。引き出す気もない。
本当に見てくれているなら、そんなことにはならない。
だが。
(――言えない)
この目のことを、説明する手段がない。
誰にも見えない文字を根拠に、この人の五年間を否定することはできない。
わたしには、拳を握りしめることしかできなかったのだった。
◇◆◇◆
兄様は、その日のうちに発つと言った。
母様が泣いて止めた。父様が「もう少しいろ」と言った。
だが、彼は首を横に振った。
「学院に戻ります。……まだ、学ぶことがありますので」
荷物はすぐにまとまった。元々、長逗留の予定ではなかったらしい。
馬車が、玄関先に着けられる。
二人の従者が、荷を積んでいる。
兄様は、母様の前に立った。
「母上。……ご迷惑をおかけしました」
「ユリウス、お願い。もう少しだけ」
「申し訳ありません」
彼は深く頭を下げた。
母様が、その背中に手を伸ばして――届かないまま、下ろした。
次に、父様の前に立つ。
「父上」
「うむ」
「……先ほどの言葉は、忘れません」
兄様は頭を下げた。
「ですが、僕は諦めません」
父様はなにも言わなかった。
ただ、息子の肩に手を置いた。
――そして。
兄様はわたしの前に立った。
「リーゼ」
「……はい」
わたしは彼を見上げた。
しばらく黙る兄様。そして。
「君は、僕の妹だ」
一瞬。
その言葉が、和解の合図に聞こえた。
だが。
「だから、はっきり言っておく」
兄様の目に、あの冷たい光が戻った。
「次に会う時は、たぶん、敵として会うことになる」
――息が、詰まった。
「僕はオーレリオ様のもとに戻る。学院を出て、あの方の下で働く。そして、いつか必ず」
彼は、わたしを見下ろした。
「この家の当主になる」
そして。
「その時は、手加減しない」
わたしはなにも言えなかった。
言葉が出なかった。
兄様は馬車の方へ歩き出し、扉に手をかけたところで、足を止めた。
振り返らないまま、言う。
「……守りたかったんだ」
声が、少しだけ揺れた。
「父上も、母上も。……君のことも」
わたしは、駆け出しそうになった。
だが、その前に。
「もう、要らないみたいだけど」
――兄様は、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬が歩き出し、車輪が回り始める。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
白い道を、馬車が東に遠ざかっていく。
やがて、見えなくなった。
◇◆◇◆
白い道を、一台の馬車が東へ向かっていた。
馬車の中は静かだ。
ユリウス・ヴァンザールは、窓の外を見ている。
流れていく景色は、五年前と同じはずだった。
麦畑と、牧草地と、点在する村。
だが違っていた。
畑の緑が濃い。手入れが行き届いている。
道が白い。轍がない。荷馬車が何台もすれ違っていく。
村を通り過ぎる時、農夫たちが手を止めて頭を下げた。
その顔が、明るかった。
(――全部)
彼は目を閉じた。
(全部、あの子がやったのか)
「――よろしかったのですか」
向かいの席から、声がした。
従者の一人だった。二十代半ばの、物腰の柔らかい男。
「……何がだ」
「ご家族と。あのような別れ方で」
ユリウスは答えなかった。
もう一人の従者が、静かに言った。
「オーレリオ様には、私どもからご報告しておきます」
「……ああ」
そして。
「ヴァンザール領の件も、詳しく」
――ユリウスは顔を上げた。
「詳しく?」
「ええ」
男は、穏やかに微笑んだ。
「石灰の窯の数と配置。街道の通行量と、通行料の相場。鉱山の新しい坑道の位置。……それと、お屋敷の使用人の顔ぶれを」
ユリウスは目を見開いた。
「……お前たち、いつの間に」
「丸一日ございましたので」
男は当然のように言った。
「一通り、拝見しました。窯場にも、鉱山にも、街道の詰所にも」
「僕は、そんな指示は」
「オーレリオ様のご指示です」
――ユリウスの喉が、鳴った。
「あの方が?」
「はい。『土産話を楽しみにしている』と、仰っておられたでしょう」
男は微笑んだままだった。
「あれは、そういう意味です」
ユリウスは何も言えなかった。
あの言葉を、彼は好意だと思っていた。
久しぶりに家族に会う自分を、気遣ってくれたのだと。
「……そうか」
彼は、それだけ言った。
「お気になさらず」
男が頭を下げる。
「これが、我々の仕事ですので」
馬車が街道に出た。
白い道が、まっすぐ東へ伸びている。
従者の一人が、足元の荷から何かを取り出した。
――外套だった。
黒く、丈が長い。そして、深い頭巾がついている。
彼はそれを羽織り、頭巾を被った。
顔が、影に沈んだ。
もう一人も、同じものを取り出す。
「王都までは、こちらの方が目立ちませんので」
二つの黒い影が向かいの席に並んだ。
ユリウスは、それを見ていた。
――なぜか。
背筋に冷たいものが走った。
理由はわからない。
ただ、その二つの影が気になったのだ。
なにか引っ掛かる。なにか。
そうだ。今日どこかで、耳にしたような。
彼は思い出そうとして――やめた。
なぜやめたのか、自分でもわからぬまま、窓の外に目を移す。
白い道の向こうに、故郷の山が小さくなっていく。
(――僕は)
ユリウスは目を閉じた。
(僕は、何を守りに来たんだろう)
今の彼に、答えを出すことは出来なかった。