幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
北の村を再訪したのは、それから十日後のことだった。
馬車には父様の姿はない。今日は屋敷で、四つの村の代表を迎える初めての報告会がある。代わりにわたしが北の村へ出向いて、記録の付け方を教える手はずになっていた。
「リーゼお嬢様、今日は父様なしで大丈夫なんですか?」
「大丈夫。制度の話をするだけだから」
隣に座ったマーサが、今日はいくらかマシな顔色で首を傾げる。二度目の馬車で少し慣れたらしい。膝の上の荷物袋からは、相変わらず石が三つ覗いていた。
(本当に何なんだろう、それ)
まあ、いい。今日も腕っぷしの出番はないはずだ。
村の広場には、十人ほどの村人が集まっていた。
「お嬢様。よくぞおいでくださいました」
村長の態度は、前回とは明らかに違っていた。腰の折り方が丁寧で、こちらの目を見て話す。
子供をあしらう顔ではない。
「早速ですが、控えを残す件です。まずは、去年と一昨年の収穫量から書き起こしたいんですけど」
わたしがそう切り出した瞬間、村長の顔が曇った。
「それが……その、正確なところが、どうにも」
「記録がないんですか」
「お恥ずかしい話ですが、うちの村では代々、そういったものは頭の中にしか。わしも歳ですから、去年の分はともかく、一昨年となると……」
周りの村人たちも、揃って気まずそうに目を伏せる。
(――そうか。そこからか)
当然といえば当然だった。字が書ける者が村長を含めて数人、計算ができる者はさらに少ない。そんな村に、突然「記録を残せ」と言っても、そもそも過去のデータが存在しない。
制度の設計を間違えた、というほどではない。だが実装に必要な前提が、決定的に欠けている。
(ゼロから積み上げるしかないか。だとすると、最初の一、二年は照合しても意味がない。その間に誰かが抜いても分からない――)
思案を巡らせていた、その時だった。
「――ろくじゅうよん」
ぽつり、と声がした。
全員が振り返る。
広場の外れ、井戸の脇の石段に、あの青年が座っていた。
二十歳そこそこだろうか。伸びっぱなしの髪が目元を隠している。ひどく痩せていて、着ているものは村の誰よりもみすぼらしい。
その手の中では、丸い小石がくるくると回り続けていた。
「一昨年、ろくじゅうよん。去年、ごじゅうきゅう」
抑揚のない声だった。誰に向けたものでもなく、ただ空気に置くように。
「……またお前か」
村長が、露骨に苛立った声を出した。
「お客人の前だ。あっちへ行っていなさい」
「待ってください」
わたしは村長を制して、青年の方へ歩み寄った。
「今の数字、なんの数字ですか」
青年は答えない。ただ石を回している。目も合わない。
「お嬢様、無駄ですよ。あれはまともに話が通じんのです」
「六十四と五十九。単位は袋ですか、それとも樽?」
わたしがそう聞き直した瞬間。
石の回転が、止まった。
「……ふくろ」
青年の顔が、わずかに上がった。前髪の隙間から、驚くほど澄んだ目が覗いている。
「麦、ふくろ。一昨年ろくじゅうよん、去年ごじゅうきゅう。その前、ななじゅういち。その前、ろくじゅうはち。その前、ごじゅうさん」
すらすらと数字が流れ出す。
わたしは慌てて帳面を開き、書き取った。
「五年分……いえ、もっと言えますか」
「はち、ねん」
「八年分!?」
声を上げたのはマーサだった。
村人たちもざわめいている。
「そんな馬鹿な。八年前など、わしも覚えておらんぞ」
「村長さん。この数字、去年の分だけでも合ってますか」
村長は言葉に詰まり、しばらく指を折っていたが、やがて呆然と呟いた。
「……五十九。合っております。確かに、そのくらいでした」
広場が静まり返る。
わたしは青年の前にしゃがみ込んで、その顔を覗き込んだ。
「他には? 誰がいくら納めたかも、覚えてますか」
「オーレン、じゅうに。ダン、ろく。村長、じゅうご……」
名前と数字が、機械のように連なっていく。
途中で止まることも、迷うこともない。
(――生きた台帳だ)
背筋が震えた。
再びわたしの視界の隅で、光る枠がアップデートされる。
【潜在限界値:SSR(記憶・観察偏重)】
記録がないと思っていた。だが違う。この村には、八年分の記録が丸ごと保存されていた。
ただ、誰もそれを読み出そうとしなかっただけだ。
「なんで、誰も聞かなかったんですか」
わたしが振り返って問うと、村人たちは決まり悪そうに目を逸らしながらブツブツ呟く。
「聞いても、意味の分からんことばかり言うので……」
「不吉なことも言うんです。三年前、あれが急に『山が鳴る』と言い出して。誰も気にせんかったら、その年に土砂崩れが起きて、畑が二つ潰れました」
「去年もそうです。『川、はやい』と。その後、大雨で堤が切れて」
最後に村人の一人が、吐き捨てるように言った。
「知っていたなら、なぜちゃんと言わんのです。あれのせいで畑が潰れたようなもんだ」
(――違う)
胸の奥が、熱くなった。
彼は言ったのだ。ちゃんと、伝えた。
ただ、その言葉が短すぎて、誰にも意味が届かなかった。
「あなたたちが、聞き方を知らなかっただけです」
わたしの声は、思ったより冷たく響いた。
「この人は、見たことを覚えて、規則を見つけて、それを言葉にしてる。ただ、説明するのが下手なだけ。『山が鳴る』の後に何が起きるか、あなたたちが一言でも聞き返していたら、畑は潰れなかった」
村人たちが、気まずげに黙り込む。
わたしは青年に向き直った。
「あなたの言葉は正しかった。誰も聞き返さなかっただけです」
青年の指が、止まった石の上でぴくりと動いた。
その口が、何か言いたげに開きかけて――
――カン、カン、カン、カン!
けたたましい鐘の音が、村中に響き渡った。
「鐘だ! 獣が出た!」
広場が一瞬で騒然となる。
「こんなときに!? 見張りはどうした!」
「見張りは……っ、今日は皆こちらに!」
誰かの叫びに、わたしは息を呑んだ。
(――わたしのせいだ)
記録の説明のために、村の主だった者を広場に集めさせた。その結果、見張りが手薄になった。
この村では春から夏にかけて、山から獣が下りてくるのが毎年のことだと聞いていた。だから見張りと鐘の仕組みがある。それが今日に限って、機能しなかった。
「畑だ! 東の畑に入られた!」
村の男たちが鍬や棒を掴んで駆け出していく。
その先を見て、わたしは凍りついた。
畑の中に、黒い塊がいた。
牛ほどもある巨大な猪。ただし、その体表には血管のような赤い筋が脈打ち、両目は濁った光を放っている。魔力に当てられて変質した、いわゆる魔獣だ。
麦の若い苗を鼻先で根こそぎ掘り返しながら、獣は苛立ったように地面を蹴っている。
「リーゼお嬢様、下がってください!」
マーサがわたしの前に立ちはだかった。
その顔からは、いつもの間の抜けた表情が消えている。
「マーサ、あれ、倒せる?」
「……分かりません。でも、体が『やれる』って言ってます」
「相変わらず不安な自己申告ね」
村の男たちが、獣を取り囲もうと畑へ散っていく。
だが、明らかに動きが素人だ。腰が引けている。何人かは既に、恐怖で足がすくんでいた。
(このままだと、誰か死ぬ)
わたしは必死に頭を回転させた。
あの体格の獣を、農具しか持たない村人が倒すのは無理だ。目標は撃退ではなく、畑から引き離すこと。
だが、どこへ、どうやって。
その時。
「――みっつめの、まがりかど」
背後で、あの声がした。
振り返ると、青年が立っていた。
石を握りしめたまま、獣をじっと見つめている。
「なに? もう一度言って」
「三年まえと、おなじ。おなじばしょから、はいった。おなじ、まがりかど」
「同じ場所から入ってきたってこと?」
「みっつめ。いつも、みっつめ」
わたしは畑の縁を目で追った。
村と畑を隔てる柵。その切れ目が、点々と並んでいる。三つ目――確かに、その付近の柵が崩れていた。
「三年前も、そこから入った。そのあとは? どこへ行った?」
「かわ。みず、のむ」
「川へ? 畑を通るのは近道だから?」
青年が、こくりと頷いた。
(――そうか)
視界が、開けた気がした。
あの獣は畑を荒らしに来たんじゃない。川へ向かう途中で、たまたま麦の匂いに気を取られただけだ。
なら、追い払う必要はない。通してやればいい。
「鐘は? 三年前、鐘を鳴らしたらどうなった?」
「にし。にげた。でも、もどってきた。にどめ、もっと、あばれた」
(鳴らしちゃ駄目だ)
「鐘を止めて! 今すぐ!」
わたしは声を張り上げた。
「なっ、何を仰る! 鐘は獣を追い払うために――」
「鐘でそのまま追い払うと、また戻ってきます! 三年前がそうだった! 記憶にありませんか!?」
村長が目を見開く。
どうやら覚えがあるようだ。
「村長さん、川はどっちですか!」
「か、川は……畑の向こう、東に」
「なら畑の東側を開けてください! 誰も立たせないで! 男の人は全員、西と南に回って!」
村人たちが困惑した顔でこちらを見る。
子供の指示に従うのか、という迷いが露骨に浮かんでいた。
「聞いてください!」
わたしは腹の底から叫んだ。
「あの獣は東の川に行きたいだけです! 道を塞ぐから暴れる! 通り道を空けて、こっちから追い立てれば、勝手に出ていきます!」
沈黙。
「――お前たち、聞け!」
声を上げたのは、村長だった。
「東を空けろ! 西へ回れ! お嬢様の言う通りにするんだ!」
男たちが弾かれたように動き出す。
わたしは村長を見上げた。彼は苦い顔で、しかしはっきりと頷いた。
「……あれの言葉を、初めて誰かが繋いでくれましたので」
鐘が止み、村人たちが西と南に散る。
東側が、ぽっかりと空いた。
だが。
「――リーゼお嬢様、あいつ、こっちに来ます!」
マーサの声に振り向くと、魔獣がこちらを見ていた。
濁った目が、広場に残っているわたしを捉えている。
(まずい。子供のわたしは脅威が少ないと、見透かされた)
地面を蹴る音。
巨体が、まっすぐこちらへ突進してくる。
「マーサ!」
「はい!」
マーサが前に出る。
だがその手には武器がない。素手で、あの巨体を止められるのか。
――と。
マーサの手が、無造作に荷物袋へ伸びた。
掴み出したのは、あの石だった。
「え……あれ? わたし、なんで」
本人が困惑した顔をしている。
だが、腕はもう動いていた。
ひゅっ、と空気を裂く音。
放たれた石は、獣の左目の際、ほんの数センチ横の眉間を打った。
ゴッ、という鈍い音。
魔獣が悲鳴を上げ、体をよじる。突進の軌道が、大きく右へ逸れた。
「もう一つだよマーサ!」
わたしが叫ぶより早く、二つ目が飛んでいた。
今度は右の後ろ足の付け根。獣がつんのめり、体勢を崩す。
「東へ! 東へ追って!」
村人たちが、西と南から棒を叩いて音を立てる。
逃げ道は東しかない。混乱した魔獣は、開いた方角へ向かって走り出した。
そのまま畑を突っ切り、東の斜面を駆け下りて――川へ向かう茂みの中へ消えていく。
あとには、荒らされた畑と、呆然と立ち尽くす村人たちだけが残された。
「……終わり、ましたね?」
マーサが三つ目の石を手に持ったまま、きょとんとしている。
終わった。だいぶ痛い目も見せた。魔獣も学習して、ここへは近づかなくなるだろう。
――それにしても。
「マーサ。その石、こういうときのために持ってたの?」
「え、あの、別にそんなつもりはなかったんですけど……。今も、どうやって投げたのか自分でもよく」
やっぱり無自覚か。
(本当に何者なのよ、この子)
だが今は、それより。
わたしは振り返った。
青年は、まだ石段の脇に立ったまま、逃げていった獣の方角を見ていた。
「ありがとう。あなたのおかげで、誰も怪我をしなかった」
青年は答えない。
ただ、指先の石が、また回り始めていた。
――と、その時。
「……すまなかった」
しわがれた声がした。
村長が、青年の前に立っていた。
その顔は、ひどく歪んでいる。
「三年前、山が鳴ると言った時。去年、川が速いと言った時。……わしは、お前を気味悪がって、追い払った」
村人たちも、次々と近づいてくる。誰も、口を開けない。
「畑が潰れたのは、お前のせいじゃない。聞かなかった、我々のせいだ」
青年は、顔を上げなかった。
ただ石を回し続けている。反応らしい反応はない。
村人たちの間に、気まずい沈黙が落ちた。
長年の距離は、一日では埋まらない。それは当然のことだ。
わたしは、その沈黙の中に踏み込んだ。
「あなたに、聞きたいことがあります」
青年の前にしゃがみ込む。
目線を、彼と同じ高さに。
「うちの屋敷に、来る気はありませんか」
村人たちがざわめいた。
「あなたが覚えていることを、紙に書けるようにしてあげる。字も、書き方も、全部教える。……あなたの頭の中にある八年分を、みんなが読めるようにする」
石の回転が、止まった。
「そうしたら、次に山が鳴る時。あなたが何か言ったら、みんなが分かるようになる」
前髪の奥の目が、ゆっくりとわたしを捉えた。
「……よめるように?」
「そう、読めるようにする。あなたの言葉を」
長い、長い沈黙があった。
「その方がよろしいでしょうな」
横から口を挟んだのは、村長だった。
「あれは村におっても、仕事もありませんし。お嬢様のお屋敷で置いていただけるなら、村としても――」
その声には、はっきりと安堵が混じっていた。
厄介払いができる、という安堵が。
わたしは、村長をちらりと見上げた。
彼は目を逸らす。自分でも分かっているのだろう。
(――いい。それでいい)
この人たちを責めても、何も変わらない。
変えるべきは、この人が正しく評価される場所に行くことだ。
わたしは青年に向き直った。
「これは仕事の話です。うちで働いてください。給金も出します。……望むなら、いつか、この村の記録係として戻ってくることもできる」
青年は、じっとわたしを見ていた。
やがて、握っていた石を、そっと地面に置くと。
「……いく」
ぼそりと、そう言った。
「ありがとう。じゃあ、契約成立だね」
わたしは手を差し出した。
青年はしばらくその手を見つめていたが、おずおずと、泥だらけの手を伸ばしてくる。
握手。
その手は驚くほど冷たかった。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかった」
わたしがそう言うと、青年の指がぴくりと動いた。
村人たちが、はっとした顔をする。
これまで誰も、彼の名を呼んでいなかった。きっと何年も、そうなのだろう。
「……テオ」
小さな、掠れた声だった。
「テオ、ね。わたしはリーゼ。よろしく」
テオは、こくりと頷いた。
前髪の奥で、その目がわずかに揺れたように見えた。
帰りの馬車。
テオは荷物といっても何も持たず、身一つで乗り込んできた。今は窓の外を、じっと見つめている。時折、指先で何かを数えるように動かしていた。
「……リーゼお嬢様」
隣でマーサが、ひそひそと囁いてくる。
「わたし、今日よく分からないうちに石を投げていました」
「知ってる。見てた」
「なんで石が袋に入っていたんでしょう」
「わたしが聞きたい」
わたしは肩をすくめて、それから膝の上で指を折った。
屋敷の実務責任者。帳簿係。買い出しと交渉の担当。護衛。そして、記録と観察。
(……揃ってきた)
まだ足りない。全然足りない。
この家が抱える問題は、屋敷と村だけじゃない。まだ会ったことのない兄のこと。近隣の他家との関係。なんなら、傾いた領地を狙う者たちがいるかもしれない。
でも。
「テオ。屋敷に着いたら、まず字を覚えてもらうけど、いい?」
「……うん」
「大変だよ」
「……やる」
短い返事だった。
だがその声には、さっきまでなかった熱があった。
わたしは窓の外に目をやる。
夏に向かう若葉の緑が、風に揺れていた。
(適材適所。次はどこに、誰がいる?)