幼女な合理主義令嬢は適材適所を愛してる~前世人事部が埋もれたSSR人材で最強組織をつくります 作:ユズナミキ
テオが屋敷に来て、三日が経った。
与えられた部屋は、屋敷の東棟にある使用人用の小部屋だ。ベッドと机と、小さな窓が一つ。北の村で彼が寝起きしていた納屋よりは、はるかにましなはずだった。
「……リーゼお嬢様。あの、テオさん、また部屋から出てきません」
朝食のあと、マーサが困り顔で報告してくる。
「食事は?」
「廊下に置いておくと、いつの間にかなくなってます。ちゃんと食べてはいるみたいですけど、誰かがいる時には出てこないんですよ」
(……野良猫か?)
わたしは腕組みをしてしまった。
いや、当然といえば当然だ。何年も村で透明人間扱いされてきた人間が、いきなり二十人が働く屋敷に放り込まれて、すぐに馴染めるわけがない。
「行ってみる」
「あ、わたしもお供します!」
「マーサは来ないで」
「えっ!?」
マーサが大袈裟に胸を押さえる。
「な、なぜですか! わたし、なにか失礼を!?」
「あなたが悪いんじゃなくて、人数の問題。二人で行ったら、たぶん出てこない」
東棟の一番奥の扉を、わたしは軽く叩いた。
「テオ。リーゼだけど」
返事はない。
だが、中で何かがことりと動く音がした。
「入るよ」
扉を開けると、テオは窓辺の床に座り込んでいた。
ベッドは、使われた形跡がない。三日前とまったく同じ、皺一つない状態で整えられている。
「ベッド、使ってないの」
「……たかい」
ぼそりと返事があった。
「高いところが苦手?」
「……そう」
なるほど。納屋の藁の上で寝ていた人間には、床から離れた寝床が落ち着かないのだろう。
「じゃあ、寝具を床に敷けるようにしよう。マーサに言っておく」
テオは答えなかったが、指先の石の回転が、ほんの少し緩んだ気がした。
わたしは持ってきたものを、床に置いた。
石板と、蝋石。子供が字を覚える時に使う、書いては消せる道具だ。
「今日から、字を教える。約束したでしょ」
テオの視線が、石板に落ちる。
それから、すっと逸れた。
「……いい」
「よくない。あなたの頭の中にあるものを、みんなが読めるようにするって言ったの、わたしだから」
わたしは床に座り込むと、石板に大きく一文字書いた。
「これが『一』。これが『二』。数字から始めよう。あなたが一番得意なやつ」
テオはしばらく石板を見つめていたが、やがて、おずおずと蝋石を手に取った。
そして――固まった。
手が、動かない。
蝋石を握ったまま、石板の上でぴたりと止まっている。指先が、かすかに震えていた。
「……テオ?」
顔を覗き込むと、彼は目を伏せていた。
呼吸が浅い。額に、うっすらと汗が浮かんでいる。
「書けない?」
「……」
「頭の中では、形は分かってる?」
「……わかる」
「じゃあ、なんで書けないの」
テオは答えなかった。
ただ、蝋石を握る手が、じりじりと震え続けていた。
その日から一週間、わたしは毎日テオの部屋に通った。
結果は、芳しくなかった。
テオは字の形をすぐに覚える。一度見せれば、次の日には完璧に記憶している。「これは何の字?」と聞けば、迷いなく答える。
だが、書こうとすると手が止まる。石板の前で固まり、汗をかき、やがて蝋石を置いてしまう。
(覚えられるのに、書けない。……なぜ?)
八日目の午後、わたしは書斎で頭を抱えていた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました。……うわ、すごい顔してます」
「マーサ。人が何かをできない時、理由って何だと思う?」
「え? えーと……やり方が分からない、とか?」
「テオは分かってる。字の形は完璧に覚えてる」
「じゃあ、体が動かないとか」
「手は動く。石は回せるし、食器も使える」
わたしは机に突っ伏した。
「なんでよ……」
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、あの古株の女中――今は屋敷の実務責任者だ――だった。
「お嬢様。差し出がましいようですが、一つよろしいでしょうか」
「なに?」
「テオという青年のことです。……あの子は、誰かに見られていると、書かないのではありませんか」
わたしは、はっと顔を上げた。
「昨日、廊下を通りかかった時のことです。部屋の扉が少し開いておりましてね。あの子は一人で、床に指で何かを書いておりました」
息が詰まった。
「私が足を止めた途端、ぴたりと止めました。……こちらを見もしないのに、気配だけで」
(――そういうことか)
視界が、開けた。
書けないんじゃない。
見られている前で、書けないんだ。
わたしはようやく理解した。彼の恐怖の正体を。
テオは何年も、自分の言葉を否定され続けてきた。「山が鳴る」と言えば気味悪がられ、「川が速い」と言えば追い払われた。彼にとって、自分の中にあるものを外に出す行為は、そのまま拒絶されることと同じだった。
字を書くというのは、頭の中を紙の上に出すことだ。
誰かが見ている前でそれをやるのは、彼にとって、また否定されるために身を差し出すのと変わらない。
「……ありがとう。助かった」
わたしが顔を上げると、女中は一礼して、しかし少しだけ躊躇うように付け加えた。
「お嬢様。私も以前は、お嬢様に反対して怒鳴った人間です。でも、お嬢様のお陰でより遣り甲斐のある仕事を見つけられました。あの子もきっと、お嬢様の気持ちに応えたいと思っているはず……やれることを見つけたいはず。だから」
「わかってる。応援、ありがとうね」
翌日、わたしはテオの部屋に行かなかった。
代わりに、石板と蝋石を扉の前に置き、こう書いた紙を添えた。
『昨日の続き。答えは書いておいて。見に来ないから』
そして、本当に見に行かなかった。
次の日の朝。
扉の前の石板には、たどたどしい線で、しかし確かに数字が並んでいた。
一から十まで。全部、正しい。
(……よし)
わたしは石板を消して、新しい問題を書いた。
『よくできました。次はこれ』
そのやり取りを、五日続けた。
テオは一度も間違えなかった。字の形は日に日に整い、線の震えも減っていく。
六日目、わたしは紙にこう書いた。
『そろそろ直接教えたいんだけど、部屋に行っていい?』
翌朝、石板にはこうあった。
『いい』
初めて、彼が自分から書いた言葉だった。
「見ないでください」
部屋に入ったわたしに、テオは開口一番そう言った。
「見ないで、って?」
「かいてるとこ。……みられると、とまる」
初めて、彼が自分の状態を言葉にした。
わたしは頷いて、彼に背を向けて座った。
「じゃあ、こうしよう。わたしは向こうを向いてる。書き終わったら教えて」
「……うん」
背中越しに、蝋石が石板を擦る音が聞こえてくる。
かり、かり、かり。
その音を聞きながら、わたしは思った。
(前世でも、こういう子はいた)
会議では一言も喋らないのに、後で提出させた書面には誰よりも鋭いことを書いてくる社員。声の大きい人間ばかりが評価される場所で、そういう人間は簡単に埋もれた。
方法を変えるだけでよかったのだ。
全員に同じやり方を強いる必要なんて、どこにもなかった。
「……できた」
振り返ると、石板には昨日教えた十文字が、綺麗に並んでいた。
「完璧。すごいね」
テオの指が、ぴくりと動く。
褒められることに、まだ体が慣れていないのだろう。
それから二週間で、テオは屋敷の空気に少しずつ溶けていった。
きっかけを作ったのは、意外にも帳簿係の少年だった。
「あの、テオさん。この数字、合ってますかね」
ある日、少年が計算の途中で首を傾げながら、テオの部屋の前で立ち止まった。
わたしが止める間もなく、扉の隙間から紙を差し込む。
「三年前の繰り越しなんですけど、どうにも合わなくて。……あ、返事はいいです。分かったら、そこに書いといてください」
少年はそう言って、さっさと立ち去った。
(……わかってる子だな)
感心してしまった。
同じく才能を掘り起こされた者として、彼はテオの扱い方を直感的に理解していたらしい。
翌朝、紙は扉の外に戻されていた。
余白に、たどたどしい字でこう書かれていた。
『そのとし、しゅうかく、ろくじゅうはち。かきこみ、ごじゅうきゅう。ちがう』
「合ってる! 合ってますよこれ!」
少年が興奮して駆け込んできた。
「三年前の記録、書き換えられてたんです! 執事長のやつ、こんな昔から……!」
その日から、少年は毎日テオの部屋の前に紙を置くようになった。
テオは毎朝、答えを書いて返す。
顔を合わせない文通のような関係が、二人の間に成立していた。
ところでそんな日々の中、マーサの方はといえば。
「テオさーん、お茶ですよー。あ、ここに置いときますねー。あとお菓子も。厨房のおじいちゃんが焼いたやつです。すっごく美味しいです。わたし三つ食べました」
毎日、扉の前で一方的に喋っていた。
「今日はですね、洗濯場でびっくりすることがあったんです。シーツが風で飛んでいって、庭の木に引っかかって、それを取ろうとしたら今度はわたしが引っかかって――」
「マーサ。テオが困ってる」
「大丈夫です! 返事は求めてませんから!」
実際、テオは困っていなかった。
扉の向こうで、じっと聞いていた。
そしてある日、わたしは見た。
マーサが喋り終えて立ち去った後、扉がほんの少しだけ開いて、テオが皿を引き入れるのを。
その顔に、かすかな笑みのようなものが浮かんでいたのを。
(……こういうの、あの子は得意だな)
難しい話は右から左のくせに、人の懐に入るのだけは異様に上手い。
適材適所。
そして、ひと月が経った頃。
「お嬢様。……できました」
テオが、初めて自分から書斎にやってきた。
その腕には、分厚い紙束が抱えられている。
わたしが受け取って開くと、そこには――
「……八年分」
息が止まった。
北の村の、八年分の記録。
年ごとの収穫量。誰がいくら納めたか。天候。獣が出た回数と場所。村の人口の増減。
全部、彼の頭の中から書き出されたものだ。
「テオ、これ……」
「まだ、ある」
彼は淡々とそう言った。
「じゅうねんぶん、おぼえてる。かくの、おそいから、まだ」
(十年……)
わたしは震える手で紙をめくった。
字は決して綺麗ではない。だが正確で、規則的に並んでいる。
「すごい。すごいよ、テオ」
顔を上げると、テオは目を伏せていた。
だがその耳が、うっすらと赤い。
「あの、テオ。一つだけ、聞いていい?」
「……なに」
「褒められるの、嫌?」
「……」
長い沈黙のあと、彼はぼそりと言った。
「……はじめて、だから。わからない」
その夜。
わたしは書斎で、テオの記録を一枚ずつ読み込んでいた。
村の八年が、そこにあった。
豊作の年、不作の年。誰が生まれ、誰が死んだか。どの畑がいつ潰れたか。
(これは、宝の山だ)
この記録があれば、村の生産力を正確に把握できる。年ごとの変動から、次の不作を予測することもできる。制度の設計精度が、桁違いに上がる。
わたしは夢中でページをめくった。
――そして、手が止まった。
巻末に、彼が独自に付けたらしい一覧があった。
題も何もない。ただ、日付と出来事が並んでいる。
『ねんぐ、の、ひ。しつじちょう、きた』
執事長の来訪記録だった。
いつ来て、何をして、いつ帰ったか。八年分。
(……几帳面だな。でも、これは別に――)
視線を走らせて、わたしは違和感に気づいた。
年貢の徴収は、年に二度。春と秋だ。
だが記録によれば、執事長は四年前から年に四度から五度、村を訪れている。
残りの二、三度は、何のために来たのか。
わたしは指で日付を追った。
徴収期以外の来訪は、いずれも冬。それも、決まって同じ時期だ。
そして、その日の記述には、必ず同じ一文が添えられていた。
『ほかにも、ひと。むらのひとじゃない』
(……村の人じゃない?)
背筋が、冷えた。
わたしは書斎を飛び出し、東棟へ走った。
「テオ! 起きてる?」
扉を叩くと、少ししてから、静かに開いた。
寝ぼけ眼のテオが、石を握ったまま立っている。
「この記録のこと。冬に執事長が来た時、一緒にいた人。覚えてる?」
テオは、こくりと頷いた。
「どんな人だった?」
「……くろい、がいとう。かおは、みえない。いつも、ふたり」
「顔が見えない?」
「ふーど。ずっと、かぶってる」
わたしは唾を飲み込んだ。
「その人たち、村で何をしてた?」
「はなしてた。しつじちょうと。……ぶつぶつ、ちいさいこえで」
「話の内容は?」
「きこえない。とおかった」
テオはそこで言葉を切って、少し考えるように石を回した。
そして、付け加えた。
「でも、いちど。きこえた」
「――なに?」
テオは、抑揚のない声で、記憶をそのまま再生した。
「『あととりさまは、じゅんちょうです』」
わたしの頭の中で、なにかが軋む音がした。
(あととり――兄様のことか?)
まだ会ったこともない、王都に留学しているという兄様。
執事長が、フードの男たちと、冬の村で、兄様の話をしていた。
「その人たち、いつから来てた?」
「……よねんまえ、から」
四年前。
執事長の横領が始まった時期と、ぴたりと一致する。
そういえば、執事長とメイド長が密談していたとき、メイド長は言っていなかったか?
『跡取りはご長男様なんだから、放っておけばいいのよ』
と。
ただの偶然だろうか。いや。
(――これは、なんだ?)
窓の外では、夏の始まりの風が木々を揺らしている。
その音が、やけに不穏なものに思えたのだった。