冒険者ギルドの看板犬は、実は最強の番犬でした 作:もふもふ
王都ヴァレステルの朝は早い。
東の空が白み始める頃には、南西区の旅籠通りには荷車が入り、焼きたてのパンを積んだ籠が軒先へ並び、昨夜の酒がまだ残っていそうな冒険者たちが、剣や槍を肩に王都冒険者ギルドへ集まり始める。
そんな人の流れを横目に、ギルド正面の石段では一匹の灰色の犬が丸くなっていた。
少し垂れた耳に、柔らかそうな毛並み。身体つきは大型犬ほどではないが、抱き上げるには少々骨が折れそうな程度には大きい。前足を鼻先へ揃え、朝日が落ちてくる場所をきっちり選んで目を閉じている姿は、どう見ても只の犬そのものだった。
「おう、ルゥ。今日もいい場所取ってんな」
通りがかった冒険者が、その頭を遠慮なく撫でる。
ルゥは目を開けなかった。
革と鉄。それから昨夜の酒の匂い。右足を庇っているせいで、歩幅が左右でわずかに違う。昨日の帰還時にはなかった傷だから、おそらく昨晩、酒場で転びでもしたのだろう。
まったく、魔物相手に生きて帰っておきながら、酒場の椅子で怪我をするとは。
「ん? なんだその顔。心配してくれてんのか?」
男は勝手にそう解釈して笑うと、もう一度だけルゥの頭を撫でて建物へ入っていった。
心配などしていない。
ただ、次に依頼へ出る前に足を治しておけ、と思っただけだ。
ルゥは小さく鼻を鳴らし、再び瞼を閉じた。
王都冒険者ギルド・ヴァレステル本館。
王国内でも最大規模を誇る冒険者ギルドで、魔物討伐から護衛、採取、探索、荷運びまで、王都とその周辺で起こる面倒事のかなりの割合がここへ持ち込まれる。
そしてルゥは、そのギルドで飼われている看板犬――ということになっていた。
「おはよう、ルゥ」
聞き慣れた声に片耳だけを持ち上げる。
栗色の髪を後ろで束ねた受付主任のミナが、開館準備の途中でこちらへ寄ってきた。
「また外で寝てたの? 風邪ひいても知らないわよ」
余計な心配である。
この程度の冷え込みで体調を崩したことなど、一度もない。
ミナはそんなルゥの事情など知らず、しゃがみ込むと耳の後ろを指先で掻いた。
ルゥの後ろ脚が、わずかに動きかける。
止めた。
危なかった。
「ふふ。そこ好きよね」
違う。
たまたま手の位置が悪くなかっただけである。
「今日もいい子にしてたら、あとで干し肉あげるからね」
ミナは満足そうに立ち上がり、ギルドの中へ戻っていく。
ルゥはその背を見送った。
餌付けされているわけではない。
干し肉に罪はないので、与えられれば食べる。それだけだ。
やがて正面扉が開かれると、待っていた冒険者たちが一斉に建物の中へ流れ込んだ。
ルゥも身体を伸ばして立ち上がる。
前足を伸ばし、背を反らす。ひとつ欠伸をしてから、騒がしい人間たちの後を追って中へ入った。
ギルドの一階には、朝特有の匂いが満ちている。
乾いた革。手入れされた武器の油。薬草。安い石鹸。昨日の血がわずかに残った防具。朝食代わりのパン。眠気。緊張。そして、仕事を取りたいという焦り。
匂いというものは、人間が思っているよりずっと饒舌だ。
入口から入って右手、受付カウンターの少し手前には、ルゥ専用の丸い敷物が置いてある。
職員たちは、日向で寝るのが好きな犬のために置いたつもりらしい。
悪くない場所だった。
正面入口が見える。依頼掲示板も受付も、二階へ続く階段も視界に入る。匂いの流れもよく、人が入ってくればすぐにわかる。
番をするには都合がいい。
ルゥがいつものように伏せると、間もなく聞き慣れない足音が近づいてきた。
「うわ、本当に犬がいる」
若い男の声だった。
片目を開ける。
三人。
先頭にいるのは十六、七歳ほどの少年。革鎧は新品に近く、腰の短剣もまだ手に馴染んでいない。隣には短槍を持った少女、その後ろには弓を背負った痩せた青年。
全員、装備の割に立ち方が軽い。
新人だ。
「名前はルゥよ」
受付の向こうからミナが声をかけた。
「このギルドの看板犬。撫でても大丈夫よ」
「へえ……」
先頭の少年が近づいてくる。
警戒心は薄い。もっとも、ギルドの床で寝ている犬を警戒する方が珍しいだろう。
「俺、エリオ。今日からここで冒険者やるんだ。よろしくな、ルゥ」
そう言って、エリオは頭へ手を伸ばした。
ルゥは避けなかった。
触れ方が恐る恐るで、力加減も定まっていない。耳の根元を外しているし、顎の下へ回すという発想もない。
撫で方は下手だった。
ただ、悪意はない。
匂うのは緊張と期待、それから腹の底にある少しの怖さくらいだ。
悪くない。
ルゥが尻尾を一度だけ床へ打つと、エリオの顔がぱっと明るくなった。
「お、懐かれた!」
「調子に乗るなよ」
低い声が飛んできた。
訓練場へ向かう途中だったグラン・ロウが、片足をわずかに引きずりながら近づいてくる。
元Aランク冒険者。
今は新人の訓練を任されている男で、無精髭と仏頂面のせいで、初対面の新人にはたいてい怖がられる。
「犬に挨拶する前に、依頼書の読み方を覚えろ。読まずに受ける奴から死ぬ」
「は、はい!」
エリオたちの背筋が揃って伸びる。
グランはそれを鼻で笑い、それからルゥへ目を向けた。
「こいつらが変な依頼を掴みそうになったら、噛んで止めてやれ」
「わふ」
短く応じると、周囲で聞いていた冒険者たちが笑った。
「グランさん、犬に新人教育までさせんのかよ」
「ルゥの方が新人より危険察知は上手いぞ」
「否定できねえ」
騒がしい。
だが、嫌いではない。
少なくとも、“彼女”がこの場所を守ろうとしているうちは。
二階から靴音が下りてきた。
ルゥの耳が自然とそちらを向く。
規則正しいが、いつもよりほんのわずかに重い足取り。昨夜は遅かったらしい。紙とインク、それに珈琲の匂いもする。
姿を見るまでもない。
セレナ・アーヴィング。
このギルドを預かる若きギルドマスターであり、ルゥがこの場所にいる唯一の理由でもある。
「おはようございます」
淡い金髪をまとめたセレナが一階へ降りてくると、先ほどまで好き勝手に喋っていた冒険者たちの空気が、ほんの少しだけ静かになった。
「本日も依頼内容と危険度を確認してから受注してください。特に新人の方は、受付職員の説明を最後まで聞くように」
「はーい」
「昨日も同じこと言われたぞ」
「昨日聞かなかった人がいたからでしょう」
セレナが苦笑する。
その視線がルゥを捉えると、仕事中の張った表情がわずかに緩んだ。
「ルゥ。おはよう」
ルゥは伏せていた身体を起こし、彼女の足元まで歩く。
セレナがしゃがみ込み、頭を撫でた。
耳の後ろから首筋へ、流れに沿って指が入る。
やはり上手い。
「今日もよろしくね」
「わふ」
それくらいは言われずとも。
そう思ったところで、奥から副ギルド長のオルドが書類の束を持ってきた。
「ギルドマスター。本日の新規依頼です。通常掲示十九、審査保留六、確認待ち二件。それから昨日の補償金申請について、会計から話が」
「朝から多いですね……」
セレナが困ったように笑いながら書類を受け取る。
その瞬間だった。
ルゥの鼻先に、ひどく場違いな匂いが触れた。
目を細める。
書類そのものに血が付いているわけではない。もっと薄い。紙を運んだ誰かの手袋か袖に付着していたものが、ごくわずかに移ったのだろう。
血。
それだけではない。
甘ったるく、鼻の奥へ残る薬臭さ。
魔獣誘導香。
森や荒野で魔獣を一ヶ所へ集めるために使われる薬だ。扱い方を誤れば人間も巻き込む代物で、普通の採取依頼に関わる匂いではない。
ルゥは立ち上がった。
「ルゥ?」
セレナが気づく。
書類の束へ近づき、鼻を寄せる。
一つ。
二つ。
三つ。
違う。
四枚目。
これだ。
ルゥは紙の端を咥えた。
「あっ、ルゥ」
近くにいた若い職員が声を上げる。
「こら、依頼書は玩具じゃ――」
「待って」
止めたのはセレナだった。
ルゥは紙を離さない。
セレナが束からその一枚を引き抜き、内容へ目を落とす。
「リュネル森外縁部での月灯草採取……推奨EからD。報酬は――」
そこで眉が動いた。
「相場の三倍?」
オルドも横から覗き込む。
「急ぎならあり得ない額ではありません。しかし、少々高すぎますな」
「依頼主は……ヴァルド商会。代理人名義」
ルゥの喉から、低い音が漏れた。
周囲の冒険者が振り向く。
「ルゥが唸ったぞ」
「何だ、また変な依頼か?」
「犬の審査が入ったな」
軽口が飛ぶ一方で、グランは笑わなかった。
ちょうど依頼掲示板から戻ってきたエリオが、セレナの持つ紙を見て足を止める。
「あ、その依頼」
「知っているんですか?」
「さっき見ました。報酬いいから、俺たちでも受けられないかなって」
隣の少女が慌てて首を振る。
「まだ受けてません! 見てただけです」
「そうですか」
セレナはそう答えたものの、表情から柔らかさは消えていた。
そこへ、奥の記録室から記録官が呼ばれてやってくる。分厚い眼鏡を押し上げながら依頼書へ目を通し、最後にルゥを見た。
「この子が噛んだのですか?」
「ええ」
「なら、一度止めましょう」
あまりに即答だったため、先ほどルゥを止めようとした若手職員が目を丸くした。
「部長、本当に犬が噛んだだけで……?」
老いた記録官は眼鏡越しに彼を見る。
「その犬のほうが、君より危険な依頼を見抜くからねぇ」
ルゥは尻尾の先を一度だけ揺らした。
この男は嫌いではない。
「とはいえ、正式に受理した依頼です」
オルドが現実的な問題を指摘する。
「根拠なく止めれば、商会側から抗議を受けます」
「わかっています」
セレナは依頼書を見つめたまま頷いた。
「依頼主と月灯草の需要、最近のリュネル森周辺の被害報告を確認してください。それまでは掲示を保留に」
「承知しました」
記録官が依頼書を受け取る。
これで終わりかと思ったが、セレナはルゥを見下ろした。
目が合う。
嫌な予感がした。
「ルゥ」
声が少しだけ柔らかくなる。
その声で頼まれると、断りづらいことを彼女は昔からよく知っている。
「お願い。少しだけ、見てきてくれる?」
やはりか。
人間の依頼など、人間同士で勝手に調べればいい。
商人が嘘をつこうが、冒険者が欲に目を眩ませようが、本来ルゥの知ったことではない。彼が守るべきものは、昔からたったひとつだ。
だが、そのたったひとりが困っている。
ならば仕方がない。
ルゥは小さく息を吐く代わりに、短く鳴いた。
「わふ」
「ありがとう」
セレナが笑う。
その顔を見れば、もう文句を言う意味もなかった。
ルゥは受付を離れ、正面扉へ向かう。
「ルゥ、散歩か?」
「昼までには帰ってこいよー」
「帰ったら干し肉あるからね!」
背後から好き勝手な声が飛んできた。
散歩ではない。
そう思いながら、ルゥは王都の朝へ踏み出す。
西から吹き込んできた風に鼻を上げれば、石畳、馬車、人間、パン、泥、その何百という匂いの向こうに、ほんのわずかだが先ほどと同じ甘ったるい薬臭さが混じっていた。
リュネル森。
血。
魔獣誘導香。
ルゥの眼差しが細くなる。
人通りのある大通りでは、灰色の犬が少し急ぎ足で駆けているようにしか見えない。
だが、横道へ入り、人の目が切れた瞬間。
灰色の影は、風よりも速く駆け出した。