冒険者ギルドの看板犬は、実は最強の番犬でした 作:もふもふ
王都ヴァレステルの大通りを、一匹の灰色の犬が駆けていた。
朝の人波はすでにかなりのものだ。荷車を引く馬、籠を抱えた商人、仕事へ向かう職人、依頼帰りらしい冒険者。通りには人と匂いと音が幾重にも重なり、普通の犬なら鼻を上げただけで目当ての匂いを見失いそうなものだ。
だが、ルゥにとっては違った。
石畳に残った泥。車輪にこびりついた藁。昨日降った雨の湿り気。焼きたてのパン。安酒。香水。馬糞。鉄。汗。そのすべてを分けて嗅ぎ取りながら、その中から先ほどの依頼書に残っていた匂いだけを拾い上げる。
甘ったるい薬臭さ。
魔獣誘導香。
それに混じる、わずかな血と上等な香油。
匂いは西へ続いていた。
もっとも、人目の多い場所で本気を出すほど、ルゥも考えなしではない。
「お、ルゥじゃないか」
露店の主人が声をかけてくる。
「今日は散歩か?」
ルゥは速度を落とし、いかにも機嫌のいい犬らしく尻尾をひと振りして、その前を通り過ぎた。
散歩ではない。
そう言いたいところだが、説明する気もない。
「相変わらず愛想いいなあ」
背後から笑い声。
ルゥは無視した。
大通りを抜け、洗濯物の張られた細い路地へ入る。前方に人影はなく、左右の窓も閉じている。それを確認すると、ルゥは身体を低く沈めた。
地面を蹴る。
灰色の身体が跳ねるように加速し、次の瞬間には十数歩先にいる。
濡れた石畳を滑ることもなく曲がり、積み上げられた木箱へ飛び乗る。そのまま塀の上を走り、屋根から屋根へ渡って大通りを一つ飛ばした。
犬として走る程度なら目立たない。
だが、これ以上になると話が変わる。
昔、一度だけ本気に近い速度で王都を横切ったことがある。その際は「灰色の精霊を見た」だの「風の魔物だ」だのと妙な噂が立ち、三月ほど消えなかった。
面倒だった。
以来、見られている場所ではそれなりに加減している。もっとも、その〝それなり〟でも大抵の馬よりは速いのだが。
屋根から降りると、再び人通りのある道へ出た。
何事もなかったように速度を落とす。
ほどなく王都西門が見えてきた。
ヴァレステルを囲う外城壁に設けられた大門の一つで、朝は特に往来が多い。近郊の農村から来た荷車が並び、逆に冒険者や商人は街道へ出ていくため、門兵たちは通行許可と荷物の確認に追われていた。
その脇を抜けようとしたところで、
「おいおい。勝手に出るのか?」
門番の一人がルゥに気づいた。
顔見知りだ。
ルゥは足を止める。
「またギルドから散歩か? ちゃんと帰れよ」
子供にでも言い聞かせるような口調だった。
ルゥは男を見上げる。
腰の剣。左肩の革紐が傷んでいる。昼までに切れる可能性あり。
それだけ確認してから、
「わふ」
短く鳴いて歩き出した。
「おう、気をつけろよ!」
門兵は笑って見送った。
門外へ出たところで、ルゥは鼻を上げる。
王都の中よりも風が素直だ。幾千もの生活臭に邪魔されないぶん、目当ての匂いが一本の細い流れとして西へ伸びている。
間違いない。
依頼書に触れた者は、この西門を使っていた。
西門を抜けた先で街道は二つに分かれている。北西へ伸びる大道はフェンリグ方面、もう一方は近郊の農村とリュネル森を結ぶ支道だ。人の足なら森の外縁までそれなりに歩くが、王都の冒険者たちは早朝に出れば昼前から採取を始められる距離として扱っている。
ルゥは分岐で一度立ち止まった。
大道側からは鉱石を積んだ荷馬車の鉄臭さ。支道からは朝露を含んだ草と、昨夜通った羊の群れ。それらの下に、ごく細く例の香油が残っている。
支道だ。
わざわざ道標を読む必要もない。
もっとも、ルゥは文字も読める。
以前それをミナに見られかけた時は、何となく看板を眺めていただけの犬を演じるのに少し苦労した。人間は犬が自分たちの言葉を理解しないと思い込んでいる。その思い込みは便利なので、わざわざ正してやるつもりはない。
支道を進むにつれて、行き交う人間も減っていく。
農夫の荷車を追い越し、薬草籠を背負った老女を追い越し、誰の視線もなくなったところでまた速度を上げた。風が耳を伏せ、草の穂が後ろへ流れていく。
街道をしばらく進むと、人家が減り、畑の向こうに森の輪郭が見え始めた。
リュネル森。
王都からそう遠くない位置にあり、外縁部なら新人冒険者でも入れる。薬草も多く、角兎や牙鼠といった下級魔獣が棲むため、採取や簡単な討伐の依頼が日常的に出される場所だ。
だからこそ、先ほどの依頼も一見しただけでは怪しくない。
月灯草は森の外縁でも採れる。危険度も高くなく、それでいて今回の報酬だけが妙にいい。
新人なら飛びつく。
実際、あのエリオという少年も興味を持っていた。
ルゥは少し速度を上げ、街道を外れて低い草地を抜ける。
森の入口に近づいたところで、足が止まった。
匂いが濃い。
薬臭さだけではない。
土と獣、それも複数の魔獣が通った痕跡が重なっている。
ルゥは地面へ鼻を近づけた。
角兎が三匹。
牙鼠は五――いや、七。
さらに奥には、もっと大きなもの。
通常なら外縁部まで出てこないはずの臭いまで混ざっている。
おかしい。
顔を上げる。
鳥の声はする。風も穏やかで、遠目にはいつもの森と変わらない。
だが、地面には新しい足跡が多すぎた。
ルゥは森へ入り、木々の間を縫うように匂いを辿っていく。
やがて一本の木の根元で止まった。
樹皮に、透明に近い油が塗られている。
鼻を近づけるまでもない。
魔獣誘導香だ。
しかも、雑に撒いたのではなかった。
木から木へ一定の間隔で塗られており、森の奥から外へ追い出すのではなく、複数方向から一ヶ所へ魔獣を集めるよう配置されている。
ルゥはその流れを読む。
終点は――月灯草の群生地。
なるほど。
薬草を取りに来た人間のところへ、魔獣の方を集める仕掛けらしい。
随分と性格が悪い。
ルゥは木の根元を一度掻き、土を露出させた。
人間の靴跡が残っている。
複数。
うち一人は踵の細い上等な革靴で、森歩きには向かない。商人か、それに近い人間だろう。
残りは硬い靴底。踏み込みが深く、武器の重みも加わっている。
傭兵か。
誘導香を塗った者たちは、痕跡を消すことには慣れていないらしい。枝を避けた場所、泥を踏んだ跡、布が擦れた匂い。人間の目なら見落とす程度でも、ルゥには十分だった。
少し進んだ先では、低木の枝に小さな繊維が引っかかっている。
濃紺の布。
鼻先を寄せる。
先ほど依頼書に残っていた香油と同じだった。
ここまで来れば、偶然とは言いにくい。
ヴァルド商会の代理人本人か、その近くにいる者が森へ来ている。
ただ、まだわからないことがある。
何のために?
新人を魔獣に襲わせるだけなら、商会にどんな得がある。
恨みか。口封じか。それとも、もっと直接的な利益があるのか。
わからない。
ならば、さらに嗅げばいい。
ルゥは鼻を上げた。
風の奥に、人間の匂いが残っている。
誘導香を撒いた者たちは、まだ完全には遠ざかっていない。
追うか。
そう判断しかけた時だった。
耳が動く。
左。
街道側。
森の入口から、それほど離れていない場所を三人分の足音が近づいてくる。
軽い。
重装備ではない。
一人は歩幅が大きく、一人はやや慎重。残る一人は時折立ち止まり、周囲を確認しながら進んでいる。
聞き覚えがあった。
今朝、ギルドで聞いたばかりの足音だ。
ルゥは動きを止める。
なぜ来ている。
例の依頼は掲示を止めたはずだった。
もっとも、あの依頼以外にも森へ来る理由はいくらでもある。リュネル森は初心者向けの採取場所なのだから、偶然別の依頼を受けた可能性もある。
しかし、風上へ鼻を向けると、三人の匂いに混じって紙と植物の香りがした。
採取用の袋。
さらに微かに、月灯草。
どうやら、ただ近くへ来ただけというわけでもなさそうだ。
枝の向こうから声が届いた。
「こっちで合ってるんだよな?」
エリオ。
「地図ではね。外縁からそんなに深く入らなくても採れるって話だったけど」
槍を持っていた少女。
「……少し静かじゃないか?」
最後は、弓持ちの青年だった。
その一言に、ルゥは片耳を上げる。
ほう。
少しは周囲を見る者もいるらしい。
だが、気づくのが遅い。
三人の進行方向には、魔獣誘導香。
さらに奥では、すでに複数の獣が動き始めている。
葉擦れ。
低い唸り。
土を掻く爪。
まだ三人には聞こえていない。
ルゥにはすべて聞こえていた。
一匹、二匹――三匹では済まない。
こちらへ寄ってきている。
偶然ではない。
誰かが呼んでいる。
獲物のところへ。
ルゥは細く息を吐くと、足音のする方へ身体を向けた。
朝、頭を撫でてきた少年の顔を思い出す。
悪意なし。
未熟。
危険への警戒が薄い。
評価は何も変わっていない。
むしろ、こうして自分から危険へ足を突っ込んでくるあたり、思っていた以上かもしれなかった。
木々の向こうから、エリオたちの姿が見える。
そのさらに奥では、低い影が茂みを横切った。
ルゥの目が細くなる。
セレナは、少しだけ見てきてほしいと言った。
見て帰れば仕事は終わりだったはずだ。
それなのに。
どうして人間という生き物は、こちらの仕事を増やすのか。
ルゥは喉の奥で、小さく唸った。
「……馬鹿者ども」
もちろん、その言葉を聞く者はいない。
灰色の犬は木々の影へ身を沈め、その三人を追った。