冒険者ギルドの看板犬は、実は最強の番犬でした 作:もふもふ
王都を出た時には、こんなことになるとは思っていなかった。
エリオは、焦る頭の片隅でそう考えていた。
そもそもエリオたちが受けたのは、昨日から掲示されていた普通の採取依頼だ。王都西方のリュネル森、その外縁で採れる薬草を十束。危険度はE。報酬も相場通りで、駆け出し三人でも問題なくこなせる――少なくとも、受付ではそう説明された。
「で、ついでに月灯草も見つけたら持ってこい、だったよな」
先頭を歩きながらエリオが振り返ると、短槍を持つマリアが呆れた顔をした。
「“ついでに”ね。あの商人、妙に気前よかったけど」
「一本でも買うって言ってた。しかもギルドの依頼とは別払い」
「だからって、奥まで行くなよ」
最後尾のニールが弓の位置を直しながら釘を刺す。
王都を出る直前、西門近くで声をかけてきた男だった。ヴァルド商会の下働きだと名乗り、月灯草を見つければ通常より高く買うと言った。
今朝、ギルドで見かけた高額の採取依頼と同じ薬草だ。
あの依頼は、看板犬のルゥが紙を噛んだとかで一時保留になったらしい。事情はよく分からなかったが、正式な依頼を受けるわけではなく、自分たちの仕事のついでに採って帰るだけなら問題ない――三人とも、そう考えた。
なにより金が欲しかった。
新人冒険者は何をするにも金がかかる。防具の補修、矢、薬、宿代、食事。短剣ひとつだって、ちゃんとしたものを買おうとすれば簡単には手が出ない。
少し余計に稼げるならありがたい。
それが、エリオの正直なところだった。
「それにしても、近いんだな」
森へ入ってしばらく歩いたところで、エリオは拍子抜けしていた。
森と聞いて、もっと鬱蒼とした場所を想像していたが、外縁部は木々の間隔も広く、足元にも低い草が生えている。木漏れ日も十分に差し込み、王都近郊の森らしく踏み固められた細い道まで残っていた。
少なくとも、命の危険を感じる場所には見えない。
「だから新人向けなんでしょ」
マリアがしゃがみ込み、足元の葉を確認する。
「あった。銀露草」
「それで何束目?」
「七。あと三束」
「楽勝じゃん」
「そういうこと言うと、だいたい何か起こるぞ」
ニールが言う。
「縁起でもないこと言うなよ」
「グランさんが昨日言ってただろ。上手くいってる時ほど確認しろって」
訓練場で腕を組んだ老人の顔が、エリオの頭にも浮かんだ。
依頼書を読め。周りを見ろ。帰り道を覚えておけ。
そして何より、欲をかくな。
まだ正式な訓練を受け始めたばかりだが、嫌というほど言われた。
「分かってるって」
言いながら、エリオは腰の短剣へ手をやった。
周囲を見る。
木。草。木漏れ日。
特に異常はない。
少し先ではマリアが八束目の銀露草を見つけ、ニールが頭上の枝を眺めている。
やっぱり心配しすぎだ。
そう思ったところで、道の脇に白い花を見つけた。
「あれ、月灯草じゃないか?」
エリオが指を差す。
木の根元に、細長い白銀の葉と小さな花が見えている。朝に見せてもらった見本とよく似ていた。
マリアが目を輝かせた。
「ほんとだ。一株だけだけど」
「持って帰れば金になる」
「エリオ」
ニールの声が飛んでくる。
「道から離れすぎるなよ」
「分かってるって。見えてる距離だろ」
ほんの十数歩。
木の根元まで進み、月灯草を根元から傷つけないよう摘む。思っていたよりあっさり手に入った。
その先にも白い花が見えた。
一つ。
もう一つ。
「結構あるぞ」
「待て」
今度はニールの声が強かった。
エリオが振り返る。
弓を持った青年は、花ではなく森の奥を見ていた。
「どうした?」
「……静かすぎないか?」
言われて、初めて気づいた。
風は吹いている。葉も揺れている。
なのに鳥の声がしない。
さっきまで枝の上で鳴いていた小鳥も、草むらを走っていた小動物も、いつの間にか姿を消していた。
「別に、それくらい――」
「グランさんが言ってた」
ニールは弓を握る手に力を込めた。
「森が静かな時ほど、気をつけろって」
マリアも立ち上がる。
さっきまで軽かった空気が、急に重くなった気がした。
「戻る?」
「採取分はもう十分だ。戻ろう」
ニールの判断は早かった。
エリオも反論しなかった。
月灯草を袋へ入れ、来た道へ戻ろうとする。
その時、右手の茂みが揺れた。
「っ!」
三人同時に身構える。
飛び出してきたのは、犬ほどの大きさの獣だった。
灰褐色の毛。長く突き出た前歯。赤い目。
「牙鼠!」
エリオは短剣を抜いた。
新人向けの討伐依頼にも出る下級魔獣だ。一匹なら、訓練でも何度か相手をした。
牙鼠が地面を蹴る。
正面から突っ込んでくるところへ、マリアの槍が伸びた。
「やっ!」
穂先が肩へ刺さり、獣の身体が横へ流れる。
そこへエリオが踏み込み、首元へ短剣を突き立てた。
牙鼠が二度ほど痙攣し、動かなくなる。
「……なんだ。驚かせやがって」
息を吐く。
一匹。
たった一匹だ。
だがニールだけは弓を下ろさなかった。
「待て」
また、その言葉。
「今度はなんだよ」
「一匹じゃない」
左の茂み。
かさり、と葉が擦れた。
続けて、背後。
正面。
低い位置に赤い目が灯る。
「……二匹?」
マリアが呟く。
「三だ」
ニールが答えた直後、牙鼠が一斉に飛び出してきた。
三匹程度なら戦えない数ではない。
エリオが一匹を受け、マリアが二匹目を槍で牽制する。三匹目にはニールの矢が刺さった。
連携はぎこちない。
それでも、何とか倒せた。
エリオの腕に浅い傷が増え、マリアの息は上がっていたが、誰も大きな怪我はしていない。
「いける」
エリオはそう口にした。
自分に言い聞かせるように。
しかし。
茂みが、また揺れた。
今度は一ヶ所ではない。
あちらこちらから。
がさがさと葉が鳴り、木々の間に低い影が増えていく。
「……おい」
一匹。
二匹。
三匹。
数えかけて、やめた。
牙鼠だけではない。
角の生えた獣もいる。小鬼らしい影まで混じっている。
「なんで……」
マリアの顔から血の気が引いた。
「ここ、外縁だよね?」
「そのはずだ」
「新人向けの森なんだろ?」
エリオは答えられなかった。
聞いていた話と違う。
明らかに、違いすぎる。
それでも魔獣は待ってくれない。
「走れ!」
ニールが叫んだ。
三人は同時に来た道へ駆け出す。
戦うという選択肢はなかった。
数が違う。
一匹、二匹なら倒せても、この数に囲まれたら終わる。
背後から牙鼠の鳴き声と足音が追ってくる。
エリオは前を走りながら、何度も振り返った。
「こっちで合ってるよな!?」
「合ってる!」
「なんで増えてるのよ!」
「俺が知るか!」
森へ入った時より道が細く感じる。
枝が腕へ当たり、草に足を取られそうになる。
その時、後ろで短い悲鳴がした。
「きゃっ!」
「マリア!」
振り返る。
マリアが木の根に足を取られ、地面へ倒れていた。
短槍が手から転がる。
「先に行って!」
彼女が叫ぶ。
「いいから!」
一瞬、足が止まった。
逃げろ。
頭では分かっている。
グランにも言われた。勝てない相手から逃げるのは恥ではない。無理に仲間を助けようとして全滅するのが一番馬鹿だ、と。
ニールも数歩先で止まり、顔を歪めている。
魔獣は迫っていた。
ここで戻れば、自分も危ない。
それでも。
「そんなの、できるか!」
エリオは踵を返した。
倒れているマリアへ走る。
「エリオ!」
ニールの怒鳴り声。
無視する。
飛びかかってきた牙鼠へ短剣を振るい、無理やり進路を逸らす。腕に爪が掠めたが構っていられない。
マリアの腕を掴む。
「立てるか!」
「足、ちょっと捻っただけ!」
「だったら走れ!」
「無茶言うな!」
それでもマリアは立ち上がった。
ニールも戻ってきて、矢を放ちながら退路を作る。
三人で逃げる。
今度こそ。
だが、逃げ始めようとした瞬間だった。
森の奥から、低い音が響いた。
牙鼠たちの動きが止まる。
小鬼も。
角獣も。
まるで自分たちより恐ろしい何かを感じ取ったように、一斉に木々の奥へ顔を向けた。
「……なんだ?」
エリオもつられて見る。
木々の向こう。
暗い影の中から、巨大な身体がゆっくり姿を現した。
黒に近い毛皮。
前脚だけでエリオの胴ほどもある。長く湾曲した爪が土を抉るたび、湿った地面が深く沈んだ。
黒爪熊。
その名前だけは知っていた。
新人が相手をしていい魔獣ではない。
「うそ……」
マリアが掠れた声を漏らす。
「聞いてないぞ……」
自分の声が妙に遠く聞こえた。
黒爪熊が鼻を鳴らす。
目が合った。
まずい。
そう思った時には、巨体が動いていた。
速い。
あの身体のどこにそんな力があるのか分からないほど、一息で間合いを詰めてくる。
「エリオ!」
誰かが叫んだ。
マリアか。
ニールか。
分からない。
エリオは短剣を構えた。
逃げられない。
受けられるはずもない。
黒い前脚が持ち上がり、その先で刃物のような爪が光った。
――死ぬ。
そんな考えだけが、妙にはっきりと頭に浮かんだ。
黒爪熊の爪が、エリオへ振り下ろされた。