何事に於いても、本当に「プロ」と呼ばれる領域に到達する奴ってのは、単純な才能の有無だけじゃない。もちろん、センスが大事なことなんて最初から否定しないさ。持たざる者には見えない景色を一足飛びに見せてくれる特権みたいなものだし、あればあるだけ有利なのは間違いない。だが、それだけで上の上にいけるほど、この世界は甘くできていない。
センスを磨き上げるための精神の強さ、泥をすするような時間を耐え抜く執念、あるいはその才能を枯らさずに育むことができた環境。そういう目に見えないピースが奇跡的なバランスで噛み合った奴だけが、最終的に「本物」と呼ばれる場所に立っている。
俺はコートに立つ時、いつもそんなことを考えてしまう。
宮城野の風は、俺の肌には少し冷たすぎる。
体育館の床を蹴るたびに、足の裏から心地よい疲労と、それ以上の熱が這い上がってくる。ネット越しに見える景色は、いつだって鮮明だ。相手コートのレシーバーの重心、セッターの指先の微かな癖、ボールが描く絶妙な軌道。そのすべてが、まるでスローモーションのように脳裏に焼き付く。
「太陽!今のトス、マジでキレキレじゃん!」
背後から声をかけてきたのは、いつだって同じ色の、少し褪せた金髪を揺らす男だった。
「あったりまえっしょ。誰だと思ってんの」
中学生らしからぬ金髪と明るい性格に少し生意気そうな表情。こいつの名前は"照島遊児"
中学では隣のクラスの、物心ついた頃からの腐れ縁だ。所謂幼馴染って奴?え、幼馴染って普通美少女とかじゃないのって?こいつにそんな萌える要素ないってマジで…まぁ君らと違って俺は美人の彼女いるけど。
とと、会話が逸れちまったじゃんか。まぁ遊児に関してはそんな語ることもないんだよね。ほら、身近にあるものって当たり前すぎて有り難みなくなるじゃん?あれよあれ。
けどことバレーに於いてはいつだってヘラヘラと笑い、バレーを「楽しむ」ことだけに全力を賭けているように見える。その軽やかさが、時の俺には眩しすぎて、同時に少しだけ残酷に思う事もあったけど。
「うるせぇよ天才!今いいとこなんだよ!」
「ブルロええて。お前に潔は荷が重い」
「かっかっか!トスもツッコミもキレキレじゃん!」
からからと笑いながら肩を組んでくる遊児の体温は、驚くほど温かい。
あいつを見ていると、時々、自分がどこか別の世界の住人であるような錯覚に陥る。遊児には、余計な澱(おり)がない。
バレーが好きだからやる。面白いから攻める。その純粋なエネルギーこそが、あいつをあいつたらしめている「環境」であり「才能」なのだろうと、冷めた頭の片隅で分析している自分がいる。
俺には、そんな風にただ純粋にバレーボールだけを愛して生きる余裕なんて、最初から与えられていなかった。
「悪りっ。俺そろそろ時間だから帰るべ」
「お!もうそんな時間?悪い俺も気づかなかったわ」
「いやいや。いつも掃除任せてるんだからこっちは感謝しかないっての」
「そうか?」
「もち。んじゃまた明日な」
そう言いながら体育館を足早に去っていく太陽を見つめながら部員の1人が口にする。
「あ、あの。照島先輩!」
声を掛けたのは今年入ったばかりの新一年生だ。額に汗を張り付かせ、まだ少し大きい部活のジャージの裾を両手でギュッと握りしめている。
「ん? どうした?」
照島は軽く振り返り、いつもの軽い笑みを浮かべたままで後輩に視線を向けた。
「あの、朝日奈先輩って……いつも練習の途中で、あるいは終わるとすぐに帰っちゃうじゃないですか。みんなが残って自主練したり、買い食いして帰ったりする時も、なんかいつも焦ってるみたいに見えて……。俺、俺ら何か先輩に嫌われてるのかなって……」
新一年生はそこまで言うと、バツが悪そうにうつむいた。まだ中学に入ったばかりの子供だ。先輩のちょっとした挙動に一喜一憂する時期なのだろう。
その言葉を聞いた瞬間、照島の表情からスッと「いつもの軽い笑み」が消えた。
おいおい、と照島は内心で苦笑する。嫌われている? 太陽がそんな子供じみた理由で人を避けるようなタチじゃないことくらい、誰よりも近くで見てきた自分が一番よく知っている。あいつはいつだって不器用で、誰にも迷惑をかけたくなくて、一人で勝手に背負い込んでいるだけだ。
「そんなんじゃねぇよ。アイツが帰る理由は…な。」
照島は少しだけ声のトーンを落とし、新一年生の肩にポンと荒々しく手を置いた。
「あいつはな、お前らが思ってるほど暇じゃねーの。……まあ、色々と事情があんだよ。言ってみりゃ、あいつは俺たちとは違う土俵で、別の試合をずっと戦ってっようなもんだからさ」
「別の試合……ですか?」
「ここからは俺の口からじゃ言えねぇな。ま、気になるなら本人にでも聞いてみな。ワンチャン怒られるかもよ?」
「えぇ!?」
ははっ、と照島はいつもの調子に無理やり戻して笑ってみせたが、その胸の奥には、長年連れ添った幼馴染に対する言い知れないざわめきが残っていた。
太陽の背負っているものの重さを、本当の意味で知っているわけじゃない。だけど、あいつが時折見せる、すべてを諦めたような、それなのに絶対に折れないガラス細工みたいな危うさを、照島は敏感に感じ取っていた。
体育館の裏手に回り、太陽は誰もいない通路で大きく息を吐き出した。
ひんやりとした夕方の空気が、火照った肺にしみる。
「…うん。…俺は幸せ者だ」
幼馴染の言葉や気遣いに感謝する。あいつはいつだって眩しい。曇りのない太陽の光みたいに、ただ純粋に目の前のバレーを楽しんでいる。その眩しさが、時には自分の影をあまりにも濃く浮き彫りにさせすぎて、息が詰まりそうになるのだ。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
腕時計の文字盤を確認する。17時15分。
ここから駅まで走れば、17時半のシフトにギリギリ間に合う。
「急がないと……」
部活のジャージを脱ぎ捨て、私服のパーカーに腕を通す。胸元で揺れる"形見"のクロスネックレスが、動くたびに鎖骨を叩いて冷たい感触を残した。
カバンの奥には、使い古されて何度も洗濯された黒いエプロンが押し込まれている。それを確認すると、太陽は周囲に人がいないことを確かめてから、学校の裏口へと走り出した。
静まり返った住宅街を抜ける。夕暮れの空が、オレンジから深い群青色へと移り変わっていくそのグラデーションが、やけに目に痛かった。
物語を加速させる為に一度朝日奈太陽と言う少年を…いや彼の人生を深掘って行こう。まずその原点を紐解かなければならない。太陽という人間の輪郭は、決して一朝一夕で出来上がったものではないのだから。
太陽がまだ小さかった頃、朝日奈家は裕福ではなかったが、貧しくもなく常に笑いが絶えない家庭だった。
父親は少し不器用で、だけど太陽が高いボールを追いかけるたびに「うちの長男は将来、日本代表のエースだな!」と大声で笑うような男だった。母親は穏やかで、いつも太陽の少し尖った性格を優しく包み込むように微笑み、弟や妹たちの世話を焼きながら、家中を温かな空気で満たしていた。
太陽自身、子供の頃はどちらかといえば勝気で、負けず嫌いな少年だった。
欲しいものがあれば駄々をこねるような子供ではなく、むしろ「自分が我慢すればいい」とどこかで達観しているような、少しませたところがあった。それは長男としての責任感というよりも、両親の笑顔を守りたいという無意識の本能に近かったのかもしれない。
『にぃに、これあげる』
まだ小さかった妹達が、庭の四つ葉のクローバーを誇らしげに差し出してきた日のことを、太陽は今でも鮮明に覚えている。あの頃の日常は、永遠に続くものだと疑いもしなかった。
だが、その日常は、ある日突然、音を立てて引き裂かれた。
両親の突然の事故死。警察からの連絡を受けた時の、あの耳鳴りがするような静寂と、祖母が絞り出すように上げた嗚咽。まだ幼かった妹たちが状況を飲み込めず、ただ兄の服の裾をぎゅっと掴んで泣きじゃくっていたあの夕暮れの冷たさを、太陽の体は細胞レベルで覚えている。
葬儀の日、太陽は泣かなかった。泣いている余裕などなかった。
目の前には、足の悪い祖母と、これからの人生が途方もなく長い妹たちがいる。自分がここで崩れ落ちたら、この家は本当に終わりだという恐怖が、まだ少年だった太陽の心を無理やり大人に変えてしまった。
親戚の間で「引き取り先」についての話がかすかに持ち上がった時、太陽ははっきりと拒絶した。
「…いい。父さんや母さんがいるあの家を離れたくない」
その言葉に、親戚たちは驚き、そして憐れみの目を向けた。子供の強がりだと誰もが思った。だが、太陽の瞳に宿った光は、一度決めたら絶対に曲げない、異様なまでの執念を帯びていた。
そこからだ。太陽の性格が変わってしまったのは。
両親を失ったのは、まだ俺が物心ついたばかりの、けれど現実の残酷さを理解するには十分すぎる年齢だったあの日のことだ。突然の交通事故。それまで当たり前にあった日常は、一瞬で音を立てて崩れ去った。残されたのは、まだ手がかかる年下の妹たちと、白髪混じりの頭を小さくして震える祖母だけだった。
家計手当、遺族年金、親戚からのわずかな支援。計算するまでもなく、それだけではこの先数年の生活すらままならないことは明白だった。妹たちがこれから進学し、何かを学びたいと思った時、金がないという理由でその選択肢を奪いたくなかった。祖母にはこれ以上、苦労の重荷を増やしたくなかった。
だから、俺は中学に進むと同時に、ある決断を下した。
中学もバレーボール部に入る。これは譲れなかった。昔からなぜか家に転がっていた古びたバレーボールを初めて触った時のあの感触を、俺はどうしても手放したくなかったからだ。センスがある、とバレー教室のコーチは言った。背が高く、手足の長い恵まれた体格。ボールの落下点に自然と体が向かう天性の空間把握能力。褒められるたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。俺が持っているのは、神様が気まぐれにくれた才能なんかじゃない。ただ、ここで折れたら生きていけないという恐怖を隠すための、惨めな武器だ。
幼馴染の照島遊児に引きずられるようにして足を踏み入れたコート。ネットの向こう側に広がる緊張感と、自分の全身の力を一点に集中させて放つスパイクの爽快感。ボールを叩いた瞬間に手のひらに残る重みと、嫌な現実のすべてが頭から消え去るような強烈な解放感。
バレーボールをしている時だけは、太陽は「生活苦を背負った哀れな少年」ではなく、ただの「一人の誇り高き表現者」に戻ることができた。
「お前、マジですっげぇセンスあるよ!」
過去に遊児が言った言葉と顔を今でも覚えている。遊児の存在は、太陽にとって眩しすぎると同時に、奇跡的な救いだった。自分とは違う、何の曇りもない世界で生きているあいつの隣にいることで、太陽はかろうじて「普通の青春」の端っこにしがみつくことができたからだ。
しかし、現実は甘くない。
中学に上がり、部活が本格的になると、遠征費や用具代などの「金」の壁が再び重くのしかかってくる。それに俺だけじゃなくて妹達のこれからの事を考えると家計に負担はかけられない。
その時、太陽が選んだのが「秘密のアルバイト」だった。
父の友人が経営する小さなカフェ『Cafe L'etoile du Nord』。
まだ中学生だった太陽を雇ってくれる場所など簡単には見つからなかったが、事情を知ったマスターが、彼の鋭い目つきと、どこか大人びた覚悟を見抜いてこっそりと雇い入れてくれたのだ。
「いらっしゃいませ……あ、太陽君、お疲れ様。今日も早いね」
カフェの扉を開けると、温かいコーヒー豆の香りと、マスターの優しげな声が俺を迎えてくれた。
「お疲れ様です、マスター。今日もよろしくお願いします」
手際よく制服に着替え、エプロンをきつく結ぶ。このエプロンを締めた瞬間から、俺は「朝日奈太陽」という名の中学生バレーボーラーではなく、ただの労働者、家族を養うための歯車の一つになる。
皿洗い、コーヒーの焙煎補助、簡単な仕込み、そして接客。まだ体が成長しきっていない中学生の体には、長時間の立ち仕事は想像以上にこたえた。最初の頃は、部活で疲労困憊になった筋肉が悲鳴を上げ、夜中に足がつって何度も目が覚めた。朝、起き上がるだけで吐き気がする日もあった。
それでも、歯を食いしばって続けられたのは、なぜか。
「精神の強さ」なんて大層な美談で片付けられるものじゃない。ただ、毎月末に受け取る給料袋の厚みと、それを持ち帰った時の妹たちの嬉しそうな顔が、俺の足を動かし続けていただけだ。
「はい、3番テーブルのカフェラテとチーズケーキね。お願い」
「承知しました」
キリッとした返事を返し、太陽は素早くグラスに氷を放り込む。
「お待たせ致しました。ご注文のカフェラテとチーズケーキになります」
「っありがとうございます。」
中学生らしからぬ体格と雰囲気、更にはそのルックスも相まって太陽は密かにカフェの看板定員として人気であった。彼の影響で彼目当てで訪れる女性客が後を絶たないのはマスターからしても有り難みの極みである。
外の世界では夜のとばりが完全に下り、街灯がアスファルトを橙色に照らし出していた。明日もまた、朝練の音が響く体育館と、この熱気あふれる厨房の往復が始まる。それでも、太陽はその足が止まることはないと知っていた。
『Cafe L'etoile du Nord』での怒涛のシフトを終え、裏口から夜の冷気の中へと躍り出た時、太陽の背中は疲労でずっしりと重かった。
手袋をはめた指先を息で温め、駐輪場に停めてあった愛車の自転車に跨がる。ペダルを踏み込むと、静まり返った街にチェーンの規則的な回転音が響き渡った。
夜風が耳元を掠め、火照った身体を冷やしていく。街灯の橙色の光が、アスファルトの上に太陽の影を長く伸ばしては後ろへと流し去っていった。
いくら恵まれた体格とバレーで鍛え上げた体幹があろうとも、部活での激しいトレーニングの直後に、立ちっぱなしの厨房作業をこなせば身体は悲鳴を上げる。太ももの筋肉は張り詰め、立ち仕事で握力を使い果たした指先は微かに痺れていた。
それでも、ペダルを踏み込む太陽の足取りは、家へと近づくにつれてどんどん軽くなっていった。
なぜなら、この冷たい夜の向こうには、彼が命に代えても守ると誓った「世界で一番あたたかい場所」が待っているからだ。やがて見えてきたのは、閑静な住宅街の一角に立つ、小洒落た二階建ての戸建て住宅だった。
築6年ほど。外壁はまだ新しく、街灯の光を反射してきれいな白さを保っている。この家は、亡くなった両親が、妹たちが生まれると決まった段階で「これから生まれてくる子どもたちが、のびのびと健やかに育つように」と、将来の夢と希望をすべて詰め込んで思い切って建てた持ち家だった。
玄関のドア、庭の小さな花壇、居間の大きな窓。そのどれもに、かつて父と母が「ここは日当たりがいいから太陽と妹たちの部屋にしよう」「キッチンはみんなが見渡せる対面式にしよう」と笑顔で話し合っていた記憶が残っている。
両親が遺してくれたこの新しい家は、太陽にとって単なる建物ではない。両親の愛そのものであり、妹たちと祖母を包み込む絶対的な城塞だった。だからこそ、どれだけローンや維持費が重かろうと、太陽はこの家を手放すつもりなど微塵もなかった。
ガレージに自転車を滑り込ませ、スタンドを立てる。
玄関のポーチに立つと、小窓から漏れるやわらかな電球色の光が見えた。
鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリと静かな金属音が響いた瞬間、ドアの向こう側から「あ!」という小さな声と、パタパタパタという可愛らしい二つの足音が重なって近づいてくるのが聞こえた。
ドアノブを回して、ゆっくりと扉を開ける。
「ただいま。いい子にしてた?」
そう声をかけた瞬間、玄関のたたきに飛び出してきたのは、二つの小さな「愛妹」だった。
「「お兄ちゃん、おかえりなさーい!!」」
弾けるような高い声が重なり、太陽の腰あたりにドスンと二つの温かい塊が飛びついてきた。
太陽の妹たち——双子の小学一年生、燈(あかり)と光莉(ひかり)だった。
両親が亡くなった時、彼女たちはまだ立ち上がることもおぼつかない赤ん坊だった。それが今や、自分たちの足で駆け寄り、こうして弾けるような笑顔で自分を迎えてくれる。この事実に、太陽の胸はいつだって激しく締め付けられる。
あかりとひかり。二人は一卵性の双子だった。
姉の『ひかり』は、少しクセのある柔らかい茶髪を短いツインテールにしており、天真爛漫でいつもエネルギーに満ちあふれている。妹の『あかり』は、ひかりとまったく同じ顔立ちをしながらも、髪を少し長めにしており、ちょっぴり甘えん坊で大人しい性格だ。
だが、二人揃った時の破壊力は、まさに「双子の天使」以外の何物でもなかった。
まんまるくて水晶のように澄んだ大きな瞳。まるで咲きたての桃の花のようにぽっと赤らんだ、柔らかくフワフワの頬。太陽の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さな、もみじのような手。抱きしめた時に鼻腔をくすぐる、お日様とミルクが混ざり合ったような甘い子供特有の匂い。
学校や部活でどれだけ凄まじいバレーの練習に打ち込もうが、カフェでどれだけクールでミステリアスなイケメン店員として扱われようが、この二人を前にした瞬間、朝日奈太陽という男の理性は跡形もなく蒸発する。
自分でも重度の「兄バカ」である自覚はある。いや、自覚どころの話ではない。これは信仰に近い。
妹たちが「お兄ちゃん」と呼んでくれるだけで、今日のバイト代が三倍になったかのような幸福感に包まれるし、妹たちが泣いていれば世界を敵に回してでもその原因を叩き潰したくなる。
こんなに可愛くて、愛らしくて、健気な生き物がこの世に存在するだろうか? いや、存在しない。俺の妹たちこそが人類の至高であり、世界の宝だ。
部活の疲労? バイトの立ち疲れ? そんなものは、この二人の「おかえり」の一言で完全に灰燼に帰した。細胞レベルでエネルギーが超急速充填されていく。
太陽は玄関にバックパックを放り投げると、膝をついて二人をその大きな両腕の中にすっぽりと包み込んだ。
「あかり、ひかり……! 今日も世界一可愛いな……!」
「きゃー! お兄ちゃんのツンツン頭が当たるー!」
「お兄ちゃん痛い〜!」
頬を寄せてすりすりと擦り付けると、双子は弾けたような歓声を上げて太陽の首に小さな手を回してきた。くすぐったそうに身をよじるその感触、柔らかな肌の温度。太陽はもう、自分の顔がどんなにデレデレに崩れているかなどどうでもよくなっていた。
限界まですり減っていた心身が、妹という名の超強力な栄養素を求めて叫んでいる。
太陽は二人を両腕で抱え上げ、豪快に立ち上がると、妹たちのフワフワの頬に交互に自分の頬を擦り付けた。
「あーーダメだ、足りない! 全然足りないぞ! 妹成分(いもうとせいぶん)を補充させろ〜!!」
「きゃはははは! お兄ちゃんやめて〜!」
「ひかり、助けて〜! お兄ちゃんに食べられる〜!」
「よし、二人まとめてモフモフの刑だ! ぐるぐる〜!」
太陽は大きな体躯を揺らし、二人を抱っこしたまま玄関ホールでゆっくりと回転してみせた。双子はキャッキャと声を上げて大はしゃぎし、小さな手で太陽の髪をくしゃくしゃにして遊ぶ。
カフェで無駄のない動きでオーダーをさばく完璧なアルバイト。そんな外面などどこへやら、今の太陽はただの「妹にデレデレな重度のバカ兄貴」そのものだった。妹たちの笑い声が玄関いっぱいに響き渡り、太陽もまた、今日一日で一番深くて温かい笑顔を浮かべていた。
その、あまりにも平和で、あまりにもアホっぽい光景が繰り広げられている真っ最中のことだった。廊下の奥、リビングへ続くドアが静かに開き、スリッパのパタパタという落ち着いた音が近づいてきた。
「……なに馬鹿なことやってんの」
呆れと、ほんの少しの諦めが混ざった涼やかな声が、玄関ホールに響いた。太陽がピクッと動きを止め、二人を抱きかかえたまま振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
太陽と同い年の、息をのむほど「綺麗」という言葉が似合う美少女だった。
肩まで伸びた艶やかな黒髪、透き通るような白い肌。少し吊り上がった涼しげな目元は知性を感じさせ、すっと通った鼻筋と薄い桃色の唇が、整いすぎた容姿を際立たせている。
着ているのは、学校の制服ではなく、少し大きめのダボッとした部屋着のパーカーにスウェットパンツというラフな格好だったが、それがかえって彼女の圧倒的な素材の良さを際立たせていた。
彼女の名前は、一条 葵(いちじょう あおい)。
遊児よりも長い付き合いの太陽の幼馴染であり、そして——彼の「彼女」だった。
「葵……来てたの?」
太陽が妹抱っこスタイルのまま固まっていると、葵ははぁと小さくため息をつき、腰に手を当てて歩み寄ってきた。その瞳には呆れ顔が浮かんでいるものの、口元にはどこか愛おしそうな笑みが微かに残っている。
葵の実家は近所にあり、太陽の両親が亡くなった時から、何かと朝日奈家を気にかけてくれていた。太陽が部活とアルバイトで家を空けている間、まだ小学生の双子の面倒を見たり、足の悪い祖母を手伝って夕飯の仕込みをしてくれたりしているのが、この葵だった。
太陽にとって彼女は、恋人であると同時に、この過酷な日常を共に戦ってくれるかけがえのないパートナーでもあった。
「来てたの、じゃないでしょ。おばあちゃんから『太陽が遅くなるから、葵ちゃん夕飯食べていって』って頼まれたの。それに、双子が『お兄ちゃんに早く会いたい』ってうるさかったから、一緒に待ってたんじゃない」
葵は太陽の目の前で立ち止まると、彼の胸元のネックレスや、疲労の見える目元をじっと見つめた。
「今日もバイト、お疲れ様。……相変わらず、妹相手になるとIQが激減するのね、あなた」
「うるさいな……。俺にとって妹成分は不可欠な栄養素なんだよ。これがないと明日コートで頑張れない」
「意味のわからない理論展開しないで。ほら、あかりもひかりも、お兄ちゃん疲れてるんだから一回降りなさい」
葵が優しく手を差し伸べると、双子は「はーい」と素直に太陽の腕から降りて、今度は葵のスカートの裾に抱きついた。
「葵お姉ちゃん! お兄ちゃんね、妹せいぶん補給するって言ってた!」
「うん! ぐるぐるされて楽しかった〜!」
「はいはい、良かったね。でもお兄ちゃん、汗かいてるし、お腹も空いてるから、まずご飯にしようね」
葵は双子の頭を優しく撫でると、視線を太陽へと戻した。そのクールで美しい瞳に、太陽だけに向けられる柔らかく温かな光が宿る。
「お風呂湧いてるよ。ご飯も、おばあちゃんと一緒に温かいの作っておいたから。……早く着替えてきなさい」
「……ああ。ありがとね、葵」
太陽は照れくさそうに頭を掻きながら、私服のパーカーのフードを軽く引っ張った。
外の冷たい風も、バイトの立ち仕事の疲れも、この玄関の温もりの中にすべて溶けて消えていく。
自分の守るべき家族と、自分を理解し支えてくれる最愛の彼女。傷だらけの手で泥をすすりながら走ってきた道のりの先に、この場所がある。
太陽は静かに息を吐き出し、妹たちと葵の姿を瞳に焼き付けながら、温かい家の中へと足を踏み入れた。