玄関での賑やかな喧騒から一歩離れ、廊下の突き当たりにある和室へ足を踏み入れると、家の中を包み込んでいた生活音は嘘のように遠ざかった。
畳の擦れる乾いた音が静寂に染み入り、い草と、どこか懐かしい古い木の香りが鼻腔をくすぐる。障子越しに差し込む月明かりが、部屋の隅に鎮座する黒光りした仏壇の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。
太陽は足音を立てないように慎重に歩を進め、仏壇の前に正座する。
その場に座り込むと同時に、今日一日、外の世界で「朝日奈太陽」という仮面を被って張り詰めていた神経が、スルスルと解きほぐされていくのを感じた。部活で見せた鋭い眼光も、カフェの厨房でテキパキと皿を洗っていた冷徹な手際も、玄関で双子の妹たちとはしゃいでいたバカ兄貴としての顔も、すべてはこの和室の静寂の前に脱ぎ捨てられる。
ここだけは、彼が誰の前でもなく、ただの「両親の息子」に戻れる唯一の聖域だった。
仏壇の扉をゆっくりと開けると、真新しいロウソクの灯りが揺らめく中、そこに収められた一葉の写真が目に入る。
写真の中にいるのは、温かな笑みを浮かべた一組の男女。
父親の太い眉と豪快な笑いジワ、そして母親の穏やかで慈愛に満ちた瞳。生前の記憶は歳を取るごとに少しずつ輪郭が曖昧になりかけているが、この写真の中の二人は、いつだってあの日のままの、生き生きとした温度を湛えて太陽を見つめている。
「……ただいま、父さん、母さん」
誰に聞かせるわけでもなく、しかし喉の奥から絞り出すように、太陽は小さな声で呟いた。
香炉に立てられた線香から、細く青い煙がゆらゆらと立ち上る。その香りが部屋中に広がり、胸の奥底に溜まっていた澱(おり)のようなものをそっと浄化していくようだった。
太陽は両手を合わせ、目を閉じた。
言葉にして声に出すことはしない。だが、その胸のうちは、いつもこの場所で両親に語りかける言葉で満ちあふれていた。
——今日も、一日やりきったよ。
学校の朝練から始まり、授業を受け、午後は誰よりも激しくボールを追いかけ、コートを駆け回った。部活が終われば休む間もなく自転車を飛ばし、油と熱気に満ちたカフェの厨房で皿を洗い、オーダーをさばき、夜にようやくこの家に帰ってきた。肉体的な疲労は限界を超え、両手の指先はあかぎれとタコで痛む。
けれど、弱音を吐く気にはなれなかった。ここで弱音を吐いたら、本当にすべてが崩れてしまうような気がしたからだ。
「俺は、大丈夫さ」
心の中で、太陽は力強く呟く。
今日だってちゃんと笑って、妹たちを抱きしめて、葵とも話をして、すべてを完璧に回してきた。誰にも心配をかけず、誰にも哀れみを買うことなく、この過酷な現実のど真ん中で、しっかりと自分の足で立ち続けている。
だから、心配なんてしないでくれ。
仏壇の前に座る太陽の脳裏に、ふと、あの日の記憶がフラッシュバックする。
すべてが音を立てて崩れ去った、あの冷たい事故の日の夜のことだ。病院の冷たい廊下で、祖母が震える手で自分の服の裾を握りしめていた姿。まだ状況を飲み込めず、ただ「お母さんは?」と泣きじゃくる幼い双子の声。そして、警察官から告げられた、あまりにも淡々とした「死亡確認」の二文字。
あの時、世界からすべての色が消え去ったような絶望を味わった。
もう二度と、あんな思いはごめんだ。あの冷たくて、無力で、足元からすべてが引き裂かれるような恐怖を、あの可愛い妹たちに味合わせるわけにはいかない。 祖母にあれ以上、白髪を増やして苦労の重荷を背負わせるわけにはいかない。
そのためなら、青春の時間がどれだけ削られようとも、自分の体がどれだけボロボロになろうとも、痛むことなど何ともなかった。
太陽はそっと目を開け、制服のシャツの胸元に手を伸ばした。
指先が触れたのは、冷たい金属の感触。それは、父が肌身離さず持ち歩いていた、古びたクロスネックレスだった。両親の形見として遺された数少ない品の一つであり、太陽が自分のアイデンティティを保つための、いわば「お守り」だった。
その十字架を指先で強く、痛いほどに握りしめる。
金属の硬質な冷たさが、疲弊しきった神経を無理やり覚醒させる。その痛みさえも、今の太陽にとっては心地よかった。自分が今、確かに生きているという証拠であり、絶対に折れないという誓いの印だったからだ。
「婆ちゃんや、あかりやひかりは……俺が必ず幸せにするから」
誰にも聞こえない、けれど魂の底から絞り出したその誓いは、静まり返った和室の空気を震わせた。
外 から、夜風が庭の木々を揺らす音がかすかに聞こえる。
家の中では、リビングの方からテレビの音と、妹たちと葵、婆ちゃんの楽しげな笑い声が壁を伝ってぼんやりと響いてきた。その温かな生活の気配を感じるたびに、太陽の胸の奥で、冷めかけていた熱が再びボウッと激しく燃え上がる。
そうだ。俺には守るべきものがある。
泥をすすろうが、どれだけ裏で隠れて汗を流そうが、この家族が笑っていられる未来があるなら、太陽は何度だって壁に立ち向かい、どれだけ高い相手のブロックだって打ち破ってみせる。
ふう、と深く息を吐き出すと、太陽は握りしめていたネックレスをそっと胸元に戻し、深く頭を下げた。
線香の煙が天井へと消えていく。
その背中は、中学生という年齢の少年が背負うにはあまりにも大きすぎ、同時に、どんな鋼鉄の盾よりも頼もしい強さを湛えていた。
「……じゃあ、行ってくるわ。俺は明日も、負けないさ」
心の中でそう告げると、太陽はスッと立ち上がった。
畳を蹴る足取りに迷いはなかった。仏壇の扉をそっと閉め、和室を後にする。廊下の先で待っている温かな光と、自分を呼ぶ家族の待つリビングへと、太陽は再び顔を上げて歩き出した。
部室の窓から差し込む初夏の午後の光が、古びたベンチとジャージの山をぼんやりと照らし出していた。外からは、他の部活が上げる威勢の良いかけ声や、風に揺れる木々のざわめきがかすかに聞こえてくる。だが、この部室の中に満ちているのは、どこか浮き立ったような、それでいて妙に現実味のない、奇妙な熱気だった。
来週に迫った夏のバレーボール宮城県大会。その登録メンバーと背番号を記した紙が、部室の壁の掲示板にピンで無造作に留められている。
「今年はどこまで行けっかな?」
俺が漏らした一言に反応する。
気だるげに首を鳴らしながら、照島遊児が部室の真ん中でふっと笑った。その金髪の癖毛は相変わらず派手で、部活の規定ギリギリを攻めたような着こなしをしているが、コートに立った瞬間に放つ圧倒的な存在感と求心力は、この明浄中学バレー部において絶対的なものだった。あいつがキャプテンであること。そして、チームの柱であること。それに異を唱える者は、部内に一人もいない。
「んなもん優勝以外ないぜ太陽」
照島は振り返り、アイスブルーの瞳をまっすぐにこちらに向ける俺――朝日奈太陽へとニカッと白い歯を見せた。その軽やかすぎる言葉に、周囲にいた部員たちが「おいおい、主将がそれ言うか?」と苦笑交じりのツッコミを入れる。
「優勝はキツくね? あ、まぁ今年はあのウシワカと及川さんいないからチャンスはあるか?」
誰かがぽつりと言ったその名前をきっかけに、部室の空気がわずかにピリリと引き締まった。
そうだ。今年の中学バレー界は、ここ数年とは決定的な空気が違う。宮城県を、いや全国のジュニアカテゴリを文字通り「焼け野原」にしてきた絶対的な怪物たちが、中学を卒業してそれぞれの高校へと進学していったからだ。
「ウシワカ」こと、白鳥沢学園の絶対的エースにして、全国トップクラスの左利きウイングスパイカー・牛島若利。
そして、北川第一中を率い、コートの支配者として恐れられた天才セッター・及川徹。あの二人がいた世代は、宮城の中学バレーにおいて、他のすべての学校を「その他大勢」に追いやるほどの圧倒的な絶望と壁だった。
「去年、北川第一相手にワンセット取っただけでも俺ら凄くね?」
「なんで試合に出てねぇお前がどやんだよ。……んで、その北川第一戦に出場して“あの及川徹”に認められた朝日奈太陽君はどう見る?」
部員の一人が冷やかすように俺の肩を叩く。
俺は持っていたスポーツタオルを首にかけ、少しだけ目を細めた。
「……ん〜ん……いやでも、無難にやっぱ今年も北川第一と白鳥沢が強ぇわ。あの2人がいなくても、強豪の底力ってのはそう簡単に落ちねぇよ。優勝候補はこの2校でしょ」
「夢見ねぇなぁ、相変わらず」
「現実的なんだよ。ウチらはまずベスト8に入れば御の字って感じじゃね?」
三年生たちが口々にそう話し出す。
俺たちの属する明浄中学は、決して弱小校ではない。県大会にはコンスタントに出場しているし、初戦で簡単に負けるようなチームでもない。だが、かといって全国を本気で狙えるような超強豪でもない。所謂、どこにでもある「中堅校」だ。
世間の目から見れば、俺たちはその他大勢のモブに過ぎない。
だけど、そのモブの群れの中にいるからこそ、見える景色もある。
宮城の頂点に君臨し続ける絶対王者・白鳥沢学園中等部。ここ数年、彼らは隙を見せたことがない。どんなに優れたスパイカーが現れても、白鳥沢の堅牢なブロックと、牛島が叩き出す理不尽なまでの超パワーの前には、すべてのチームが屈服させられてきた。
そして、その王者に唯一牙を剥き続け、毎年のように決勝の舞台で激突してきた名門・北川第一。及川徹という圧倒的な司令塔を失ったとはいえ、あそこのバレーに対する執念と育成システムは伊達じゃない。今年も間違いなく、優勝戦線に絡んでくるはずだ。
「ま、ウチらはウチらのバレーをやるだけだろ。な、太陽?」
照島がひょいと顔を近づけてきて、ニヤリと笑った。
その瞳には、不安や恐れの色なんて微塵もない。あるのは、ただ純粋に強い奴と戦いたいという野心と、バレーボールというゲームへの底抜けの楽しさだけだ。
あいつのそういうところ眩しいと思う反面、俺の胸の奥では、いつだって別の計算や現実の重みが冷たくざわめいていた。
明浄中学の部員数は決して多くない。だからこそ、レギュラーの入れ替わりが激しい強豪校と違って、ウチは3年間積み上げてきた「結束力」と「場数」が強みだった。
今回の大会でも、メンバー表の「1番」にはキャプテンである照島遊児の名前があり、「2番」には俺の名前がしっかりと刻まれている。中学最後の夏、最高学年である俺たちがレギュラーとしてコートに立ち、すべてのエネルギーをこの大会にぶつける。その事実だけは、紛れもない真実だった。
「……ああ。やるからには、初戦から全力で叩き潰すだけだ」
俺がそう短く返すと、照島は「よし、それでこそ俺の相棒だ!」と豪快に笑って見せた。
だが、心のどこかで、俺は分かっていた。
俺の背負っているものは、照島たちのような純粋な「部活の勝利への執念」だけではない。
放課後になれば、俺は一秒たりとも無駄にできないスケジュールに従ってこの部室を飛び出し、自転車を走らせ、油と熱気に満ちた『Cafe L'etoile du Nord』の厨房へと向なわなければならない。皿を洗い、コーヒーを淹れ、家族の生活費と妹たちの未来をその手で稼ぎ出す。
コートの上では華麗な司令塔気取りで試合を回し、コートの外では生活苦にまみれた労働者として泥を被る。
そんな二重生活のアンバランスさを抱えたまま、俺はこの「夏の宮城県大会」という巨大な舞台に立とうとしているのだ。
「おい、ミーティングは終わりだ! 次、サーブ練習行くぞ!」
顧問の教師の声が響き、部室の空気が一気に切り替わった。
部員たちがガタガタとベンチから立ち上がり、それぞれのタオルや水筒を手に取り始める。俺も立ち上がり、自分のロッカーからドリンクホルダーを取り出した。
その時、ふと手のひらに目をやる。
毎日のように重いボールを叩き、バイトでグラスやフライパンを洗い続けている俺の手のひらは、同年代の奴らに比べて明らかに硬く、あかぎれの跡や消えないタコが刻み込まれていた。綺麗とはお世辞にも言えない、傷だらけの手だ。
「どうした、太陽? ぼーっとしてると置いてくぜ?」
先導して歩いていた照島が、振り返って声をかけてくる。
その金髪の背中が、眩しい午後の光の中にふわりと揺れていた。
「……なんでもない。すぐ行く」
俺は手に力を込め、握りしめた拳をポケットに隠すと、仲間たちの後に続いて部室のドアを押し開けた。
外に出ると、初夏の生暖かい風が一気に頬を撫でる。
目の前に広がる青空と、白線が引かれたバレーボールコート。これから始まる最後の夏の物語の幕開けを告げるように、体育館の方向から、ボールが床を叩く乾いた音が響き渡っていた。
王者が君臨し、数多の強豪がひしめく宮城県という名の戦場。
その中心で、俺は別の試合を戦い続ける者としての誇りと、このチームで勝ち上がりたいという剥き出しの執念を胸に、再びコートへと足を踏み入れた。