海外クライムドラマの役立たず情報屋になったけど、能力だけ無双系ゲームなんだが 作:きんきん
目を覚ました瞬間、最初に思ったのは、頭が割れそうだということだった。
その次に思ったのは、見上げている天井にまるで見覚えがない、ということだ。
薄汚れた白い天井の隅には雨漏りの跡が茶色く残り、回りの悪いシーリングファンが、ぎい、ぎい、と一定の間隔で耳障りな音を立てている。鼻につくのは古い煙草と安酒、それから湿ったカーペットが放つ、何とも言えない臭いだった。
俺の部屋じゃない。
というか、こんなところに住んだ覚えがない。
「……どこだ、ここ」
口にしてから、今度は自分の声に違和感を覚えた。
思っていたより低く、少し掠れている。
身体を起こすと、ソファ代わりにでもしていたのか、ベッドの足元から空き瓶が一本転がり落ちた。見たことのない銘柄のウイスキーで、ラベルも、その脇に放り出されている新聞も、書かれているのは英語だった。
なのに、読める。
単に読めるというだけじゃない。翻訳するように意味を考える必要すらなく、日本語を読むのとほとんど変わらない感覚で頭へ入ってくる。
嫌な予感がした。
こういう時、人間は案外冷静になるものらしい。少なくとも俺は、悲鳴を上げたり頬をつねったりするより先に、周囲を見回した。
窓の向こうには煉瓦造りの古びたアパートが並び、そのさらに奥では灰色の曇天へ突き刺さるように高層ビルが建っている。建物の隙間を縫って高架鉄道が走り、遠くからはサイレンの音。通りでは朝っぱらから誰かが怒鳴り合っていた。
壁際に置かれた古いテレビは、つけっぱなしになっている。
『――午前六時四十分頃、ブライアーポート中央銀行に武装した三人組が押し入り――』
「……は?」
画面下を流れた地名を見た瞬間、背中が冷えた。
ブライアーポート。
知らない街ではない、知っている街だ。といっても、“創作の中”でだが。
前世――とでも呼ぶしかない俺の記憶の中で、六シーズンにわたって放送された海外クライムドラマ。その舞台になっていた街だ。
タイトルは『BLACK HARBOR』。
警察、マフィア、政治家、FBI、新聞記者。そいつらの思惑が複雑に絡み合い、主要人物であっても容赦なく死んでいく、そんなドラマだった。
そして、いまテレビで報じられている銀行強盗にも覚えがある。
第一話の冒頭だ。
事件自体は、その後の大筋にほとんど関係しない。ただ、殺人課刑事ダニエル・マーサーという男を初登場させるための導入で、犯人の一人を路地裏まで追い詰める場面がやたら格好よかったのを覚えてる。
「いやいやいや……」
冗談だろ。
まだ、たまたま同じ名前の街だという可能性はある。
そう思いたかった俺は、ふらつきながら立ち上がり、部屋の奥にある洗面所へ向かった。
鏡を見て、その希望はあっさり死んだ。
くすんだ金髪に、少し伸びた無精髭。頬は痩せ、目元には寝不足と不摂生がそのまま張り付いたような隈がある。
見覚えがあった。
しかも、嫌になるくらい。
「ミック・バーロウ……」
名前が自然と口からこぼれた。
ドラマの登場人物。
ただし主人公ではない。
刑事でもなければ、ギャングですらなく、警察と裏社会の間をうろつき、小銭と酒代のために噂話を売っていた三流の情報屋だ。
出番も多くない。
たしか第一話で一度顔を出し、二話、三話でもちょこちょこ登場して――
第四話で死ぬ。
「俺……死ぬじゃん」
鏡の中の男も、ひどく嫌そうな顔をしていた。
そりゃそうだ。
死に方も、覚えている。
倉庫へ連れ込まれ、椅子に縛られ、何発も殴られた末に情報源を吐いた。それでも許されず、最後には胸を撃たれ、死体は川へ捨てられる。
視聴者へ、この街がいかに容赦のない場所かを教えるためだけに殺されたような役だった。
ネットでもたいして話題にはならなかったはずだし、俺自身、名前まで思い出せたのが奇跡に近い。
「待て。今日が第一話なら……」
記憶を探る。
銀行強盗。
マーサー登場。
その夜、港で別件が起きて、次の日に――いや、ドラマだから時間の流れ自体はかなり圧縮されていたはずだ。
それでも、第四話まで劇中で一週間も経っていないはずだ。
「……多く見て、三日くらい?」
死ぬまで三日。
急に胃が痛くなってきた。
とはいえ、その前に考えることはいくらでもある。
俺はなぜここにいるのか。
前の俺はどうなったのか。
本当に死んだのか。
最後の記憶を辿ろうとしたが、どうにもぼやけている。仕事帰りだった気もするし、自宅で動画でも見ていた気もする。少なくとも事故に遭ったとか、刺されたとか、そういう派手な最期には覚えがなかった。
考えたところで答えが出そうにない。
だったら、優先順位は一つだ。
「死なないことだな」
我ながら、実に建設的な結論だった。
ミックが殺される原因については覚えている。
サウスドックで行われる取引の情報を警察へ売り、その一方で別の連中にも同じ話を流していた。それがバレて、口封じされたのだ。
なら簡単だ。
何もしなければいい。
警察には連絡しないし、ギャングにも近づかない。家にこもり、できれば街そのものから出る。
原作主人公の事件?
知らん。
俺はモブだ。モブらしく背景に引っ込んで、生き延びさせてもらう。
そう決意した、まさにその時だった。
玄関のドアが、ものすごい音を立てた。
「ミック! 起きてんだろ!」
ノック、という可愛らしいものではない。
殴っているに近い。
続いて、野太い男の声が響いた。
「今日こそ払ってもらうぞ!」
「……何を?」
嫌な予感しかしない。
返事をしなければ、そのうち諦めて帰るかと思ったが、三秒後には錠前ごとドアが蹴り開けられた。
「おいおいおい、人ん家だぞ」
思わず素で突っ込んだが、訪問者は気にもしていない。
入ってきたのは三人。
先頭は禿げ上がった大男で、その後ろに革ジャン姿の男と、細身の若い男が続いている。当然ながら、誰一人として見覚えはなかった。
少なくとも、原作には出てこなかった連中だ。
「三日も待ってやったんだ。二千八百、耳揃えて出せ」
禿頭が分厚い手を差し出してくる。
二千八百。
これが、円だったらありがたいんだが、多分ドルだろうな。大体……四十万ちょい? 高いなおい。
財布の場所すら知らない俺は、とりあえず愛想笑いを浮かべた。
「わ、悪い。ちょっと事情があってな。あと三日くらい待ってくれないか?」
「てめぇ、三日前もそう言ったじゃねぇか」
「昨日の俺と今日の俺は、ちょいと事情が違うんだよ!」
「ああん? 舐めてんのか!?」
「舐めてなんて、とんでもない! ただ、こっちも困ってるというかなんというか」
本当である。
三日後に死ぬ予定なのだ。
借金どころではない。
もちろん、そんな事情を説明できるわけもなく、俺の態度をどう受け取ったのか、禿頭の顔から愛想が消えた。
「なら、身体で払ってもらうか」
「それ、どういう意味で?」
「歯を何本か置いてけって意味だよ!」
拳が飛んできた。
でかい。
しかも速い。
まともに食らえば鼻が潰れる。
そう思った――次の瞬間には、俺の頭は拳の軌道から外れていた。
「……え?」
俺が言ったのか、向こうが言ったのか、自分でも分からない。
身体は半歩だけ沈み込み、拳をかわしながら相手の懐へ入り込んでいる。そのまま右手で手首を取り、左手を肘へ添えたところまでは分かった。
だが、そこから先は、自分で動いている感覚さえほとんどなかった。
手首を捻る。
重心を崩す。
肩を入れる。
それだけで、禿頭の巨体が冗談みたいに宙を舞った。
「うおっ!?」
背中から床へ叩きつけられ、部屋全体が揺れる。
俺も固まった。
残りの二人も固まった。
「……何、だ。これ」
思わず自分の両手を見る。
細いわけではないが、筋骨隆々というほどでもない。少なくとも、百キロ近くありそうな男を軽々投げられるような身体には見えなかった。
「てめえ!」
革ジャンの男が我に返り、横から殴りかかってくる。
今度は見えていた。
いや、「見える」という表現も少し違う。
肩が先に動き、腰が回る。
だから、次に拳が来る。
そんな順番を頭で考えたわけではない。ただ、どう動くのかを理解できた。
俺は一歩踏み込んだ。
拳が伸びきる前に肘の内側へ掌を当て、そのまま腕を流しながら脚を払う。
革ジャンの男は、何が起きたか理解する間もなく床へ叩きつけられた。
最後に残った若い男が、懐から何かを抜く。
ナイフだ。
「待て待て、それは危ないって」
「うるせえ!」
男が突っ込んでくる。
怖い。
普通に怖い。
刃物を持った人間を目の前にして、怖くないわけがない。
なのに、頭は妙に落ち着いていた。
突き出された手首を外から払い、肘を押す。崩れた体勢へ肩を差し込み、気づいた時には男を床へ伏せさせていた。
腕は背中側へ極まり、ナイフがカーペットの上へ落ちる。
「い、痛え! 折れる、折れる!」
「俺もよく分かってないから動くな。加減がわからん」
なんだこれ。
最初に投げた禿頭が呻きながら起きようとしたので、そちらへ顔を向ける。
ただ見ただけだった。
それなのに男は、ぴたりと動きを止めた。
「……今日は、帰るか?」
できるだけ穏やかな声で聞いてみる。
三人は何度も頷いた。
やがて壊れたドアから慌てて逃げていく背中を見送り、俺はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
「ミック、お前……こんなキャラじゃなかっただろ」
少なくともドラマでは、いつも殴られる側だった。
念のため外へ出てみる。
曇った空の下、オールドタウンの通りはすでに朝のざわめきを見せていた。角のダイナーからコーヒーと油の匂いが流れ、向かいでは配送トラックが路肩へ荷物を下ろしている。
アパートの外階段を下りながら、手すりへ軽く体重を預けた。
そこで足を滑らせる。
「うわっ」
身体が前へ落ちた。
――はずだった。
片手で手すりを掴み、そのまま一段飛ばしに足を着く。気づけば俺は、何事もなかったように階段の途中へ立っていた。
「……いやいや」
今のも、俺がやったのか。
近くの路地では、酔っ払いらしい男が二人、朝っぱらから揉めている。片方が相手を突き飛ばし、その勢いで拳を振り上げた。
何となく目で追った。
肩。
肘。
腰。
次にどこへ拳が飛ぶのか、それだけでなんとなく分かる。
その瞬間、背筋を奇妙な感覚が走った。
知っている。
格闘技を習った記憶なんてない。
柔道も空手もボクシングも、テレビで眺めた程度だ。
なのに身体の奥には、何年どころか何十年も積み重ねたような感覚が染みついている。
どう動けば相手が崩れるのか。
どこを押せば力が抜けるのか。
どの距離なら相手の攻撃が届かず、こちらだけが届くのか。
考えるより先に分かる。
「転生特典……ってことか?」
口に出した途端、途端に胡散臭くなった。
もっとこう、情報屋らしい能力はなかったのか。
嘘が分かるとか、人の居場所が分かるとか、未来が見えるとか。
なんで、よりによって喧嘩が強いんだ。
俺は情報屋だぞ。
いや、役立たずだけど。
部屋へ戻った俺は、壊れたドアを前にしてしばらく途方に暮れた。
修理代まで増えた。
「最悪だ……」
そこで、テーブルの上に置かれていた古い携帯電話が鳴った。
液晶に表示された名前を見て、今度は別の意味で胃が縮む。
「来た」
原作主人公。
殺人課刑事、ダニエル・マーサー。
無視することも考えたが、向こうはミックの住所を知っている。ここでいきなり関係を切れば、それはそれで余計に怪しまれるだろう。
仕方なく数回鳴らしてから電話を取った。
「……もしもし」
『随分、お寝坊みたいだな、ミック』
低く、どこか疲れた男の声。
ドラマで何十回も聞いた声だった。
本人だ。
こんな状況なのに、少しだけ変な感動がある。
『ニュースは見たか?』
「銀行強盗?」
『それじゃない。サウスドックだ』
やっぱり。
俺は目を閉じた。
『ここ二日、レッド・ハンズの連中が妙に静かだ。港で何か動いてないか、調べてくれ』
「嫌だ」
反射的に答えていた。
電話の向こうが沈黙する。
『……何だって?』
「いや、その……今ちょっと忙しいから」
『お前が?』
失礼な。
まあ、原作のミックならその反応にもなるか。
『金は払う』
「金の問題じゃない」
『お前が金を欲しがらないなんて、明日は雪でも降りそうだな』
マーサーは、本気で不思議そうだった。
俺は額を押さえる。
この依頼だ。
これを受けたミックは酒場を回り、サウスドックで行われる取引の情報を掴む。それを警察へ売り、そこから死亡ルートへ一直線に突っ込んでいく。
なら、断ればいい。
俺は原作主人公じゃない。
この街の腐敗を暴く義務もなければ、犯罪組織と命懸けで戦う理由だってない。
「とにかく、今回は他を当たってくれ」
『……分かった。何かあったら連絡しろ』
意外にも、マーサーはそれ以上食い下がってこなかった。
通話が切れる。
「よし」
これでいい。
死亡フラグ、一個消去。
あとは街から出る準備だ。
金がないなら、何とか稼ぐしかない。さっきの様子なら用心棒でも――いや、それはそれで犯罪者に近づくことになるか。
もっと安全な手段を考えよう。
そんなことをぼんやり考えていたところで、ふと一つの名前が浮かんだ。
サウスドック。
レッド・ハンズ。
マーサー。
その後に起きること。
「……ケイト」
マーサーの相棒、ケイト・ハドソン。
原作ではシーズン序盤、捜査中に襲撃を受けて撃たれる。
命こそ助かるが、一時はかなり危ない状態になった。
いつだった?
たしか、ミックが死ぬ少し前だったか、その後だったか。
細かい順番までは曖昧だ。
ただ――このサウスドックの件から繋がっていたはずだ。
「……」
知ってしまっている。
このまま放っておけば、誰かが撃たれることを。
だからといって、俺が首を突っ込めば、今度は自分が死ぬ。
しばらく、壊れた玄関を眺めた。
外から冷たい風が入り込んでくる。
「……面倒くせえ」
結局、床へ落ちていたジャケットを拾い上げた。
煙草臭い。
正直、着たくない。
だが、他に上着も見当たらないので、仕方なく袖を通す。続いてテーブルの上にあった財布と携帯をポケットへ突っ込んだ。
情報屋として何をどう調べればいいのか、正直なところよく分からない。
ただ、原作通りなら行く場所は一つだ。
サウスドックへ繋がる噂が流れていた酒場。
店の名前も――たぶん覚えている。
たぶん。
「死にたくないだけなんだけどなぁ」
誰にともなく呟きながら、俺は壊れたドアを跨いだ。