狂乱サークル唯一の生き残りは、今日も涼しい顔で麺を打つ 作:ルクエリシオン
「うわあ……! すごい、やっぱり海の近くの街は空気が全然違うな!」
伊豆大学の入学式を翌日に控えた、うららかな春の日。
北原伊織(きたはら いおり)は、片手に重いキャリーケースを引きながら、目の前に見渡す限り広がる圧倒的な青い海に目を輝かせていた。
潮の香りを孕んだ爽やかな風が頬を撫で、頭上にはどこまでも澄み渡る青空。
高校までの暑苦しい男子校生活という名の泥沼を脱出し、ついに俺は夢にまで見た大学生活へと足を踏み入れるのだ。
(海沿いの街での爽やかな青春! 講義が終われば仲間と海へ繰り出し、夜は居候先で可愛い女の子たちと同居生活……! 待ってろ、俺の薔薇色のキャンパスライフ……!)
胸の中で膨らむ期待感はもはや留まることを知らず、伊織の足取りは自然と軽くなっていく。
大学進学を機に居候させてもらうことになっているのは、叔父が経営するダイビングショップ『グランブルー』だ。
そこには、幼い頃に遊んだ記憶がある年上でおっとり優しい美女の従姉・奈々華(ななか)さんと、同い年の可愛い従妹・千紗(ちさ)が住んでいるはずである。
「完璧だ……! 人生最高の春が、今まさに幕を開けようとしている……!」
思わずニヤけそうになる口元を必死に抑えながら、伊織は坂道を下りきった場所にある味のある木製の建物の前に立った。手作りの『Grand Blue』という看板が掲げられている。
よし、と一度大きく深呼吸をしてから、伊織は期待に胸を躍らせてショップの重い木製ドアのノブに手をかけた。
「こんにちはー! 今日からお世話になる北原伊織です——」
爽やかな挨拶とともに、勢いよく扉を押し開けた。
しかし、その瞬間に伊織の鼻を突いたのは、爽やかな潮風などでは断じてなく、充満する重苦しい酒臭さと荒々しい男たちの汗の匂いだった。
「うおおおおお! 野球拳! 野球拳っ!」
「はい脱いだーー! 寿、お前ハイビスカス柄のパンツ置いてけコラァ!」
「ウヒョー! 酒が足りねぇぞ! ポン酒持ってこいポン酒ぇぇぇ!」
扉を開けた伊織の視界に飛び込んできたのは、日本の法律、治安、そして人権が跡形もなく粉々に崩壊した地獄絵図だった。
飛び交う怒号。床に散乱する酒瓶。
そして何より、視界を埋め尽くしているのは、全裸で野球拳に興じながら大騒ぎしている筋骨隆々の男たち(時田信治・寿竜次郎)だった。
(……ん? あれ、おかしいな? 俺、入る店を間違えたか? いや、看板には『ダイビングショップ』って書いてあったぞ……ダイビングショップとは、潜水具を取り扱う店であって、全裸のマッチョが狂喜乱舞する空間ではないはずだが……??)
あまりの恐怖と惨状に、伊織の脳が一瞬で激しくフリーズする。
だが、その地獄のような空間のすぐ横、リビングの片隅に、さらなる「狂気的な異物」が存在していることに伊織は気づいた。
身長175センチほどはあるだろうか。なかなか体格の良い青年が、耳にスマートフォンのイヤホンを差し、どこか遠くを見るようなのほほんとした覇気のない顔をして立っていた。
周囲で全裸の怪物たちが咆哮をあげているというのに、彼は至って穏やかな表情のまま、足元をリズミカルに踏みしめている。
『ふみふみ……ふみふみ……』
よく見れば、青年の足元には厚手の透明ビニール袋に包まれた……白い塊。
そう、小麦粉を捏ね上げたうどんの生地だ。
彼は音楽を聴きながら、手慣れた足つきで涼しい顔をしてうどんの生地を「ふみふみ」と足踏みしていたのである。
「おっ、新入りかぁぁぁ!! 脱げ! 野球拳だァァァ!!」
全裸の巨漢たちが、ギラギラとした肉食獣の目で一斉にこちらをロックオンした。
スッ……。
伊織は一切の躊躇なく、無言でピシャリと扉を閉めた。
そして、マッハの速度で回れ右をして、キャリーケースを投げ捨てて全力疾走を開始しようとした。
(気のせいだ。俺は疲れている。長旅の疲労で、筋肉と全裸とうどん粉が融合した悪質な幻覚を見ただけに決まっている。逃げろ! ここは人間が足を踏み入れていい場所じゃない!!)
「待てやゴラァァァ!!」
「逃がすかぁぁぁ!! 新歓の生け贄(カモ)だァァァ!!」
だが、野生の熊並みの身体能力と巨体を持つ先輩たちから、もやしっ子の新入生が逃げ切れるはずもなかった。
一瞬で背後から巨大な影に覆われ、伊織は首根っこをごっつりと掴まれると、そのまま雑にショップの中へと引きずり戻された。
「うわあああ放せ! 警察! 誰か警察呼んでぇぇぇ!」
床に転がされ、パニックになって怯える伊織。全裸の巨漢たちが「おいおい、ピチピチの新入生じゃねえか」「服を着てやがるぞ、生意気な!」と圧迫感をかけて取り囲んでくる。絶体絶命のピンチだ。
すると、その全裸の群れを割って、すーっと一人の人物が歩み寄ってきた。
耳からイヤホンを外した、先ほどまでうどんを踏んでいた青年——間宮巡(まみや めぐる)だった。
周りの男たちがことごとく全裸である中、彼だけはごく普通のTシャツとズボンを着用している。
巡はのほほんとした、フラットで穏やかな笑顔を浮かべ、床にへたり込む伊織の目線に合わせてひょいと腰を落とした。
「あ、今年の新入生ですか? 引っ越し作業で喉が渇いているでしょう。どうぞ、これ飲んでくださいね」
そう言って巡が差し出してきたのは、氷がカラランと涼しげな音を立てる、綺麗な琥珀色の液体が入ったグラスだった。
その瞬間、伊織の脳内に激雷が走る。
(あ、救いの神……! いや、服を着ている! この人だけは服を着ているぞ!! 奇跡的にこの地獄の中に、まともな良識を持った人間が一人だけ存在していたんだ……!!)
「あ、ありがてえ……! いただきます……!!」
伊織は感涙せんばかりの思いで、すがりつくように巡からグラスを受け取ると、乾ききった喉へ一気に流し込んだ。
「ぶふぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!???(純度100%の噴火)」
次の瞬間、伊織の喉から食道、そして胃袋にかけて、液体金属でも流し込まれたかのような強烈な爆発と激痛が走った。
「カハッ……ガハッ……!? な、なんだこれ……! 喉が焼ける……! これ火が、チャッカマンで火がつくやつだろバカ野郎ぉぉぉ!!」
「あはは、ウーロン茶ですよ?」
巡は全く悪びれる様子もなく、のほほんとした穏やかな敬語でそう口にした。
中身はウーロン茶の皮を被った、アルコール度数九六パーセントを誇る化け物蒸留酒・スピリタスである。
「ウーロン茶なわけねぇだろぉぉぉ! 色しか合ってねぇよ!!」
血吐きそうな勢いで叫ぶ伊織だったが、時すでに遅し。
致死量の純粋アルコールが一瞬で脳幹へと駆け巡り、伊織の全身の血管がブワッと拡張していく。視界がぐにゃりと歪み、脳内で「理性」という名のタガが、派手な音を立てて粉々に吹き飛んだ。
「……あれ? ……なんか……すごく、フワフワして……良い気分になってきたぞ……? 身体が、アツい……!」
先ほどまで生気を失っていた伊織の目が、ギラギラとした危険な光を帯び始める。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ!! なんかよくわかんねぇけど大学生活最高ォォォォォオオ!!」
「ハハハ! よく言った新入生! 宴の始まりだァァァ!!」
一瞬にして狂気へと覚醒した伊織は、自らシャツのボタンをちぎり投げ、ジーンズを蹴り脱ぎ、一瞬で完全なる全裸へと昇天。男たちの輪の真ん中で「ウヒョー!」と奇声を上げて踊り始めた。
それを見た巡が、ふっと柔らかく目を細める。
「あはは、いい飲みっぷりですね。新入生がここまで気合入ってるなら、俺も混ざりますね」
巡は誰に対しても変わらない穏やかな敬語のまま、驚くほど流れるような無駄のない動作でTシャツとズボンを脱ぎ捨て、一切の躊躇なく完全な全裸へと移行した。
「さあ、どんどん行きましょう」
涼しい顔のまま、可燃性ウーロン茶(96%)の瓶をラッパ飲みし、全裸の男たちのバカ騒ぎに平然と合流する巡。
治安も常識も消え失せた地獄の底で、四人の全裸男たちが歓声を上げながら踊り狂う地獄絵図が完成した。
——ガチャリ。
そんな男たちの狂騒を遮るように、グランブルーの重い扉が静かに開いた。
「……ただいま」
スーパーの買い物袋を提げた、私服姿の美少女がそこに立っていた。
彼女こそ、この店の次女であり、伊織の従妹である古手川千紗だった。
扉を開けた千紗の目に飛び込んできたのは、全裸で奇声を上げて跳ね回る男たちの群れ。
千紗の瞳から一瞬で光が消え去り、まるで道端に転がる生の生ゴミを見るかのような、絶対零度の冷徹な蔑みの視線が注がれる。
しかし、脳のネジが吹き飛んでいる伊織は、全裸のまま嬉しそうに千紗へと駆け寄った。
「おっ、千紗! 俺だよ、伊織だよ! 久しぶりだなー!!」
千紗はすっと一歩後退し、心底汚らわしいものを見る目で一刀両断した。
「……近寄らないで。誰その全裸の生き物。……警察呼んでいい?」
「俺だよぉぉぉぉぉぉ!! 従兄の北原伊織だよぉぉぉぉ!!」
幼馴染からの無慈悲すぎる一言に絶望の叫びをあげる伊織。
だがその直後、千紗の冷ややかな視線が、伊織のすぐ後ろで同じく全裸のままウーロン茶(96%)をちびちび飲んでいる巡へと向いた。
千紗の表情から刺々しさが消え、ごく普通の「同居人」に対するトーンに切り替わる。
「あ、巡先輩。またここでうどん打ってるんですか? リビングに粉飛ばさないでくださいね」
巡は全裸のまま、穏やかな笑顔で頷いた。
「うん、気をつけるね。今日の生地はすごく良いコシが出そうだよ。後で千紗ちゃんも食べる?」
「あ、いただきます。楽しみにしてますね」
「……はい!?」
伊織の思考が完全にフリーズした。
千紗は全裸の巡に対して何ひとつ不快感を示さず、ごく当たり前の日常会話を交わすと、そのまま何事もなかったかのように奥の部屋へと歩いていってしまう。
残された伊織の脳内で、理不尽の雷鳴が爆音で鳴り響いた。
「ちょっと待てぇぇぇぇぇ! なんであの人も全裸なのにスルーなんだよ!? なんで俺だけ有害外獣扱いなんだよ! 扱いの差が理不尽すぎるだろぉぉぉぉぉ!!」
薔薇色のキャンパスライフを夢見ていた新入生の輝かしい未来が、全裸の男たちの筋肉とうどん粉の海に沈んでいくのを、巡はのんびりと眺めていた。