狂乱サークル唯一の生き残りは、今日も涼しい顔で麺を打つ 作:ルクエリシオン
「……よし、良い色だ」
早朝五時半。『Grand Blue(グランブルー)』の静まり返った厨房で、俺は鍋の中で揺れる黄金色の液体を見つめていた。
今朝のスープは、長崎県産の焼きあご(トビウオ)と北海道産の利尻昆布、そして削り立ての厚削り鰹節からじっくりと引いた、特製のあご出汁だ。
香ばしい魚介の風味が湯気とともに立ち上り、鼻腔を心地よく刺激する。
この出汁に合わせるのは、昨日の夜に加水率を四十四パーセントに厳密調整し、熟成させておいた手打ちうどん。
茹で上げた直後に氷水でキュッと締め、余分な水分を切った状態で、特大の大型ステンレス保温ジャーへと移していく。
「巡くん、おはよう。ふふ……やっぱり今日も早起きね」
トントンと階段を下りてきた奈々華さんが、エプロン姿で厨房に顔を出した。寝起きの柔らかな笑みを浮かべ、クンクンと鼻を鳴らしている。
「おはようございます、奈々華さん。はい、今日の海上がりに合わせて、温かいあご出汁のかき揚げうどんを仕込んでいました」
「あご出汁! すごい、お店みたいな本格的な香り……。今日の新入生ちゃんたちの体験ダイビング、よろしくね。時田くんたち、テンションが上がるとすぐ脱いじゃうから」
「任せてください。安全管理と体温低下の対策は完璧にしておきます」
俺がいつものようにフラットな敬語で答えると、奈々華さんは満足そうに頷き、「行ってらっしゃい」と優しく背中を送り出してくれた。
奈々華さんとの二人きりの時間は短いものだったが、この過不足のない信頼感が、居居居心地の良さを生んでいる。
◆
午前九時。グランブルーのショップ内は、新入生たちの困惑と悲鳴に包まれていた。
「キツい! 股ぐらが! 股ぐらが締め付けられて息ができねぇ!!」
「北原ぁぁ! 助けてくれ、俺の二次元の嫁が描かれたTシャツが脱げない! 破れるぅぅ!」
ショップの床で転がり回っているのは、今年入部した北原伊織くんと今村耕平くんだ。
二人は初めて着用するダイビング用のウェットスーツに大苦戦していた。ネオプレンゴムの強力な伸縮性に翻弄され、まるで巨大なヘビに巻き付かれたかのように身もだえしている。
「伊織くん、耕平くん。無理に引っ張ると生地が痛みますよ。足先から少しずつ空気を入れるように滑らせてください」
俺は自分のウェットスーツのジッパーを、スーッとスムーズに首元まで引き上げた。
「「な……!?」」
転がっていた二人が、同時に目を見開いて俺を注視した。
175センチの無駄のない体躯。引き締まった胸筋と薄い腹筋、そして適度な肩幅。黒のウェットスーツを身に纏った俺の姿は、自分でも言うのはなんだが、かなりスタイリッシュに収まっているはずだ。
毎日の生地捏ねと水泳で鍛え上げられた細マッチョなスタイルは、ゴムのスーツ越しでもはっきりとわかる。
「くっそ……! なんで巡さんはそんなスッと着れてんだよ! しかも無駄にスタイルいいな!」
「理不尽だ……! 服を脱いでも一切作画崩壊しない体型とか、どこの神作画アニメのキャラだ貴様ぁぁ!」
「いえ、単に慣れの問題です。さあ、重器材のセッティングに移りますよ」
俺は二人の僻み混じりの叫びを涼しい顔で受け流し、BC(浮力調整具)とスチールシリンダー(空気タンク)の接続点検へと向かった。
◆
器材のセッティングを終えた俺たちは、重さ十五キロ以上あるシリンダーを背負い、ショップの扉を開けた。
目の前に広がっているのは、伊豆の美しい川奈港のダイビングビーチだ。
風は穏やかで、水面はキラキラと太陽の光を反射して輝いている。ショップから歩いて数十秒でエントリーポイントに到着できるのが、このグランブルーの最高の強みであった。
「うへぇ……重っ! 足腰がガクガクするぞ……!」
「北原、前を見るな……海だ……本物の海が目の前にある……!」
重装備に四苦八苦しながらスロープへと向かう二人だったが、波打ち際に近づくにつれ、伊織くんの足取りが急激に重くなっていった。
(……なるほど。伊織くんの表情が硬いですね)
俺は伊織くんの横顔を観察していた。
彼は青ざめた顔で水面を見つめ、膝を微かに震わせている。昨晩の宴会ではあれほど勢いよく叫んでいた男が、完全にフリーズしていた。
実は彼が「かなづち(泳げない)」であることは、昨日の会話で把握している。
「……行くよ」
そこへ、隣を歩いていた古手川千紗(ちさ)が静かに声をかけた。
千紗は伊織くんの手首をしっかりと掴むと、躊躇することなくエントリースロープの海の中へと足を踏み入れていく。
「ひゃああっ!? 冷たっ! 待て千紗! 早いって! 俺まだ心の準備が――!」
「大丈夫。私がバディだから。手、離さないで」
冷たい海水が、足元から腰、そして胸元へと満ちていく。
千紗に引かれるまま、伊織くんは足のつかない水の世界へと引きずり込まれていった。俺も耕平くんの背中を静かに支えながら、スムーズに水面へとエントリーした。
◆
「ふぅ……」
レギュレーター(マウスピース)を口にくわえ、水中で息を吐き出す。
ブクブクと白い気泡が水面へと昇っていき、身体がフワリと浮力に包まれた。
俺は二年生として、千紗たちの少し斜め後方から全体の安全を監視していた。
水深約六メートル。俺はフィン(足ひれ)をゆっくりと一しなりさせ、水中を滑るように進む。
極めて高い運動能力と体幹バランスを持つ俺にとって、水中での動きは陸上以上に自在だ。一切の水抵抗を生まない流麗なフォームは、水族館のイルカのそれのように無駄がない。
(おっと……伊織くんがパニックになりかけていますね)
前方を泳ぐ伊織くんの動きが乱れていた。
水圧による耳の違和感(耳抜き不足)と、水呼吸への恐怖から、彼の浮力が不安定になり、呼吸が激しく荒くなっている。レギュレーターを噛み締め、必死に水面へ浮上しようと手足をバタつかせ始めていた。
瞬間、千紗がすっと伊織くんの目の前に回り込んだ。
千紗は伊織くんの手を強く握り直し、ゆっくりと自分の胸に手を当てて「落ち着いて」とハンドサインを送る。
俺もまた、音もなく伊織くんの左側に滑り込み、彼の肩にそっと手を置いた。
視線を向けてきた伊織くんに対し、俺はタレ目を和やかに細め、落ち着いた笑みを送る。そして右手を自分の胸に当て、「吸って――吐いて――」と、ゆっくりとしたハンドサインを提示した。
(大丈夫です。焦らず、息を吐ききってください)
水中では言葉は届かない。しかし、千紗の強い眼差しと、俺の静かな手応えが伝わったのだろう。
伊織くんの身体からぐっと力が抜け、荒かった気泡の周期が静かになっていった。彼はゆっくりと鼻から息を抜き、耳抜き(バルサルバ法)を成功させると、大きく目を見開いた。
そこには――息をのむような青の世界が広がっていた。
太陽の光が幾重もの光の束となって水深深くまで差し込み、白い砂地を黄金色に揺らしている。
目の前を通り過ぎていくのは、鮮やかなコバルトブルーのスズメダイの群れと、金色に輝くタカベの学校だ。陸上の雑音も、理不尽な先輩たちの歓声も届かない。聞こえるのは、自分の静かな呼吸音と、水が揺れる低い音だけ。
伊織くんが、感極まったように口元をゆるめ、目の前に広がる透明な「青」に見入っていた。
千紗がどこか誇らしげに小さく頷き、俺もまた水中で静かに親指を立ててみせた。
◆
「寒っっっっっっっっっ!!?? 死ぬ! マジで寒さで死ぬ!!」
約四十分間の潜水を終え、川奈のビーチへと上がった瞬間、伊織くんの絶叫が海に響き渡った。
海の中は二十度近くあり快適だったのだが、春の陸上は風が強い。濡れたウェットスーツに冷たい潮風が吹きつけ、身体中の体温が急速に奪われていく。
「ガタガタガタ……! な、なんだこの地獄は……! 水の中はあんなに天国だったのに、上がった途端にシベリアかよ……!」
「ひ、北原ぁ……俺の指の感覚がないんだが……二次元の嫁のフィギュアを愛でる指先が死んでしまう……!」
伊織くんと耕平くんが、抱き合いながら歯をガチガチと鳴らして震えていた。
「ガハハハハハ! お前ら、いい潜りだったぞ!」
「体を温めるには、やっぱりこれに限るなぁぁぁッ!」
そこへ、ショップの影から【全裸】の時田先輩と寿先輩が、邪悪な笑みを浮かべて現れた。
寿先輩の手には、当然のように透き通ったガラス瓶――アルコール度数九十六パーセントの『スピリタス』が握られている。
「飲め伊織! 喉から胃袋まで一瞬で熱くなるぞ!」
「体温まる前に心臓が麻痺して死ぬわバカ野郎ー! 離せ筋肉モグラども!!」
嫌がる伊織くんの口に、瓶が叩きつけられそうになったその時――。
「先輩方、そこまでです」
俺は二人の間にスッと割り込むと、背中に担いでいた大型の保温ジャーをパカリと開けた。
瞬間――ズォッと猛烈な湯気とともに、香ばしいあご出汁の芳醇な香りがビーチ全体に広がった。
「「「!!???」」」
時田先輩と寿先輩、そして寒さに震えていた伊織くんたちの動きがピタリと止まった。
「海上がり直後の急速なアルコール摂取は、脱水症状および減圧症の発症リスクを極めて高くします。まずはこれで体温を確保してください」
俺は慣れた手つきで、器に熱々のあご出汁を注ぎ、そこに氷水で締めておいた手打ちうどんを投入した。さらに、保温容器から取り出したサクサクの「海老と春野菜の特大かき揚げ」を上にポンと乗せる。
「どうぞ。特製あご出汁の、手打ちかき揚げうどんです」
「う、うどん……!? 巡さん、こんなものまで仕込んでたんですか!?」
「ええ。海上がりは体温が下がりますからね。さあ、冷めないうちに」
伊織くんと耕平くんは、弾かれたように器を受け取ると、夢中で出汁をすすり、麺を口へと運び込んだ。
「あ……あたたかい……っ! う、美味ぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
伊織くんの目から、ボロボロと感動の涙がこぼれ落ちた。
「なんだこの出汁! 焼きあごの香ばしさと旨味が五臓六腑に染み渡る……! 麺もコシがしっかりしてて、熱い出汁の中でも全然負けてねぇ! かき揚げがサクサクで油が汁に溶けて最高だぁぁぁ!」
「神だ……巡さんは神の降臨だ……! この温かさ、まるで母の温もりのようだ……!」
二人は会話も忘れて、一心不乱にうどんを貪り食っていた。
千紗も俺から器を一つ受け取ると、フーフーと息を吹きかけて一口すすった。
「……ん」
千紗の整った顔立ちが、一瞬だけほろりと柔らかく緩んだ。
「……美味しい。出汁の味がすごく深い。……巡さん、ありがと」
「お口に合って良かったです、千紗ちゃん」
時田先輩と寿先輩も、「おおっ、美味いじゃねぇか巡! 酒の肴にも最高だな!」と豪快にうどんを平らげていた。
「ふぅ……生き返った……」
一杯の熱いスープとうどんを腹に収め、すっかり体温を取り戻した伊織くんが、空を見上げて深く息を吐いた。
「……ダイビングって、本当にすごいな。海の中は見たこともないくらい綺麗だったし、海上がりのうどんは泣くほど美味い。……このサークル、酒さえなきゃ本当に最高のサークルなんだけどな……」
心の底からの伊織くんの呟き。
俺はそんな彼の隣にスッと歩み寄ると、サコッシュからキンキンに冷えたグラスを取り出し、爽やかな笑顔で差し出した。
「伊織くん、お酒も美味しいですよ? 喉が渇いたでしょう、どうぞ」
グラスの中で揺れているのは、透き通った琥珀色の液体――ウォッカとウイスキーの可燃性混合物(ウーロン茶)である。
「巡さぁぁぁん!! 最後の最後に悪魔の笑顔で殺しにかかってくるんじゃねぇぇぇ!! 結局酒かよこのサークルはぁぁぁっ!!」
伊豆の爽やかな海風に乗って、伊織くんの絶叫がどこまでも響き渡っていく。
俺はその叫びを心地よいBGMとして聞き流しながら、静かに自分の小鉢のうどんをすするのだった。